3.「女の子最初の日」
「僕は、どうやら女の子になったらしい……」
ありのままの事実を伝える。それと同時に、泣きたいわけでも無いのに涙が落ちた。
「まあね、そりゃ驚きはするが……しかし何で泣いちまうんだろうな」
理由なんて、分からなかった。だけども、年下の。それも妹の前で涙を見せる兄というのがたまらなく情けなくて、しんどい。
それでも秋奈は、何も言わずにポケットからハンドタオルを差し出してくれる。
普段は生意気盛りなこいつのそれでも、今となっては不思議と安心するように思える。でも、それだけじゃ全然足りない。使っても使っても、涙があふれてくるのだ。
「おかしいなぁ。ったく、本当におかしいなぁ」
どうして涙が出るんだ。声にならない疑問をぶつける。誰も答えが出せないって、自分でもどこか分かっているはずなのに。
「……そんなの、色々あり過ぎて説明できないから出るんだよ」
やっと返ってきた秋奈の一言。それと同時に、彼女に抱きしめられる。何が起こったのか分からなかったけど、いざ抱きしめられると不思議と僕の動揺が徐々に収まってきた。
「色々、ね。ありすぎたの」
再び、同じような言葉か掛けられる。
性別が変わった。確かにそれもあるとは思う。
でも、それだけではない。今まで、どれだけ周りに馬鹿にされたか。それに耐えるために一人で歯を食いしばって耐えていたか。そして、本意ではなかったとはいえ大切な幼馴染みを傷つけて……それでこれだ。
正直に言えば、パンクしてしまったのだ。もう、僕の中では処理しきれないほどのことがあって。
「何があったかは分からない。けどさ、兄ちゃんが表に出していないだけで……本当はたっくさん苦しんで、だから今こうなっちゃってるんじゃないかな」
「……」
「そう……かもな」
出来た人間では無い。それは自分でも分かっている。でも、本当は妹にこういう姿を見せたくは無かった。既にかなり落ちぶれてはいるけど、それでもここまでは落ちぶれたくなかった。
「すまんな。情けないとこ見せちまった」
男ならば、こういう時こそどしんと構えるべき――きっと世間様ではそう言うだろう。
もちろん僕だって、男らしくない人間だということは十分分かっている。でも、だからといって男らしさのモラルを全く知らないってわけでもない。例え男らしくなくとも男である以上、自身より弱い立場の人間に甘えるわけにもまして情けない姿を見せるわけにもいかない。
だけども実際は、こんなザマ。正直恥ずかしくて、やりきれなかったのだ。
「謝らないで。あなたが悪いわけじゃないのだから」
秋奈は何も言わず、背中をさすってくれる。だがそれが、ますます自己嫌悪を加速させる。
「だとしても、引くだろ? こんなのが兄貴だなんて……本当に最低だ」
乾いた声で、自嘲する。自己嫌悪が行き過ぎて、何だか訳の分からない言葉を紡ぐ。その瞬間だった。
「――兄ちゃん、それ本気で言ってる?」
一段とトーンの下がった声が聞こえた。秋奈の目つきは鋭い。
「もしそれを本気で言うのなら、あたしは本気で怒るよ?」
「だってそうだろ!? こんなクソ野郎、ホントなんで生きてるんだよ!」
負の感情が頂点に達したその瞬間だった――。いきなり頬に乾いた音が鳴る。同時に、ひりひりとした痛みが走った。でも、あまりの出来事にあっけに取られて何も言えない。
「そんな悲しいこと、二度と言わないでよ! 情けない兄ちゃんで何が悪い!? 誰だそんなことを言ったのわッ!」
そう言い、秋奈は僕の上にのしかかって続けた。
「最近の兄ちゃんは何か変だと思ってた。でも今ので確信した。兄ちゃんはもっと自分を大切にしてよ! あたしは、兄ちゃんが例えどんなになったって気にしない! うちの家族は誰も気にしない! 女の子になった? それが何だって言うのよ」
そう言い、彼女は僕の頬を優しく手のひらで包みこんだ。
「ぶったことは謝る。本当にごめん。でもさ、自分をもっと大切にしても良いんじゃないかな? 辛い時は泣いたっていいじゃない。女の子になったからってなんだって言うの?」
……久しぶりの感覚だった。いつでも、どこでもこき下ろされていた僕がこういった形で優しく受け止めてくれるだなんて、思わなかった。それも、よりによって普段は生意気盛りのこいつに言われるだなんて。
嬉しいことではある。でも同時に、どうすれば良いのか分からなくなってしまう。
「……バカはお前だ」
そんなに優しくされちゃったら、僕は壊れてしまいそうだ。ますます面倒くさくなっちゃう。妹に依存してしまうじゃないか。
「そんな優しくされると、僕はますますめんどくさくなっちゃう」
「……何を今さらだよ。めんどくさくたって良いじゃない。家族なんだもの。あたしだって兄ちゃんに甘えるんだから、兄ちゃんももっとあたしを頼ってよ。お互い様なんだから」
その言葉を最後に、彼女は布団から降りた。そして、僕の手を掴んで無理やり布団から起こす。不思議なことに、今度はちゃんと立ち上がることが出来た。
「ちょっと遅いけど、お夕飯にしようか。幸い熱も下がったみたいだし、下で食べよ。お母さんにも伝えないとだし」
そう言い、秋奈は土鍋を持ってそそくさと部屋を出て行った。あとに残るのは、僕だけだった。でも、今度は自然と身体が動いた。
「……当てられた、のかな」
誰に、とは言わないけど。そんなことを独り言ちながら、僕は階段を下りて居間に向かうことにした。
◇
居間に入ろうとするも、その中では母と秋奈が何かを話しているようだった。何を話しているかは分からないけど、その内容は真剣そうだと言うことが分かり何だか入りづらい。おまけに先ほどまで泣き腫らしていたものだから、なおのこと入りづらい。だがそうは言っても、入らなければご飯は食べられないし――そんなジレンマに陥る。
とりあえず泣き腫らした顔を洗うために洗面台に向かってみるが、鏡に写った僕はやっぱり僕では無くて……。
「そんなすぐに気持ちの整理なんかできるかよ……」
ちなみに、周囲の様子を確認してから下着の中を確認する。まあそうだろうとはうすうす感づいていたけど、やっぱり僕のそれは無くなっていて。……やっぱり、現実は本当に残酷。
それでもいつまでも引っ張るわけにいかないことは自分でも分かっている。だからこそ、どうにか気持ちの整理をつけないといけない。顔を洗って、寝癖のついた髪を我流で直して今度こそ居間に入る。
「夜だけど、おはよう。もう夕飯出来たー?」
なるべく普段通りを装って、居間をのぞく。ダイニングには、秋奈と母さんが座っており、二人は一旦食事を止めて僕の事を見つめていた。
『……』
しばし沈黙が続く。が、すぐに沈黙は破られた。
「あんたいつまで突っ立ってるの? ご飯冷めるからさっさとこっちに来なさい」
「あっ、うん……」
沈黙を破ったのは、僕でも秋奈でも無く母さんのほうだった。入り口で突っ立っていても仕方が無いので、ダイニングのいつもの席に座る。食卓の中央には土鍋が置いてあり、僕のところにはお粥とゼリーが置いてあった。ちなみに他の二人はゼリーが無い代わりにお肉さんと加えてサラダが置いてある。何だか僕だけ損した気分である。
「いただきます」
とはいえお腹は空いていたので、静かにお粥に手を付ける。卵に味が染みている上、ダシも効いていて病人食だとしても充分美味しい。たまに味がくどくなったら、小皿に添えてあるネギを足して食べる。辛みが効いていて、これもこれで美味しい。結局、あっという間に完食してしまったのである。
「秋奈、おかわり」
「誠にお気の毒ですが、あなたのお粥はそれで最後です」
何かのゲームで聞いたことある言い回しと共に、非情な宣告がされる。なまじ完成度が高い分、何だか腹が立つ。
「病人なんだから食べ過ぎは禁物よ。まあ高熱って言ってたわりに元気そうで、一安心ね」
「一安心って、朝から何も食べて無いのだが……」
「ゼリーがあるじゃない」
どこの王妃だ。だいたい、ゼリーでお腹が膨れるわけないじゃないか。
「ゼリーでお腹が膨れるわけ無いだろ?」
「じゃあ水でも飲んでろ」
「これはひどい」
さっきはもっと甘えて頼れって言ったくせに、随分ひどい話じゃないか。病人なんだからもうちょっと優しさをだな……。
しかしご飯の件でもそうなんだけど、なんかこう重要なことがスルーされている気がする。秋奈も母さんもそうなんだけど、僕が女の子になったことについて何も触れないのだ。かといって意図的に触れないといった感じの不自然さみたいなものも感じないし。というか完全に忘れているのではないだろうか? それはそれでまずいのではないだろうか。
かといって自分で傷口をつつくのもどうかとは思うけど――。
「というかさ」
でも、モヤモヤしたくも無いし。だから、思い切って尋ねることにした。
「……やっぱり、ヘンだよな」
立ち上がって二人に尋ねた。
「そのさ……秋奈は知ってると思うけど。いや、母さんも気づいているとは思うけど……僕の身体が変になっちゃったこと」
あるべきものが消えて、無いべきものが出来て。もちろん、はっきりと裸体を見られていたというわけではないけれど、でも三人ともはっきりと意識がある状態でこの状況を目の当たりにしている。僕自身も、ちょっと居心地が悪いし、二人だって複雑な思いになってるはずだ。むしろ、気持ち悪いと思っていてもおかしくはない。
もちろん、今さらそんなことを言ってだから何になる。原因は分からないけれども女の子になってしまった以上はもうどうにもならないわけだし、実際にちょっとでも女の子になりたいと願ったのは確かなことだ。今さら掌返しなんてそれこそ道理が立たない。だから、僕自身は受け入れるしかないのだ。
案の定二人は困惑していた。自分でも訳の分からないことを聞いているだから、そう思っても当然か。だが、その後に続く言葉に僕は驚かされる。
「じゃあ聞き返すけど、あんたは安藤春樹じゃないってこと?」
「……は?」
「聞き方が悪かったわね。要するにあなたは、私の子供かって聞いてるの。あるいは、あなたの親は誰かしら? とも言えるかしら」
それは……。いや、そんなことは愚問だ。
「何を言ってるのさ。僕は……僕だよ。安藤春樹、14歳。母さんの息子で、秋奈の兄だ」
「そう。なら、それで良いじゃない」
ちょっと待ってほしい。それってつまり、この重大な事実に対して何とも思っていないということなのだろうか。
「待て待て! 昨日まで男だったはずの僕が、こうやって」
すっかり伸びてしまった髪を掴んで続ける。
「女になっちったんだぞ? 気持ち悪がらないのってのも変な話じゃ無いか!」
思わず反射的にそう尋ねてしまう。別に罵られたいというわけではないけど、でもあまりにもあっさり受け入れられたこと自体が正直信じられなかったのだ。
「じゃあ思い切って罵って、気持ち悪がってあげるけど……そういうことだよね?」
秋奈が意地悪な顔で尋ねる。
「いや、そんな特殊な性癖は無いのだが」
「じゃあ、それでいいじゃない。それが、母さんとあたしの解答だよ」
「そうね、性別が変わったとしてもあんたはあんたなんだから」
そう言うと、二人は再びご飯に手を付け始める。まるで、何事も無かったかのように――今までの僕が、『女の子』であったことが当然だったかのように。その反応が嬉しい反面、何とも言えない気持ちになる。
何だか腑に落ちないまま、椅子に座る。もちろん、罵ってほしいわけではない。それほどの上級者でも無いし。ただ、妙な気持ち悪さが残ってしまう。下品な例えだが、残尿感のようなそんな感じ。
「なんか納得してない、って顔をしてるね」
雰囲気で分かるのだろうか。母さんは、そう問いかけた。
「まあ、何と言うかね」
「でしょうね。子供が何か言いたいかくらい、親は分かるものよ」
そう言い、彼女は茶碗を置いた。その直後だ。いきなり僕は、母さんに抱きしめられて頭を撫でられる。
「でもね、そうなっちゃったものはしょうがないでしょ? もちろん私も原因は分からない。一つだけ言えることは、あなたは私の子どもで秋奈のお兄ちゃんだということ。でもそこは絶対に変わらないことでしょ? だから、今までで良いんだよ」
「あっ、姉ちゃんずるい! あたしも撫でられる!」
優しく撫でられながら、そう言われる。そんな様子に秋奈も対抗意識を燃やしたのか、秋奈もまた母さんに抱きしめられようとして。二人に挟まれてちょっと苦しいけど、でもそれが……なんだか不思議と温かく思えた。
本当なら、今の僕はバケモノのようなものだ。それなのに、うちの家族は別に何事も無いように接してくれる。安心できる居場所を作ってくれる。そんな地味で当たり前のことがとても嬉しい。だから……。
「……ありがとう」
面と向かって言うのは恥ずかしいしむず痒いけど、それでも二人に聞こえるか聞こえないかの声で呟く。
これくらいのこと、家族なら当たり前のことかもしれない。それでも、その当たり前がどれだけ貴重で、かけがえない大切なものか初めて気づけた瞬間だった。