26. 「母の心娘知らず(前編)」
『ただいまー』
真夏とはいえ、夏至を過ぎるとさすがに陽が落ちるのが早い。そのせいか、家に帰ってきたころにはすでに周囲は真っ暗になっていた。くたくたになりながら玄関に荷物を下ろす。二人してリビングに向かうと、台所には珍しく母さんの姿があった。
「あら、春奈に秋ちゃんおかえりなさい。二人でお出かけだなんて珍しいわね」
「ちょっと浴衣を買いに行ったんだけど……秋奈にアドバイスをもらいたくてついて来てもらったの」
「まあ、要するにデートだよね?」
「あーきーなー!」
なんて恥ずかしいことを平然と言ってのけるんだ。恥ずかしさのあまり秋奈のこめかみをぐりぐりする。
「痛いって! 分かった、あたしが調子乗ってました!」
「分かればいいんだよ」
だいたいデートなんて、姉妹で使っていい言葉なんだろうかと心の中で思う。そもそも元の意味は異性同士で会って遊ぶことだったはず。もっともやってることは、確かに恋人のそれだったからあながち間違いとも言い切れ無かったりするのだが。
やばい、意識すると少しずつ恥ずかしくなってきた。
「あらあらデートだなんて、いつからそんなに仲が良くなったの?」
そう言い、母さんが僕たちの顔をのぞき込む。秋奈は満更でもなさそうな表情だ。なぜそんな表情が出来るのか疑問だが。その反面、僕はさっきの出来事もあってちょっと挙動不審になっていたのかもしれない。ちょっとだけ目が泳いでいた。
「……あと春奈、お化粧したの?」
「あっ……うん……」
「ハル姉最近めっきりおしゃれさんなんだよね! ほら、ブラウスのフリルとかも可愛いでしょ?」
「やめてよ秋奈。母さんも……その、顔が崩れてるから」
秋奈が援護射撃というか、そういう女らしさを強調するような言葉を言うものだから恥ずかしくて俯いてしまう。実際、涙でお化粧が崩れたというのもあるんだけど。でもそれ以上に、こういう姿を母さんに見せるのは何だか抵抗を感じたのだ。
「そうかしら? 上手に出来ているじゃない。可愛いわよ?」
「や、やめてよ……」
おまけに、女の子らしさを褒められるだなんて。秋奈と違って、僕の女の子な一面を母さんにはあまり見せたことが無いから……なのだろう。恥ずかしいというよりは、どういう反応を取ればいいか分からなくなってしまう。
もちろん、女の子らしく振舞うために化粧をしているわけだから、むしろこれで男っぽいと言われた方がおかしい展開になるわけなのだが。
でも……。
「あらあら、頬が赤くなっているわ。今の春奈はものすごい女の子らしいわね。それに比べて秋ちゃんは……」
秋奈は腰に手を当てて麦茶をがぶがぶ飲んでいた。なるほど、確かにこれは女の子らしい……とは言えない。むしろ、勇ましいとさえいえるかも?
「ふぅ、生き返った! あぁ、女子力とかそういうのは全部ハル姉にお任せしてますので」
「えぇー?」
あまりに無茶苦茶な言葉におもわず当惑の声を上げてしまう。確かに秋奈が女の子らしくないのは事実だけど、だからといって本物の女の子でない僕にそういうのを期待されても……。
「わたしにそういうのを求められてもなぁ」
だなんて、髪をいじりながら答えるのだが。
「そういうところが女子力高めなんだよー。あたしには真似できない」
「確かに、その辺の子よりも女の子らしいわね」
なんか、無意識のうちにそういうことが出来るようになっていたみたいだ。何とも複雑な気分ではあるんだけど。
「あーもう! 夕飯作るからこの話終わりね!」
いろいろ言われて恥ずかしくて、無理やりにでも別のことを始めようとする。冷蔵庫を開けると、昨日まで残っていたはずの食材がだいぶ消えていた。そういえば母さん、夕飯の用意をしてたみたいだけど――。
「というか春奈、何で台所に立つのよ。今日は母さんがかわいい愛娘たちのために夕飯を作ろうと――」
母さんの言い分を半ば無視して鍋の中身を見る。案の定母さんは鍋の中で何か暗黒物質を生成していた。
「あっちゃあ、やってくれたね母さん……」
嫌な予感はしていたけど、やはりメシマズどころでは済まない料理が出来上がっていた。だいたい我が家のご飯が秋奈と僕の交代で作られている最大の理由が、母さんが致命的に料理が下手ってところにあるのに。しかも自覚無しという最悪なパターンだし。
「ちょっと、それ親に言う言葉?」
「親だけどこれは酷いよ。わたしたちを病院送りにでもするつもり?」
冷蔵庫の中身から適当に夕飯の素材になりそうなものを見繕う。あとは、冷蔵庫横に掛けたエプロンを身にまとえば準備完了だ。
鍋の中を静かにシンクにかえして、改めて夕飯づくりを始める。話題も完全に変わったし、もうこれ以上僕に火の粉は飛んでこないだろうとちょっと安心をしていたまさにその時だった。
「そうそう、そういえばハル姉浴衣買って着たんだけど……お母さんに見せてみたら?」
嫌な予感ってものが、秋奈の不意の一言という形で当たってしまったのである……。
◇
成り行きで。というか秋奈の余計な一言で浴衣を着つけてもらうことになった僕。
シャワーを浴びて、下着姿になってリビングへと戻るとそこには今日買って着た浴衣と一式がきれいに並べられていた。自分で言うのもどうかと思うけど、紫色の浴衣は艶やかで美しい。こういう服が着れるのはワクワクするし楽しいけど、でもこれを着こなせるかと言えばそれはちょっと分からなかった。
それと、女の子になって時間が経っているとはいえやっぱり母さんや秋奈の前で下着姿を見せるというのは恥ずかしい。浴衣を着るせっかくの機会ということは考慮したにしても恥ずかしいものはやっぱり恥ずかしいのである。
「あら、春奈……大きくなった?」
浴衣を袖に通されると、不意にそう言われる。
「えっ? うそ、背が伸びたのかな」
男だった頃は低身長でいじられたこともあったから、背が伸びたとしたら素直に嬉しい話だ。もっとも女の子だからそんなに身長が欲しいわけでは無いんだけど……。
「いや、胸が」
「娘にセクハラするのやめーや。あと胸をサイレントで触るな」
まさか母さんにセクハラされるとは思わなかった。しかも揉み方がなんかくすぐったいような気持ちいいような……って違うよそんなことやってる場合じゃないでしょ。
「あと秋奈居るんだから教育上アウトだよ!」
「あれ、ハル姉感じたの?」
「秋奈も秋奈で、どこでそんな言葉覚えたんだ!」
秋奈がとんだ破廉恥娘になっていて兄ちゃんは悲しいよ……。
ともかく、そんなやりとりをしてすぐに浴衣の身ごろを合わせてもらう。
「腕を広げて。もっと背筋を張る」
朝顔模様の浴衣が身体を包む。展示の時点でもきらびやかとは思ってたけど、本物はやっぱりすごい。夏祭りという場に、これほど相応しいものは無いだろう。元男とはいえ、こういう服を着るときのワクワク感は何とも女子っぽいものだと自身でも思う。ある種の高揚感が、浴衣と共に僕のことを包んでいた。
「秋ちゃん、腰紐取ってくれる?」
「これでいいの?」
「ええ」
そして、しゅるりという衣擦れの音と共にお腹に圧力を感じる。腰紐といって、帯の下に留める仮の帯のようなものだ。これで、浴衣の身ごろを固定しつつおはしょりがつけられるというわけだ。
「ちなみに男物の浴衣は、直接角帯か兵児帯を結んでしまうのが粋なのよ。春奈もいつかの時のために覚えておいたらいいんじゃない?」
「へぇー、女物とまた違うんだねぇ」
そういえば見た目というか帯の種類から違ってたっけ。母さん、意外に物知りだなぁ。
「いつかの時って、彼氏出来たとき?」
「ちょっと秋奈!」
「うーん、私は春奈が男の子に戻った時のことを考えていたんだけど。でもまあその前に彼氏作っちゃうかもね」
「んなわけあるか! どうしてわたしが彼氏を作るのさ! 僕は男だぞ!?」
思わず大きな声で否定をする。
でも、実際問題わたしに彼氏なんて出来るのだろうか。今の時点では、そんな気は無い。けど、この先精神も女性化したとしたら、男の告白を受け入れることもあるかもしれない。少なくとも僕の事情を全く知らない周囲の目線でいえば、それは普通の話だから。
それに、僕だって恋愛を全否定しているというわけでは無い。機会があれば、もちろん眞子みたいな恋をしてみたいという気持ちも無い訳では無い。もちろん今の僕が恋愛するなら、相手は女の子の方がいいとは思ってるけど――でも何だかんだで二人一緒に遊ぶデート位なら相手が男でも別にいいって思う自分もいるわけで……。
でも、結局身体は女性だけど精神は男性なんだ。だから恋愛対象としてどっちを選んでもたぶん違和感を覚えてしまうのだろうし――何とも複雑なところだ。
なんてことを考えているうちに、きちんと帯が締められて僕の浴衣姿は「完成」した。最後に、頭の後ろに髪でお団子を作ってそこに簪を差し込む。
「うそ……これがわたし?」
姿見の姿に、自分でも見とれてしまう。そこに写っていたのは、自分で言うのもどうかと思うけど和風の浴衣美人さん。僕だけじゃない、秋奈と母さんだって黙り込んでいる。二人もたぶん、同じ気持ちなんだろう。
「……これは驚いたわ」
「ハル姉、やっぱりカワイイ!」
そう言い、秋奈が袖を掴んでぎゅっとしてくる。僕もつられてぎゅっとしてしまう。こんなにも美しいものを着ることが出来たことが嬉しくて、どう気持ちを表せばいいか分からなくなる。
もちろん、僕は男の子だ。本当は、こういう感情を持っちゃいけないとは思っている。でも、こういう時くらいは夢を見ても良いんじゃないか。女の子は、お姫様に憧れるんだろ? 今の僕だって、本物では無いかもだけど、女の子であることには変わらないのだから。
「……わたし、今日からこれで過ごしちゃおうかしら」
「あっ、それあたしが小3のときに言ったセリフだよ!」
「懐かしいわね。秋ちゃんがそうワガママ言って、春樹を困らせていたわね」
母さんも懐かしがっているが、確かそのような出来事はあった。秋奈の場合は朝からいきなり一人で浴衣を着て、ランドセルを背負って学校行くだなんて言い出したのだ。一人で着たものだから、当然だけどその浴衣姿はとても人には見せられるものじゃなくて。だから兄として慌てて止めたことを覚えている。結局無理やりジャージを着せたけど、ムスッとしてたなあ、秋奈。
なんてことを懐かしく思っていたときだった。
「でもね、春奈。今は良いけど、あまり女の子女の子になるのも考えものよ?」
母さんが、突然声音を落とす。そして独り言をつぶやくように、僕に釘を刺した。
「考えもの、って姉ちゃんは女の子なのにどうして?」
「だって、春樹が女の子になったのって突然だったじゃない? もしかしたら春奈が男の子に戻るのも突然起こり得るでしょ? その時困るのは誰?」
「それは……」
秋奈は言葉を詰まらせる。母さんが言ったことは結構重大なことだ。
今の姿がどうであれ、僕の本質は男の子だ。今は女の子だといえ、それは落ち着いて考えればにわかには信じがたい出来事を経てそうなったわけで、だとしたらいつまでもこのままで居られる保証があるわけでも無い。
それなのに、いつまでもこのままで居て大丈夫なのだろうか。おそらく、あまり楽観的に考えるのは良くないと僕も思う。
「……姉ちゃんなんだと思う」
「そうよね。春奈が春樹に戻った時、あまりに女の子らしくして居たら元に戻れなくなるかもしれない」
男に戻った時苦労しないように、きっとそういう親の優しさからそういうことを言い出したんだと思う。
「大丈夫だよ。一応僕のアイデンティティは男だからさ。ま、女社会を生きる処世術? でしか無いわけだし?」
でも本当にそうすることが、今の僕に出来ているのだろうか? 口ではさっきそう言ったけど、今さら男に戻ることなんて正直あんまり考えたくない。
「……だといいのだけど。最近、秋ちゃんとも仲良すぎるし……」
「そんな言うほどじゃないかな?」
「あたしも、普通の姉妹ってこんなんじゃないかな?」
「姉妹はそうでも、あなたたちは元は兄妹。もちろん仲が良いことは良いことなのよ? でもそれにしたって、でしょ?」
たぶん半分は、親の優しさだろうけどもう半分は何かが違うような気がした。はっきりとした言葉にこそしていないが、それは僕への批判。批判というより、女になった僕への当てつけのように思えてきて。だから慌てて簪を引き抜いて壊れない程度に意図的に乱暴に扱う。浴衣も、生地が傷まない程度に雑に脱ごうとする。
「ちょっと姉ちゃん? もっと丁寧に扱わないと」
「良いよ良いよ。もともとそんな丁寧に扱うキャラでも無いし……」
本当のことは秋奈には言えない。でもこれは、母さんと僕のあいだでのちょっとした駆け引きというか牽制合戦のようなものだった。
「秋奈の言うとおりね。浴衣を片づけたら、ご飯にしましょうか」
母さんも母さんで、秋奈には見せないように。そして露骨に話題をご飯へすり変えた。それこそが、僕のことを内心で当てつけてる証拠、のように思えた。
「ちょっとお母さん! いくら何でも言い方酷くない? 普段着るものとかにあまりこだわらないハル姉が珍しく選んできたものなんだよ?」
「秋ちゃん、うるさい。さっさと食卓につきなさい」
「……分かった」
この空間に、嫌な空気が流れる。原因を作ったのは――僕だ。だったら、その原因を取り除くしかない。もっとも取り除いたところでこの空気が抜けるとも思えないけど。
案の定、浴衣を片づけていつもは着ない男物のパジャマを着てきてもやはり空気が悪い。秋奈が気を遣って、僕とは関係のない話題を無理無理作っては話していたが、母さんの笑顔の裏には怖い何かが潜んでいるようだった。
そして、夕飯を終えてお皿を片づけていたまさにその時――。
「春奈、後で話があるの。私の部屋まで着てちょうだい」
まさに、避けられないやりとりの瞬間が訪れてしまったのである。
読んでいただきましてありがとうございます。
お気づきの方も多いでしょうが、今回は「親の心子知らず」ということわざをテーマにしたお話です。この物語は春奈の視点で描いているため、どうしても春奈の主観が作中でも強く表現されていますが、反面春奈の母親もまた娘に変わってしまった彼女に思うところがあるのではないでしょうか?
次回に続きます。