25. 「わがままシスターズ(後編)」
日の沈んだ公園。誰も見ていないことを確認してから、僕は秋奈の胸元で大泣きした。
それは、男だった頃の僕にはとても想像もつかないことだったと思う。でも、人間不思議なもので、泣きはじめるとよほど溜めていたのか、涙があふれて止まらなかったのだ。
そんな僕を、秋奈は肯定するわけでも否定するわけでも無くただ静かに話を聞いてくれる。
「よしよし。そうだよね」
嗚咽を漏らしながらも、僕はたどたどしい言葉を紡ぐ。
僕が女の子になったことへの潜在的な恐怖や理不尽さ。周囲の目線という恐怖。そして、自分自身でもコントロールできない、「性」への意識。表には出さないようにしていたつもりだけど、やっぱり本当のことを言えば……怖かったんだ。見て見ぬふりをしつづけていたんだ。
でも、秋奈の前では素直に話せるような気がした。正直、大の大人だって受け止めきれないような話題ではあると思う。だから、中学一年生の秋奈にはますます酷な話だったはずだ。
だけど彼女は懸命に聞いてくれた。それが嬉しくて、だからこそ余計に溜まっていた涙があふれ出てしまう……。
そして、涙が収まったころには陽が完全に暮れて周囲が真っ暗になっていた。
「……全部話したら、楽になったかも。ありがとう」
「良いんだよ。あたしは、姉ちゃんが話してくれたことが嬉しかったから」
「もう、そういうのは姉ちゃんのセリフなんだから」
何でこう出来た妹なのか。お互いに毒も吐くし喧嘩も多いとは思うけど、それでもこいつのことが愛おしくて、ついつい頭を撫でてしまう。
「くすぐったいよ、姉ちゃん」
満面の笑みを見せる秋奈。最近だと、冷静に振る舞うことも多いし、僕が泣いていた時は相対的に大人っぽく見えたけど――こういうところはやはりまだまだ年相応に幼いとは思う。でも、そういうところも可愛いと思えてしまうのは兄の。いや、姉のさがなのか。
「たまにはいいでしょ? 僕だってこういう感情くらいはあるんだからさ」
「ハル姉がデレたー」
恥ずかしいけど、愛おしい瞬間だ。つい秋奈の頭を撫でてしまう。
こうして、姉妹に平穏なときが戻ってくると思っていたまさにその時だった。
「……姉ちゃん、あたしからも話をしていいかな?」
さっきまでの気丈さや元気さとは打って変って、彼女が急にしおらしくなったのだ。
「良いけど、どうして?」
「いや、その……姉ちゃんはあたしに気持ちを明かしてくれたよね? だから、あたしも。じゃないと、フェアじゃないでしょ?」
確かにそれはフェアだとは思うけど。でも、何事も姉妹平等にする必要は無いと思うしそういうのはタイミングを見ても良いとは僕は思う。
「確かにそうかもだけど。でも、別に言いにくいなら今無理に言わないでも良いんだよ?」
「うーん。むしろ言いたいの。でも、引かれちゃったらイヤだなって」
公園の街灯の光が、秋奈に写り込む。そこに写る彼女の表情は、どこか物憂げな感じだった。さっきまでの、どこか自信満々な表情はどこに行ったのかってくらいに。
「引かないよ、絶対に」
当然だよ。だってそれは、秋奈の姉としてやらなくちゃいけないことだから。妹は僕を受け止めてくれた。だったら次は、僕の番だ。だけど、そんな決意は……続く彼女の言葉によってあっさりと壊れてしまう。
「あたし、姉ちゃんにはやっぱり女で居て欲しい」
嬉しいような。困ってしまうような。それでも、秋奈の話を聞き入れると決めた以上はしっかりと向き合うしかない。だからこそ、気丈に答える。
「そっか……。秋奈は、僕のことそう考えてくれてたんだね」
正直どう答えるべきのが正解なのか分からない。
僕の本心は――たぶん秋奈が突いた言葉で正解なんだと思う。でも、世間様はそれを許さないことは誰よりも僕自身が一番分かっているつもりだ。
「分かってる。姉ちゃん――いや、兄ちゃんには受け止めきれない願いなのかなって。たぶんそれで、姉ちゃん自身が苦悩してることも分かっているつもり」
分かってる。彼女は、僕のこと一番よく見てくれているし受け入れてくれている。僕の置かれた状況だって、こいつは全部見抜いていて。だからこそ、優しく受け入れてくれた。
「でも、兄ちゃんが姉ちゃんに変わって一緒に過ごすうちに、あたしのなかでその気持ちが強くなっているの」
でもそれは、実現するにはとても難しい内容だったのだ。だからこそ今は、話を聞くことしか出来ない。それが、歯がゆかった。
「どうしてそう思ったのかな?」
悔しい気持ちを無理やり押し込んで、静かに尋ねた。
「長くなるよ?」
そう言い、彼女は静かに話し始めた。
「……実は最初は、あたしでもそんなことは考えてなかったんだ。兄ちゃんが姉ちゃんに変わって、生活が思いっきり変わったことに驚いてばかりでさ。だから正直、どう受け止めればいいか分からなくて」
それは、秋奈に限ったことじゃないはずだ。立場が変わって、僕が秋奈の性転換を目の前で見せられたらやはり正気で居られる自信はない。これまで違った性別だった家族がいきなり同じ性別になったとしても、どう接すればいいかものすごい悩むと思う。
「でも、女の子になって一週間過ぎたあたりから、急に姉ちゃんは活き活きと毎日を過ごすようになったよね? そりゃ女の子の習慣に慣れて無くて、危なっかしくて見てられないときも多かった」
「危なっかしいって、女の子の風習とか正直分からないし……」
今ならばお化粧なり服選びなり人並みにこなすことはできる。けどあの時は、いきなり年頃の女子らしいことなんて出来るわけも無いじゃないか。そもそも、僕が事故に遭う前の時とは状況だって変わっているわけだし。
「分かってるって。だからあたしが色々教えたんでしょ? いつのまにかあたしよりも上手くなってたけど」
「女子力に関しては眞子が隣でお小言言ってくるからね」
「あらあら」
だけど、秋奈と眞子のおかげでここまで来れたわけだからそこだけは素直に感謝しているつもり。口に出すと調子に乗りそうなので黙っているけど。
「ともかく、そんな感じで日々を過ごしていくうちに兄ちゃんの暗い顔が消えて明るくなって……」
「そうかなぁ?」
「そうだよ! 昔みたいな怖い雰囲気が消えて、部活に入ってからはいつも明るくて毎日が楽しそうで。それが同じ家族として安心した」
素直に首を縦に触れる気もしないけど、言われてみればそうかもしれない。転校してすぐは眞子と正体を巡って大ゲンカしたりと色々あったけど、でもその後は委員長さんと料理部と出会って毎日を過ごすのに必死で。
だから、他のやつが僕のことをどう見ているかなんて正直どうでも良くて。そしてそのうちクラスメイトと今までにないくらい積極的に関わるようになって。
「変化が多すぎて、暗くなるどころじゃなかったんだよ」
でもそれは、僕が「変わりたい」と思って自発的にやったわけではないのだ。あくまで周囲の状況に押し流されてやったわけで。
「でも、そんなに明るくなった? なんかそんな気はしないけど……」
「明るくなった! 状況はどうであれ、昔よりも笑うことが多いし。口が悪いとはたまに思うけど、でも何だかんだで面倒見が良くて。この前だってみんなに勉強教えてたでしょ? 昔の兄ちゃんなら絶対にしないもの」
「あれは! ……不可抗力でして」
実際どうなんだろう。宮川とか芦原とかを家に入れたのは確かに不可抗力だけど、男だったときの僕ならたぶん絶対に入れなかっただろうしそもそもそういう状況すら作らなかったと思う。それに、家に上げてわざわざお茶出したりなんて面倒を見ただろうか?
「まあ、経緯はどうであれ優しくて明るくて面倒見がいいことは事実だと思う。だから、その姿がだんだんと男になる前のあなたと重なったの。そう、あたしが知ってるハル姉ってこんな感じだって」
「ハル姉?」
「さすがに覚えてないか。昔の姉ちゃんのあだ名だよ」
ハル姉、か。
正直、秋奈の言葉には驚くべきことが多すぎた。
昔のこと。
今のこと。
そこには、僕にとっては思っても居ないことばかりが浮かびあがってくる。そんな僕の知らない、「僕」自身にどう反応をすればいいのだろうか。
「もちろん、兄ちゃんだったときのあなたも大切な存在。血が繋がった家族だし、不器用でもあたしのことを心配してくれたからさ。でも、正直兄ちゃんは怖かった。だって、いつも顔が険しいし、すぐに怒鳴るんだもの。ああ、無理してるんだなって」
そっか……。秋奈には怖い思いをさせてたんだ。過去の行いを悔いたところで今さらどうなるわけでも無いけど。
「怖がらせてたんだね。知らず知らずのうちに」
それなのに、何が立派な兄らしいことだ。全く出来て無いじゃないか。そりゃ、立派な兄ちゃんらしくあろうとはしてたさ。そこに嘘偽りは無い。けど、僕の心が弱くてどこかで無理していて。だからその分が全部秋奈に火の粉として掛かっていたのは事実だ。
「ごめんね、兄ちゃん――最低だ」
「そういうのは今は無し! 確かに昔の兄ちゃんはそうだった。けど今のハル姉は違うじゃん?」
なのに、こいつは懐が大きいというか何というか。罪悪感を持つのも秋奈にとっては嫌だろうし、僕の自分に対する意識と秋奈の意識との差でますます反応に困ってしまう。
「性別が変わったからなのかは分からないけどいつも明るくて周囲の人にも優しくて」
やめてくれ。僕はそんな理想の兄じゃないよ。
「もちろん怒ったら怖いのは変わらないけど、たまに学校の廊下ですれ違う時はいつも楽しそうな表情をしてるんだ。姉ちゃんの隣にはいつも隣に誰かいるし、それが妹としても嬉しくて」
「一度人生の絶望を見た兄ちゃんだから、いつまでもこうやって居て欲しいなって」
そっか。僕の知らないところで、秋奈はここまで気にかけてくれていたんだ。それなのに僕は、何も返せていないことが情けない。
「ゴメンね、兄ちゃん……。いや、姉ちゃんは何も秋奈に恩返しできてないね」
それは、秋奈に対する懺悔のような言葉だったのかもしれない。だけど……。
「姉ちゃん、そういうのはもう止めよ! いつまでもネガティブでいても仕方ないでしょ?」
鼻の頭をツンとつついて、彼女は笑った。
「あたし、姉ちゃんに面倒を掛けたとか掛けられたとか考えたことは無いよ? 姉妹なんだから、死ぬ時まで一心同体。足りないものは補い合えばいいじゃん」
「……一心、同体か」
足りないものを補い合う。確かに、間違えてないのかもしれない。
僕は何かを思い違いしていたのかもしれない。今までの僕は、何でも一人で解決しようとしていた。でも秋奈から言わせれば、そんな難しいことを無理にしないでも、足りないものを補えば同じことだって、こういうことなんだろう。
どうしてこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。
「そうね、強いて貸し借りをあげれば……この前の県大会の練習こっそりと見てたでしょ? 体育の時だってちょくちょく目に掛けてたし。県大会終わった時だってそう。一番最初に褒めてくれたのは姉ちゃんだったよね?」
「それは……」
別にそういうつもりではなかった。ただ、頑張っている秋奈の姿をついつい見てしまっただけで。
「大層なことじゃないよ。それに、姉ちゃんなんだから当たり前」
「当たり前なんかじゃないよ! そうやって言葉にしてくれて、あの時は心にも無いこと言ったけど本当は嬉しかった!」
「そっか……。当たり前だと思ってたけど、当たり前じゃないんだ」
僕にとってはあの程度のこと、としか思ってなかった。でもそれが秋奈にとっては嬉しいことだったなんて。もちろん言われるこっちは嬉しいし、やっと姉らしいことが出来たんだと思ってしまう。
「でも、もっとうまい褒め方とかできる人はきっといると思うよ? 僕には出来ることなんてたかが知れてるし……」
「たかがなんて言わないでよ! おごらず無理せず、出来ることをしっかりやっていく。それがあたしが知るハル姉。完璧超人じゃないけど、身近にいるあたしの憧れ」
「……」
「だから、二度と自分を傷つけないで。あたしが知ってる一番かっこいいヒーローのそんなダサい姿、見たく無いもの」
そっか、だから……今までのあの行動だったんだ。
きっと秋奈の行動って、その根底に僕が僕じゃなかったころの「ハル姉」って存在に影響を受けてるんだ。僕が事故に遭って失ってしまった、かつての安藤春奈を秋奈は受け継いでくれたんだ。そしてその上で今もまたハル姉として僕のことを見守ってくれている。
年下のくせに、まるで僕の年上のきょうだいみたいなことをやってのけるんだ。だから、彼女の優しい一言が嬉しくて誇らしくて……。
「姉ちゃん、もう涙は止まったって……」
「仕方ないでしょ、生理現象なんだから」
いつの間にか、枯れたはずの涙があふれていた。
……僕は気づかなかったんだ。本当は、気づかないほど近くに僕の味方が居たことに。僕を大切にしてくれる人が居たことに。
だからこそ、自分に価値が無いといった時に僕のことをぶってくれた。僕が誤った道に進みそうなとき、手を差し伸べてくれた。
「一つ聞いていい? だとしたら、さっきのキスってなんだったの?」
ようやく気付いたよ。秋奈のさっきの行動に。
「それは……腑抜けた姉ちゃんの背中を押した。ただそれだけ」
「でも、お前にとって初めてだったんじゃ……?」
「だからこそ、それくらいの覚悟でキスしたんだよ? 姉ちゃんの初めてを奪ったとしたら、悪いことしたなとは思ったけど」
……悪いわけ、無いじゃないか。
それだけの気持ちを持ってくれたなんて、これ以上に姉として嬉しいことはあるだろうか。あの行動で、僕は勇気をもらえた。姉妹だから、恋人じゃないからキスなんておかしい……だなんて、そんな固定観念を持った僕の方がバカだったんだ。家族愛によるキスの何が悪いという。
「嬉しかったに決まってるでしょ!」
そういい、秋奈のことを抱きしめる。
「さっきあたしが抱き付いたときは苦しいって言ってたくせに!」
「良いでしょ? 今だけは、このままで居させて」
彼女の小さな身体からが今は暖かい。それが、夜風の中の陽だまりのように僕は思った。
いつの間にか総合評価が200を超えていて、我が目を疑いました(苦笑)。この作品を読んでいただいた全ての人に感謝を。いつも応援してくださりありがとうございます。
この小説のなかでは、話としては一番長いお話になりましたね。
この回では、秋奈の気持ちに主眼を置いています。ちょっと表現が行き過ぎたかもと反省はしていますがそれだけこの姉妹がお互いを大事にしているということが伝われば幸いです。