20. 「自業自得の成れの果て」
ごめんなさい――その一言だけ残して彼女は、家を飛び出した。居間に残されたのは、僕たちだけ。お互い、ただ茫然とその事実を受け入れることしか出来なかったのだ。
「眞子、言い過ぎ」
「そんなこと……」
そうぽつりとつぶやき、眞子は力なく椅子に座る。
「あるかも。また、やってしまったのかな」
さっきまでの威勢はどこへやら。へたり込む眞子の姿は、かつて僕に見せた姿とどこか重なる。
「あんなこと言ったら……」
もちろん、眞子の気持ちだって分からないではない。せっかくのテスト勉強だというのに、委員長が宮川を招いたばっかりに企画そのものが潰れてしまった。眞子がどこまで本気だったかは一旦置いておくにしても、企画を潰した委員長への怒りが大きいのは当然だろう。説明が無かった、という意味でもきっと火に油を注いだのだろう。
で、引っ込みがつかなくなった結果が――あれだ。
「まあ、そういうこともあるさ。お茶でも入れるか?」
考えても仕方のないことだ。お茶でも飲んで気分を変えようと、尋ねる。彼女からの返答は無かった。
「勝手に紅茶にするぞ」
やかんに火をかけて、お茶っ葉を取り出す。ティーポットにおさじで茶葉を入れる。お茶菓子は、クッキーで良いだろうか。特に考えることも無く、機械的に動く。いや、そうでない。
ロボットのように動いているようで、やっぱりさっきの件が頭から離れなかった。
そもそも、どうして委員長は宮川を招いたのだろうか。
確かに、彼女が言う通り宮川の成績はお世辞にもよくない。というか、むしろ悪い。補習という言葉にも示されている通り、下手をすれば進級も危ういほどなのだ。そりゃ、授業はいつも寝てて提出物も出さないわけなのだからそうならないほうが不思議なくらい。付け焼刃でもテストを乗り切らせようと思うのは、委員長として当然のことだ。
でも、それはあくまでも委員長という役職としての視点での話。
たぶん、としか言えないけど僕と眞子は彼のことを正直苦手としている。むしろ嫌いなくらいだ。嫌いなわけだから家になんか招きたくも無いし、一緒の空間に居るのだって嫌なのだ。
露骨にその事実を彼女に言ったわけではないけど、賢い彼女がその事実に気づかないはずがない。
それなのに、どうして……? 考えれば考えるほど、理解不能だ。
「どうして、委員長は宮川を招いたんだろうな」
独り言のつもりだった。だが、その言葉は口に出ていたらしい。すぐに眞子からの返答が戻ってきた。
「好きだから、に決まってるじゃん」
やかんが鳴る。その音が、僕の脳内で響くアラート音のようなものと重なる。
「好きって、ラブのほうの?」
「たぶん」
想定外、と言えば嘘になる。考えてもみれば、何となく彼女からはそういうシグナルは出ていたからだ。
でもだからって、なぜそこで「好き」になるの?
◇
思い返せば、そういう片鱗は見せていた。
フラグ? とでもいうのだろうか。それは、今回の勉強会だってそうだったしこの前の部活の時もそうだったと思う。
宮川は不良生徒で成績も悪い。だから、見捨てることは出来ない――それは、委員長という役職においては当然のことだろうし、そうすべきだとさえ思う。でも実際は、本当に役職のために動いていたのか?
――正ちゃんさえ振り向えてくれれば
――正ちゃん、今日は来てないの?
――私の知ってる正ちゃんはどこに行ったの!
今、気がついた。彼女が言ってる正ちゃんは、宮川のこと。宮川のことを特別に思っているから、いつだって彼の存在を気にしていたし、どんな時だって見捨てようとはしなかった。
「……やっと、気がついたよ」
「今さら、だよ」
この鈍感っ。眞子は頬杖を突きながら答えた。相変わらず目元は不機嫌。でもその不機嫌は僕に向けられているわけでは無く、ここには居ない彼女に向けられているようだった。
「眞子は、そのことを知ってた。だから、なおのこと」
「怒ってる。正直、めっちゃ怒ってるよ」
いつかの、僕のときのそれに比べて怒りの程度はさほど大きくないのだろう。この前の時と違って、声に落ち着きがあることからもそれがうかがえる。でも、怒りの程度がこの問題における本質ではない。こいつが一番嫌いなことは「嘘をつかれる」ことであり、それを彼女は踏み抜いてしまったことが最大の問題点なのである。
「まあ、分からないわけでも無いのだけれど」
しかしそうは言えどもこの前のように烈火のごとく怒るというわけでもなく、むしろどこかで委員長に寄り添うようなことを言い出している。「嘘」が嫌いな眞子なのに、どうして嘘をついて誤魔化した委員長に同調するかのようなことを言うのかが不思議に思えた。
「分からないわけでも無い、ってのはどういう意味だ?」
一見すると矛盾する、眞子の言葉に思わず問いかける。
「はぁ……やっぱあんた。根は男なのかなぁ」
「根は男って、そりゃ当然だろ」
身体的には女子になったとはいえ、そんな一ヶ月やそこらで女性的な思考になるはずがない。だいたい女性の言葉には言外のニュアンスがちょっと多すぎるのではないだろうか、と言い返したくなる。そんなこと、言ってくれないと分からないじゃないか。
「で、どういう意味なんだよ」
本音を言えば、そういう女性特有の「あいまい」なところに文句を言いたかったがぐっとこらえて尋ねた。眞子はため息をつきながら言葉を返す。
「要するに、この勉強会をぐちゃぐちゃにしたことについては怒ってるけど、でもあの子の気持ちも分からないではないって意味よ。察しなさい」
「ああ……なるほどなぁ」
要するに、貴重な時間を作って勉強会を企画したのに委員長のつまらない恋愛感情でそれがおしゃかにされた。さらに、その感情を適当な言葉で誤魔化してお茶を濁されたということに眞子は怒っているのだろう。しかし、彼女の恋愛感情は同性としては理解できないでもない、とこういうことなのだろう。
だけれども、そんなことを全て察するなんて今の僕には出来ない。逆説的にいえば、僕の思考回路はまだまだ男のそれだということ。こうやって、一つ一つ丁寧な説明が無いと女子の気持ちを察することさえ出来ないのだ。
その事実を突きつけられて、何だか複雑な気持ちになる。事実、眞子の意図に表面上は同意してるけど……実際はピンとしてないという感じだしそれは委員長さんに対しても同じではある。こんな調子で、本当に女の子をやっていけるのだろうか。かといって男の世界でも上手く言っていたわけでは無いのだが。
ともかく。
「でもさ……委員長と宮川か。どうやってフォローしてあげればいいんだろうね」
眞子が肘をつきながら独り言つ。言われてみれば、片方は模範的優等生でもう片方はテンプレ通りの不良。この二人がくっつくというイメージそのものが連想できない。
「まあ、普通に考えればどう考えてもくっつかない関係だからね」
「漫画とかならありがちだけどね」
「漫画読まないから知らないっての」
何だろうか。不良青年が、弱った子猫だか子犬に餌を与えるのを見てキュンとするみたいな展開のことだろうか。少女漫画なんて全く読まないし、秋奈もそういうのに興味が無いこともあって全く想像できない世界だ。
「まあ、春奈はちょっとは少女漫画でも読みなさいよ? 女の子の処世術を勉強する意味もそうだし、話題についていくためにもね」
「ええぇ……?」
僕が少女漫画だなんて。まあ、本を読むのは得意だからその気になればさっさと読破は出来るのだろうけど。さっきから次から次へと僕の全く想像できない世界の話が続いて混乱してしまう。……ってか。
「話が脱線しすぎて訳わからないけど、結局眞子はどうしたいの? 勉強したいの? 委員長の恋を実らせたいの?」
話が脱線してるうちに、紅茶はだいぶ冷めてしまっていた。気分を変えようとしたのは事実だが、これではどの話でも結論が出ないではないか。
「うわ、そうやって急に真面目になる。わたし、もうそんな気分じゃないよ」
「もう、何なんだよあんたたちは揃いも揃って!」
思わずため息をついてしまう。かくして、勉強会は何の成果もあげずに委員長たちの暴走と眞子の戦意喪失によって幕を下ろそうと……今回ばかりはしなかった。目線を眞子の方へ向ける。彼女の非難の目が、僕を射抜くようだった。
「それはわたしのセリフでもあるよ。あんただって、表には出してないけど何かを隠しているじゃない」
「そんなことっ!」
無い、とは言葉で言うものの「隠している」という言葉が不意に千歳悠希のあの言葉を思い出させる。いや、今思い出したというわけではなく今の今でも頭の隅に重しのように残っているのだ。
「だったら、なぜあんたこそ勉強会の時にペンが全く進んでいなかったの?」
「それは……」
眞子の言うことは、僕の突かれたくないところばかり突いて来る。正論、図星とも言うべきだろうか。そう、こいつの言う通りここ最近千歳の言葉に気を取られて何も手がつかない状態なのだ。
でもだからといって、こいつの真実を伝えることが正しいといえるのだろうか。
「お昼時だし、そろそろ帰ったら?」
そう言って、無理やりにでも帰そうとするのだが。
「春奈。いや、春樹。わたしは言ったよね? もう二度と、自分でなんでも背負いこまないことって」
「なんで、隠すの?」
眞子の静かな。でも、しっかりとした抗議の言葉に。目線に、思わず黙り込んでしまう。今度ばかりは、逃げ出せない。だとしたら、素直に言うしかない。
「隠してはいない。でも、話せない。だってこの話題は、僕が解決するべきことでお前を巻き込むわけにはいかないことだから。……それでも聞きたいのか?」
巻き込みたくない、とは言ったけど保身のための言葉だ。そして同時に、眞子を共犯にする可能性のある言葉でもあったんだ。
だからこそ、眞子には言いたくなかったんだ。でも……。
「聞きたい。だってわたしは――」
彼女は、決して言葉を続けなかった。でも、言いたい言葉は僕にも伝わってきた。
ダメだ――こうなったらもう、こいつは何を言っても聞かない。……そういうヤツなんだよ、僕の幼馴染みは。頑固で負けず嫌いで嘘が大嫌いで――でも本当は、誰よりも優しくてお人好しな。そんな女の子なんだよ。
◇
「結論から言おう。僕の正体が、千歳悠希にバレたかもしれないんだ」
事実を淡々と伝える。本当は、前々から動揺しているところではあるんだけど、それは無理やりにでも抑え込んだ。
「バレた? あんたが元々男だったことが?」
「可能性の話だけどね。でも、僕が元々男だったこと。あるいは安藤春樹という人間だったこと。あるいはそのどちらも……断定はできないけど、勘付かれた可能性はあるってこと」
くどいようだが、先の一件で彼女はまるで、僕が元々男であったことを知っているかのような素振りを見せた。露骨にその事実を告げたというわけでは無い。でも、僕の名前を呼ぶときにわざわざ含みを持たせてみたり、あるいは「しっぺ返しを食う」という言葉を使ってみたことを考えると、何かを知っていると考えないとおかしな話になってしまうのだ。
「名前に関しては、あんたが転校生だから覚えられていなかったという可能性はあるんじゃない?」
「それもあるけど、教師ならともかくただの生徒会長が全校生徒の名前を普通は覚えるだろうか?」
鬼の生徒会長。それが彼女の異名であるとはいえ、一介の生徒会長が全校生徒の名前を覚えるというのはさすがに越権行為というか職務に逸脱していると思う。
「春奈って漢字が読めなかったとか? まあ、考えづらいけど」
「そんなに難しい漢字では無いからなあ。秋奈ですら小3で自分の漢字を書いているわけだし」
そもそも読めなかったら、たぶん律儀に訊ねてくる気がするし。
「だいたい、なんで生徒会長とそんな関わることになったのよ?」
眞子の言葉でハッとする。そういえば、こういう話になったそもそものきっかけを見落としていたのではないだろうか?
「この前の風紀検査だよ。去年も引っかかったけど、僕の地毛は栗色だろ?」
「あぁ、そっか。あんた佳奈さんに似て明るいのよね」
「そうだよ。それが男の時のコンプレックスでもあったよ……」
そうさ。女の子で栗色の髪の毛だと華やかとか明るいイメージになるけど、男でそれだと顔がイケメンでもない限り軟弱みたいな感じがして何だか嫌なのだ。それに関連したイジリもあったし。うっ、思い出すんじゃなかったよ。
「そんなわけで、案の定今年も風紀検査に引っかかってだな。本当なら去年の地毛証明を出せば終了と言いたかったのだけど……」
その言葉に、眞子がハッとした様子で訊ねてくる。
「……まさかだけど、あんた女の子になっちゃったから地毛証明書の効力が無くなったとか?」
「まあ、戸籍上は別人だからね」
本当は同一人物だけど、正体を隠している以上はそういうことをうかつに言えるわけも無く。
「で、会長に医師の診断書か昔の写真を持って来いって言われて」
「昔の写真って、あんた元々男じゃない。ほとんど詰みじゃないのそれって?」
「と思うじゃん? それが意外なことに幼稚園時代の女装写真があったんだよ。それで間一髪首がつながったんだけどさぁ……」
……これは驚いた、とか無理を承知でこう言ったつもりだったとかまるで無理であるようなことを見透かしたような言葉を言ってだな。そう言っている途中で、眞子の口がパクパクしていることに気がついた。
「ごめん、話が進み過ぎて理解が追いついてないよな?」
「いや、それは良いんだけどさ……あんた覚えてるの?」
「覚えてるって?」
「いや、10年前までの……ってその様子だと覚えていないか」
10年前? なんで千歳の話からそんな過去に飛んでしまうのだろうか。ふと疑問に思って問いただそうと思ったけど、眞子自身が勝手に話を完結しようとしてたので深くは入らないようにしておこう。
「ともかく、そんな感じで正体がバレたかもって話で」
「なるほど。大体分かったけど……」
「分かったろうけどさ、でもそれで何になると思う?」
思わず問いかける。そう、結局はこういうところに落ち着いてしまうのだ。
確かに僕の中でモヤモヤしていることは吐き出せたけど、この手の話題って話したところですぐに代案が出てくるわけでも無い。特に相手ありきの話題だとなおさらだ。
「話しておいて卑怯だけどさ、眞子にこの話をしても解決策ってたぶん見つからないと思うの」
正体を当人に直接聞けばいいのだろうか? 確かに解決するにはそれが最速だけど、それは僕の正体とトレードオフだ。仮にばれていたと仮定して情報拡大を阻止する協定を結ぶにしたって同じ話ではあるし……。
「それは……解決はしないかもしれない」
「だったら」
「でも、これで少しは気が楽になるかなって」
気が楽に……なる?
「たぶんだけど、秘密を一人で抱えるよりも共犯者が増えた方が楽でしょ?」
……そうか。眞子の言う通りだ。
最初は秘密が広がることそれそのものを恐れていた。でも、秘密を一人で抱えるというのは結構孤独でしんどいものだ。眞子はそれを分かって、あえて逃げ道を作ってくれたのかもしれない。眞子なら、絶対に話を広げないし、何よりも絶対の味方でいてくれる。当然だ、あいつとは生まれたときからずっと関わっている……いわば絶対の信頼があるのだから。
「ああ、少し気が楽になったよ」
その言葉に眞子も納得したらしい。
「そうだ、お腹空いたからご飯作ってよ」
「はいはい」
最後のおねだりさえなければパーフェクトだったのになあ……。こういう抜け目ないちゃっかりとしたところが時に憎いときもあったりするけど、それを含めてが僕の幼馴染みなのだから仕方ない。秋奈のお昼もあるし、ご飯を作らないと。そんなことを考えながら、台所へと向かった。
◇
「……とはいえ」
エプロンを付けながら独り言つ。
共犯者が増えたとはいえ、正体の件については解決していない。
それどころか、さらに拡大するというリスクもある。だとしたら被害拡大を防ぐという意味でもこれまで以上に気を付けて振る舞うべきなのかもしれない。ただでさえ、今の季節は肌を晒す服も多い。所作もそうだけど、服装とかでも気を付けないことは多いのだ。
自業自得とはいえ、頭の痛くなりそうことばかりだ。でも正体に関しては……やっぱりもう一度考え直すべきだろう。