2.「男の子最後の日」
目覚ましが鳴る。規則正しい音で、繰り返し鳴る。それは、変化のない毎日を形容するかのような音。
朝が来れば、目覚ましが鳴るだなんて、当たり前の話。だけどもその代わり映えの無い朝の訪れが、僕を逃げ場のないこの世界に押し込めているようなそんな気がして嫌だった。
それでも、朝が来たという事実は変わりなくて。
「……支度しないと」
そうやってつぶやいた瞬間に、昨日の出来事がフラッシュバックする。
ただでさえロクでも無い世界に戻ってきたことでも嫌な気分だというのに、それに加えて喧嘩した幼馴染みと会わないといけないということが不愉快な感情をより強固にする。
いや、喧嘩と言ってもただ言い争ったとかそれくらいならば、後日謝ればそれで丸く収まる話なのかもしれない。だけども僕がやったことは、そんなことでは無かったことに出来ないくらいの酷いこと。
しかも禁じ手とも言えるような酷いことを平気で言ったくせに、それを実行できる勇気も無かったのだから――なおのことしんどい。
机の上の縄を見つめてため息をつきつつ、そのまま視点を目覚まし時計のカレンダー欄に向ける。
唯一良かったことと言えば、今日が土曜日ってこと。それもゴールデンウィークの初日。とりあえず一週間は、例の彼女とも会わずに済むようで、まずは一安心。だけどもそれもここ一週間限りの話なわけで……。
「……やはり、問題の先送りでしかないか」
溜め息をついてしまう。問題なんて無い方が良いに決まってるのに、どうしてこんなにも問題ばっかり立て続けに起こるのか。あまりのことに全てがどうでもよくなって。
「もう知らん」
そうやってふて寝しようとした。どうせ土曜だ。何時間ふて寝しようがバチなど当たるまい……そう思っていたのに、それでも身体は正直で空腹を催してきたのだ。仕方無しに何か食べようと起き上がった瞬間。
「……っ!?」
知らぬ間に起こった、異常事態にようやく気がついた。
身体に力が入らない。ゆえに、起き上がるという当たり前の動作が出来ない。
立ち眩みか貧血のたぐいかと思い、一旦布団に身体を預けてもう一回起き上がる。今度は成功したらしく、無事に足がフローリングに着いた。だがそれも、1秒と持たず……。
部屋に鈍い音が響く。まるで、肉の塊が床にたたきつけられたような。それは比喩では無い、僕の身に起こった現実だ。
「……あぁ、天罰ってやつか」
全身が痛む。特に、胸元と下腹部が。全身を強打したから、というのもあるだろうけどそれとは明らかに性質の違う、何だか引きちぎれるような、引き裂かれるような痛みだ。それに加えて妙な吐き気のようなものが混ざる。意識がゆっくりと遠のいていく……。
昨日、やすやすと「死」という言葉を口にしてしまったが――そうか、これが軽率にそんなことを言ったことへの。あるいは、人を傷つけたことへの報いなのか。
「ちょっと! 朝っぱらから何事?」
その声と共に、誰かが部屋に入ってくる。だけどもそんなこともう、どうでも良かった。
「ってちょっと兄ちゃん! どうしたの!? しっかりして!」
こんな僕でも心配されるのか。最低人間の最期にしては、恵まれているのかもしれない。
けどそんなことされたところで、人に嫌われそしられ、人を傷つけた最低人間に救いなんかあるわけも無く――。
◇
……それから、何時間経ったのだろうか。目を覚ました時には、僕は寝室のベッドに寝かされていた。カーテンは閉じられている。けど、光が入らないということは、おそらく日が暮れたということなのだろう。
「はぁ、夏風邪ってやつなのか」
頭を抱えつつ起き上がる。夏っていうには少々早い気もするが、しかし貴重な連休の初日を風邪で潰してしまったことには変わりなく。さっきはふて寝でもしようがバチなど――とは言ったものの、やっぱり寝てるうちに1日が終わるというのは結構損な気がした。
幸い、謎の全身の痛みが引いたことは確かだから今回はこれで手打ちとしておこうか。そんなことを考えていると、ベッドに横たわると部屋に訪問者が。
「あっ、やっと起きた! ……ってあれ?」
視界には、僕の妹――秋奈の顔が入って来る。手元には、小さな手鍋を持っていた。香りから察するに、卵がゆだろうか。そういえば気絶する寸前までお腹が空いていたわけだし、ありがたいタイミングで持ってきてくれたようだ。
「あの……。いや、体調大丈夫?」
「ああ。おかげさまで」
幸い、吐き気とか頭痛とかいったものも無い。客観的なデータが無いから何ともだが、おそらく熱も無いだろう。そう言った意味では、問題が無いと言える気はしたのだが。
「とても大丈夫そうには思えないんだけど」
しかし……家族にはやはり見透かされてしまうのか。
「気のせいだろ」
そうは言ったもの、病状とは別で腑に落ちないことはかなり多い。
さっきの突然倒れたこともそうだし、なぜちょっと寝ただけで体調が劇的に戻ったのかも疑問の一つだ。それにこれは秋奈にとって関係無いこととはいえ、昨日の1件も地味に頭の痛い話だ。ただそんなこと、秋奈に言うにも変な話だ。そんなわけで何事も無かったという体で話を進めることにした。
「……まあ本当に元気なら、それはそれでいいや。でもね兄ちゃん、さっきまで38度の熱があったのよ?」
「38度?」
「朝、倒れてるのを見つけた時の話だけどね。正確な値は覚えてないけど、なんかうわごとも言っていたしすごい苦しそうでさ……」
その言葉で、胸元に落ちていた濡れタオルに目が行く。掴んでみると、確かに濡れタオルがほのかに温かい。濡れタオルがここまで温まるだなんて相当な高熱を出していたのだろう。自覚症状はあまり無いのだけど、倒れるのも納得いく体温だ。
ただ、現時点ではそんなに熱が高そうなわけでもなくてむしろその……。
「お腹空いたの?」
「ああ」
先ほどから美味しそうな匂いを出す、土鍋の中のブツに思わずお腹が鳴る。随分と現金な身体である。
「気持ちは分かるけど、その前に体温だよ。さっき寝かせつけた時は38度あったの。今何度あるか、見て良い?」
そう言われ、パジャマのボタンを外される。そしてすぐに、わきの部位に体温計が入れられる。妹とはいえ、こういうことをされるというのは何だか複雑な気分だ。
恥ずかしいというと自意識過剰な気もするが、さすがに僕もこいつも中学生。異性に顔を近づけられて、胸元のボタンを外されて体温を見られるというのは、それが性的なことで無いと分かっていても妙な罪悪感があるのである。
と、罪悪感やよこしまな考えが頭の中でモヤモヤしていると。
「てかさ兄ちゃん!」
「なっ……何だよ」
いきなり妹に声を掛けられ、驚いてしまう。まさかだけど、一瞬でも感じた罪悪感というか、性的な内容を勘付かれたとかだろうか。しかもそれを妹に突かれるというのは、なかなか気まずいというか。
「あ、いやさ……その……」
「すまん、今のは出来心というかその驚いて一瞬考えただけで……」
「考えた? いや、そうじゃなくてさ……」
秋奈は声を震わせながら言葉を紡ぐ。そしてそれは、僕が思っていたどのような言葉よりも衝撃的な言葉だとは……。
「なんで兄ちゃんの胸……ふくらんでいるの?」
思わなかったのである。
◇
「膨らんでいる? 胸が? お前のがだろ?」
何を言っているんだ、と内心思う。下手をしたら、こんなのセクハラ発言でしか無いからだ。
とはいえ、なぜ僕の胸が膨らんでいるというのだ。逆ならば分かる。秋奈だって一応中学1年生。それなりに女性らしく成長してもおかしくは無い年頃だ。僕の胸が膨らむよりもよっぽど妥当なことだとは思うのだが、彼女の言うことはどうも僕の聞き違いでは無かったようで。
「違う、兄ちゃんのが……」
「馬鹿を言うな。お前のほうが熱を出して……」
そう言いながら自身の胸をつかむ。だが確かに、秋奈の言葉は嘘では無かったようで……実際に触ったら決して大きいわけでは無いのだろうけどしっかりとした弾力をもつ何かがそこにはあるわけで。
「いやいや待て待て!」
パニックのあまり慌てて何度も胸を揉む。周囲から見ればきっとさぞ滑稽にな姿として映っていることだろう。だが当人としてはそんな状況では無くて、慌てて布団から起き上がる。だが、その行動がますます身体に起った不可思議な状況を一層目立たせることになる。
「兄ちゃん、その……胸だけじゃない。髪も明らかに長い。肩にかかってる。……胸も出てるけど」
「待て待て、意味分からねえってば!」
あまりに理解不能な現象に、視界がクラクラしてくる。まさかとは思い、パジャマ越しではあるが自分の局部をまさぐってみる。
「ちょ、何をしているの!?」
「くっそ、やっぱりかッ!」
秋奈の制止を無視して何度もまさぐる。でも、結果は同じ。僕の下半身にあった大切なモノは無残にも消え去っており、おまけに髪も心なしか長くなっている。胸元も心なしか膨らんでいる。非現実にも程があるけれれど……どうやら僕は性別が変わってしまって。
女の子になってしまったようだ。
「兄ちゃん、もしかしてだけど……」
声を震わせながら、秋奈は尋ねてくる。おそらくだが、秋奈の言いたい事と僕の考えは一致しているだろう。あまりに訳が分からない出来事に、不意に涙が流れてきた。だが、兄として伝えないといけない。
「秋奈。……驚かずに聞いてくれ」
「うん」
「僕は、どうやら女の子になったらしい……」
読んでいただきありがとうございました。
次回以後、第13話までは毎週水曜日及び日曜日の22時に更新いたします。