17.「妹は甘えん坊」
6月に入り、いよいよジメジメと雨に悩まされるこの時期。
僕が住んでいるこの街も、梅雨という嫌な呪縛から逃れることは出来ず……。
「はぁ、毎日毎日こう雨だとさすがに滅入るわね」
「仕方ないよ。一ヶ月の辛抱と思えば」
一緒に帰っている眞子と結衣からは、梅雨に対するブーイングが出ていた。
まあ、その気持ちはわからんでもないのだ。実際、ジメジメとしているだけで気分が悪いというのに、おまけに洗濯物は乾かないし食べ物はすぐカビるし。
まあ後者については主婦ならではのお悩みであって、普通の学生には関係ないところだとは思うけども。
「一ヶ月!? ちょっと長すぎない? 傘で手も塞がるし、ホントろくでもないよ」
それでもまあ不便ってことは主婦だろうが学生だろうが関係ない。そんなわけで、今日も眞子の毒舌が冴えていた。
「相変わらず眞子の毒舌がハンパないね」
つい苦笑いしながら相槌を打つものの。
「何よ、あんたはこのジメジメが平気なわけ?」
眞子はそうやって驚いたような呆れたような表情で尋ねてきたのだ。
「いやまあ平気じゃないよ? そりゃたまには晴れてくれないと家事をしてる側からすれば困ってしまうけど……」
しかしそうはいっても。
「でもさ、紫陽花とかきれいだし傘を指して歩く人々を見るとなんか季節を感じていいなって思わない?」
お濠沿いに咲く紫陽花を指さしながらそう言う。別にそんな風流な人間だとはわたしも思ってないけど、たまにはこういうのも良いじゃないか、って思えてきたのだ。
「それに、雨は降ってるけどこうやって3人で帰れるのはとっても楽しいし!」
そこに雨が降ってるかどうかなんて関係ない。眞子と委員長さんと当たり前のように下校できることが何だかとても楽しくて。
「やめてよ、そういうカッコつけた言葉。言われたわたしたちのほうが恥ずかしいじゃない」
「でも、こうやって何にでも素直なハルちゃん。私は好きよ?」
素直か。委員長さんの一言が、不意に頭に残った。
もしかしてわたしは、人生を楽しんでいるのだろうか。女の子になったことで、いろいろなしがらみから外れて、毎日が楽しくて。だからなんだろうか。
「そういえばあんた、変わったよね」
「えっ、そうかな?」
「なんかいつも笑ってて、そういうの昔は見なかったなって」
そっか。当たり前になっててちょっと忘れてたけど、こうやって毎日を楽しめるって考えればすてきなことなんだなってふと思ってしまった。
そしてそうこうしている間に。
「おっ、見えてきたね。今回の目的地」
「今日こそはプリンを手に入れられるかな?」
「雨だし大丈夫じゃないかな?」
今回の目的地である洋菓子店「アンデルセン」が見えてきた。
そう、今回ちょっと楽しそうなのは何も3人で帰っているからというわけでは無い。この町一番の名店と呼ばれるアンデルセンのプリンを、遂に買うことができるからである。
普段は、行列がずごくてあんまり行けなかったのだが……今日は雨も降ってるし人もそんなに居ないだろうからね。
「うん、楽しみ楽しみ」
「……春奈、さっきまでの笑顔はどこに行っちゃったの?」
「なんか可愛らしい笑顔から悪い笑顔になってるね」
「気のせいだよ。今日こそは、噂のプリンを……うん、今委員長さんわたしをディスらなかった?」
ともかく、そんなわけで店に入る前なのに既に財布のひもを緩めつつアンデルセンの行列に勇んで突撃したのである――。
◇
「勝ったぜ」
戦利品を片手に何とか無事帰宅。とはいえ雨の日なのに並んでいるとは……さすがは人気店のプリンである。
「ただいま」
そう言いながら、家に入る。買ったプリンを冷蔵庫に入れようと台所に向かうと、そこには秋奈がレシピ本を片手にご飯を作っていた。
「……おかえり」
「なんだよその元気のない反応は。というか秋奈聞いてよ! アンデルセンのプリンを買ってきたぜっ!」
「……そう。じゃあ、後でいただこうかな」
そう言いながらも、彼女は顔をこちらに向けず目の前の調理に集中していた。こういうところは、うちの母親そっくりである。何かをやり始めると、他のことには脇目も振らないのである。しかし、それでもプリンくらいは反応するはずなのに……って思いながら机の上に目を向けると。
――県北陸上競技大会女子1500mの部 第7位
――春奈秋奈へ、今晩仕事で帰れません。留守番よろしく。母より。
二つの紙が置いてあったのである。
片方は、秋奈がこの前話していた総体の結果なのだろう。7位という結果は、運動音痴の僕にすればとんでもなく立派な成果だ。何よりも、大きな賞状がそれだけの成果を物語っている。一方でもう一枚の紙は、本当に小さなメモ紙で、母さんが仕事で不在だということだけを淡々と伝えていた。
僕が女の子になってからも、同じことは何回かあったけど……直接言葉で伝えず書置きだけというのはこれが初めてだ。
「そっか、今日が総体の日だったんだ。雨大丈夫だった?」
「まあ、大丈夫だったけど」
「良かった。それにすごいじゃないか! 一桁だなんて」
「そうだね」
だけど、順位の割に秋奈の顔色はあまり良さそうではない。体調が悪い……というわけでは無いのだろうけど、なんか妙に不機嫌なように思えたのだ。
「喜ばないのか? あっ……」
僕だったら入賞しただけでも嬉しい。でも、言い始めてから気がついた。確かに第7位という成果は立派なんだけど、上位大会である県大会へは標準記録というものを割るか順位が3番以内でないといけない。要するに、秋奈は入賞こそしたものの、上位大会への出場権を逃したという事実に気づいてしまったのである。
「別に。走っていたらこの結果が出ただけだから」
「そっか。……いやその、県大会行けなかったのは」
「それもあんま気にしてない。あたしガチ勢じゃないし、それで行けちゃったらそれこそ周りの人たちに悪いし」
だとしたら、どうしてそこまで機嫌が悪くなるというのだ。大会でしっかりとした成果を残して、大きな賞状までもらってきたというのに。少なくとも運動音痴の僕にとっては、この上ない名誉だと思うのに。……そう思っていた。だけども。
「姉ちゃんは。お母さんがこうやってたびたび家を空けること、どう思う?」
秋奈は、小さなメモ紙に目を向ける。そこで分かった。彼女の心を動かしたのは、大きな賞状では無く小さなメモ紙に書かれた事柄だったと言うことに。
「……お仕事だもの、仕方ないとしか言えないかなあ」
「……そうだよね。母さんが頑張ってくれてるから、あたしたちは今こうしてご飯を食べていける。それは分かってる。でも、他の子たちはみんな親が応援に来て……。でも我が家には、それがないわけでさ……。あたしのワガママだけど、それって不公平じゃないかなって」
その一言で、僕は分かった。秋奈の怒っている原因というか、不機嫌な理由が。
秋奈にとって大会の結果とか名誉とかは、正直どうでもいいのだ。秋奈が本当に欲しかったのは、たぶん母さんの応援や家族の支え。ただ、それだけだったのかもしれない。思い返せば、今朝も秋奈は朝早くから台所で何かを作っていた。僕は、今日は秋奈が当番だったくらいの認識だったけど……たぶん自分のお弁当を作っていただけなんだろうって。
もちろん、僕も秋奈も母さんがこうやってお仕事に忙殺されていることはしっかりと理解している。父さんが居ない、母子家庭である我が家ではこうしないと生活が出来ない。というよりも、母さんが頑張ってくれているから住むところにも食べるものにも、着るものにだって困っていないわけで。だからそこに、一時の感情を挟んでも仕方ないことは誰よりも姉妹揃って理解しているつもり。
でも、それでも秋奈が周りの子をうらやむ気持ちは分からないわけでは無い。自分の晴れの舞台を親に見て欲しいと思うのは、子どもとして当然の考えじゃないか。
「それは、ワガママじゃないよ。当たり前の気持ちだよ」
「……ありがとう。なんか、姉ちゃんに愚痴っても仕方ない話だよね。ごめん、すぐに夕飯の支度をするからさ」
それなのに僕は、こいつの気持ちを汲んでやれなかった。秋奈は、何事も無かったかのように夕飯の支度に戻っていく。中学1年生のわりにずいぶんと出来ている僕の妹。でも、まだまだ甘えたい盛りなはずなのに、こうやって我慢ばかりさせて……それなのにどうして僕はこいつの兄貴だと言えるんだろう?
そんな自分が悔しくて、許せなくて……。
「じゃあ、今日は秋奈のお祝い会をしないと」
それが正解なのかは分からない。でも、考える前にそう口に出していた。それで秋奈の気持ちが少しでも満たされるならアリかなって思って。
「別にいいよ。気を遣わないでも」
「気を遣ってるんじゃないよ。僕がやりたいんだよ! それとも、兄ちゃんじゃ役不足か?」
少なくとも、僕は秋奈の兄だ。たった一年しか長生きしてないけど、妹のことを励まして支えてあげるのだって立派な兄の務めじゃないだろうか。性別が変わって、考え方もちょっとずつ変わってるけどそこだけは絶対に考えを改めたくはない。
なんか、上手くないようなやり方だとは思ってる。でも、引き出しも少なければ人と話すのも得意じゃない僕には――こうするしかできないんだ。でも……。
「姉ちゃん……へたっぴだよ」
包丁の音が止まる。心なしか、彼女の口は鼻声になってるようだった。
「ごめん、玉ねぎが目に染みたみたい。ちょっと鍋の番をお願い」
そう言って、秋奈は洗面台へと駆けこんでいった。まな板を見ると、そこに玉ねぎは乗っていない。そこで分かった。それは、秋奈の嘘だってことに。
全く本当に、誰に似てこう無器用になったのか。素直になればいいのに。でも、それで秋奈が少しでも明るくなれるならそれは兄としての本望だ。なんて、兄性というか父性本能みたいなものを感じるのであった。
◇
いただきます、その言葉と共に二人きりのお夕飯が始まった。メニューは、和洋折衷というよりは少し洋風寄り。僕が当番になるとどうしても和食ばかりなので、秋奈が洋食寄りにしてくれると飽きがこなくて嬉しいところだ。
「うん、おいしい」
「ありがとう」
たった二人だけの静かな食卓。だけど、不思議とさみしさは感じなかった。それはたぶん、いつも以上に秋奈との会話も思いのほか弾んだからだ。
やっぱり秋奈も、この大会で思うところはあったらしくて一旦口を開くと止めどなく話があふれ出してきた。僕もそれにいちいちうなずいては、言葉を返す。傍から見れば淡々としたやり取りでも、そのやり取りが何となく心を満たしていくようだったのである。
ご飯を食べ終えると、いよいよお待ちかね。アンデルセンのプリンである。
「それじゃ、お待ちかねのおやつタイムだ」
「おやつ……なのかなぁ?」
「いいじゃんそれくらい」
そんなことを言いながら、秋奈が箱を開ける。最初は無関心を装っていたくせに、いざ開けるとなるとかなり無邪気だ。やっぱり、ホントは嬉しかったんじゃないか。なかなか素直じゃない妹に思わず苦笑いしつつ、パッケージを開けてプリンをつつく。
なるほど、これは……。
「口の中でとろけるって、ホントだったんだねぇ」
「姉ちゃんこれやばいって! 美味しいなんてもんじゃないよ」
姉妹揃って思わず歓声を上げる。確かに、これはおいしい。プッチンプリンと違って、卵黄の凝固作用だけで固まったプリンは舌の上で転がすだけでまるで雪のように溶けてしまう。そして溶けたと同時にバニラの甘い香りが口の中に広がっていくのだ。これは、行列が出来る理由が分かる。
「姉ちゃん、顔までとろけてるよ」
「良いじゃないか。今は女の子なんだし、女の子ならスイーツの一つ位食べても何もおかしくないだろ?」
別に男でもスイーツを食べることは変じゃないと個人的には思うけど。ただ、世間様はまだまだそういうスイーツ男子には風当たりが強いみたいで、やっぱり大っぴらに食べることは難しい。その点今は女の子だからこんなことしたって何も問題ない。だったら、今のうちにどんどん食べておかないと。
そういう意味での言葉のつもりだった。しかしそれに対する秋奈の言葉は、ある意味で女の子になった僕に対する核心を突いたようなものだった。
「じゃあさ、姉ちゃんは……女の子になって良かったの?」
「はぁ!?」
それは、青天の霹靂と言うべき言葉だった。一つは、こうやって呆けた顔でプリンを食べているときに尋ねる様な質問ではないから。もう一つは、あまりにも回答が困難な問いかけだったから。
もちろん、無視を決め込むわけにもいかないから何かしらは答えないといけない、のだけど。
「それはまあ……難しいよね。一概に良い、悪いとは言い切れないんじゃないかな?」
微妙に歯切れの悪い言葉を返す。でも、こういうことを言うのはどうかと思うのだけど――正直に言うと今のほうが居心地は圧倒的に良い。
だって、男の子の時よりも学校生活は明らかに上手く行っている。友達も居場所も出来た。身体的に、周りから遅れるようなことだって無い。もちろん、まだまだ服装とか身だしなみとかで苦労をすることも多いけど、それを差し引いたってどう考えてもこっちのほうが良いに決まっているではないか。今さら男に戻るだなんて、冗談ではない。もうあんな過酷な生活には戻りたくないに決まっている。
だけどそんなこと、少なくとも妹に言えるわけが無い。家族に言えるわけが無いじゃないか。
母さんも秋奈も、僕のことをきっと男として、兄として接しているはずだ。確かに性別は変わったかもだけど、それでも人格としては変わっていない……二人は絶対そう考えているに違いない。それなのに今さら女になりたいだなんてどの面下げて言えるのか。秋奈の教育にだって良くないに決まってる。
だから……。
「まあ、メリットデメリットそれぞれあるけど、元の身体に戻るまでは頑張って乗り切るしかないね」
そうやって、当たり障りのない嘘で本音を包み隠そうとした。誰も傷付けないために、それなのに……。
「ふーん、そっか。でもあたしは、良かったと思う」
不意の一言が、僕の心を揺らしてしまう。僕には分からない。なんで僕が女の子になったことが良かったと秋奈が言い出すのかが。
「待て待て。原因不明とはいえ急に女の子になったんだぞ? それまで兄だった人が姉になったんだぞ? ある意味やってることはオカマだぞ? 前も話したかもだけど……本来の僕は男であって気持ち悪い存在になってるんだぞ?」
オカマを全否定するわけでも無いし、LGBTの人を否定するわけでも無いけど。でも、世間様にとっての僕は間違いなくイレギュラーだ。秋奈だって混乱しているはずなのに、なんで彼女はそんなに優しくなれるんだろうか。混乱で頭がいっぱいになる。だけど、それに対する彼女の返答は……。
「もう、姉ちゃんはホンっとに頭固いね。石あたまだよっ! だいたい前も言ったけどさ、そんなことあたしたちは気にしてないって!」
僕は目を見張った。あっさり肯定されたという事実に、頭の理解が追い付かない。だけど、秋奈はそんな僕のことを気にせずに続ける。
「そりゃ最初は驚いたよ? でもね、女の子になった姉ちゃんはあたしから見てもすごく生き生きとしてるの。口ではおしゃれは面倒とか化粧はだるいとか色々言ってるけど、毎日が楽しいことは十分に伝わってくる。ロボット人間だった兄ちゃんなんかよりも、ずっと人として魅力的だよ」
「……嘘でしょ?」
「うそ言ってどうするのさ! それに、兄ちゃんが姉ちゃんになってくれたことであたし達の距離が少し近づいた気がするの――」
そう言い、彼女は僕の口元についていたであろうプリンを指でからめとって続けた。
「ほらね。こんなこと、兄ちゃんだったらあたしもさすがに出来ないよ」
――間接キス、って呼ばれるものだ。それを理解して顔が赤くなる。一方で秋奈は何事も無いように微笑む。こういう時だけは、姉妹立場が逆転するらしい。でも、彼女の言い分も分からんでは無かった。
確かに、この一ヶ月で秋奈との距離はぐっと近づいた。デパートでの出来事もそうだし、毎日髪を結んでくれたことだって僕が兄だったら絶対にできなかった。今日の出来事だって、僕が男の子だったら秋奈の気持ちに寄り添えていたかもわからない。そもそも気づいてすらいないだろうし。
「確かに、僕たちの仲は縮まったかもね」
「でしょ? だから、あたしとしては嬉しい。昔に戻れたようで」
「昔ってそれは……僕たちが子供だったからその垣根が無かっただけで」
「じゃあ今だってその垣根は無くなったままだよ?」
「それは、性別って意味で?」
認めたくは無いけど、やっぱり垣根というものは気づかないうちに生まれてしまう。それは、例え血を分けた兄妹であっても同じ話。例え同じ性別――秋奈が男で弟だったとしても成長に連れて距離は生まれてしまうだろうし、まして異性なんだからそれは当然の話で。
だから、今回のは本当に逆説的なお話。
「そうかもね。でもまあ何にせよ、姉ちゃんは十分女の子らしくなったよ。あたしも驚くほどに」
運命の皮肉だけど、こうじゃないと二人の仲は縮まらなかったんだと思う。
「そりゃまあ、一ヶ月も気を張ってればそうなるよ」
でもね、その皮肉というものが思いもよらないことに働いてしまうこともままあって。
「かもね。だからさ……」
「これからも、ずっとずっと。あたしの大好きな姉ちゃんで居てよ」
「……えっ」
その言葉の意味を理解した瞬間、僕の思考は固まってしまった。
読んでくださいましてありがとうございました。
安藤家の家庭事情ですが、母子家庭となっています。母親である佳奈、春奈秋奈姉妹の3人暮らしです。
ただ、金銭的な意味で生活が苦しいというわけではなく地方都市で暮らす上ではむしろ豊かなほうです。そのため、彼女たちは小さいながらも自前の一軒家に住んでいます。しかし父親不在で母親が一家の大黒柱である以上、姉妹が協力して夜の留守を守ることも多いのが実情です。




