12.「春奈の正体、眞子の気持ち」
「……入って」
「おじゃまします」
眞子に続いて、僕も玄関のドアをくぐる。
母さんが忙しいこともあって、子どもの頃から何度も面倒を見てもらった第二の実家のような建物。それが、僕の知ってるこの家だった。
「そこの階段があるでしょ。そこを上がって、コルクのボードを掛けている部屋がわたしの部屋よ。その中で適当に待っていて」
にも関わらず、眞子はそう指図する。まるで、初めてこの家に来た客人のように。
そう、今の僕は安藤春樹ではない。三春眞子の幼馴染みではないのだ。
僕にとっては、あいつは幼馴染み。でもあいつにとってはただの知り合い程度にしか過ぎない。だから、僕たちの中で共有されていたはずの大切な思い出も何かもが無かったことにされているのだ。それを見せられることが、何よりも胸が痛む。
指示に従い、部屋に入る。そこは、僕の知っている部屋と全く変わらない。机の上には、年頃らしくファッション誌や参考書がちょっと乱雑に積んではあるけどそれでもそこは僕にとっては行き慣れた空間だった。
「あれ?」
ふと机のすみっこをのぞく。そこには、1枚の写真が立てられていた。よく見るとそこには、僕たち兄妹と眞子の姿が。きっと、去年の夏祭りのときの写真なのだろう。
「……他人の部屋をあまりじろじろのぞかないでくれる?」
「あ、その……ごめん」
そうこうしているうちに、眞子が戻ってきていた。お盆に乗っているお茶をテーブルに置くと、彼女は上着とリボンを外してハンガーに掛けながら切り出す。
「……面と向かって会うのはさっき以来だけど、こういう深い話は初めてね」
先ほどまでは、作っていたと言えどまだ笑顔も残っていた。だが、今の彼女の話し方にそんな丸さはない。
「先週の金曜日以来だよ」
「……そうね。ほんと、とんでも無いほら吹きよ」
そう言い、彼女は僕に座るように指示を出す。彼女はベッドに脚を組んで、僕は座布団の上にあぐらをかいて座る。先ほどまでの泣き腫らしていた顔は、すでにいつもの顔になっていた。だが、態度がいつになく大きい。まるで虚勢を張っているかのように。
「……どうかな。調子のほうは」
お互い、切り出し辛い話題ではある。だが、話の主導権を掴もうにも上手く言葉が出ない。ありふれたチープな質問が、僕の口から飛び出た。
「なぜ、あなたに聞かれなくちゃいけないの?」
「そうね、重要な会話をする前の緊張ほぐしのようなものか」
「そう。じゃあ素直に、『最低』の一言よ」
「でしょうね」
彼女の歯に衣着せない物言い。いや、歯に衣着せないどころか攻撃的な意志さえ感じ取られる苛烈な言葉だった。当然の話だ。彼女はそれだけ傷ついている。目には目を、歯には歯を。人を傷つけたものには、報いを受けるしかない。
僕は、それを認識すると覚悟を決めて正体を言うことを決心した。
「結論から言うね。わたしは、いや――」
一呼吸を置いてゆっくりと一字一句確実に言う。
眞子のことが怖いわけでは無かった。
だけど、僕が言うことがいかに残酷なことかを意識した瞬間、心臓がドクドクと音を立てる。全身に熱い血が回る。髪の毛の先から足のつま先までピンっと張った感覚に襲われる。それでも、逃げ出すことは許されない。
「僕の正体は――安藤春樹だ」
その声は同心円状に空気を震わせる。僕を中心として。
「ふーん。そう」
だが眞子は、僕の爆弾発言のような言葉に何の反応も返さない。目さえも動かないまま、静かに問いかけてきた。
「でも、あなたは女の子にしか見えないわよ? わたしが知ってる彼は、男の子だったはずなんだけど」
静かに問いかける、という行動はある意味恐ろしい。興奮といった感情が入っていない分、彼女の怒りや悲しみが直接僕の心を貫くからだ。
「確かに、その通りだ。でもたとえ、性別が変わっても僕は僕。安藤春樹だ」
「根拠は?」
その言葉に、思わず何も言えなくなる。理路整然、論理的ではない。こんなところで意趣返しされるだなんて全く想像していなかったのである。それに実際に、僕が安藤春樹だったことを示す、明確な根拠はよく考えてみれば全く存在しない。
だからこの告白は、何だか中途半端なもののように思えてくる。
「おかしいじゃない。散々秋奈ちゃんのいとこだって言っておいて。ずいぶんとふざけた話じゃない」
確かにそうだ。だとしたら、僕の存在を証明することが出来る人をここに呼ぶしかない。
「だったら、僕が女になった経緯を秋奈を通して説明しようか。秋奈のほうが客観的に説明できるはずだぞ?」
この時僕は、何かを勘違いしていた。この状況を、ただ僕の正体を明かすためだけの場だと本気で思い込んでいたってことに。
「そんなとこまで人様を当てにするだなんて、ますますふざけているじゃない!」
そう。自身の正体を明かすことしか考えていなかったがゆえに、大切な何かを見落としていた。だからこそ、僕は眞子の逆鱗に触れてしまったのである。そして彼女は、無言で立ち上がると静かに僕へと近づく。
「嘘つき……」
目が真開かれる。胸元を掴まれたと同時に、頬に弾けるような衝撃が飛んだ。秋奈のそれなんかとは比較にならないその一撃。僕の視界は一瞬暗くなり、その直後世界が崩れる様な視界の歪みを感じた。乾いた衝撃音が轟き、肩と腰が床にたたきつけられた。
「あなたは、最低の嘘つきよ!」
眞子の熱い雫が、僕の頬に掛かる。彼女の慟哭にも似た言葉が、僕の全身を駆け抜けた。
覚悟を決めて真実を伝えたはずなのに、いざ言われてみるとかなりきつい言葉だ。僕だって好きで言ったわけじゃない。眞子を守ろうと、必死になって言ったものだったのに。それなのに……あまりの仕打ちだ。
「だいたいその服装は何? 春樹が転校したってどういうこと? あたしに納得いく説明が何一つされて無いじゃない!」
……いや違う。あの嘘は、実は弱い己を守るための言葉だったんだ。眞子はそれを見抜いていた。だからこそ、このように烈火のごとく僕に怒っているのか。
「今さら別人気取って過去のことを無かったことにして、あわよくば自分そのものさえ消し去ろうとして――本ッ当にふざけんなっ!」
いろいろな感情が混じって、どうにも出来ない。それなのに眞子はさらに僕の上に馬乗りになって思いを奔流させ続ける。
「だいたいあなたが春樹ってことくらい、最初から気づいてたよ!」
眞子の口から驚くべき言葉が放たれる。
「待て、それはどういうことだ?」
驚きのあまり声を上げるが、眞子の声が僕に声を上げさせることを許さなかった。僕に考えの猶予を与えなかった。
「気づかないわけが無いじゃない! だって、正体を隠してるくせに言葉遣いだってクセだって何一つ直せてない! 女を演じてるはずなのに、妙なところで男らしい! 何より、秋奈ちゃんの前では兄らしく振舞っていたじゃない!」
バカ、バカ、バカ――。重たい言葉と重い一撃が交互に僕の身体に叩きつけられる。かつて公園で取った立場が変わっていた。でも、今の僕にやり返せるわけもなく。
「それなのに、なんで安藤春樹の存在を無理やり無かったことにして、慣れない女言葉を使って、あげく自分の正体を偽ってあたしの前に出てきて。わたし言ったよね? 『自分を大切にして!』って。なのに……本当にふざけるなッ!」
そうだよね。眞子にとってはそう思うはずだ。自分の言葉を蔑ろにされた上に、嘘をつかれて――怒るなという方が無理な話だ。だけど、それを言うならこっちだって言いたいことはある。
「……正体を偽ったことは謝る。嘘をついたことも謝るよ。だけどさ……」
そう言い、彼女が振り下ろそうとした手首をつかんで続けた。
「……『自分を大切に』っていう部分についてはお前のほうもだ! そもそも僕がこんな身体になったのだって、僕の責任であってお前のせいなんかじゃないはずだ。なのに、勝手にあたしのせいだなんて追い詰めて、自分に枷を掛けてみたりクラスのバカどもに抗議してみたり。誰がいつ頼んだってんだよッ! それで勝手に傷ついて迷惑なんだよ!」
あいつは、背負わないで良いものまで背負って勝手に苦しんでいた。でもそれは、ある意味であいつのエゴだ。有難迷惑なんだよ。そんなの見せられるこっちの方が、しんどいのだ。
「……分かってるさ。お互い様だってことくらい。でもさ、自分が言った言葉は守れよ」
そう、言い放つ。いつの間にか、僕が掴んだその手首から力は抜けていた。彼女の瞳には、光が戻ってきていた。彼女の髪が、頬に掛かる。そして、僕の瞳に彼女の涙が落ちる。
その直後、彼女は力が抜けたかのように僕の元へと身体を預けてきたのだ。思わず上半身だけ起こして、彼女を抱き寄せて受け止める。彼女の堰が決壊するのは、すぐのことだった。
「うわぁああああ……」
眞子の顔が、僕の胸元に入る。胸部に暖かい感触を覚えた。そしてそれと同時に、彼女は堰を切らしたように泣き始めた。
「――だったらもう、あたしに嘘をつくな! 二度とあたしのことを傷つけるな!」
「……あぁ。本当に、ごめんな」
抱き寄せる。幼いころ、秋奈にやっていたことと同じことを眞子にやる。どうしてそういう行動をとるのかは、今でも理屈で説明することは出来ない。でも、こうして人の温もりを感じて伝えることしか、僕には出来ないのだ。傷ついた心を癒せるような、耳ざわりの良い言葉なんか思いつかないのだから。
「……そうだよね、それでこそあんたよ。こんなこと、春樹しかしないもの。春樹にしかさせないもの」
「そうか」
そう言い、彼女の背中をさする。彼女が落ち着くには、それからもう少し時間が掛ったのである。
◇
よっぽど追い詰められていたのだろう。彼女はそれから1時間は泣き続けていた。分かっている。全て僕のつまらない自己嫌悪から始まった話だ。眞子を追い詰めたものとしてこれくらいの償いは当然のことなのかもしれない。
「うん、もう大丈夫」
そして彼女は僕の身体から離れた。顔色は少し紅潮していたが、すでに涙も止まっていた。ひとまずは一件落着と言うところだろう。
「納得したか?」
「えぇ、あなたがそんな身体になってしまったことまで含めて」
「良かった」
実はこの間にも、僕が女の子になった経緯は説明していた。泣きながらでも一発で理解してくれるあたり、本当に頭がいいし賢い幼馴染みだとは思う。
そんなわけで、僕としても安心して部屋の時計を見る。ところが、時刻は既に7時を回っていた。外もいつの間にか真っ暗である。
「それはそうと、日が暮れてるじゃない。家まで送る? もともとはわたしのせいでもあるし」
「ありがとう。でも、一人で大丈夫だよ」
こういう律儀なところが、眞子の眞子らしいところである。というか、本質的に似た者同士なのだろう。だから、こんなショッキングな出来事が起こっても別れずに仲直り出来たのだろうけど。
「大丈夫じゃないってば。今どき物騒な世の中なんだし、あなただって女の子なんだから」
「中身は、男だけどな」
「そうじゃなくてね。大体あんた、見た目だけなら本当にお人形さんなのよ」
そう言うと、眞子は笑顔を見せた。その笑顔が、少しだけ色っぽくて、でもどこか愛らしいものだった。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
せっかくの好意だ。わずか500メートルくらいではあるが、せっかくだし送ってもらおうか。そんなわけで、靴を履いてお互い並んで玄関を出る。制服だから当然だけど、お互いに同じ服というのがなんだか不思議な感覚だ。
一緒に帰るって出来事は小学生からしょっちゅうしていたはずなのにである。
「なんだか、不思議な感じだな」
「確かに、まさか大きくなっても同じ感じで帰るなんてね」
「本当に。いや、男の子最後の日以来だから実はそんなに昔でも無かったり」
「確かにね」
それを聞くと、眞子がクスりと笑う。
「でも、春樹は春樹だからね」
「そうだぞ。僕は僕だ」
ぶっきらぼうな口調で返す。別に怒っているわけではないが、何となくそれを言うのが気恥ずかしいのだ。恥ずかしさをごまかすには、この言い方が一番だ。そんなことを言っていると、直に我が家が見えてきた。家の門にたどり着くと、僕は眞子のほうを向く。
「じゃあ、気を付けて帰るんだぞ」
僕はそう言うと踵を返そうとした。その瞬間――。
「ちょっと待って」
再び眞子の方を振り返る。眞子は、さっきまでと違って何だかバツの悪そうな顔をしている。どうしたのだろうか。まさかここまで送っておいて夜道が怖いとか言い出すのだろうか。それはそれで可愛いところがあるとは男心に思うのだが。
だけど……。
「改めて……今日はごめんなさい」
その言葉と共に、眞子は頭を下げていた。それも、いつもとは違い、深々とである。確かにさっきの喧嘩は久しぶりのガチのもの。それもお互い中学生と言うこともあってかなりのパワーだった。確かに今も、叩かれた頬がちょっとだけ痛い。僕はそれほど気にしてはいないけど、眞子は相当気にしていたのか。
「さっきのこと?」
「それもあるんだけど、ここ最近ずっと。それにあなたのことを信じてあげれなかったわけだし」
「あーっと、それはだなぁ」
何とも難しいところだ。確かに、眞子の言い分もごもっともだけど、僕だってカッとして酷い言葉を吐いたのだから。
「別に、気にしていないから。それよりも僕も……悪かった」
僕も頭を下げた。僕だって悪いのだから……。
「いえいえ。わたしも気にしないよ」
眞子はそう言うと笑ってみせた。久しぶり……といっても一週間ぶりの幼馴染みの素直な笑顔。それが、なぜか嬉しく感じた。
「じゃあ、お相子だ」
「そうみたいね。あと、念のため聞いておくけどさ明日からも女の子で通うの? わたしに正体がバレたわけだけど」
前言撤回。一番突かれたくないことをずけずけと言われて思わずムッとする。もちろん、眞子の言い分は正論なのだけど……正直正体の件とかは今でもあまり考えたくないことだ。眞子が積極的に正体を吹聴することはまずあり得ないけど、一般人の眞子でも正体を見抜くと言うことは、何かしらで正体が判明するリスクは十二分に考えられると思う。
ただそれでも。
「うっさいなぁ、そうせざるを得ないのだから仕方ないだろ?」
現に僕は女の子になってしまって、今さら男には戻れない状態だ。例え正体がばれたとしても、こうするしか道は残されていないのである。
「そっか、難儀なものね」
一方で眞子はそんな状況の僕を面白おかしく笑う。さっきまではあんなに怒っていたくせに、真実を知った瞬間これとは随分と気まぐれなものである。
「ちょっと楽しんでるだろ?」
「うん」
しかも認めやがったよ素直に。現に悪い笑顔をしているし。これは……殴りたいこの笑顔、である。
「けど……まあ女の子だってバレて厄介なことになるのはわたしも嫌だしなぁ。よし、じゃあ学校内ではわたしが女の子教育をしてあげる! だから、悩んだら何でもわたしに相談なさい。いいね?」
「待て待て、なぜそうなる!?」
思わず大きな声で尋ねてしまう。しかし眞子自身は決定事項だと言わんばかりにあっさりと踵を返す。僕の非難の声なんかまともに耳に入っていないらしい。
「……勝手なんだから」
思わず、独り言つ。ところが彼女は、それを聞いたか聞かなかったか玄関から数メートル離れて再びこちらを向いたのだ。
「春奈、今から言うことは絶対忘れちゃダメよ。……もう二度と、自分でなんでも背負いこまないこと」
ここに味方が居るんだから、そう言い残して彼女は再び踵を返していった。全く、こっちは一言もそんなこと頼んでいないというのに、これじゃ押しつけである。でも、今に限ってはその押しつけが何だか嬉しかった。
僕の全てを受け止めてくれる、親友の存在を確認できたからなのかもしれない。
「これは、……明日からがちょっと楽しみかもね」
心にも無いことだ。そう思っていたくせに、思わずそんな言葉があふれてしまう。きっとそういうところも、あいつに当てられたのかもしれない……そんなことを心の中で呟きながら家の扉を開けたのだった。
読んでいただきありがとうございました。
前回に引き続き、春奈の正体についてのお話を2回にわたってお送りしました。この回を以って、主人公春奈とヒロイン眞子の確執を描いた話は一応の目途が立ったと考えています。ただ、この回で二人の関係性が完全に元の状態に戻ったかと言うとそういうわけでも無くて……。
というわけで、第一章はここまで。次章からは、春奈が学校生活で奮闘する様子を描いていきます。