110.「彼女の心彼氏知らず」
――はあ……イライラする。
それが、今の俺の心境を表すにはもっとも適した言葉だと思う。
なんでこんなことになったのか。原因は、俺の彼女――いや、元彼女というのは正解か。
――あいつめ、引っかきまわすだけ引っかきまわしやがって。
普段の俺は比較的怒らないほうだとは思うが、それでも今日の春奈の行動は――目に余るものがあった。
なぜなら春奈は、よりによってスカウトが視察に来ている練習試合の場でわざわざ俺の名前を何度も叫んでああしろこうしろってプレーに指図してきたのだ。
もちろん普段でも十分にそれは腹の立つ行動だけど、それでもいつもなら笑って流すことができたとは思う。
けど、スカウトが来ているその場でのあの空気の読めない行動。途中で無理やりにでもあいつを追い出して、そこから気持ちを切り替えたこともあって試合自体は何とか勝てたものの、監督にはプレーに感情が出ていたとくどくど説教を受けてしまうし――正直、怒りたいのはこっちだと言いたいくらいだった。
ついでに言えば、他の部員に散々冷やかされたというのもあるのだが……。
とにかく一つ言えるのは、もう散々な気分ってこと。明日もミーティングがあるし、今日のところはシャワーでも浴びてさっさと寝ようと家へと急ぐのだが。
「あら、俊吾おかえり」
「ただいま。悪いけど今日はもうシャワー浴びて寝るわ」
家に帰るなり、母ちゃんとばったりと顔を合わせてしまう。まだ営業時間じゃなかったのかなって思ったんだが。
「あら、具合悪いの?」
「まあそんなとこだ」
「そう? 困ったわね……」
まあ、営業時間でも家と言えば家なんだからいてもおかしくはないか。親父だって店が忙しくないときは、居間で休んでるし。なんて考えつつ、荷物を玄関にポイって置いて風呂場へ行こうとするが。
「困ったも何も、シャワーは浴びるからな?」
悪いけど頼み事は姉ちゃんに、と言おうとしたのだが。
「いやね、今――結衣ちゃんが来てるのよ」
「……えっ?」
なんでここに結衣が? って思ったけど、現に今と廊下を仕切るふすまから結衣がちょこんと顔をのぞかせているし。あぁ、本当に冗談でなく頭が痛くなってきた。
「そういうわけだから、結衣ちゃんの面倒を見てあげてね」
「はあああっ⁉」
◆
嫌なことって、どうやら本当に続くものらしい。
ほら、春奈の件でイライラが止まらなくてようやく家に戻って気を紛らわせられると思った矢先のこれなんだぜ? まったく、もう嫌になっちゃうよ。
かといって、さすがに幼馴染みをそんなにぞんざいな扱いをするわけもいかないしなぁ。
とにかく汗と砂でベトベトザラザラは勘弁なので、シャワーを浴びて改めて結衣へお茶を出した。できればさっさとお茶を飲んで今日は帰っていただきたいのだが。
「で、どうしたんだ? 宮川と喧嘩でもしたか?」
まあ、そんなことでうちにわざわざ来るとは思えないけどと思いつつ。
シャワーを浴びたおかげで、思考だけは異常にクリアになってるらしい。けど、なんで結衣が来たのかの理由は……全然分からなかった。
「それはあなたでしょ?」
「何のことだよ?」
なんで結衣が知ってるんだろうか、とは思ったが長話はイヤなのでそこはいったんスルーすることにした。
「来た理由は、そんな大したことじゃないわ。たまたまパンを買いに来たら、あなたのお母さんに上がっていったら? って言われたから」
あぁ、それはありそう。現に何回か宮川が同じ理由でうちに上がってるからな。結衣も……そもそも結衣自身がお店に来ることはあんまりないけど。家が遠いからな。それでも来てたら、何回か親が家に上げてたわ。……まったく、余計なことをしてくれたよ。親父も母ちゃんも。
けどそれはともかく彼女は続けざまに、今日の調子はどうだったか? と聞いてきたのだ。
「まあ、色々あって散々だった。評価を落としたかもな」
春奈とのうんぬんはいったん置いておくとしても、評価を落としたことは事実であろうからそれはそれなりにヘコんではいるつもり。というか、だからこそさっさと休んで気持ちを変えたいというのもあるんだけど。
けど女子って、こういうのに縁がないってのもあるんだろうな。
「まあまあ、たまにはそういうこともあるよ。まだ挽回の機会は山ほどあるでしょ?」
そう言って結衣は肩をたたく。
励まそうとしてるんだろう。それは――分かる。
けど今して欲しいことはそういうことじゃなくて。
「それに、あなたは何度も賞とってるんだからちょっとは自信を持たなきゃ」
そう言いながら、部屋に飾ってある賞状を指さして続ける。
確かにそれはそうなんだが。
「あのさ、励まそうとしてくれてることは分かる。けど今は、いったんその話はやめにしてくれ」
機嫌が悪いってことは分かってる。けどさ、帰れって言わないだけでもありがたく思ってほしい。いや、むしろ追い出したほうが良いのだろうか。
――どうせ女に、こんなこと分からねえよ。
それを言いたいくらいくらい、むしゃくしゃしてるのだから。
けどそんなことを全く分からないのか結衣は――さらなるとんでもない話題をぶち込んできたのだ。
「そうそう。そういえば来週ってバレンタインだっけ? 芦原ベーカリーではなんか出すの?」
別に他意は無いんだと思う。けど結衣は――たぶん頭は良いんだろうけど、人の気持ちを読むのは得意なんじゃないと思う。てかそうだから、今もこいつはここに居るわけで。
「それは親父か母ちゃんに聞いてくれ。俺は知らねえよ」
「なんか今日の俊ちゃん冷たくない? ……しかしバレンタインか」
「ハルちゃんは、どんなチョコを作るのかなぁ?」
それは、結衣にとっては何の気ない言葉だったんだと思う。
偶然にも、テレビではバレンタインの特集が組まれていて東京のデパートのチョコレートコーナーの様子が流されていた。だから、結衣にとっては本当に世間話。そんな……つもりだったんだろうけどさ。
「帰ってくれ」
「えっ?」
「帰れっ! 今すぐ」
俺はもう、我慢できなかった。テレビを消して、結衣を睨みつけながら続けた。
「えっ? ……そんな帰れって言うなら帰るけど、でもなんでいきなり怒るの?」
「なんでってお前、煽ってきてるのか?」
なんでお前は、俺よりも何十倍も頭が良いくせにそういうところが全然分からないんだよ。
「なんでお前は、よりによってついさっき彼女と別れた人間を前にそんな話題を出すんだよ!」
「……」
「なんで学年一の天才が。一つの情報からたくさんの情報を引き出せるお前が、人の気持ちには鈍感なんだよ!」
だからお前はずっと、宮川とうまく行かなかったんだろ? 宮川に合わせようと必死になってたけど、宮川の内心を全然わかってあげれねーから。放っておいて欲しいって、宮川の気持ちを全然考えてねーから。
まあ、宮川の件は今はどうでも良いけどさッ。
だというのに、結衣は全然帰ろうとしない。だったら俺がさっさと部屋に戻るまでだ。
だいだい、最初から俺は今日はもう休むって宣言してただろ? ……少しは、休ませてくれよ。
そう思いながらふすまに手を掛けたというのに。
「じゃあ一つ聞くけど」
「じゃあ逆に聞くけど、なんであなたは振られたの?」
一段と低い声で訊ねる彼女。思わず立ち止まって振り返るとそこには――いつもは見せない、怒りに満ちた結衣の姿があったのだ。
◆
結衣の表情を見る限り、下手にまくのもかえって逆効果かもしれないと思った。
ったく、なんでこんなときばっかり厄介な事態が立て続けに起こるんだよ。
「さあな。考え方の相違だろ」
振ったのは俺だ、と言いたかったが事態が泥沼化するのでそれを言うのはグッとこらえた。
そもそも俺は、事前に言ったはずだ。ここしばらくは、ちょっとサッカーを優先したいと。春奈だってそれを最初は理解していたはずだろ? なのにあいつは……。
「……正ちゃんから聞いてたそうだろうとはうすうす思ってたけどね」
なるほど、事情が分かった。
宮川め、情報を結衣に流してやがったな。ったく、余計なことをしくさるダチ公だ。
「事前に宮川から聞いてたんなら、俺に確認するまでもないだろ?」
そもそもなんで結衣が知る必要があるのだろうとは思うけどさ。
「まあ、ハルちゃんも悪いよ。なんで俊ちゃんが大切にしているサッカーの邪魔をしちゃうのかって意味で」
「ああ、そういうことだ。分かって納得しただろ? だから今日は帰ってくれ」
あいにく――今は人と話したくないんだよって言おうとしたさなかだった。
「でもだ、そこに至る経緯まで、俊ちゃんは考えたことある?」
彼女はさらに言葉を続けた。詰まることなく、まるでものすごい勢いで押し寄せる津波のように。
「ハルちゃんは、あえて口にはしなかったけどあなたのことを相当大切に思ってた。眞子ちゃんとか正ちゃんからも部分部分で聞いてたけど、そもそもあなたと付き合うにあたって相当悩んだみたいね。それだけに、春奈ちゃんは常に芦原へのコミュニケーションを欠かさなかった」
春奈自身が、恋愛下手を。
というよりも、人と関わることが苦手だったから。
それでも、お互いに楽しい時間を過ごせるように。過ごすにはどうすればいいか考えていたから――。
「でもあなたは、そのアプローチを、足蹴にしていたんだよ?」
それを証明するかのように、この前の風邪のこと。お正月のデートのこと。帰ろうと誘ったけど断ったこと。まるで春奈が言ってるかのように、彼女は俺に厳しい口調で責め立ててくるのだ。
「もういい。分かった」
確かに、俺にも落ち度はあった。
最初は、感情的になって春奈が全部悪いって思っていた。けど確かに、結衣の言葉を聞く限り……俺にも悪いところはあったよ。だからそこは、素直に反省。
けど、だからって。
「今さら俺に……何ができるんだよ」
もう別れて、あいつにとっての何でもない俺にそれを言われたところで、俺にはもう何もできないよ。そう、結論付けようとしたのに。
「何もあの場で、もう別れた……って。そこまで追い込んだのは誰――?」
そう言い、結衣は俺を下から覗き込むように見つめながら続けた。
「私は、いつだって正ちゃんと俊ちゃんの味方。幼馴染みだからさ、二人のためなら。でもね」
「それ以前に傷ついた女の子を、私は無視できない。親友であるハルちゃんを、見捨てることはできないよ」
――あなたは気づいてないけど、ハルちゃんはあなたと付き合うためにたくさんの可能性を犠牲にした。ハルちゃんを恋い慕う人を振ってまで、あんたと付き合うことにしたんだよ?
なんでそれを、今言うんだよ。
「そもそも春奈は好きな人なんか」
「居ない、って言うだろうね。というか、あの子自身気づいていないから。あの子の本心に」
「だったらなんでそれを言ってやらないんだよ」
「違うでしょ! 俊ちゃんさ、自分のことだけじゃなくてちょっとは付き合っているパートナーの気持ちを考えてあげてよ。それが、彼氏の務めじゃないの?」
それができないなら、ハルちゃんをこれ以上苦しめないでしょ。……言いたいことは、それだけ。
そう言い、今度こそ結衣は静かに帰っていった。
……んなこと言われても、俺にどうしろって言うんだよ。女はいつだって、勝手な生き物だ。
読んでいただき、ありがとうございました。
これまでずっと春奈の視点で話が進んでいたこともあり、破局にあたってはどうしても芦原が嫌な立ち回りに立たされていました。けど必ずしも彼が悪いかというと、芦原だって春奈に不満があってそれが爆発した結果ということが分かると思います。
二人は本当にこのまま、絶縁状態を続けてしまうことになるのでしょうか?
次回に続きます。