101.「安藤春奈という女」
「それと、安藤さんは今日もお休みです」
毎朝行われるホームルーム。その終わり際に放たれた担任の言葉に、クラスがどよめく。
「おいマジかよ。もう4日目だぞ?」
「安藤ちゃん大丈夫かなぁ」
「ちょっと心配よね……。私たちもお見舞いに行ったほうが良いのかなぁ?」
なんてったって春奈はクラスのアイドル。そんな彼女が、もうすでに3日も連続で休んでいるうえさらに今日もお休みと来た。そりゃもちろん、クラスメイトの……というよりクラスの男子たちの落ち込みっぷりは相当なもので。
「インフルエンザかなぁ?」
「かもしれないよな。安藤ちゃん小柄だし病弱らしいからなぁ」
病弱ってことは――無いんだけどなぁ。
いちいち大げさなんだよ、って男子たちの妄想に小さな声で突っ込みを入れつつ次の授業の準備をする。
まあ、うちのクラスの男子たちにとっての春奈は、もはやアイドルというか薄幸の美少女というか。
もともと転校したてのころから、あいつの振りまくあざといしぐさに芋っぽい彼らはあっさりとハートを射抜かれたらしくて。そんな、クラスの「姫」として彼らには映っているのだから、そう心配してもおかしいことはないのだろうか。
まったく、とんでもない勘違いよ。別になんてことはない、春奈だってふたを開けりゃ普通の女子中学生。姫なんてものなんかじゃないし、むしろわたしに似てあの娘もけっこうじゃじゃ馬だったりするんだけどね。
だから、病弱ってことなんか全然ないし、いいとこインフルエンザにでもなって寝込んだとそんなオチなんだろうって。
そう思いながら、次の授業の準備をする。けど、いざ春奈が学校に来れないという話を聞いてしまえば何だか心配になって他のことが考えられなくなるのもまたわたしの悪い癖。
実際、春奈とは最後にあったあの日以来連絡がついていないのだ。
メッセを送ったきり、あいつからの返事は一切ついてない。返事がつかないどころか「既読」さえつかない。
病気なんだからスマホを見るゆとりがないといえばそれまでかもだけど、あいつはああ見えて結構義理堅い性格をしている。わたしが送ったメッセージには、どんなにくだらない内容でも何かしらの反応はしてくる。
そんな春奈が、体調不良と言っても何の反応も示さないなんてこと――考えづらかったのだ。
「ねえ、芦原」
本当はしたくなかったけど――思い切って芦原の席へ。
芦原俊吾。この前の冬休みから春奈と付き合うことになった――いわゆる春奈の「カレシ」と呼ばれる人だ。
正直わたしは、この男があんまり好きじゃないんだけどそれでも春奈の彼氏。現状あいつの情報を一番多く持っているのはたぶんこいつだろう。
「ん? どうした?」
「いやさ、春奈大丈夫かなって」
なんかあいつから聞いてる? と続ける。
言ってからわたしでも何を聞きたいのか分かんねえって思いつつも、それでもこいつならわたしの知らないことを持ってて教えてくれるだろうってかすかな期待を抱いていた。……のだが。
「あぁ……それがここしばらく春奈とはやり取りしてなくてな」
そう言いつつ、彼は視線をさっきまで話していた男子たちへ向ける。
「おっ、俊吾も連絡取れねえのか?」
「いよいよやべぇんじゃないのか?」
彼の言葉を聞いた男子たちが、口々にそう言う。それに芦原もへらへらとした口調で話を続ける。
最初は男子たちも心配していたのだろうけど、こう言う話し方をされるとまるで野次馬みたいでちょっとイラっとする。わたしは真面目に心配してるのに、そんな気持ちを踏みにじられているような気がして。
「そうはいっても、あんたの彼女でしょ? もっと心配とかないの?」
男子たちの間に割って入って、再度芦原の顔を見つめて問いかけた。けど……。
「そりゃ心配さ。でも春奈のほうがメッセージを返さないんだったら、もう俺は何もできないだろ?」
そう言って彼はメッセージをわたしに見せつける。確かにそこには、休んだ初日に「大丈夫か?」と言ったきりやりとりが終わってしまっていて。
「それでも、メッセージを返さなくったって毎日1通送るだけでもあいつの気持ちは」
「やっても無駄だろ?」
「無駄なんてことはないって。だって彼氏からのメッセージなんだよ? あの鈍感でも、励まされたら多少は元気に……」
「なるかもだけどさ。俺の言葉で風邪が治るなら、いくらでも送るさ。けど、読まれない以上意味がないだろ? 少なくとも春奈の風邪は、スマホを見ることができないほどには重症なんだろうからさ」
そう言い、彼は静かにスマートフォンをしまう。
そういう冷静な言い方に。あいつの彼氏なのに、澄ました顔で淡々と事実を述べるその様子に――っ。
「……あんた、それでも春奈の彼氏かっ?」
血の気が引いた。だけどもそれは、津波と同じでわたしの怒りの前触れでしかなくて。
「ねえっ! 彼氏ならばどうしてももっと、春奈の気持ちに寄り添ってあげないのっ!」
そう大声で芦原に怒鳴りつけた。肩を掴んで、彼の整った顔に叩きつけるかのようにわたしの気持ちを叩きつける。
それなのに芦原は全く堪えてないようで。
「三春、落ち着け。お前が怒鳴ったところで、あいつが治るってこともないだろ?」
その言葉に、はっと我に返る。
周りには、わたしの突然の怒鳴り声をどうしたどうしたと見つめるクラスメイト達。みんなの視線は、どこかわたしのその行動に呆れたようなもので。
「それに三春こそ、あいつに何度もメッセージを送ったりしたのか? 実際にお見舞いとかに行ったのか? ……でもまあ、今はいかないほうが良いと思うけど」
「珍しく良いことを言うな。今は安藤を刺激するようなことはしちゃダメだろう」
さらに宮川にまで、そんなことを言われてしまう。
今まで何度も春奈を傷つけた張本人だって言うのにっ! そんな周囲の姿勢が、ますますわたしを怒らせて失望させる。
「眞子ちゃん、落ち着いて。もう、先生が来ちゃうよ?」
「あっ……」
だというのに、いつの間にかクラスの雰囲気はわたしが暴走しているってことになってしまって。委員長さんに力強く手を引かれて、渋々と席に着く。
けど――正直納得ができなかったのだ。
わたしがバカにされることは、別に構わない。暴走するのは、いつものことだから。ただ今回のわたしはどうしても許せなかったのだ。
みんながどうして、春奈のことを心配してくれないのか。みんなが春奈の病状を、噂のタネとしはじめたのか。そして何よりも――春奈を一番守るべきはずの芦原が、春奈を見捨てようとしていることに。
もしわたしがあいつにとっての一番だったら――こんな気持ちには絶対させないって言うのに。
そう思った。疑うべくもなかった。
でもっ……。
――それに三春こそ、あいつに何度もメッセージを送ったりしたのか? 実際にお見舞いとかに行ったのか?
改めて、突き刺さるその言葉。
そう、わたしは……今回も何もできなかったんだ。わたしは、その重すぎる事実をいまだに受け止めきれないでいた。
◇
昔からそうなんだけど、春奈は。
まあ、春樹だったころも含めてなのかもだけど。というより男の子としての彼も女の子としての彼女にも言えること。それは、とっても責任感が強い人だったってこと。
まあ、「春奈」として生まれ変わってからは昔ほど頑固でもなくて、むしろクラスのアイドルって立場になったこともあってそういう面は結構見せなくなったんだけど。
けど根本のところは変わっていなくて、今も昔もしっかり者で居ようと人知れずに努力をしていたりするのだ。
その背景には、あいつの家の家庭事情もあるんだとは思う。あいつのお母さんを責めるわけじゃないけど、やっぱり片親で小さな妹が居るとなるとあいつ自身が一番しっかりしないとって常に気を張らなくちゃいけなかったってこともあるんだと思う。
まあ、要するに根っからお兄ちゃん体質。お姉ちゃん体質ってわけ。きっと当人は自覚してないんだけど、自分で貧乏くじばっかり引くようななかなか素敵な生き方をしている――それが安藤春奈って女の本質である。
もちろん、責任感ばっかりっていうもんだから頭が固いかって言われればそんなことは無くて。
わたしが幼稚園から小学校くらいまでのころは、いっしょにおままごとしたりお互いに服を持ちよってファッションショーをしたりね。時には秋奈ちゃんをあやしながら、わたしのワガママにもつきあってくれたりね。
お姉ちゃん体質、とは言ったけどそれは秋奈ちゃんに対してだけじゃなくて今思えばわたしにも向けられてたんだろうね。
だからこそ、わたしたちが小学生に上がるか上がらないかの頃に春奈が交通事故にあって記憶を失って、本当の意味で男の子に戻ってからもわたしのことをいつも見守ってくれていた。さすがに性別が違うから全く同じことは徐々にできなくなってきたけど。
それでも、わたしが喧嘩をしてきたときは優しく慰めてくれて、わたしが木から落っこちたときは大慌てでお医者さんを呼んできてくれて。わたしの愚痴にも嫌な顔を一つせずちゃんと聞いてくれて――なんか性別が逆転してるような気がしないでもないけど、それでもあいつはいつもわたしのそばに居てくれた。
だけども、そんな春奈だからこその弱点があった。
何事にも一生懸命で、責任感が人一倍あるからこそ――ズルができない。楽をすることができない。適当にあしらう――そんなやり方さえ、たぶん知らないでいるんだ。
だからこそ、あいつはあいつに向けられた悪意に対して一つ一つ丁寧に向き合った。そんなことする奴らに丁寧な対応をする必要なんかまったく無かったのに。むしろそんな彼らをどうにか助け出そうとして無理をして無理を重ねて……。
「折れちゃったんだよね、あの時」
帰り道をとぼとぼ歩きながら、つぶやいた。
あのときのわたしはバカだった。だから、春奈が心を閉じたことが――せめてもの周囲への優しさだったことに気づけないでいた。自らが引けば、誰も傷つかないって。
だからこそあいつは――自殺って道を選びかけたんだろうなって今なら分かる。
そう、あいつは優しい。優しすぎる。だから、自分の気持ちが限界を迎えていてもまだ頑張ろうとしてその結果寝込むってことは起こりうるんじゃないだろうか。
「まさか――ッ!」
嫌な予感が全身を走る。
最初は寂しさを紛らわせるために、一人で春奈の昔話をしていた。それだけのつもりだった。
けど図らずもわたしは、真実にたどり着いてしまったのかもしれない。どうして春奈がいつまでたっても学校に来れないでいるのか。
事実としてその条件になりうるものは、まさに春奈が寝込む直前に揃っていた。
「まさかっ……」
嫌な予感がますます加速する。震える手でスマホを掴んで、春奈に電話をかける。
つながらないかもしれないその電話。でもつながってくれないってことは、もしかしてわたしが考えうる最悪のシナリオが現実になるとも言えてしまって。
何度も何度も呼び出し音が鳴る。でも電話がつながる気配がなくて。
「そんなの、嫌っ!」
ふらふらして道路にひざをついて、それでも電話はつながらず。
次こそは、棺に収まった彼女を見てしまうのか。そんなこと、考えられない。考えたくもないっ!
「お願いっ!」
私は祈るように受話器を耳に当て続ける。
その瞬間だった。電話がつながった。相手からの言葉はない。けどこっちから言いたいことはたくさんある。聞いてもらわなくちゃ、気持ちに届かないとダメなんだっ!
「春奈っ! ホント何かあったら、何でもいいから言いなさいね?」
どんな小さなことでも良い。
辛いことがあるなら。悲しいことがあるなら。しんどくてどうにもならないんだなら――わたしに言ってほしい。
もちろん、すぐにあいつの苦しさを取り出してあげることはできないかもだけど。
わたしは、あいつからいろんなことをもらった。だったら少しでも、返してあげなくちゃ。それが今のわたしにできる、精一杯のことなんだから。
そして帰ってきた返事。それは……。
『――たすけて』
たった4文字。でも私にはわかる。
頑固で世話焼きで誰にも優しくて責任感の強い。
そんな彼女のあと言葉は、精一杯の「助けてほしい」って意思ってことに。
「春奈、今から行くから待ってなさい」
春の連休の前。
私はあいつに喝を入れようとして、それが図らずもあいつを死への道へ追い立ててしまった。
あの時は、結果的として春奈は死ななかった。すんでのところで、生きていてくれた。
けど、次大丈夫かなんて……そんな保障はどこにもない。今度こそ、わたしのそばから離れて行っちゃうかもしれない。
そんなのは嫌だよ。わたしはもう、そんな辛い思いはしたくないっ!
だから、走る。走る。走る――っ。
最初は、小学生の時の交通事故。
次は、半年前の自殺未遂。
命はつながってるけど、二人の大切な記憶は途絶えた。そんなこと、もう嫌だ。次こそは、お互い本当に死んじゃう時まで一緒の記憶を共有したい。だったら今やれることは――っ。
「春奈っ!」
春奈の家に乗り込んで、迷うことなくあいつの部屋へ。
そしてあいつの姿を見るなり。
「ま、眞子っ?」
「ごめんねっ! そして、よく頑張ったねっ」
頑張って生きてくれていたあいつをしっかりと抱きしめてあげること。ただ、それだけだった。