ピンク色の錠剤
部活で遅くなり、コンビニで何か小腹を満たせるものを買いに行こうとした午後七時半。
近道をしようといつもは通らない裏路地を進んでいた時の事だった。
「ちょっとそこな貴女」
「はい?」
生ぬるい風が髪をさらう薄暗い路地の中、まさか声を掛けられるとは思ってもいなかったので咄嗟に返事をしてしまった。瞬間後悔した。
薄汚れた布を被っていたので顔は見えないが、腰が曲がり杖をついたその姿は老人のように見えた。
布の隙間から覗く手は若く、しかし声はしわがれているため年齢は推測出来ない。
なんか、やばい。
冷たい汗が背中を伝った。無意識に後ずさりしたのか、路地壁の風化しかけのポスターに腕が触れる。
「これ、いかがかね」
老人が掲げる様にして持つジャム瓶のような容器には、毒々しいピンク色の錠剤が入っていた。
老人はにたりと笑うように容器をじゃらじゃらと鳴らす。
老人から目が離せないまま黙っていると、勝手に喋りだした。
その内容は、「これを一粒飲むだけで自分の思う姿に変身できる」というものだった。
初めはありえないと思っていたが、老人は言葉巧みに私をその気にさせ、気がついたら手にはジャム瓶だけが残り、老人はどこかに消えていた。
冷静になってみると老人はどこか必死な様子だったことを思い出す。
通販番組のような胡散臭さに眉根が寄るが、手に入れてしまった事はどうしようもない。
返そうにもあの怪しげな老人は去ってしまったのだ。だんだんと好奇心が膨らんでいく。
試してみようか。
瓶の蓋を開け、ピンク色の錠剤をひとつ取り出し、口に含む。
老人が言うにはなりたい物を強く思い浮かべればいい、らしい。
まずは猫にでもなってみようかと、猫特有の愛らしいフォルムを思い浮かべようとしたところで、風にはためく先程のポスターが目に入った。
◆
しくじった。これはひどい。私は今温泉に浸かっている。……卵になって。最後に見えたあのポスターは温泉宿のものだった。どうして割合で言えば5%にも満たない程の情報量の温泉に浸かる卵が目に入ったのだろうか。
小腹が空いていたからか。
わー湯の花だー!花明かりが眩しいねッ
などと思っても一向にテンションは上がらないし、とにかく暑い。
どうやら不思議パワーが働いているようで、人であれば耐えられそうにない温度の湯に浸かっていてもあまり問題はない。
だが暑いのは暑い。いや、今は熱いと言ったほうがいいだろうか。
「わー、温泉卵だ!」「え、なになに?」「あたし卵きらーい」「半熟のとろーりしたのがおいしいんじゃん!」
……何やらざわざわしてきた。宿に泊まっている客が来たらしい。
卵になったときから、心のどこかでずっと「あ、この展開、私食べられてしまうんじゃないの」と思っていたが、ついにその時が訪れたようだ。
皿の角にぶつけられて殻を取られる。ここでも不思議パワーが働いているようで、痛みや恐怖は無かった。
誰かの手に渡る。これで最後かと思うと短い卵生も楽しかったなと思えた。
「いただきまーす」
いくつかに重なった挨拶の、一番近くで聞こえた声に聞き覚えがあった。「あたし卵きらーい」の奴だ。卵嫌いじゃなかったのか? ふつふつと腹の底が熱くなって来た。
どうせなら美味しいと思ってもらいたい。嫌いなら食べずに傍で見ていればいいものを。こっちだって不味いと思われながら食べられたくないわ!
煮えたぎる思いは届かず、憎き相手の口元に運ばれる。いやだ。いやだ!
◆
荒い息遣いが薄暗い路地裏に響く。戻って来たらしい。ジャム瓶を握りしめていた右手は手汗が酷い。
……疲れた。もう二度とこんな思いはしたくない。
見えない何かに追い立てられるように家に帰ってぼろぼろになった毛布と、玄関に立て掛けてあったおばあちゃんの杖を持って来る。
ここで演劇部で脇役を演じることが役に立つとは思わなかった。
老人と出会った道の一本向こうから、誰か通らないかと目を光らせる。ここからだとあのポスターがよく見えた。
カツカツとハイヒールがアスファルトを進む音が聞こえた。
無意識に声を掛ける。
「ちょっとそこな貴女」
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