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とある風俗嬢のつぶやき。

作者: こん



 消毒液と煙草。

 それから、男のにおい。



 舌を絡み合わせるのが始まりの合図。

ざらりとしたヒゲの感触が私を刺激する。

「―……っん、」

 思わず出てしまったかのように、わざと漏らした声。目の前の男が笑ったような気がした。私も笑い返してみるけど、どうせこの薄暗い明かりじゃ見えてないだろう。無駄な動作だった。

「杏ちゃん――」

 ソファーが軋む音がした。

 男に組み敷かれて、体中をいじくられ。どんどん頭がぼんやりしていく。

 ここにいるのは私なのかな。他の誰かじゃないのかな。

 指を出し入れされても、何も伝わってこない。くわえさせられて頭を振るけど、余計に世界の輪郭があやふやになっていく。

「もぅ、……いくっ……」

 男が短く叫ぶ。

 私は返事の代わりに、頭を動かす速度を上げる。

 男の息が荒くなるにつれて、口臭が深く立ち込める。男のにおいというのは、ケモノみたいだなぁ。

「今日も良かったよ」

「ん……」

 私は口から白いものを垂らしながら僅かに微笑む。

 苦いなぁ。いやだなぁ。

 ぼんやりと考えてるうちに、男はそそくさとズボンを上げて、それから私の乱れた制服を直してくれる。

「何を考えてるの? どうかした?」

 私は小首を傾げる。どうかしたのかな。わかんない。

 そうだ、うがいしなくちゃ。

 名刺を取ってくるねって席を立って、イソジンで喉を消毒するんだ。

 マニュアルの手順を思い出すと、頭の霧がちょっとだけ晴れたような気がした。

「なぁ、気持ちよかった?」

「……うん」

「はは! 杏ちゃんは可愛いなぁ!」

 にやにやしながら、男は整えたばかりの私の下着にまた指を入れようとする。

 うがいにいかなくちゃいけないのに。

立ち上がろうとする私の腰を捕まえて、男は私を膝の上に座らせる。……まぁいっか。私は諦めて、にっこりと笑って男の首に手を回す。

「こんなところで働いてて、彼氏は怒らないの?」

「彼氏なんていないよー」

「まじで? こんなに可愛いのに!」

 俺が立候補しちゃおうかなぁと男が嘯く。

 嬉しい、と私は口先だけで笑って、男を侮る気持ちになる。なんてこと言うんだろ、私はお金がもらえるから、あなたの相手をしているだけなのに。

「杏ちゃんって、なんか、他の女の子と違うよね」

 そうかな?

「だから僕は何回も杏ちゃんに会いに来ちゃうんだけどねー」

 曖昧に笑って、ありがとうと私は言う。ありがとう、また来てね。

 終了の時間を知らせる放送が流れた。私は男の膝から降りて、おしぼりやお茶のコップを籠の中にまとめる。

 ふと男が真面目な顔をした。

「杏ちゃんはどうしてここで働いてるの?」

 どうしてだろ。

 ……わかんないなぁ。



「杏、お疲れー」

 待機室に帰ると、野バラが煙草を吸っていた。

 プレイルームと違って、待機室は狭くて汚い。パイプ椅子がなぜか二つだけあるけど、誰も座らない。座布団を持ってきて、みんな床に直に腰を下ろしてる。床にはペットボトルとか書きかけの名刺とかが直に転がってるから、それを踏まないように苦心して、野バラの隣に腰を下ろす。そこが私の定位置だ。

「さっきの、指名?」

「長かったねー! 2回、延長入ったでしょ?」

ヤニで薄汚れた壁紙にもたれかかると、蝶々みたいな色とりどりの女の子たちが、口ぐちに笑いかけてくれる。

私はそれに頷いたり答えたりしながら、定位置の傍らに持ち込んであるオレンジ色のボックスを開けた。チョコレート、クッキー、飴玉。ボックスの中はコンビニで買ってきたお菓子で占められてる。

 野バラが呆れたように呟いた。

「客についたあとすぐで、よく何か食べる気になるねぇ」

「だって。……苦いんだもん、男って」

 甘いもので中和しなくちゃ。

菓子パンを頬張りながら答えると、野バラはちょっと首を傾げて、私の顔をまじまじと覗き込んだ。

「……杏、疲れた顔してるよ? どした?」

 ほら、これあげるよ。

 野バラが自分のボックスを開けて、食べかけのチョコレートを差し出してくれた。そしたら他の女の子たちも我先にとお菓子を手の中に乗せてくれて、途端にグミや飴でいっぱいになる。

 女の子たちは、優しい。

 それは私たちがどうしようもなく平等に、抜け駆けなく、同じところを漂ってるからだ。

「んー、さっきの客に、……なんでここで働いてるのって聞かれて」

「いるよねー、そういうこと聞いてくるやつ」

 頷いて、野バラもまた男たちを侮るように細く煙を吐いた。

 この狭い部屋では、すぐに煙は充満してしまう。私は煙草を吸わないけれど、きっと肺は副流煙で真っ黒なんだろう。

「なにを期待してるんだろ。ドラマみたいな特別な理由なんてあるわけないじゃんね!」

「うん、でもさぁ」

 女の子のひとりが、爪を磨きながら首を傾げた。限界まで脱色した金色の髪が揺れた。

「あたし、聞いちゃう客の気持ち分かるかも。だって杏ちゃんってさ、なんか育ち良さそうっていうか」

「風俗嬢っぽくないよねー」

 女の子たちの軽口に、私はなんだか淋しいような気持ちになる。

 私だってみんなと同じなのに。平等に抜け駆けなく、ここにいるよ。

「ほとんどすっぴんに近いし。髪の毛も真っ黒」

「なのに誰よりも常連客が多い!」

「やっぱり男なんてみんな清純系に弱いのよ」

「じゃああたしも黒髪清純系で行こっかなぁ?」

「あんたには似合わないって!」

 笑い転げる女の子たちを尻目に、野バラも喉の奥で笑う。煙草の灰が、崩れて、床に落ちた。野バラは軽く舌打ちして、お店のおしぼりで灰をぬぐう。

「実際どうなの、杏?」

 私を見つめる野バラの瞳の縁は、真っ黒なつけまつげが乗ってる。まばたきの度に音がしそう。綺麗だなぁ。

 もしも野バラと同じクラスだったとしても、私と野バラはきっと口を利くことなく卒業を迎えただろう。だって私、本当は、こういう派手な女の子からはあまり相手にされない。

「わたし、は……」

 野バラからのチョコレートを砕いて、一欠を口に放り込む。甘い味が口全体に広がった。

 思い出すのは、あの初夏の日。

 気の早い蝉が鳴いていて、下着までじっとりと汗ばんで気持ちが悪かった。

「……ティッシュ、もらったよ」

 このバイトを始めるきっかけは、そう、街で配ってるティッシュだった。別にスカウトとかじゃない。私はあんまり男の人に声を掛けられるような外見をしていないから。

 気づいたら電話してた。翌日には面接に伺う手筈になってしまった。電話を切ってすぐに、しまったなぁと思ったけれど、面接をすっぽかすことはしなかった。順調に体験入店を受けて、そのまま働くことになって。まずいことになったなぁと困り果てながらも私はお店にきちんと通い続けた。

「あれでしょ、ガールズバーの募集のやつ! 結局全然ガールズバーなんかじゃないし、あたしたち店長に騙されたよねぇ!」

 私と野バラは、同じ時期にこのお店に入った、言うなれば同期ってやつだった。回転の早いこの業界で、気が付けば一年。何人も女の子が辞めていくのを見た。

 本当に嫌だったら、逃げることもできたのに。

「おう野バラ、人聞きの悪いこと言うなやー」

 待機室のもっと奥から、男の人の声がした。

 私はちょっと緊張して、背筋をぴんと伸ばす。

 普通のお店では店長は毎日なんて来ないのかもしれないけど、私が働いているこのお店はとても小さいので、用心棒代わりに毎日店長が来てくれている。

店長の部屋と待機室の間のドアは取り外されてて、カーテン一枚で隔てられてるだけ。女の子たちに何かあった時に、すぐわかるようにっていう店長の配所だ。

「冗談ですよ、冗談!」

 野バラはケラケラと楽しそうに笑う。

 使用済みのおしぼりを入れるカゴに、さっき灰を拭いたおしぼりを投げ入れた。カゴの中から、男たちの気配が漂ってきた気がした。

「ねぇ杏?」

「うん! もちろん冗談ですよぅ!」

「……お前たち、本当に仲良しだなぁ!」

「えへへ」

 チリンチリンと音がして、男がエレベーターから降りてきた。

 男は相当に酔っぱらってる風で、ボーイさんとやたら大きな声で話してる。杏さん、って切れ切れにだけど聞こえてくるから、また指名かな、と思う。

 食べかけの菓子パンをボックスに片付ける。あとで忘れないように食べないと。それから立ち上がってスカートのプリーツを直しながら、ふと思いついて、店長の部屋をのぞいた。頭が薄くなりかけた中年の男が、ソファーにもたれかかってテレビを見ていた。元ホストだというそのひとは、だけど、店の外ですれ違っても彼だと気付けないだろう。

「店長ー」

「ん?」

「私、ここで働けてよかったですー」

「……そうかー」

 この店の中は、消毒液と煙草だけ。

その他は、なにも。

 汚染された空気を、吸って、吐いて。私はどんどん、杏に染まってく。




 朝は爽やかだ。

昨日あんなにも鬱々としていたことも忘れて、太陽の下を誇らしげに歩く。

 今日は久しぶりの青空で、散ったばかりの桜並木はもう青々とした葉を茂らせていた。その隙間から、光がきらきらと降り注いでる。夏の気配。

 健常だ、と思う。

 誰もお店の私を知らない。

 大学のキャンパス内は同じ年代の男女で溢れてて、溌剌としてて、ここには消毒液のにおいも煙草のにおいもしない。

校舎の中に入ると同時に、鞄の中で携帯が震えた。

「……はい、もしもし」

『おっはよー! いま大丈夫?』

 同じ学部の同期からの電話だった。

 携帯のスピーカー越しに響く元気な声。

『急にごめんねぇ、寝坊して! 今日の1限目の心理学ってさー、何回まで欠席大丈夫だったっけー?』

「えー、確か3回までだったと思う……」

『まじかぁ! じゃあ急いで行く、ありがと!』

 掛かってきた時と同じくらいの唐突さで電話は切れた。

 あまりの疾風怒濤さにしばしぼんやりしたまま、ツー・ツーという電子音を聞いていた。

「こんな朝から友達と電話?」

「――センパイ」

 後ろから声を掛けられて、ちょっと驚いて振り向いた。

 背の高い男が、私の後ろに立っていた。

 彼は同じゼミの先輩で、どこかあか抜けない朴訥としたクマみたいなひとだった。大柄なのにちっとも怖さを感じさせない。細い目尻が、彼を年齢よりも年上に見せている。

「はい。なんか、お寝坊しちゃったみたいです」

「そうかー」

 学年は違うけれど、センパイはこうして私を見かけるたびに声を掛けてくれる。

 携帯電話を鞄の中に放り込んで、センパイの隣に並んだ。

「最近、めっきり暑いですねぇ」

「うん、家から出るのが辛くなってきたなぁ……」

 並んで歩いてると、ちょっと、付き合ってるみたい。

 私はぴんと胸を張って歩く。注意深く言葉を選んだ。

「センパイ、就活はどうですか?」

「ぼちぼちかなぁ。今のところ、やっと内定が1つ」

「……大学院に残ったりはしないんですか?」

「うーん、最近は大学院に行ったからって、良い就職ができるわけじゃないからなぁ……」

 教室はとても近くて、ほとんど話もしないうちに辿り着いてしまう。

 あまり人気のない授業のせいか、教室の中はガラガラだった。まだ先生は来ていないようだった。大学院生の男の人が、授業で使うプロジェクターの設置を行っていた。鈍い機械音と共に、光がスクリーンに映されては揺れる。

「ちゃんと授業に出る偉い子には、お兄さんがいいものをあげよう」

 飴玉が降ってきた。

 センパイは機嫌よく、私の手のひらを色とりどりのお菓子で溢れさせる。

 それからさっさと振り返りもせずに、自分の教室に歩いて行ってしまった。

 ――朝から会えて、いっぱいお話もできた!

 私は定位置である左ななめ前の席に腰を下ろして、それから机の上にもらったお菓子を広げた。ピンク色の飴玉を選んで、口の中に入れる。甘い。私の周りの人間は、よくよくお菓子を配るのが好きだなぁ。

 口の中に広がる甘味ばかりが気になって、授業はちっとも頭に入らなかった。



 キーン、コーン……

 ぼんやりしているうちに、授業はすぐに終わってしまった。

 チャイムが鳴ると同時に、私の後ろに座ってた女の子に声を掛けられた。

「ねぇ、聞いて聞いて!」

 彼女は朝に私に電話してきた同じ学部の同期で、一番よく話す女の子だった。

 私と同じような、ほとんど化粧っ気のない顔。半袖からすらりと伸びた腕で、授業のノートをリュックサックに片づけながら、私に語りかける。

「わたしこの前さ、ちょっといい感じの人がいるって話したじゃん?」

「えっと、……同じサークルの、だっけ」

「そう! あのねあのねあのね、――キス、されちゃった!」

頬っぺたを赤らめて、身を乗り出すようにして彼女はふわふわと笑った。

 良かったねぇと素直に頷いてると、なんだか物悲しいような気持ちになる。センパイからもらったポケットの中の飴玉を織り出して、ひとつ、口に入れた。それでやっと息ができるような気がした。

「なんかさ、漫画みたいなこと言うけど……キスって、甘いのよ!」

「……チョコレートより甘い?」

「当たり前じゃない、比べものにもならないよ!」

 そうかなぁ。キスってそんなに甘いかなぁ。私は首を傾げるけど、浮かれてる彼女はちっとも気付かない。

「これからご飯でも食べに行こうよ、話聞いてほしいの!」

「あー……、ごめん、今日バイトなんだ」

 そうなんだ、と友人は大げさに残念そうな顔をする。

 彼女がリュックサックを背負うのを待ってから、ゆっくりと歩き出す。

「何のバイトしてるの?」

「……接客業」

「どの辺で働いてるの? こんど遊びに行くから、店教えてよ!」

「んー……」

 友人の追及を曖昧に退けてるうちに、すぐに正門に着いた。

「今日はごめんね、ご飯は明日行こう」

 にっこりと微笑むと、彼女も嬉しそうに笑った。

 校舎を出たところで手を振って別れた。同じように駅に向かう集団の流れに乗って、ゆったりと歩く。すぐ目の前を歩いてる女の子たちが、弾けるように笑う。一年生かな、可愛いな。日差しがきらきらとまぶしくて、思わず目を細めた。蝉の声が降るように響いてた。

 ――時々、全部夢なんじゃないかって思う時がある。

 だって健常なんだもん。

 夜の気配なんて、どこにも。

 とぼとぼと電車に揺られて、駅からすぐの古びたビル。

 階段を上って扉を開けると、そこは別世界。薄暗い店内に足を踏み入れるたび、あぁ、また帰ってきてしまったなぁと後悔に近い気持ちが湧き上がる。

 これから始まる夜の長さに、うんざりする。私は今晩、何人の男を相手にするのだろう。

「杏さん、おはようございまーす!」

 ボーイさんの元気な声。

 奥の待機室で、野バラがひらひらと手を振ってる。

 さぁ、今日も「杏」にならなくちゃ。




 三十分六千円、それが私たちの価値だ。

 そのうち二千円がバックで、指名なら三千円。居酒屋で働いてる友達の時給が八百円なことを思えば、それなりに高いんだと思う。

 大した取り得もなくて、若さしか持ってない私たちには、あまりにも不釣り合いな値札。

「だからね、それなりのリスクが伴うのは仕方がないっていうか……」

 今日は体験入店の女の子が来た。

 ひとりお客さんに付いたあと、泣いてしまって、どうしようもなかった。

「――でも、でも!」

 女の子は涙に潤んだ瞳で、私をまっすぐに見た。

「知らない男の人のなんて……気持ち悪い。やっぱり出来ないです!」

 じゃあどうしてここに来たんだろ。ぼんやりと首を傾げてしまう。胸元に主張する大きなピンクのリボンを結い直して、ほどいて、また結ってみる。何回か繰り返してからもう一度視線を戻すと、女の子はやっぱり私の隣に体育座りで小さくなって、嗚咽を上げてる。

 わかんない。めんどうくさいなぁ。

 男の人たちは喜んで、私たちもお金もらえて、みんなハッピー。それで何が不満なの?

「えっと……、最初はみんなそう思うよ」

 初心者の女の子と話すのは、いつも私の役目だった。

 見た目があんまり、風俗嬢っぽくないから。

「すぐ慣れるから。このまま続けてみない?」

「無理、です! お金だって……そりゃあ、他のバイトに比べたら高いけど、でも! これっぽっちで男たちに体を売るなんて、……皆さんはどうして平気なんですか?」

 えぇ、そんなこと言うの。

 私は困ってしまって、野バラをちらりと見る。野バラは肩をすくめて、私を労うように眉尻を下げた。

「知らないおっさんのなんて、汚いしくさいし、そんなものになんて触れない! わたし、わたし……」

「――あんたさ、覚悟して来たんじゃないの?」

 見かねて、野バラが口を挟んでくれた。

「あんたにとっては汚らわしいのかもしれないけどさ、あたしたちは、毎日これを仕事にしてんだから」

 凄みを帯びた声だった。

 苛々と煙草を噛む野バラに、女の子は怯えて黙り込んでしまう。

「もう帰れよ。そして二度と来んな」

 私はそっと店長に目で合図を送る。店長も頷いて、へたり込んでる女の子をお店の外に連れ出した。こういうことはたびたびある。店長はいつもどこからともなく女の子を連れてきて、またどこかに連れて行ってしまう。

 あとに残された私たちは、顔を見合わせて、苦笑する。

「ありがと、野バラ」

「ん。杏もお疲れ」

 野バラに寄りかかると、やっぱり煙草と消毒液のにおいがした。それに混じって、甘い、女のにおい。あぁ、この店に煙草と消毒液以外のにおいもあるんだなぁ……。

 他の女の子たちはお客さんに付いてて、私たちは二人きりだった。

 プレイルームからは、押し殺したような嬌声が聞こえてくる。

「……ね、野バラ」

「ん?」

「私たち、汚いのかな」

 だってもう、わからない。

 実際、今までにも体験入店で泣いてしまう女の子はたくさん見てきた。その度、泣く女の子たちの気持ちがどうしても不思議でたまらなかった。

 私はこの仕事を始める前は、始めたばかりの頃は、どう思ってたかな。

 とうに慣れきってしまった私には。

 嫌悪感も屈辱も、そろそろ、よく思い出せなくなったんだ。

「――からだ、なんて。大したことないよ」

 こころの方が。

 どこかぼんやりした声音で野バラは呟いた。

「あたし多分、どんな男とヤッても傷つかない。誰からも求められない方が、よっぽど辛い――」

 野バラは床に転がる灰皿に煙草を押し付けた。じゅ、という音が聞こえたような気がして、赤い火花が散った。

 こんな風に話す野バラは、初めてだった。

 私たちはいつだって、他愛のない、言った端から忘れてしまうような言葉ばかりで時間を埋めてきたから。

「杏にはない? こんな感覚」

「私は――」

 目を閉じると、夏の日差しがきらきら、翻った。

「私はね、望んでこうなったはずなのに。……こんなはずじゃなかったって思うんだ」

 野バラが首を傾げる気配がした。

私は目を開けて、しっかりと野バラを見つめる。

「今日ね、大学の友達が、気になってる人とキスしたって喜んでたの。……ただのキス、だよ?」

 私たちにとって、キスなんてお金にもならない。

 文字通り、ただのリップサービスだもんね?

「からだなんて、大したことじゃなくなったよ」

 ここで働き始めて、随分と経った。女の子たちとも仲良くなった。指名してくれる常連さんの名前も覚えた。体を触られることも上手になった。嘘の喘ぎ声だって出せるようになった。

 同じ風俗嬢でも、野バラみたいな女の子には分からない気持ちかもしれないなぁ。

 誇らしかったんだよ、私。

 どんどん夜に慣れていくことが。

「でもね。……私はもう、無邪気にキスを喜べない」

 慣れるにつれて、じわじわと、普通の女の子たちを侮る気持ちが生まれていった。

そんなの、一年前の私を馬鹿にする行為と同じなのに。

どうしてこんなことになったんだろ。私はどんどん、杏に侵されていく。

「――杏は、さ」

 野バラが何か言いかけて。

 チリンチリン! エレベーターのドアが開いて、店長がひとりで帰ってきた。

「……おかえりなさい、店長」

 野バラに寄りかかったまま、私は店長を見上げる。野バラはぱっと口をつぐんで、そっぽを向いたまま煙草に火をつけた。

 私たちを見て店長はふと表情を緩めて、それから頭を下げた。

「さっきの、ごめんな。杏、野バラ」

 言いながら、店長はコンビニの袋を私たちに差出した。

「つまらないものだけど、コレ。お詫びに」

 袋の中にはコンビニスイーツがいっぱい詰まってた。あ、しかも新発売のやつも入ってる! さっきの苦労が一気に吹き飛んで、私はにっこりと笑う。甘いものがあれば、大抵のことは乗り切れるのだ。

「気にしないでください、大丈夫です」

 だけど野バラは見るからに機嫌が悪そうに、無言で店長に向かって煙を吐いた。

 チリンチリンとまた音がして、お客さんが入ってくる気配。ボーイさんが待ってましたとばかりにお客さんにシステムの説明をしてる声が聞こえてくる。

「店長はさ?」

 ぽつりと、野バラが呟いた。

「あたしたちのこと、汚いと思う?」

「何言ってんだよ野バラ。俺も昔はなぁ、お前らより酷い仕事してたんだぜ」

店長は肩をすくめて、ちょっとだけ笑った。昔のことを思い出しているのかもしれなかった。

野バラは黙ったきり、何も言わない。

沈黙が重くて、呼吸が辛かった。苦し紛れにもらったスイーツを床に一列に並べてみる。チョコレート味のプリン、ピンクのマカロン、苺のキャンディ。甘いお菓子に触れていると、少しだけ息が和らいだような気がした。

「――お話し中すみません」

 ボーイさんが遠慮がちに話しかけてきた。

「野バラさん、フリーでひとり入ってもらっていいですか」

「……チッス」

 煙草を灰皿に押し付けて、野バラは立ち上がって伸びをした。それから鏡をのぞいてちょっと化粧を直し、ひとつため息を落とした。

 その間に私は消毒液に付けていたおしぼりを絞って、野バラの準備が終わったことを見計らってから、アルコールスプレーと一緒に渡す。それにしてもこんなに入念に消毒しなきゃ触っちゃいけないなんて、男というのはやっぱり汚いんだなぁ。

「ありがと、杏」

「ん。いってらっしゃい」

 野バラが行ってしまうと、途端にしんとした。

 ボーイさんも見張りのためにプレイルームに戻ってしまったから、残ったのは私と店長、2人きり。なんとなく居心地が悪くて、もじもじしてしまう。重い空気だなぁ、嫌だなぁ。ゆっくりとプリンの蓋をゆっくりと剥がす。

 困っていると、先に口を利いてくれたのは店長だった。

「なぁ杏、さっきの話だけど」

「はい」

「杏も、汚いと思うか?」

 唐突に聞かれて驚いた。まさか自分にその質問が返ってくるなんて。

「……体なんかは大したことじゃないので、どんな男を相手にしても、傷つかないです」

 驚いたまま慌ててしまって、思わずさっき聞いたばかりの野バラの答えをそっくり拝借した。でも自分で言葉にしてみると、そうかも、って気もした。

「そうか、大したことないか」

「はい。誰からも相手にされない方が辛いです」

「ははは、杏も言うようになったなぁ!」

 もしかしたら私の意見じゃないことを見破ったのかもしれない。店長はおかしそうに顔を歪めて笑った。中年男性の目尻は、歪むと、シワがたくさん浮かんだ。

 杏だから言うけどな、店長は前置いてから心なしか声を潜めて、内緒話のように呟いた。

「でも、客からしか相手にされなかったとして。嬉しいか?」

 私には答えられなかった。

 店長も私に何かを求めていたわけではなかったようで、答えを急かすようなことはしなかった。

 換気扇がカラカラ回って、煙草の煙を外に逃がしてた。空気がどんどん、薄くなっていく。そうしたら息苦しくて、上手に呼吸できない。だから何にも喋れないんだ。

 言葉の代わりに、プリンをひとくち、口の中に押し込む。べたべたと口腔内に絡みつく感触と同時に、突き抜ける甘味。

 黙ったままの私に、店長は片眉を下げて。念を押すように、静かに言葉を付け加えた。

「この仕事をしている女の子は。客につくたび、確実に傷ついてると思うよ」

 店長の言葉が、やけに耳に残った。

 意味を反芻して、ゆっくり考えてみる。

 私、傷ついてる?

 ――やっぱり、わかんない。




 ところでセンパイと初めて会ったのは、入学して少し経ってからで、ちょうど大学に慣れ始めてきた頃だった。初夏の日。

――うん、よく覚えてる。

 急に暑くなった一日だった。汗で背中にへばりつくシャツがどうにも気持ち悪かった。暑さに頭がぼんやりとして、だから急に後ろから肩を叩かれて、体がびくりと震えた。

「ねぇ君! 新入生だよね?」

 咄嗟に、嫌だな、と思った。知らない人に話しかけられるなんて、きっと、ロクなことがない。だけど無視することも出来ず、私を呼び止めたばかりの相手を振り返った。

 知らない男の人が立っていた。

 ラフなシャツにジーンズ、いまどきの大学生って感じの服装なのに、どこかあか抜けないような感じ。――嫌悪感は、なかった。

「え、っと……」

 私に何かご用でしょうか。

 たったそれだけの言葉が上手に出てこない。心臓がバクバクして、体中の筋肉が固くなる感じがした。

 知らない人と話すのは、どうしても、緊張してしまう。

「君、アイス食べる?」

「――は?」

 意味が解らない。

 思わずぽかんとしてしまった私の前で、その人はマイペースに手に持っていた紙袋の中から、チョコミント、ソーダ、ストロベリー、次々とアイスクリームを出していく。

「何味がいい?」

「……あ、あの……?」

「遠慮しないで、いっぱいあるから」

 私の戸惑いなど気にも介さず、その人はにこにこして私にアイスを押し付けた。包装のビニールに描かれたクマのキャラクターが可愛かった。

 男の人は、おっとりとした聞き取りやすい声をしていた。

「俺ね、サークルの勧誘係してるんだ。よかったら、見学だけでも来てみない?」

「…………」

 なるほど、勧誘か!

 納得すると同時に、不思議と落胆が訪れた。そうしたらもう、今度こそ何を話せばいいのかわからなくなってしまった。 

センパイはしばらくサークルの説明をしてくれていたけど、私が黙ったままでいると、あっさりと身を引いた。

「――ごめんね、急に声掛けちゃって。びっくりさせちゃったね?」

「い、いえ……っ」

「また気が変わったら、ぜひ!」

 爽やかにそれだけを言い置いて、センパイはあっさり手を振って。

 後ろ姿は、すぐに紛れて、消えた。

「…………」

 ええと私、白昼夢でも見てたのかな? 目をごしごしと擦ろうとして、――手のひらの中にアイスクリームが残されていた。袋は露結して、パッケージのクマにはたくさんの水滴がついていた。開けてみる。

(甘い……)

 アイスクリームは冷たくて、それが現実だということを教えてくれた。

 ふと、お礼すら言ってなかったことに気がついた。せっかく話しかけてくれたのに、私は、いつもそう。

 落ち込んでくる気持ちのまま、手のひらの中のアイスクリームを見つめる。

 ――やっぱり見学、行こう!

 唐突に思った。

 だってあの人は、黙りこむばかりの私に話しかけて、優しくしてくれた。私もあんな風になりたい。だったらこのままじゃだめだ、何かしなくちゃ。変わらなくちゃ!

 慌てて、センパイを追いかける。

 見つかるかどうか不安だったけど、校舎の角を曲がったところで、あっさりとセンパイの後ろ姿が見えた。

「あ、の……!」

 呼びかけようとして、言葉を飲み込んだ。

 センパイは、すでに別の女の子に声を掛けていた。

 女の子は楽しそうに笑ってる。その手には、ストロベリーアイス。

 声を掛けることも出来ず、ただただ見つめるしかできなかった。一口しか食べてないアイスクリームは夏の暑さに融けてきて、ベタベタと手のひらに粘る。

 唐突な決意はやっぱり唐突に折れた。

 だから、それっきり。

 ……になると思っていたけど、センパイとは、ゼミで再会した。食べかけのチョコレートをくれて、よろしくと笑った。

 だから、私は――……。




 携帯の着信音が部屋中に鳴り響いた。

 登録されてない番号からだったので、知らないふりをした。

 部屋の隅でだらだらと深夜番組を眺めながら、コンビニで買ってきたサラダをもそもそと口に運んでいるところだった。生理の日は、お仕事は休みなのだ。

 しばらくすると着信音は途切れて、不在着信を示す液晶表示がチカチカと光ってる。ほっとしたのも束の間、すぐにまた着信。それも無視したけど、着信は途切れては響いて、鳴り続ける。

 どうしよう……。迷いながらも、恐る恐る携帯を手に取る。

「――はい、もしもし」

『杏?』

 囁くような声だったけど、すぐに解かった。

 それはとてもよく知ってる、だけどかかってくるはずのない相手からの着信。

「……野バラ」

『もう、早く出てよ! 何回も掛け直しちゃったじゃん!』

 あぁ、野バラだ。

 私はぽかんとしてしまって、耳元で声がするなんて電話というのは色っぽいな、なんてどうでもいいことを考えた。

「野バラ、なんで私の番号知ってるの」

『お店であんたの履歴書、こっそり見ちゃった』

「……なにやってんの」

『ごめんね、どうしても杏とふたりで話したくてさ』

 女の子同士の連絡先の交換は禁止されてる。よくは知らないけど、昔なにか不祥事があったらしい。

「バ、バレたら店長にすごく怒られちゃうよ!」

『あはは、杏さえ黙ってたらバレないって』

 時計を見るとまだ十二時前。一番お客さんが入る時間だなぁって思った。……あれ? 野バラ、今日は出勤じゃなかったっけ?

「野バラ、今日お店は、」

『サボっちゃった。――ねぇ杏、会いたいよ』

 ××駅前で待ってる。

 一方的に宣言して、通話は途切れた。

「ちょ、野バラ!」

 すぐに掛け直したけど、ツー・ツーという無機質な機械音が返ってくるだけ。

 どうしよう。

 連絡の交換はもちろん、女の子同士はお店の外で会うことも禁止されてる。――けど!

 気づくとタクシーに飛び乗ってた。

 お店から遠く離れたその駅は閑散としていて、スーツを着た男たちがぽつぽつとタクシー乗り場に並んでる他には、人影が無かった。私が乗ってきたタクシーにもスーツが一人乗り込んで、遠ざかってく。

 ええと、……いた、野バラ。シャッターの降りた売店の横に、ぽつんと座り込んでいる女の子の姿が見えた。

「杏ー」

 彼女はひどく酔っ払っていた。

 私を見つけると、ふわふわとした足取りのまま嬉しそうに駆け寄ってきた。

「あれ? 杏、すっぴん?」

「野バラこそ」

 お店の外で会う野バラは、全くの別人だった。つけまつげのない目はいつもの半分以下の大きさ。ファンデーションの無い頬には、ニキビの痕が浮かび上がってた。服だけが不釣り合いに武装したままで、大きく開いた胸元と出したおへそ、それだけが野バラの痕跡のようだった。

 泣き腫らしたような目元が、気になった。

「……カラオケでも行く?」

「うん」

 私の提案に野バラは、嬉しそうに頷いた。

 野バラとは随分と長い間一緒にいたけど、本当の二人きりは初めてだった。

 夏ももう終わりに近づいてるせいか、随分と涼しい夜だった。ここは随分とお店から離れた場所なので、人目を気にせず、私たちは並んで歩き出した。ヒールを履いてない野バラは私よりも身長が低くて、小さなつむじが夜の中で揺れていた。

 カラオケではあんまり話はしなかった。

 ドリンクを一杯ずつ頼んで、交代で歌った。

 私も野バラもお世辞にもうまいと言える歌声ではなく、いまいち盛り上がらなかった。お互いに持ち曲がぼちぼち無くなってきた頃、野バラはぽつりと口を開いた。

「あたし、もらっちゃった」

「何を?」

「淋病」

 りんびょう? ……――ああ。

 とっさに変換が追いつかなかったけど、その笑い方が自嘲の響きをはらんでたから、解かってしまった。

 背中がじとりと汗ばんで、悪寒が這い上がってきた。

「怖くなっちゃってさ、これがエイズだったらって」

 私は心もとなく頷くだけだった。それは、風俗嬢の誰しもが抱えてるものだった。

 もう私にはわかってしまっていた。

 野バラがどうして私を呼び出したのか、お店の規則を破ってまで私に伝えたいことがなんだったのか。

 煙草のにおいの染みついた暗いこの部屋は、随分とお店に似ている。私は靴を脱いで、ソファーの上で膝を抱える。隣には野バラがいて、こうしてるとほら、何も変わらないのに。

「……さみしいなぁ」

「ごめんね」

 野バラは私を置いていってしまう。

 カラオケの液晶では、いま流行りのアーティストが、新曲にどれほどの熱意と心を込めたかを語ってた。音と共に移り変わる液晶の光が、野バラをゆらゆらと照らしてた。

「……汚いなんて、思いたくなかったよ。でも本当になんてことないなら、杏。あたしたち、誰にも隠さなくていい筈じゃん、この仕事のこと」

 この仕事をしている女の子は、客につくたび傷ついてる。

 店長の言葉を思い出した。――そっか、あれは本当だったんだなぁ。

「……あたしは元から、キスでなんか喜べなかったよ。あたしはね、杏――」

 野バラは一度言葉を切って、まっすぐに私を見た。苦しそうに息を吸って、一気に吐き出すように。

「あたしは、割と、最初からダメだった。傷だらけで、どうしようもなかった」

 ずっと杏に言いたかったんだ。あの日、言いかけた続き。

 野バラがいうあの日というのがいつのことか、私にはすぐにわかった。

「でも杏、あんたは違うでしょ。こんな所に、いつまでもいちゃいけない」

「――でも、でも野バラ」

 動揺を隠したくて、ストローをくわえて一気に吸った。グラスの中の氷は融けて、せっかくのオレンジジュースはとても薄くなってしまっていた。ちっとも甘くない。悲しい。……うん、こんなにも悲しいような気がするのは、オレンジジュースのせいだ。

「お店の女の子たちはみんな優しいの。私、男の人を相手にするのだってやっと上手になったんだよ。それに、――それに、ええと、……」

「うん。でも、あたしはもう行くよ」

 私はなにを言えばいいのか、そもそもなにか言うべきなのか。言葉を見つけられなくて、魚のように口をパクパクさせるだけだった。あぁどうして、せっかく杏になったのに、肝心な時に言葉が出てこないんだろ。情けない気持ちのまま、それでもかろうじて頷くと、にぃっと野バラは笑った。野バラとは思えないくらい、薄い唇。

 そういえば野バラは、今日は煙草を吸っていなかったな、って気が付いた。

(……野バラとは、思えない……)

 当たり前だ。

 だってもう、野バラは野バラじゃなくなるんだから。

 ――ううん、野バラなんて、最初から。

 会計を済ませてカラオケを出ると、あたりは仄かに明るかった。始発もすでに出ているようで、ちらほらと駅に向かう人の姿が目に付いた。朝の気配。まだ涼しげな空気の中、それでも蝉の声が混じって聞こえた。

 なんとなく別れ難くて、駅までの道をゆっくり、とてもゆっくりと歩いた。

「ねぇ杏、次はあんたの番だよ」

 別れ際、預言者のように彼女は堂々と呟いた。なんの根拠があってそんな。強がって私は笑い飛ばしたけど、それなのにその言葉は、私の中にすとんと落ちた。

 ――次は、わたし。




 蝉の死骸を、避けて歩く。

 どこのキャンパスもだいたいそうだと思うけど、ここもその例に漏れず自然がいっぱいだ。そのせいで街中よりも蝉たちが多い。ひっくり返ってる蝉たちの、足の付け根の節々した感じがどうにも苦手で、私はこの季節が苦手だった。

(……夏、終わるなぁ)

 アイスクリーム、買いに行こうかな。あのクマのパッケージのやつ。夏季限定の。

 夏が終わったらもう食べれない、アレ。

「――よぅ、久しぶりだな!」

 後ろから肩を叩かれた。

 振り返らなくても、声だけで分かる。触れられた肩に熱が残る。まだ生き残った蝉たちが命短しと鳴いていて、未だ夏だということを主張してるみたいだった。

「センパイ」

 そこに立っていたのはやっぱりセンパイで、ラフなシャツにジーンズ、いまどきの大学生って感じの服装なのに、どこかあか抜けないような感じ。

 あぁ、会えるなんて。今日はいい日だなぁ。

「何やってるんだ? いま夏休みだろ?」

「提出しなきゃいけないプリントがありまして」

 私はきちんと言葉を選んで、発音する。

 もじもじすることもなく、上手に振る舞うことができるようになった。

「びっくりしました、――ちょうどセンパイの事、考えてたから」

「俺の事?」

「はい、初めて会った時の事。思い出してました」

「……どんなだっけ?」

 うーんと首を傾げて、センパイは眉間に指を当てて考える仕草をした。でもやっぱり思い出せないようで、申し訳なさそうに頭を掻いた。

 ――ほっとした。

 うん、忘れてて。無様な私を覚えていないで。

「ナイショです。普通の、どこにでもある、センパイとコーハイの出会いですよ」

「なんのヒントにもならねぇなぁ!」

 彼はちょっと不満そうに唇を尖らせて笑った。

 ――あの日をやり直してるみたい、だった。

 抜けるほどの青空に、白い積乱雲が浮かんでる。

 もしもあの日、ちゃんとお話しできていれば。ありがとうございますって笑えてれば。私は、今日と違う今日を、迎えることが出来たのかな?

「……あの、センパイ。これから二人でご飯でもどうですか?」

 センパイの動きが、一瞬、止まった。

 それからまじまじと私を見た。私も見つめ返した。先に視線を逸らしたのはセンパイの方で、俯きがちに困ったように呟いた。

「ごめん、俺、これから彼女と待ち合わせなんだ」

 そうですか。私はちょっとだけ笑って、一年前の自分には決して言えない言葉だったな、って思った。それが言えただけで満足だった。

「なぁんだ、コーハイの権利としてなにかおごってもらおうと思ったのに!」

 軽ぅく、意識して私は私の言葉を軽くしてしまう。

 センパイはほっとした風に息を吐いてから、やっぱり軽く私の頭を叩いた。

「なんだよ、タカリかよ!」

「違いますよぅ、純粋にセンパイとご飯に行きたいなぁって気持ちですよぅ」

「嘘つけ、お前の魂胆はもう分かっている!」

笑い合って、どんどん楽しくなってきて、泣いてしまいそうだった。

 ――お菓子、欲しいな。

 唐突に衝動が押し寄せた。チョコレートが、飴玉が。私を慰めてくれる、甘い甘いお菓子が!

 感じてしまったそれが、確かな中毒性を持って体中を巡ったんだ。だから、私は。

「センパイ、睫毛にゴミ付いてますよ?」

「え? どこ?」

「目、閉じてください。取りますよー」

「あぁ、うん。サンキュー」

 センパイは無防備にしゃがんで、目を閉じた。迂闊な人だなぁ。今時こんな手に引っかかるなんて。よぎった罪悪感は一切無視して、私は強引に。

 ――唇を重ねた。

 センパイが驚いて体を固くした。あ、動かないな。と思ったので舌を入れてみた。まるで自分が悪い男にでもなったかのような気分だ。最低。でもそのまま舌を絡ませる。

 真夏の暑気に浮かされた、センパイの体温。

(……あ、)

 男たちを相手に仕事をしてきた私は、その気配に敏感になっていた。

 ――欲情。

 私を欲しがる男のにおい。

 途端、センパイの舌が伸びて私の中に入ってきた。慣れていることなので、上手に対応することが出来た。なんにも変わらない。あんなに焦がれたはずのセンパイも、あんなに侮っていたお店に来る男たちも。

 不思議とドキドキしなかった。

 ただ、男のにおいだけが。

「……ふ、ぁ」

 唇を離すと、唾液の線が伸びて、すぐに途切れた。

 私、センパイとちゃんと話せるようになりたかったんです。

 ただそれだけだったんです。ホントだよ。なのにどうして、こんなことになっちゃったんだろ。

「――ご、ごめん、俺……」

 センパイははっと我に返ると、頬を真っ赤にして俯いた。動揺と性欲が半分ずつ混ざった、甘い表情。

 キスひとつでこんなにも狼狽えるセンパイが滑稽で、うらやましかった。

 ほらね、野バラ? 野バラは、私が他の女の子たちと違うと言ったけれど。私だってもう手遅れ、すっかり杏に浸食されて。どうしようもなく、見失ってしまったよ。

「なんでセンパイが謝るんですか?」

「君にその、……キスを」

「仕掛けたのは私ですよ」

「……どうして、こんなことを」

「別に。何の意味もないですよ?」

 そう、こんなことに。

 意味なんか。

「ええとセンパイ、この後待ち合わせなんですよね! 私も提出物があるので、失礼しますね! ではまた!」

 これ以上話していられなかった。はやくここから離れないと、衝動がまた。私を捕らえてしまう。

 逃げるように踵を返そうとして。

 ――名前を呼ばれた。

 それは「杏」じゃない、私の本当の名前。だから思わず立ち止まってしまった。胸が押し潰されそうに苦しくて苦しくて、ドクンドクンと頭に鳴り響いた。

「お前、俺のこと――……?」

 そんな分かりきったこと聞かないで。

 センパイがもう一度、私の名前を呼んだ。

 嘘は吐きたくなかった。けど本当のことも言えなかった。だから私は笑って、とにかく笑って、それ以外の感情など込めずに振り向いた。

「センパイ、――もう私に、」

 私が欲しかったもの。

 それは、辛くて苦いこの世界を少しだけ変えてくれる、甘い甘い――

 ――あぁ、ダメだ。

 目頭が熱くて、じわりと視界が歪んだ。慌てて目を見開いて、涙が零れないようにちょっと顔を上げた。

だってここで泣いてしまったら。

 あまりにもみじめじゃないですか、ねぇ?

「――お菓子、与えないでくださいね」

 センパイは何も言わなかった。

 容赦ない陽射しが照りつけて、喉が渇く。チカリと目の端が眩しくて見上げると、遠い遠い青空を、飛行機が雲を描いて横切っていくところだった。

 走って逃げた。

 今度こそ、センパイは追って来なかった。




「――はぁっ、はぁ、」

 走って、とにかく走って、やっと正門の前で立ち止まった。

 警備員さんが不審そうに私を見てる。顔を上げて、にっこりと笑って会釈した。そしたら警備員さんも会釈を返してくれた。

「大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です」

 声を掛けられたのは初めてだった。だけど私は落ち着いて、余裕で答えることが出来た。警備員さんは笑顔で頷いて、自分の職務に戻っていった。

 息を整えてから、背筋を伸ばして歩き出す。

 正門を出たところで、ケータイを取り出した。履歴からリダイアルを選ぶ。

『――はい、もしもし』

 ボーイさんが出るかな、と思ってたけど、聞こえてきた声は店長のものだった。

 急に緊張してきて、喉がカラカラで、せめて何か飲んでから掛ければ良かったかな、と思った。でももう後の祭りだなぁ。 覚悟を決めて、ケータイを握り直した。

「お疲れさまです、杏です」

『おぅ杏かー、急にどうしたんだ?』

「ええと、あの。私――」

 いざとなったらなんて言ったらいいかわからないなぁ。

 ぶぅん、バイクが大きな音を立てて私の横を通り過ぎていく。見る見るうちに遠ざかって、すぐに見えなくなった。それを見送って、私はようやく口を開く。

「……私、昔からずっと、野バラみたいな女の子に憧れてたんです」

『ふぅん?』

「誰とでも、もちろん異性とも上手に話せる、きらきらした女の子。それって、――夜で働くような女の子だと思った。だから、ティッシュをもらってお店に電話を掛けたんです」

 センパイと上手に話せるようになりたくて。

 私は。

 それ以外の道を思いつけなかった。

「夜に慣れていくことが誇らしくて、――誇らしかったんです、でも。私もみんなと同じように傷付きました。だから」

 杏、次はあんたの番だよ。

 野バラの声が脳裏に蘇る。

 背中を押されるように、私は自分の気持ちを素直に言葉に乗せた。

「店長」

『ん?』

「私、――お店卒業します」

『……そうかー』

 煙草を吸ってるんだろう、ふぅー、と細く息を吐く音が耳元で聞こえた。

 電話の向こうにお店の気配を感じた。

 煙草と、消毒液と、男のにおい。

 この一年のうち、長い時間を過ごしたあの場所は、確かなリアルを持ってそこにある。

『律儀だなぁ、他の女の子はみんな黙って辞めていくのに』

 店長はうそぶいて、ちょっとだけ笑った。

『お前の、そういうとこがなぁ、――夜、向いてねぇよ。だから』

 二度と帰ってくんなよ。

 それだけ言って、電話は切れた。店長らしいなぁって思った。こういうところがあるから、私は店長のことが苦手だったけど、嫌いじゃなかったんだ。

 ふぅ、と息を吐いた。

 それからすぐ、野バラに電話を掛けた。

 コール音は鳴らなかった。プツ、プツ、という短い電子音の後。

 コノ電話番号ハ、現在使ワレテオリマセン――

 ……そう、だよね。

 繋がるわけがない。

 だってもう、野バラはどこにもいないんだもの。二度と会わない。会えない。

 さぁ、私はこれからどうしよう?

 泣き笑いのような表情で、携帯電話を握りしめる。

 まずはそう、私も携帯を変えなくちゃ。髪も切ろう。

それから、――恋をしよう。とびきり幸せなやつ。

 一度ついた汚れはなかなか消せなくて、もしかしたら一生ついて回るかもしれない。何かの拍子にきっと思い知らされる、私がもう真っ白じゃないこと。

 でも大丈夫、大丈夫だよ。

 たくさんの男の人が言ってくれたもん、可愛いって。だから大丈夫。私はきっとこれから、ちゃんと、愛を見つけられる。

 ――甘い甘い、お菓子よりも甘いそれを。





 ばいばい、杏。

 二度と会わない。








貴重なお時間を使って読んでいただき、ありがとうございました。

感想・ご意見などお待ちしております。よろしくお願いいたします。

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