下縄婚姻譚 -さげなわこんいんたん- (三十と一夜の短篇第5回)
「行ってこい」と、下の方で縄にしがみつく父が言った。私は見下ろして、真下で縄を掴む妹と弟の寂しげな表情と、その下で固唾を飲んで心配そうな視線を送る母親の顔、そして、家族の一番下で何処か不安げな表情を見せる父の厳つい顔を見た。私は頷き「子供を残してきます」と別れを告げた。家族に背を向け、縄をしっかりと引き寄せる。体が持ち上がり、私は、遂に契りを結びに向かうのだという、成人男子の心意気を得た。
縄の太さが手に馴染み、独り立ちには何ら遜色ない昇りざま。私は気が昂って落っこちてしまわないよう、リズミカルな呼吸を取りながら、縄を掴んでは引き、掴んでは引き、高く高く昇って行った。少し時間が経つと、下の方から声が聞こえる。
「行けー! 行けー!」
下を見ると、点のようになった家族が、私を応援してくれているのだ。しかしそれを見ていると、少しずつ寂しい気持ちが昇ってきて、目から涙が零れてくる。ふと、視線が家族ではなく、その更に下の方に移った。そこは、赤い、赤い、血のような奈落。どこまでも広がる、果てしない”縄を垂れし者”の舌である。その瞬間、心に恐怖がせり上がってきた。ああ、なんて怖い奈落だろう。一度でも手足を滑らしたら、真っ逆さまに落ちて、ああ、ああ! 幼い頃に卒業した筈の恐怖心。たったさっきまでは色褪せていた筈なのに、今ではとてもクリアに感じられる。腰に巻いていた食料袋と骨袋が嫌に重たくなった。気持ちが呆然としてきて、今にも縄を手放しそうだった。すると、
「振り返るな! 上を向け!」
父のいっそう大きな声が私の耳に届いた。それに私ははっとなって、緩くなっていた手をしっかりと握りしめた。私は改めて点になった家族を見、唇を結び、決意して、縄を昇るべく上を向いた。妻を手にするまでもう振り返らないと、私は心に決めた。
下は赤い世界だが、上も赤い世界である。上も奈落のように血の色だったが、少しばかり暗い。これは、無量の烏が飛び交っているからだと言われている。私は、幼い頃から父母に見守られて縄を上下するばかりだったから、更に上方の世界を知らなかった。私は男であったから、父から上方の世界の話を口伝で聞いていた。 縄を上に行けば行くほど、烏は増えるらしい。烏は人の天敵で、喰いつ喰われつの関係である。人は襲ってきた烏を捕まえたり、烏が縄に産み付けた卵を捥いで食料とし、逆に烏は、人を襲って殺し、肉を穿って食料とする。上の世界はずっと遠く、父親が嫁探しに縄を昇った時は、九十回の眠りを要したらしい。たった少しの時間で家族が点のように遠く離れてしまったことを考えると、その遠さが恐ろしいほど実感できた。
私なら、どれぐらいの時間がかかるだろうか。私は父のように隆々武骨ではないから、九十の眠りそこらでは上の世界に着かないかもしれない。上の世界――そこは、私の常識が覆る場所らしい。言葉では表しがたい、と父は言った。父は”見渡すとたくさんの縄があった”と私に言った。見渡すとたくさん縄がある、とはどういう状態なのだろうか。縄とは、今私が掴んでいるひとつきりではないのだろうか。私は想像した。この縄を昇っていくと、別の縄が現れる。となれば、そこには”縄の果て”というものが出現するのだ。”縄の果て”、それは人が下の世界へ下る時――落ちることを大いに含む――絶命の際に見ゆものであると言う。如何にして、これが人に知られているかといえば、それは烏である。烏は、あの大きく黒い翼で自在”神の口内”を飛び回り、また下の世界へ飛び、その姿を見ているのだ。
遠くの祖先から私に伝わる話がある。
”縄の果て”を見知った烏が、中の世界で縄を昇降する人間の家族を見た。烏はそれに近づき、一人の少年に訊いた。「縄の果てを知っているか」、少年は「知らぬ」と答えた。父親は、その烏を殺そうと奮闘したが、烏はそれを避けて、さらに言った。「縄を下れ、少年よ。”縄の果て”を見ることができようぞ。誰も知らぬ、その父も知らぬ”縄の果て”を」少年は、それを聞いて”縄の果て”を無性に見たくなった。少年は家族の制止を振り切って、少年の下で縄を掴んでいた母親の背中も降り、下へ下へと滑るように降りていった。それ以後、少年は縄を昇ってくることは無かった。
この話は「烏に聞く耳を持ってはいけない」という戒めの話だった。烏が近づいてきたら、容赦なく叩き、捕まえ、糧とするのだ、と父親に教えられた。
話をもとに戻すと、とにかく人間は”縄の果て”を知らないのだ。だから、過去に上の世界へ行った経験のある父親が語る、縄が増えるということは、”縄の果て”を伴って新たな縄が出現することではないらしい。それを父に問うと、父は言った。
「私たちが掴んでいる縄は”腕”であり、上の世界に行くと”手”がある。そこには”指”がたくさんあり、一つの”指”を辿ると、別の”腕”の”手”に至る」
この言葉に、私はなんとなくイメージがついた。きっと両手の指を合わせたような感じになっているのだろう。私は、その”指”を辿って、別の”腕”を下り、妻を迎えるのだ。
また、父が言うには、その”指”を渡る段階が最も大変らしい。体を逆さまにして昇るのと大差が無いだとか。しかもその状態で骨袋を振り回しながら、不眠不休で行かねば、烏に殺されてしまうと言う。父はその体験を険しい顔で語っていた。如何に上の世界が過酷であるか、如何に上の世界が恐怖で充ちているか、如何に、この中の世界が平和であるか、必死に語っていた。
父は私に言った。
「少しでも早く、上の世界から去るのだ。あそこは烏の住む場所であり、決して留まってはいけない。”縄を垂れしもの”がじっとお前を見つめて、そこにいることを咎めようとしている」
私はそれを聞いて思った。
「どうして、私は上の世界に行かねばならないのですか」
父は答えた。
「結婚を果たし、子供を作るためだ」
「結婚なら、女である母とも妹ともできるじゃありませんか。子供を作るのも、母とも妹ともできるじゃありませんか」
父は「ならぬ」と首を振った。
「家族の中で結婚した者は、呪いにかかった子が生まれる。それは、烏の怨恨が取り憑いた凶暴な子供で、私達はそれによって滅びる」
それから父は、昔から伝わるある話を語った。
その家族は、昔からの禁忌を犯して、母とその息子を眠る前毎に交わらせた。その母は四十回眠った後、胎を痛めなかったので、子は孕まれた。そして、二百五十回眠った後、母は眠っている時に胎に激痛を覚えた。家族は総出で縄を弛ませ、絡ませ、赤ん坊を産み落とす場所を作った。母はそこに股を向けて、泣き叫びながら赤ん坊を産もうとした。父は黙らせようとしたが、叶わなかった。父と息子は近づいてきた烏を、骨袋で必死に遠ざけたり、撲殺した。母の膣からは、始めに赤ん坊の両腕が出てきた。それは、力いっぱい膣を広げ、裂かんとする両手だった。母はこれがために泣き叫んでいたのだ。赤ん坊の半身が露わになった時、今度、赤ん坊は両手を股に力いっぱい押し当てて、もう半身を引き抜こうとした。膣に血を流しながら、母親は更に泣き叫んだ。やがて、赤ん坊が外に出た時、母は失神し、他の家族は産まれた赤ん坊をまじまじと見つめた。赤ん坊は立ち上がり、何度もそこで跳ねて、縄で作った赤ん坊を産む場所を解こうとした。解けてしまうと、気を失った母も落ちてしまうので、家族は必死に止まるよう、きつく言いつけた。すると赤ん坊は言った。「私を食べたお前達を殺すのだ」父はそれを聞いた直後、赤ん坊の首を掴み放り投げた。
一通り話した後、父は「同じ肉を共にした人間は子を作ってはならぬのだ」と言った。私は、人が上の世界に行かねばならぬことを理解した。しかし思った。
「何故、”縄を垂れしもの”は、上の世界にだけ、”指”を創られたのですか」
「元は中の世界にもあったのだ。しかし、”縄の垂れしもの”は烏を愛するために上の世界の”指”だけを残したもうたのだ」
父は語った。
昔、中の世界にも、他の縄と繋がる縄があったが、烏はそれに困らされていた。なぜなら、烏が人を食らおうにも、下の世界に逃げられてしまうからだ。下の世界に行かれてしまうと、人は更に生きづらくなり、数を減らしてしまう。すると、烏の食べるものもなくなる。烏はこれを”縄の垂れしもの”に相談した。”縄を垂れし者”は、大きな舌で他の縄と繋がる縄を切った。縄は涎で出来ていたので、切られた縄は、別の縄と同化した。上の世界だけに他の縄と繋がる縄が残ると、人はそこを通らずに結婚を果たすことができなくなった。
「子供を残すために、上の世界へ行くのだ息子よ。女と結婚して、”父”と再開するために、多く強かな子供を残すのだ」
話の最後に父はそう付け加えた。私は頷いた。
それから、家族と暮らす中で、私は何度も父が語る話を復唱し、次の子供に言い伝えるために覚えた。今の私の心には、それらの話が一言一句正確に覚わっている。そして、この長旅で忘れてしまわないように、縄を引くたびにその内容を口に繰り返した。
ふと、私は上を見上げて、縄の伸びるずっと向こうに、粒のように小さい手の平があるのを考えた。幻の手の平を目指して、私は何度も何度も力強く縄を引いた。
私は旅の最初から、将来のことを考えて食料の収集に励んだ。道中の食料は当然、旅の始まりで家族が腰に巻き付けてくれた量では足りない。だから、途中で烏の卵を捥いだり、飛んできた烏を捕まえて殺さねばならない。烏の卵を捥ぐのは簡単だ。縄を昇っていると、烏が産み付けた卵がついていることがある。ただ、それを手で捥げばいいのだ。しかし、卵だけではとても腹を満たせない。だから烏を捕まえる必要があるのだ。まず、周囲を良く見渡せば、赤い世界の中に黒い点があるのがわかるだろう。それが烏だ。そちらに向かって大声を出す。そして、烏が近づいてくるから、これを捕まえる。烏を捕まえる時は、腰に巻いていた骨袋を使う。家族が旅の始まりに授けてくれた骨袋である。骨袋は、烏の消化器官の先を結んだものに、卵の殻や烏の小さな骨、内臓を詰めたもので、細長く、特に先が膨らんでいる。これを手にもって、近づいてきた烏に振り回す。ここで、叩くようにしてはいけない。確かに撲殺することもできるが、遠くで殺してしまうと、その烏は落ちるばかりで何の腹の足しにもならない。しかも、骨袋はあまり丈夫ではないから、いっそうそれで殺した烏を無駄にすることはできない。だから、叩くのではなく、相手の首に巻き付けるようにして振るのだ。これが、烏の首を絞めるようにして絡まったら成功である。首を絞められた烏は飛べなくなる。しかし、しばらく羽はバタつかせている。足で攻撃されないようゆっくり引き上げて、今度は自らの手でぐっと首を絞める。これは、縄を掴むよりも楽なことだ。やがて烏は絶命し、見事烏の肉を手にすることができる。
烏の肉を食べられる状態にするには、まずその場にとどまり、両手を自由にする必要がある。だから、まず縄をしっかり握った状態で、両腿に縄を挟み、腰を捩じる。すると縄が持ち上がるので、片手でそれを引っ張り上げる。これを肩にかけて、同じことを反対の肩にもする。こうすると体が固定され、両手が自由になる。最初に、烏の羽をむしり取る。それから烏の肛門に手を突っ込んで、糞を掻き出しながら、内臓も少し捥ぎ取る。あとは、腰の食料袋から取り出した烏の下顎の骨で、烏の肉を削いでは、同じ袋に詰め、削いでは詰めを繰り返す。もし満杯になったら、別に用意した消化器官の袋にいれてもいいし、それも無かったら、その場で食べてしまうか、削いでいる烏そのものの口の中に押し込めてしまうのも良い。後者は遅いか早いかの問題でしかない。肉を全て削がなくても、烏ごと腰に巻き付けてしまえば、運ぶことはできる。むしろ余裕がありすぎる時はそうすることが多い。旅の一日目は、まさにその状態である。私は、髪を数本千切って烏の首に括り、母の髪でできた腰帯にしっかり結び付けた。こうして烏の死骸は骨袋と同じように腰からぶら下がる形になった。対して食料袋はしっかり腰帯を内・外と周回するように体に密着させる。食料袋はたくさん肉が詰まっているので重く、袋がちぎれてしまいかねないからだ。とにかく、一仕事終えて、私は再び縄を昇ることにした。
体を固定していた縄を解くとき、注意しなくてはならない。慎重にやらないと、腰の袋が絡まってちぎれてしまうかもしれないし、自身がバランスを崩して、縄を手放してしまうかもしれないからだ。私は、慎重に、慎重に、体を固定するときと逆の手順で縄を解いた。最後には縄を両腿で挟んだ状態で、腰を元の位置に戻し、いつもの体勢に戻った。
私は縄をしっかりと掴み、少しだけ重くなった体に満足しながら、着実に、着実に昇り始めた。
旅の始まりから三回の眠りまでは、後ろ髪を引かれる思いだった。家族のことを想っていたのだ。四回目の眠りになると、一人で昇ることが誇らしくなった。十回目の眠りで、一つ目の骨袋が壊れた。袋の先が破れて、骨と内臓が飛び散ったのだ。新しい骨袋を整えて、腰に装備した。さらに五回眠ると二つ目の骨袋が壊れた。これで、家族が用意してくれた骨袋はあと一つになった。三回眠って、更に骨袋が壊れた。しかし、これは私が作った骨袋だ。家族から貰った最後の骨袋はどうしても使うことができない。新しく二つの骨袋を作った。腰には四つの骨袋と三匹の烏。
三十回あたりの眠りを過ぎると、腰の食料袋のようにたっぷりと自信がついた。私は家族のことを想いながらも、完全に一人で生きられるように立派なっていたのだ。私は、一心不乱に縄を昇り続けた。
四十回目の眠りから覚めて、縄を昇る体勢に戻そうとしたとき、私は失敗した。体を固定していた縄を慎重に解き損ねて、腰の骨袋を巻き込んでしまった。髪の毛はそれに耐えられずちぎれ、下の世界へ落下した。更に最悪なことに、その拍子に今度は烏も縄に巻き込んでしまい、今度は、腰縄がちぎれた。全ての烏と、骨袋と、食料袋がばらばらと落下した。私は慌てて、片手を縄に、もう片手を落ちていく装備たちに手を伸ばした。間一髪、私は縄を掴み、更に片手には骨袋が一つだけ握られていた。冷や汗をびっしょりとかきながら、私は縄に抱き着く。懐かしい恐怖が再臨した。落ちるという恐怖を、旅の始まりと同じように味わった。いや、同じではない、とても比べられない、とてつもない恐怖だった。落ちていく、粒になっていく装備を見た。汗水たらして集めたものが、残酷にも下の世界へ吸い込まれていく姿を見た。そして、自分自身もそのとき、まさに吸い込まれようとしていたのだ。落下するということを、一瞬でも体験したのである。私は涙を浮かべて、赤ん坊のように泣きたくなった。でも泣けば、烏が近づいてくるだろう。骨袋一つではなんと心もとない、しかも気弱な今の気持ちとあっては、とても烏など取れまい。私は、ただ声を殺すようにして、縄に抱き着きながら涙を流した。私はとても立派になどなってはいなかった。まだ、お調子者の子供に過ぎなかったのだ。とても自分が情けなくなって、縄を昇る自信も失った。私はただ、母に抱き着く赤ん坊のように怯えては、腰を丸めて泣いていた。ふと、私は握っていた骨袋を見た。それは、よくみると、家族が旅の始まりに用意してくれたあの、最後の骨袋であった。ここで私は再び涙を流した。四十の眠りも家族に会わずして、九死に一生の危機に掴んだ骨袋が、家族手製の物であるとわかると、それはまるで、家族と再会したような気持になって、私はその骨袋を胸にもっていき、上を向いてはしゃくり上げた。
そうして、家族を胸に当てていると、だんだん気持ちが落ち着いてきて、昇らねば、是が非でも昇らねばという気持ちになった。家族との別れに聞いた力いっぱいの応援に、なんとしても応えねばという気持ちになった。半べそながらも、私はもう一度縄を操って体を固定した。それから、髪を千切って腰に結んだ。そこに骨袋も結び付け、出発の準備を整える。今度は絶対失敗しないよう、慎重に慎重に縄を解き、いつもの体勢になった。一回深く呼吸して、カッと上を睨み、一回一回、縄を手繰り寄せた。
凄まじい恐怖を感じてから初めての眠りにつく前に、私は二匹の烏を捕まえた。この骨袋が壊れたら全てが終わるという恐怖に駆られながらも、なんとか袋が破れることは無かった。思い返せば、家族が作った骨袋は持ちが良いのだ。私は不器用で、すぐに壊れてしまう。こういうことからも、家族の偉大さというものを感じた。二匹、二匹あれば、最低限凌ぐことができるだろう。なんとか、私は命を繋いだのだ。しかし、気を抜いてはいられない。食料袋を作り、それが満杯になるまでは、とても安心などできないのだ。だが、食料袋を作る前に、食料を増やすための骨袋を拵える必要がある。私は、体を固定して、烏を解体し、削いだ肉はできる限り食べるようにして消化器官を露わにし、食べられなかった肉は腰帯と肌の間に挟んだり、骨袋に少しだけ詰めてたり、どうしてもとなったら、下の世界へ捨てた。そして、私の装備は、肉で嵩増された骨袋となった。家族の骨袋は装備としては数えなかった。
例の危機から三回眠ると、骨袋は三つに増えた。更に、食料袋も腰に拵えていた。努力の証だ。これもすべて、家族の丈夫な骨袋のおかげということになる。その骨袋は、普通の骨袋とは違い、食料袋と同じように腰帯に巻いていた。
更に五回眠り、食料袋は満杯になった。私はついに、自力で万全な状態に戻ることができたのだ。私は、脇腹の方で巻いていた骨袋を撫でながら、家族に感謝した。そして、今度こそは、調子に乗ったわけではない、確かな自信がついたと思えた。私は、一人で生きる力がある。上の世界に行って、別の縄に移るという決意が、確かなものになった。私はまた力強く、縄を手繰り寄せた。
六十回目の眠りの後、上を見上げるが、まだ”手の平”は無いように思える。父が九十日で至ったと考えると、もう半分は過ぎたと思えるが、まだまだ遠いようである。
七十回目の眠りの後、まだ”手の平”は見えなかった。少しばかり上の世界が暗くなったように思えるのは気のせいであって欲しかったが、飛んでいる烏が増えているという気持ちが、心の奥底にあった。
八十回目の眠りには、用心して手の平に骨袋を握っていた。本当は、眠っている間でも烏の羽ばたきが耳に入った瞬間に目が覚め、直ぐに骨袋を手に持つことができるのだが、言い知れぬ恐怖から睡眠時でも持っていないと安心できないようになっていた。まだ”手の平”は見えない。
九十回経っても、百回経っても、まだ”手の平”は……。
百回の眠りを過ぎたあたりから、烏の増加は確固たるものになっていた。周囲を見渡せば遠くに黒い点がいくつも。それらが全て私を捕らえようとしているようで気が気でなかった。事実、襲ってくる烏の数は増えている。おかげで、骨袋は消耗し、その分烏から作らねばならないから、以前と変わり遅々として縄を昇れない。始めは二回の眠りの内一羽狩れれば上々のところを、今では一回の眠りごとに三羽飛んでくる。切りが無いから、捕まえはせず撲殺することもあった。私は父の言葉を思い出した。上の世界は過酷である、直ぐ立ち去らなければならない、特に”指”を進むときは不眠不休であらねばならない。もしかしたら、ここはもう上の世界の一歩手前であるのかもしれない。”手の平”はまだ見えないが、今にも不眠不休の時がやってくるかもしれない。だとしたら、慎重に昇っていくべきだろうか。襲ってくる烏を丁寧に捕まえ、その時に備えて着実に、安全に昇っていく。心がだんだんその気になって、いよいよかと、緊張してきた。父が九十回の眠りで昇り詰めた場所が迫っている。私はそれに備えて、怯えながらも少しずつ昇っていくしかない。
そして百七回目の眠りを前に、ついに私はその”異形”を目に捉えた。始めは疑いだった。縄昇りに披露して、見えざるものが見えているのではないかと思った。しかし、少しずつ近づくにつれ、それははっきりと形を成し、この私を驚愕の眼に瞠らせるに至ったのだ。
それは、私が見上げる上の世界全体に広がっていた。黒子のように黒く、縄のように長い。それが、何本も、私が握るこの縄を中心としてあらゆる方向に伸びていた。そしてそれが伸びる先は――わからない。いうなれば、”世界の果て”に伸びている。世界の果て”、これは”縄の果て”ではない。”縄の果て”は下の方にある。ならば”世界の果て”は上の果てか言われればそうではない。上下どちらにもあらず、それは、私たち家族が普段”周囲”と呼んでいた、まさにその果てである。
あの”黒子のように黒く、縄のように長い”ものは、父の言った”指”なのだろうか? だとするならば、あの”指”は”世界の果て”まで伸びているのか? そんなはずはない。何故ならば、”指”は別の”腕”に繋がっているはずなのだから。しかし、あの異形の端を見定めようとすると、どうしても信じられない。あれが、”世界の果て”という、恐ろしい場所に伸びているようにしか思えてならないのだ。
”世界の果て”、そこには、あの恐ろしい大烏が住んでいるとされる。大烏は、特に”縄を垂れしもの”に見入られた、普通の烏を何千羽も集めたような巨大な烏で、私達のような卑小な人間など、あっと言う間に一飲みにしていしまうと言われている。大烏に見つかった人間は、絶対に生きて帰れないとも言われている。それ程に恐ろしい存在が、あそこには住んでいるのだ。私はこれから、あそこに行こうとしているのか? そんなばかな! そうすれば私は死んでしまう。家族の応援も無駄になってしまう。
私は、本当は自分が昇っている縄の先が、もっと続いているのではないかと期待した。あの異形が”指”ではない、つまり”腕”の先である”手の平”から伸びているのではないことを期待した。しかし、縄の先をどう眇めて見つめてみても、まさにあの異形のところで切れているようにしか見えなかった。そんなばかな、そんんあばかな、と私は何度も心で唱えた。どうか見間違いでありますようにと、三回の眠りをかけて縄を昇っても、その切れ目は確信に変わるばかりだった。
あれが、”指”なのか。
となれば、私は”世界の果て”まで続きそうなあの”指”を進まねばならないのか。何回も眠って、尋常でない恐怖に揺すられながら。
眩暈がするようだった。あの場所に至る前に、私はもう死んだ気にもなっていた。しかし、そんな心を何としてでも押さえつけるために、脇腹の骨袋をさする。家族が与えてくれた骨袋、私の危機を救った骨袋、今の私には何物にも代えがたい大切な骨袋だった。しかしそこに詰まっているのは、決して骨や内臓だけではない。もうすっかり遠く離れてしまった家族の応援、一生の危機を乗り越えた凄まじい経験、私の大切な想いが、そこに詰まっていた。
私はそこに込められた決意を果たすために、今一度あの異形の”指”を見上げる。絶対に妻を迎え入れる。必ず子供を残す。そんな強い思いが、震える私の心身を落ち着かせて、私はまた上へ、その手の平を伸ばした。
不眠不休で進まねばならない。これは、寝ることができないほど烏に襲われるということを意味していたのか、詳しいことは聞き損ねた。しかし、眠ることができないということは、体を固定する暇がそう無いことを意味しているのだろう。だから、骨袋を十分に用意し、食料袋も万全にしておく必要があることは予想できた。必要とあれば、全くその場から動くことなく、ただ烏を呼んでは捕まえ、装備を整えることに徹する時もあった。また、縄を昇りながら、あの忌まわしい縄の先を見つめては決意を固めていた。私は昇らねばならない、妻を迎えるためにあの”指”を進まねばならない。例え、それが”世界の果て”繋がっていたとしても。私は、これをどうあってもやり遂げなければならない使命があるのだ。
あらかじめすべきことは全てやった。食料も武器も万全を期した。決意も骨のように固めた。全ての想いを脇腹の骨袋に精一杯込めた。私は、これまでにない自信、決心を心に秘めていたのだ。
それを簡単に捨ててしまえることなど有り得なかったはずだ。それなのに、
なんだこれは、知らない! 私はこんなの知らない!
私は、今まさに”指”に手を掛けていたが、全く進むのを恐れていた。それは、”落ちる”という恐怖とは違う、いや、その恐怖に更なる別の形の恐怖が、心という袋の中で一緒になっていた。
昇れど昇れど、縄の先には”手の平”など窺えなかった。ただ、たくさんの”指”が、そこから直接伸びているようにしか見えなかった。黒子のように黒かったそれは、近づくほどに色を変え、百十五回目の眠りを過ぎると、縄と同じ色がはっきりと見えるようになった。やはりあれは”指”なのだ。それが伸びる方向は相も変わらず”世界の果て”。迫る時に緊張は高まるばかりである。
私は、縄を昇りながらも、あの”指”を観察し続けた。それは、いつも私が掴んでいるような、何の変りもない縄だ。そして、だいぶ近づいたとき、見渡せる烏も中の世界に比べれば、多く点々としているが、その中で襲ってくる烏を捌けないほどといったようでもなかった。私は、父の不眠不休という言葉を思い出し、どうして、あそこでは休むことができないのだろう、と思った。体を固定し、眠る余裕は有るとしか思えなかったのだ。あそこにゆくと、烏がたくさん襲ってくるのだろうか? それは、縄が上の世界にしかない理由が述べられる話を思い出す。烏は、食料である人間が必ず上の世界にやってくるよう仕向けたのだった。私は身震いする。それなら、確かに休む暇もないかもしれない。懸命に骨袋を振り回し、烏を撃退しては先に進む。相当疲れる旅になるだろうと、私は唾を飲み込んだ。腰には骨袋を八つ吊っている。全て、烏を倒すための物だ。糧とするための道具ではない。そのために、腰帯にしっかり巻いた食料袋は、三つも用意してある。これで足りるだろうか。しかし、これ以上身に着けることは難しい。私は、この装備で覚悟を決めるしかなかった。私は、力強く縄を引き続ける。
百二十三回の眠りを過ぎて、遂に私は縄の先を掴んだ。
ここが、上の世界か。
怯えながら見渡す。遠くに見える烏の量はとても数えきれないほど。そして、”世界の果て”に何本も縄が伸びている。
どの縄を選ぶべきだろうか。しかし、考えている訳にはいかない。私はいち早く、この上の世界を去らねばならないのだから。
私は、遂に一本の縄を選び、そこに片手を掛けた。しかし、いつもと縄を掴む手の方向が全く違ったので、違和感が心の底から押し寄せてきた。私はなんとかそれを抑え、もう片手もその縄に掴む。だが、ここで違和感が更に増した。
おかしい、何かが甚だおかしい。
私は片足を昇ってきた縄に絡めさせ、もう片足を、”指”の縄に掛ける。
わあ、わあ、嫌だ。無理だ、なんだこれは、ああ、おお、お、恐ろしい!
体が下の世界に引っ張られていた。それは常にわかっていたことだ。しかし、私はめいっぱい見上げる。見上げたら、下の世界があった。私は、見上げた方向に引っ張られいてるのだ。こんなこと、見たことも、感じたこともない。これはまるで逆さまだ!
私は縄を抱くようにして、縮こまった。体がとても震えている。こんな、よくわからない方向に引っ張られている縄を、これから休まずに進まなければならないということか。私は、恐る恐る、昇ってきた縄に絡めていた足を解く。途端、その足が暴れ出した。いや、私自身が慄いてわけがわからなくなっているのだ。とっさに、”指”にかけて、体を停止させる。私は、縄に貼り付いた烏の卵のように、じっと動かないままでいた。ぎゅっと”指”を、母の体であるかのように抱きしめ、柔らかい胸の谷間で泣きべそをかくように、額を硬い縄目に当てて涙を流した。体は震え、強張り、とても進めるような状態ではない。ましてや、進むと言ってもどのように? 背中から引っ張られている体勢で、どうやって四肢を動かし進んでいくと? 今抱きついている体勢ですら辛いのに。
腰にたくさん装備した袋が、いっそう私を下の世界へ落とすことを手伝っていた。私は泣きながらも、烏が襲ってくることを恐れて、少しでも縄を進むことにした。片手をぐっと伸ばし掴む。そして反対側の足を、膝裏を縄に掛けながら、擦るようにして腹に寄せる。もう片手、片足でも同じことをして、縄を引き寄せるようにする。すると、体がぐっと進んだ。
これで少し進めた。これを繰り返せば良いのだな。
私は同じようにして前に進んだが、三回繰り返した後に、ふと股間を除くようにして下を見ると、私が昇ってきた、家族と過ごしてきた一本の縄があった。途端、言いようのない寂しさが込み上げてくる。もう一度あそこに戻って、冷静になろうか。体勢を立て直して、”指”を進み直そうか。そう思って、今度は逆の手順で縄を退こうとするが、足が強張り伸ばすことができず、うまくいかない。
進むしかないのか。
私は、あの縄と別れたくなかった。できることなら、ずっとあの縄で暮らしたいと思った。しかし、もうそれは叶わないのだ。今度こそ、声を張り上げて泣きたかった。でもどうしてそれができよう? 私は烏を恐れて、体を縮こめ、声を殺して泣くことしかできなかったのだ。
”指”を進み始めてから、一羽目の烏が現れた。私は縄を強く抱きしめて、骨袋を片手で振り回した。しかし、いつものように手際よく烏を倒すことはできない。せめて、突かれないように近場から追い払うことがやっとだった。しかし、長い攻防の末、偶然、骨袋の先が強く烏の頭に当たり、その烏は落ちていった。なんとか場を制することができたのだ。だが、いつまでもこのように長い戦いを強いられては、とても前に進むことはできないだろう。私は、”別の腕”に至る旅路がとても長いように感じられた。それでも進まねばならない。私は、縄を引き寄せる両手を確保するために、骨袋をもう一度腰縄に括り付けなければなかったが、それには体を固定する必要があり、そうしようとした。しかし、どうしてもうまくいかない。いつものように縄を両腿で挟み腰を捩じろうとした。だが、そうすると腿が滑り、危うく落ちそうになった。冷や汗が噴き出す。とても、体なんて固定できない。父がかつて言った、不眠不休の意味が分かった。”指”では、烏が多いので体を固定する暇がないのではなく、本当に、固定できないのだ。全ては、体を反らすようにしたとき上に見える、下の世界のせい。下の世界は、この辛い体勢の中で、落ちろ、落ちろと念じかけてくる。これでは、本当に眠ることもできないではないか!
父の言った通り、ここは過酷な世界だった。いつ骨袋、食料袋がつきるかわからぬ。先は遠く、眠ることもままならない。こんな場所を、どうやって父は生き抜いてきたのか。私は父の顔を思い出し、その厳かな表情の裏にある苦労を覗き見た気がした。
私は仕方なく、骨袋を口に加えて進むことにした。そこに垂れていく涎が、次々と下の世界に落ちていく。
それからの旅は凄惨だった。眠ることはできず疲労は貯まる一方。本当ならどれだけ眠る筈だったのかもわからぬ。襲ってくる烏に、骨袋は、次々と破けていった。食料袋も底をつく。私は、残った三つの骨袋を使って烏を捕まえては、片手片足を折って縄に掛け、羽をむしり取ってから、そのまま齧り付いた。既に、以前のようなやり方では、生き抜くことなど不可能になっていたのだ。もし、この三つの骨袋さえも、尽きてしまったら――それでも何とかするしかない。幸いにも、体を固定とまではいかないが、烏の羽をむしる時のように、両手を少しだけ自由にする術は身に着けている。その体勢で新しい骨袋を拵えることは何とかできるはずだ。
しかし、何にせよ、とにかく眠い。頭がぼうっとして、気を抜けば、縄から滑り落ちてしまいそうだ。何とか目を覚ますために、捕まえた烏の脚の爪で、体を傷つけたこともあった。少しの流血と引き換えに、痛みで目がかっと冴えるのだ。それを繰り返したせいか、烏に突かれたわけでもないのに、体中に浅い傷がついている。もう多少の痛みでは何ともならぬ。目を覚ますために、傷口を繰り返しひっかくことが増えた。
この体を傷つけてでも、私は前に進まなければならない。子供を残さねば、人に未来はないのだ。なんとしてでも、この”指”を渡り切る。将来の子供に聞かせるための話を復唱することも止めていなかった。縄を引き寄せるごとに、一句語り、そうすると、眠気も忘れられるような気がする。私は執念深く、縄を進んでいたのだ。
そして、満身創痍で、縄を進んでいたある時、私は怖ろしいものを見た。それは遠くの赤い世界に見えた黒い点で、始めは唯の烏だろうと、他の黒点と区別を付けなかった。しかし、時が経つごとに、その黒点は大きくなっている。烏が近づいてきたかと思って、いつでも骨袋を握る決心ができていたが、それは大きくなるばかりで、決して近づいているわけではないのだ。
まさか、とは思いたくなかった。しかし、そういうことではないのか? 私は汗を垂らし、じっと、じっとそれを見続けた。そして、それは確信に変わった。
大烏だ。大烏がこちらに近づいてくる! 私は思わず声を上げて驚いた。両手を放しかけた。その反動で、ぎゅっと縄を抱きしめる。縮こまりながら、今一度、その烏の方を見る。それは大きな羽を羽ばたかせ、周囲に大量の烏を従わせて飛んでくる大烏だった。
まさか、私を狙っているのか? 私は、あの大烏に食べられてしまうのか?
考えたくない。ここで終わりだと思いたくない。私はせめて、ここにいると気付かれないように、じっと動かず、ただの縄の一部であることを主張した。
どうか、何もなく通り過ぎてくれますように。
心に強く祈る。しかし、どうしてそんな簡単に事が済むだろう?
もう大烏はすぐそこまで迫っていた。大烏に先行していた大量の烏が、一斉に私に襲い掛かってきた。私は怯えながらも必死に抵抗した。口に加えていた骨袋を手に持ち、必死に振り回す。しかし、それはあっけなく食い破られてしまった。ばらばら、と骨が散っていく。大量の烏はその間にも、私の体を突いてきた。特に傷口を突かれてはたまったものではない。私は全身の激痛に悶えながらも、新しい骨袋を腰帯から千切る。しかし、なんとそれはもう食い破られていたのだ。唖然としながら、もう一つ、最後の骨袋を千切る。不幸なことに、これももう使い物にならなくなっていた。私は絶望した。もう、ここまでだ。私はただ生まれたての赤ん坊のように、泣き叫ぶしかなかった。
その時、大烏の巨大な羽ばたきが、私の周囲の烏を吹き飛ばした。そして、縄が急に大きく弛んだ。
恐る恐る、力んでいた瞼を開けると、そこには、巨大な大烏が、私を見下ろしていた。巨大な足を器用に縄にひっかけ、縄の上に留まっているのだ。
「いやだ! 止めてくれ! 殺さないでくれ!」
そんな言葉が通じるわけもなく、大烏は見るも恐ろしい視線を私に刺してくる。胸の鼓動がバクバクして、体の力が次第抜けていく。
私は、最後の最後に、腰のもう一つの骨袋を掴んだ。それは、ずっと残していた家族から授かった骨袋だ。窮地を救ってくれたこの骨袋に、私はめいっぱいの力を込めて振り回す。
ところが、悲しいかな。それも呆気なく、烏の大群に喰い突かれ、破けてしまった。骨はばらばら落ちていき、私はそれを目で追ってしまう。下の世界へ、吸い込まれていく。
恐怖のあまり、ついに私はその縄を手放して、下の世界へと落下した。私は、全てを終わってしまったんだと、家族の顔を思い浮かべながら、凄まじい眠気の中に気を失った。
目が覚めると、赤い世界がだった。風がびゅうびゅう吹いていて、まだ落ちているのかと私は思った。しかし、ふと首を曲げた時、それは違うことが分かった。
巨大な黒。それは、大烏の体だった。わっ、と大きな声を上げ、体を縮めようとするが、それはできなかった。ここで私は、自分が大烏の足に掴まれているのだと気付いた。凸凹とした、凶悪な足だ。大烏は、私をどこかに連れて行こうとしているのだ。何とかして、足から出ようとするが、びくともしない。むしろ、私がもぞもぞしているのに気付いたのか、いっそう強く締め付けられた。あまりの痛みに悶絶する。
一体どこに連れていくつもりだ。私は不安に駆られた。動かない体で、必死に首を捻る。すると、遠くの方に、何かあるのがわかった。何だあれは。目を眇めてみると、そのまわりに黒い点がいくつも飛んでいる。あれは烏だろうか。しかし、肝心の”何か”の正体がわからない。大きいが、それ以外のことはわからない。強いて言えば、烏の卵を捥いだ痕のような、固まった糞が抉れたような形をしている。
その時、私ははっとした。大烏は”世界の果て”に住んでいるとされる。もしや、あれこそが”世界の果て”なのではないだろうか? もしそうなら、私をそこへ連れて一体何をするつもりだ。一度あそこに運んで、休みながら食べるのが、この大烏のやり方なのだろうか。
しかし何を思おうとも、私に為す術はなかった。
終わった。全てが終わったのだ。私はいよいよあそこに連れ去られ、大烏に食べられるのだ。子を残せなかった。ごめんなさい父よ。ごめんなさい母よ、ごめんなさい可愛い弟、妹よ。
そう悲観する間にも、大烏はどんどんその場所へ近づいていく。そして、遂にその上を飛ぼうとするときに、私は奇妙なものを見た。
あれは、人だろうか。
大烏の住処には、多くの人間が紛れいてた。糞が固まったようなものの上で、一方ではたくさんの人が隙間なく集まり、一方ではたくさんの人が二人一組になって、至る所で股間を合わせていた。
なんだこれは、と唖然する間に、大烏は大きく旋回した。いっそう強い羽ばたきが髪の毛を暴れさせ、思わず目を閉じる。飛ぶのが速くなったかと思うと、私は宙に投げ出された。
うわああ、と叫びあげた瞬間、私の全身は次々と硬いもので叩かれた。それが止むと、私は半身に奇妙な感覚があることを知る。はっと目を開いて辺りを見回すと、私はあの糞をかためたような抉れた場所の中にいた。半身が、その抉れた場所に接していたのだ。こんな感覚、今まで感じたことが無い。私は節々の痛みも忘れ、その感覚に驚愕していた。腹を固い糞にあてがった。背中を固い糞にあてがった。手足を、顔を、その固い糞に擦りつけた。これはまるで、巨大な”子供を産む場所”の上に産まれたような、そんな気持ちだった。
奇妙な感覚に囚われていると、すぐそばに一羽の烏が降りてきた。烏は足を固い糞の上でに接し、なんと言葉を放した。
「おい、お前は、そこの女に、種を付けろ」
思わずひっと慄いて、肘を固い糞に打った。さっきの『全身を叩かれた』ような痛みは、固い糞に体を打ち付けたためだと気付いた。
「聞いていたか。お前は、そこの女に、種をつけろ」
喋る烏は尖ったくちばしで斜め後ろを指し示した。びくびくしながら、体全体を固い糞に接しながら後ろに捻ると、そこには、女がいた。
「種を付けろ」
烏は繰り返し言った。
「なんでお前の言うことを聞かなければいけないんだ。私をもとの場所に返せ!」
「言うことを聞かなければ、お前は食べられてしまうぞ」
烏は斜め上を見上げる。つられて私もその方向を見ると、遠くで大烏が固い糞の上に降り立っていた。そして、嘴を下の方にやってから元に戻すと、その先には肌色と血の赤がびっしょりついていた。
ひいっ、と私は声を上げ、すぐに目をそらした。あの大烏は人を喰っていた。言い伝えは本当だったんだ! この烏の言うことを聞かなければ、私もあの嘴の先の人間達のように。
「さあ、種を付けろ」
私は心底怯えながら、示された女に近づいた。固い糞の上は当然ながら初めてなので、必死に手足を動かした不格好な近づき方だったと思う。しかし、その女は全く意に介さずといった様子で、それどころか心ここに在らずといった印象だった。私がすぐ傍まで来ると、その女はこてんと背中を固い糞に預けて、股を私に晒した。しかし私は勃起しなかった。それよりも恐怖が体を飲み込んでいたからだ。
「早くしろ」
烏は急かした。私は、大烏に食べられてしまう恐怖に何とか、勃起しろ、勃起しろと心に念じた。すると、少しだけ勃ったので、それで何とか交わった。烏はその様子を確認すると、どこかへ去っていった。このとき、結局私は種を出さなかった。
その後も、烏は何度もやってきては、私たちに交わることを強要した。私は、大烏の食料になるのが怖くて、したくなくても、しているふりをするように努力した。何度目に烏がやってきたとき、烏は口に肉を咥えていた。
「飯だ」
烏は、それを私たちの前に投げやった。すると、今までうんともすんとも言わず、瞳すら動かしもしなかった女は、急にぎょろりとそちらを見て、もぞりと手を伸ばした。私が接していた体を放すと、女は慣れた動きで、肉に近づいていった。固い糞の上が初めての私には、こればかりは参考になる動きだったので、真似して同じように近づいた。女は、ただ肉を掴んでは口に運んでいた。その瞳には何も映っていない。私は、その様子を非常に気味悪がりながらも、同じように肉を食べる。途端、嫌な味が口の中に広がった。烏はその表情に気付いたか、
「おいしいか?」
と、わざわざ聞いてきた。しかし、私は敢えて頷いた。正直に言ったら、それこそ大烏の元に運ばれてしまうかもしれないと思ったからだ。
「おいしいだろう?」
烏は、からかうような声で言った。
「当然だ。大烏様の残飯だ。ありがたく食べるがいい」
私は思わず吐き出した。『大烏様の残飯』とは、つまり人の肉ではないか。そんなものを食べさせられていたのか。私は堪えきれなくなって本心を吐き出した。
「ふざけるな、どうして人の肉など食べられる。私は烏の肉しか食べないぞ!」
ここで、私ははっと口を押えた。しかし、烏は特に怒ることはせず、こう言った。
「烏を喰った人間などどうして大烏様の食事にできようか? それは烏が烏を喰らっているのと同じだ。だから、お前は人の肉を食べ続けるのだ。それに、お前はその肉がうまいと言っていたではないか」
烏は、最後に肉片一つを加えて飛び去っていった。私は呆然として、ふと女の方を見る。女はしきりに肉を掴んでは口に詰めていた。
「おい、やめなさい! それは人の肉なんだぞ!」
私は女の手を掴んで止めさせたが、女は全く聞く耳を持たず、咀嚼しては、もう片手で肉を拾っていた。私は、その女を同じ人だと思いたくなかった。こんな奴が、人の形をして隣にいることは、恐怖そのものでしかなかった。
ここから逃げ出そう。そう思った。しかし、どうやって? 固い糞の上を移動する事すらままならないのに、どうして逃げられると? 私は、周囲を見渡す。そこは巨大な固い糞。遠くでは人が交わったり、子供をあやしているばかり。ここは、大烏が多くの食料を得るために人間を繁殖させる場所なのだ。そして私もその一部になってしまった。私はまだ生きていたが、既に死んだようなものだった。
烏は何度もやってきた。それは、私と女が交わっているか監視するためにでもあったし、人の肉を運んでくるためにでもあった。人肉は我慢して食べるようにした。少しでも食べて身を生かさねば、いつか逃げられる時が来ても、逃げられないからだ。交わる、食べる、交わる、食べる。あまりにも単調な生活だった。一応、時々に眠ることもした。眠ることは許されてるようだ。目が覚めた時、あの烏がこちらを見ている時があったが、特に咎められなかった。だから、どうしてもいやになった時は、眠ることにした。眠ると、昔の記憶が流れてくることが有る。
例えば、次のようなこと。
人の足の底が平たいのは、大昔、人が”チ”なる足の底と対を成す平たい場所とくっつき合わせるためであったと伝えられている。”チ”は下の方に広がっていたらしかった。それを始めて母親から聞かされたとき、私は下の方をずっと見て、赤くどんよりと広がっている奈落を「あれが”チ”か」と母親に尋ねた。”チ”を”血”と同様の類だと思ったのだ。母親は首を振り、違うらしいと、母自身も”チ”なるものの姿を掴み兼ねているようだった。母親は、”チ”は肌や縄のような色をしていると言った。私は、奈落の底に巨大な足の裏がこちらを見ているのを想像した。果たしてこれが古に存在した”チ”なるものなのか、それとも違うのか、それはわからない。母親は両足をしっかり縄に絡めさせ、片手で幼い私を抱きかかえたまま、もう片手で縄を引き寄せた。ぐっと体が持ち上がり、母親は両足を器用に動かして、再びしっかりと縄に足を絡ませる。そうやって一本の縄を昇っていく。”人”とはそういう生き物だと、私は教えられた。
もう縄を昇っていないことを考えると、私はもう人ではないのかと考えた。そして、固い糞を触り、足の裏を接してみると、これが”チ”なのかもしれないと思った。たしかに平たい場所だ。もし、これが”チ”であるならば、大昔はもっとたくさんの烏がいたのだろうか。それに対し人々はどのように生きていたのだろうか。分かるはずもない答えを探す空想が始まる。
空想を掻き消すのはいつも烏の一声だ。私が目覚めていたのを知ると、「種をつけろ」と執拗に迫ってくる。私は、特に何も反論せず、女の乾いた股間を合わせる。女は本当に何も言わず、その声を聞いたことすらない。どうして生きてるのか。確かに、人を産むことはできているが、それは人間の未来のためではなく、大烏のためだ。こんなことなら死んだほうがましだろう。そう考えていると、それら全てが私にも当てはまることに気付き、惨めになる。早くここから逃げなくては。なんとしても、家族の応援を無駄にしてはいけない。でも、私はいつまでも固い糞の上で早く移動できないし、逃げる機会も全くといっていいほど訪れない。私はどうしたらいいのかわからなくなっていた。
およそ六十回の眠りが過ぎると、女は子を宿しているのが分かった。そうとなれば、種を付ける必要もない。ゆっくり休める時がくるのだろうか、とほんの少しばかり期待したが、そうはならない。烏は自分の後をついてくるように言った。言うことを聞かなければ、他の人間の糧。私は頷いて付き従った。烏が案内したのは、新しい女が要る場所だった。この女も、以前の女と変わらない、虚ろな目をしている。烏は、私と女を見比べて「お似合いだ。同じような目をしている」と言った。ああ、なんてことだ。私も彼女等と同じように、死んだ人間になってしまったのか。しかし、その戸惑いも、内心驚くほどに体には現れなかった。烏は「さあ、種を付けろ」と言った。私の体は大人しく従った。女の股と股間をくっつき合わせる。私の体は、既に大烏のものだった。それから何回も、交わっては人の肉を食べ、交わっては人の肉を食べ。女の懐胎がわかると、また別の女に移った。交わっては人の肉を食べ、交わっては人の肉を食べ、また別の女。ずっとこれが繰り返される。私の心は、どんどん死んでいく。
十五人目の女の時だった。私は眠りから目覚め、仄かに思い出せる過去の記憶をなぞっていた。そのとき、烏が下りてきて言った。
「お前は、またそうやって眠ったふりをして交わらずにいる。お前は今から大烏様の糧となれ」
私は烏の言葉をゆっくりかみ砕いて、その意味に気が付いたとき目を見開いた。
「い、嫌だ」
体が震え出す。
「いや、今からお前は糧となるのだ。さあ、みんな、こいつを運んでくれ!」
一斉に大量の烏が降りてきた。そして私の体を取り巻き、鋭い鉤爪で肩やら、首やら、腿やらを掴んだ。全身に激痛が走る。烏たちはバサバサと翼を羽ばたかせて、私の体は宙に浮きだした。
「嫌だ! 嫌だ!」
私は必死に叫ぶ。助けを求めて、あろうことか、あの死んだ目の女の方にも手を伸ばす。しかし、女は誰もいない方向に股を開いているばかりだ。私の体はどんどん持ち上がり、女の姿は小さくなっていく。そして、今まで見えていなかった、別の男女の姿も点々と見下ろせるまで高くなった。更に、その景色が移動していく。私は今まさに、大烏の元に運ばれようとしているのだ。
「助けてくれー!」
しかし、その声は届かない。私を運んでいる烏は、諦めろだとか、暴れるなだとか、憎らしい笑い声を交えて私の気を削ごうとする。負けじと、私は叫び続けたが、人間は誰も相手にしてくれなかった。全員、死んだ人間達だ。私はどうしようもなく、項垂れた。
暫くして、私は怖ろしいものを目の当たりにする。それは、数えきれないほどの人間を掻き集めた場所。巨大な固い糞のくぼみにたっぷりと貯まっている。私はそれに見覚えがあった。大烏に連れてこられたときに目にした、人が隙間なく集まっている光景だ。あそこが大烏の食事場だったのだ。その上に来ると、私を持ち上げていた烏はゆっくりと降下して、私をそこに落とした。
私は尻を打ったが、それどころではなかった。どこを見ても人だらけ。数えきれない人数だ。しかも動いている。全員、自分の最期を察してか逃げるように蠢いているのだ。
「大烏様は活きの良い人間がお好みだ」
最後にあの烏はそう大きな声で言って、どこかへ去っていった。
私は悲鳴を上げる。そして同じくあの烏の言葉を聞いた、誰かも知らぬ周囲の人間たちも、声を張り上げていた。
逃げなければ、逃げなければ。
私は、必死に手足を動かして、くぼみの外に出ようとする。ところが、私の足を誰かが掴んでは引っ張ってくる。やめろ! と私はその人を蹴って、前に手を伸ばす。誰かの足を掴んでは、少しでも自分の体を前に出そうと引き寄せた。蹴られても意に介さず、私は生きるのに必死だった。
そのとき、不意に周囲が暗くなった。嫌な雰囲気が周囲に広がる。私は恐る恐る上を見上げる。そこには、こちらをじっと見つめる大烏が、固い糞の上で足を休めていた。
周囲の絶叫は一層高まった。壮絶な足の引っ張り合いが始まった。そしてあの大烏はだんだんこちらに顔を近づけてくる。私は全身を使って、少しでもそこから逃げようとした。
間一髪、大烏の嘴は私を捕らえなかった。しかし、私の後ろの方の人間が一斉に喰われた。途端、私は背中に温かいものを浴びた。それがなんであるのか、予想するのは簡単であったはずだ。しかし、確かめずにはいられなかった。そっと背中を撫でて、手の平を見る。それは、鮮血だった。
「わああああああ! わああああ!」
私は、発狂した。何が何でも前に出ようとした、そのために、相手の髪を引きちぎったし、引きちぎられても構わなかった。顔を掴んだ拍子に、目玉を抉ってしまうことも有った。相手の動きを封じるために、あらゆる部分の肉を食いちぎったりもした。それ程に必死だった。相手を殺してでも、私は生きる。生きたい。こんなところで死んでいられない。私は、まっとうな子孫を残さねばならない。父はそう言ったのだ。何が何でも、人間の明るい未来を繋ぐために、私は縄にしがみ付いて子供を作らねばならないのだ。私は、固い糞の上で子供を作っているようなこいつらとは違う。こいつらはもう死んでいるから殺してもいい! でも、私はまだ生きているから、生かさせてもらうぞ!
全身に血を浴びながら、どれが自分の血で、どれが他人の血なのかもわからないままに、私はついに、食事場から出ようとした。そのとき、烏が飛んできた。烏は私の前に羽ばたき、食事場から出させないようにした。しかし、凶暴になった私は隙をついて、烏の首を掴み、渾身の力を込めて絞めた。烏はがっくりと力を無くす。私はそれを見ると投げ捨てて、すぐに食事場の外に移動する。固い糞の”チ”は凸凹していて、移動しづらかった。でも私は行かねばならなかった。あの縄が垂れさがる場所に、戻らねばならなかった。
すると、後ろから一斉に大量の烏が追いかけてきた。私は、素早く逃げる。そう、私は素早かった。この危機に瀕して、私は”チ”を速く移動する方法を身に着けていたのだ。足を交互に前に出す。それだけで私の体はぐんぐん進んだ。速い、速い、速い!
感謝します”父”よ ! 私の体は、かつての世界の人間が使っていた移動法を思い出したような気がします!
心でそう叫ぶ。奇跡が起きた、と私は思った。この奇跡に乗じて、必ず逃げ切ってやると決意した。
何匹かの烏が背中を突こうとしてきた。私は、ちょうど足元にあった固い糞の欠片を掴み取り、一匹にめいっぱい投げつける。その烏はぎゃっ、と情けない声を上げて落ちた。
使えるぞ!
私は落ちている固い糞の欠片を拾っては、襲ってくる烏たちに次々投げつけた。烏たちは見事に落ちていき、その数を減らしてく。
私は、精一杯足を交互に前に出す。前へ、前へ。すると、遠くの方で長いものが向こうへ伸びてるのが見えた。それは、縄だった。あの奇妙な感覚に襲われる縄だ。
私はそこめがけて全力で移動した。その間、何人もの死んだ人間を通り過ぎる。彼等は私の方を全く見るそぶりもしない。
「お前たちは一生ここで死んでいろ! お前たちはもう人間ではない!」
腹が立った私は、そう罵って過ぎ去った。沈鬱だった心がどんどん蘇っていくようだった。
追いかけてくる烏はもうだいぶ数を減らしていた。逃げられる! そう思った時だ。
後ろの方で、大きな羽ばたき音が聞こえた。まさか! と思い、上を見ると、なんと大烏が、こちらをめがけて飛んでくるのだ。これには驚かざるをえない。たとえ、縄に辿り着いたとしても、あの大烏を何とかしなくては、私は生き残れないだろう。
前を向くと、もう縄に辿り着きそうだった。ここで何とかせねばなるまい。
私は、絶対に生きると決心していた。だから、あの大烏も必ず退けるのだ。私は、固い糞の欠片をいくつも掴み取って、大烏の方に振り向いた。大烏はこちらにめがけて猛突進してくる。そのために烏は周囲に散っていた。
大烏の鋭い嘴がこちらを向いて、大きく羽ばたいてくる。私は、固い糞の欠片を強く握って、それを迎え入れた。
大烏が、私の体を突き刺そうとする瞬間、私はさっと避けて、その眼に固い糞の欠片を思いっきり浴びせた。途端、大烏はギャーッ、と恐ろしく大きな声で鳴いた。大烏はそのまま縄の方へ飛んでいく。そして私も、大烏の凄まじい羽ばたきによって、同じ方向へ吹き飛ばされた。私は、縄よりも高いところを飛んでいた。下を見ると、大烏は赤い赤い、下の世界へ落下していく。
下の世界は、私もそこへ吸い込もうとしていた。私は、縄の方へ手を伸ばす。その手には、生きたいという想いと、家族全員の想いが宿っていた。私は、落ちるだとか、死ぬだとか、そういうことは一切考えずに、縄を掴み取らんとする。
私の両手は、見事縄を掴んだ。縄は一度大きく撓み、すこし震えながらも、もとの状態に戻った。私は、大烏が落ちていく様をじっと見る。しもべの烏たちは、総出でその後を追いかけていた。どの烏も、私のことなど目に入っていない。
私はその隙に縄を抱いて、するすると素早く”世界の果て”から逃げた。
私は色々な話を口に出しながら、一本の縄を降りていた。”世界の果て”からどれだけ離れているのかわからない。しかし、かなり遠くまで来たことは確かだ。腰には二つの骨袋と、二匹の烏が吊り下がっている。骨袋は途中で捕まえた烏から作ったのだが、”世界の果て”から逃げる時点では道具類などいっさい持っていなかった。ならばどうやって捕まえたのかと言われればそれは素手である。烏がかなり近づいてきたところを、片手で、羽やら首やら足やらを掴んでやる。落ちると言う恐怖に気を取られ過ぎなければ、案外できるものだ。
あれから大烏が追ってくることは無かった。死んだか、諦めたか。それを知る術はない。ただ確かなことは、私は、生き残ったと言うことである。家族の想いをしっかり心に刻み、妻を迎えるべく、子孫を残すべく。 このまま下に行けば、誰かしらの家族に出会うはずだ。私は、その家族の一人となり、妻をもらい受け子供を作るのだ。もし、どれだけ下っても家族に出会うことができなかったら、その時はもう一度縄を昇り、上の世界を渡って、別の縄を降りて行くのだ。しかし私の場合、そうはならなかった。
縄を降り始めてから三十回の眠りが過ぎた時、私は、下の方に一人の人間を見出した。その人は、体を固定しているようだった。勢いあまってその人を踏んでしまわないように、ゆっくり下へ降りていくと、その人は女だった。
「貴方をもらいに来ました」
私は女の上で縄を抱き言った。女は顔を上げる。その顔は涙を流していたが、私は惚れた。
「どうして涙を流しているのですか。どうして一人なのですか。家族はどうしたのですか」
女は涙声になりながら語った。
「私の両親は何十回の眠りの前に誤って落ちました。それから私は一人で生きてきたのですが、烏を取るのが下手で、骨袋は新しく作る前に全て壊れてしまいました。烏の卵だけではとてもお腹を満たしきれません。ところが、空腹で死にかけていた所に、貴方がやってきたのです」
「そうですか、ならば、私の食料袋を与えます」
私は、腰帯の食料袋を解いて、女の方に垂れ下げた。女はそれを受け取って、中身を食べ始めた。
「契りを結びましょう。そして、子供を残しましょう」
私は言った。女は頷いた。
女が食べ終えると、早速、私たちは交わった。女は縄に体を固定したまま、私が正面から覆うようにして、種を付けた。
行為を終えると、女は問うてきた。
「子供を残さねばならないことは、両親から教えられてきました。しかし、どうして子供を残さねばならないのか、わからないのです。それを聞く前に、両親は死んでしまいました」
私は優しく言った。
「ならば教えてあげましょう」
私は、かつて父が私に復唱させた物語を語り出した。
”縄を垂れしもの”は、かつて『チ』と『赤くない上』が人を囲みし”かつての世界”を口に含んだ。なぜならば、自分を愛さず、”かつての世界”の人を育てるばかりの”父”を恨んだからだ。”かつての世界”を口に入れられた”父”は激昂するが、”縄を垂れしもの”は「これをかみ砕いてしまうぞ」と言い、そう言う間にも、”かつての世界”を何度も噛んだ。”父”は必死に止めた。”縄を垂れしもの”は「私を愛せ」と噛みながら命令した。これに対し”父”は頷かなかったので、”縄を垂れしもの”は”かつての世界”を完全に噛み潰そうとした。ところが、”父”はそうされないように、”縄を垂れしもの”の口を、閉じたまま完全に固定した。これで、口の中の”かつての世界”はこれ以上壊れなくて済むようになった。このとき、口の中には、”父”の愛でたくさん育った人間と、空を飛ぶ烏だけが生き残った。”縄を垂れしもの”は人間を憎み、烏を愛した。”縄を垂れしもの”は烏のために、人の生きる場所を小さくした。この場所が、”縄を垂れしもの”の涎からできた縄である。このときの人間は烏に食べられてばかりいたが、”父”が口の外から入れ知恵をなさって、人間も烏を食べるようになった。それから、”父”は言った。「生きろ愛する我が子たちよ。子供を産み、”縄を垂れしもの”が餓死するまで耐えるのだ」こうして、人間達は生きる希望を与えられ、積極的に子孫を残すようになった。
「わかったかい」
女は納得して頷いた。
「じゃあ、この世界を生き残れば、いつか私たちは優しい”父”の下に帰ることができるのですね」
「そうだ。そのためにも、私たちは子孫を残すのだ」
「でも、いつになったら”縄を垂れしもの”は餓死をするの?」
「それは、わからない。だから、子孫に託さなければいけないのかもしれない。でも、何もせずに、烏に突かれて死んでいくよりはずっといいことだと思う」
女は視線を自身の胎に落とし、そこを撫でた。
「ちゃんと育ってくれるでしょうか」
「安心してほしい。私は強いのです。あの”世界の果て”の大烏も倒したことがあります」
私は背筋を伸ばして言った。女はそれを聞いたとたん驚く。
「本当? それは、何て素敵な人なの!」
「”父”の声も聞いたことが有ります」
「まあ、そんな素晴らしい人が、私の元に来てくれるなんて! 両親が生きていたら、二人も喜んだでしょうに!」
女は、固定された体で、私に抱き着いた。
「必ず強い子に育つよ。私が上の世界で得た経験を以て、強かに育て上げるんだ」
私は、片手で女の髪を撫でた。いや、女ではなく既に妻であった。私は、旅の始まりから何百回の眠りを過ぎたこの日、遂に妻を得ることができたのだ。
父よ、母よ、可愛い妹・弟よ、私は立派な大人になったぞ。数々の苦難を乗り越えて、強くなり、妻を得たのだ。そしていま、子供まで授かろうとしている。私はこの子を、私のように、そして父のように、強い子に育て上げるのだ。そしてまた、その強さが受け継がれていくように、いつか”父”の元に帰れるように、毎日お話を聞かせて、烏の上手い取り方を教えて、”父”の前に出しても恥じない、立派な人間に育て上げるのだ。
私は何度も妻の髪を撫でた。そして見つめ合い、互い夫妻であることをもう一度確認した。
それから、一緒に烏を取る生活が始まり、腰には腰骨や烏がいくつもぶら下がるようになった。また、一回眠るごとに交わり、念を入れて子供を孕むように心がけた。そのような生活が続くうちに、妻は胎を痛めなくなり、懐胎したことがわかった。二百五十回の眠りの後に、妻は子を産んだ。それは男だった。その子は私が抱えた。その子が十分に育つと、私たちはまた交わった。そして妊娠し二百五十回の眠りを過ぎて、女を生んだ。これを5回繰り返して、最終的に、私は五人の子供に恵まれた。私は彼等を強く育てながら、幸せに暮らした。
クソザコ大烏君。
語彙を制限していくのは難しですね。
「これじゃあ体なんて固定できないよー」「そもそもこの世界の下げ縄を弛ませるなんて物理的に不可能だ!」と思った方は許してください。そういう世界なんです。