1 隠事
風が薔薇の花弁を舞い上げる
長い銀の髪が風に流される
白い頬を伝う透明な雫
「停戦の条件として一つ譲り承けたいものがある」
「それは」
「神殿の巫女だ」
出会った時に既に彼女は神にその身を捧げていて。
自らは妻子ある身であった。
けれど彼女への渇望はどうしても抑えることが叶わなかった。
「レイル様……泣かないで……ごめんなさい…この子は連れていきます。……サフィラスとルベウスの子はまだ生まれていい時期ではないのでしょう……殿下と姫…王妃様を…大切に……」
「ルーナ……」
「レイル様……どうか幸せに……」
「無理だ。お前が……」
「信じています。貴方が平和な世を築くことを」
「無理だ」
「きっと支えてくれる方がいます」
「無理だ! ルーナがいなければ俺は!」
結末は悪夢のようだった。
欲したものは全て失った。
残った物は捨てたくても叶わないものばかり。
けれど、顔を上げ前を見据えなければならない。
彼女の望みを叶える為に。
この生ある限り両国の和平に努めなければならない。
いつか愛しい彼の人に届くまで。
薔薇の芳香が鼻を擽り徐々に意識が浮かび上がる。
「ルーナ……」
腕の中の柔らかく華奢な肢体が確かにそこに居ることを確かめるように抱きしめる。その温かみにほっとして再度名を呼んだ。
「ルーナ…………」
(って誰だ?)
レクスが自分の呼んだ名にはっとして瞳を開ければ腕の中の愛らしい顔が悲しげにこちらを見ていた。腕の中に居るのは当然妻ロジエで、決してルーナという名ではない。
「ルーナって誰ですか?」
「し、知らん」
柳眉を下げて問うてくる妻に、真実を告げているというのに冷や汗が浮き上がるような嫌な心地がする。
「……」
「本当に知らん!!」
今にも泣きそうなその辛そうな顔に驚いて、慌てて再度否定する。
「知らない人の名前をどうして愛しそうに呼ぶんですか」
「いや、俺も良く分からないが本当に知らないんだ!!」
「レクス様、もう少し上手く嘘が吐けないのですか」
「嘘じゃない。知らないものは知らないんだ!」
必死に伝えてみてもロジエの眉尻は下がったままで、彼女は一度目を閉じ、表情を改めた。
「もういいです」
常は優しく柔らかいその声が冷たく冴えて突き刺さる。
「何がいいんだ! 俺の言うことが信じられないのか!?」
「夢現の状態で呼んだ女性の名を知らないというほうが信じられません」
ロジエは身をよじり体を離そうとする。ここで離せば何かややこしい事になるのは分かりきっている。レクスは改めてその肢体を拘束した。
「離して下さい。もう起きないと…」
「離すわけがないだろう! 何を勘違いしているんだ!」
「勘違いなんてしていません。改めて覚悟しただけです。レクス様も王族。やはり何人も妻を娶られるのだと」
「何を言っているんだ! 俺の妻は生涯、否、未来永劫何度生まれ変わろうとロジエ一人だ! 他の女など欲しいとも思えない!!」
後朝の寝台の中、体を拘束する方もされる方も素肌のままだ。
「昨夜もあれほどお前を求め貪って、正直それでもまだ足りてはいないんだ! お前の意識と体力さえ続けば、四六時中抱いていたっていいんだぞ! お前以外の女性に構っている時間など無い!!」
腕の中のロジエは思わぬ夫の告白に真っ赤になって口をはくはくと動かしている。
「お前しか欲しくない…」
言葉を紡げぬ唇をゆるりと覆う。
「ん…、やあ! 嫌!!」
「抵抗するな。少し分からせないといけないようだな」
顔を背けて抵抗する妻にのしかかり、拒否を発した唇を再度塞ごうと距離を縮める。
「ルーナさんって初恋の人ですか!?」
予期せぬ発言に近付く距離がぴたりと止まる。
「初恋?」
「忘れられない人ですか…?」
先ほどの冷たい声と態度は虚勢だったのか、銀の双眸に露が滲む。そうさせてしまったのは自分の良く分からない発言の所為だと後ろめたくも、涙を浮かべるほど想ってくれているのかと喜びが湧く自分に心で苦笑する。
「俺の初恋の相手はロジエで、忘れられないのもロジエだけだ」
微笑んで再び距離を縮めようとするも……。
「初めてのお相手がルーナさんですか?」
「初めての相手!?」
驚いて距離が広がった。
「ずっと思っていたんですけど、……レクス様、その、慣れています…よね。私が初めてとはとても思えませんし……王族ともなればそういった教育があるとも聞いていますし……」
「いや、それは確かにそういった教育は受けるが……俺は実地はしていないぞ」
「嘘です!! は、初めての人があんな…!」
そこまで言ってロジエははっとして言葉を止めた。レクスは意地悪く微笑んで再度距離を詰める。
「あんな?」
「も、もう……もう知りません!! レクス様なんて嫌いです!」
ばふんっと枕が顔面に投げつけられる。柔らかだが、それなりに痛みを感じる。 もしかしたら“嫌い”という言葉に痛みを感じたのかもしれない。が、そんなことに構ってはいられない。
「待て!! ロジエ!!」
「待ちません!! 来ないで下さい!」
ロジエはナイトテーブルに置かれたローブを掴み走りながら身体に巻いて私室へと続く扉を開ける。
「ロジエ!!」
レクスは慌てて手を伸ばすが一歩届かない。目の前でバタンっと大きな音を立てて扉が閉まった。続けてカチャリ、カチャンという冷たい音が微かに聴こえた。
「ロジエ! こら!! 鍵だけでなくチェーンまでかけたな!? 開けろ!」
「………」
「返事をしろ! そこにいるのは分かっているぞ。扉を壊すぞ!!」
「そんなことをしたらもっと嫌いになります!!」
「もっとってなんだ! すでに嫌いということか!?」
「嫌いです!」
「ああ、もう! どうしたら機嫌が治る!? 俺はお前の顔がみたい!!」
「……ルーナさんのことを教えてくれなきゃ治りません!!」
「だから知らんと言っているだろうが!!」
「もう大っ嫌い!!」
その朝、周りが迷惑するほど妻を愛する夫に大打撃を与える一言が奥向きに響き渡り、コンソールテーブルに飾られた赤い薔薇がはらりと花弁を落とした。
王の執務室、執務に付く時間が始まって既に一刻。王は執務机に両肘をたて指を組むとそこに額を当てたまま顔を上げようとしない。
書類の束は既に二山。
王をこんな状態に出来るのはこの世に一人しかいない。
「レクス様」
「……………」
聞こえていないのか、それとも答えるのが面倒なのか返事すらしない。
「ロジエ様と喧嘩でもしたのですか?」
「ロジエ……」
聞こえていたらしい。いや、ロジエという音に反応したのか。
「クライヴ」
「はい」
「……ルーナって誰だ?」
「存じません」
「……………」
また黙った。
「レクス様、ルーナという方が何か?」
「……俺はルーナという女の所為でロジエに大嫌いと言われた……」
もう生きていけないと彼の肩は語っている。流石に死にはしないだろうが、これでは生ける屍だ。
「ルーナという方が何を?」
「ルーナはなにもしていない」
「はあ」
「俺が呼んだんだ。ロジエを抱き締めながら……」
「それは……」
驚いた。誰が見ても妻しか目に入っていない男が別の女の名を呼ぶとは。
「レクス様が悪いですね。ルーナさんとは誰ですか?」
「だから! それを知りたいんだろうが!!」
レクスは執務机を粉砕せんが勢いで叩きつけた。二山あった書類が全て床に散り、執務室の扉を守る衛兵は突然聞こえた怒号に戦き、僅かに扉から距離をとり、心で「ロジエ様助けて下さい」と唱えた。しかし王を癒せるただ一人の女性は今日は助けにならない。彼女こそが王に怒っているのだから。衛兵の願いは空しく散ることになる。
レクスは王妃の間の前で三度呼吸を整えた。
あの後、丁度報告に来たジェドに「何だこの有り様は」と驚かれ、「またロジエ絡みだろう」と呆れられ、洗いざらい吐かされた。ルーナの事は分からないまでも、兎に角このままでは(王として)役に立たないから、謝れるだけ謝って許してもらえと執務室を追い出された。
謝って許されるなら幾らでも謝る。必要なら土下座でもしてみせよう。なにしろ、全てレクスが悪いのだから。
ロジエを抱いて別の女を呼ぶなんて、何かにとり憑かれていたと思いたい。
逆を考えればロジエの怒りは尤もだ。ロジエがレクスに抱き締められて、別の男の名前でも呼ぼうものならその男は瞬時に神剣の錆びになるだろう。
……レクスの怒りの矛先はロジエではなく相手だった……まあ、いい。そんなことはどうでもいい。まずはロジエだ。ロジエに避けられたままでは本当に死んでしまう。
ロジエの姿を見て、声を聞いて、その身体に触れたい。そう出来なければ生きている意味がない。
王の使命はどうしたとどこかで声がするが今は知ったことではない。
ロジエロジエロジエ 兎に角ロジエだ
もう一度、深く息を吐き、扉を叩く。
………………返事がない。
レクスだと思って返事をしないのか。……ふと異変に気付く。部屋の中にロジエの気配を全く感じない。
「ロジエ!!」
叫んで勢いよく扉を開けた。しん…と静まり返る室内。僅かに開かれている窓から入る風にレースのカーテンが揺れている……のみ。
……いやいや、まさか。図書室とか何処かに行っているだけだ。
と、テーブルの上の一枚の紙片が目に入る。丁寧にペーパーウェイトも置かれている。ロジエのお気に入りの蝶の形のペーパーウェイトだ。紙片を手に取りレクスは蒼白となる。
「女官長!!!!」
国王の悲鳴のような声が城中に響き渡った。
【探さないで下さい】
紙片には整った文字でそう書かれていた。
レクスは妹リアンの部屋の前で、その妹と対峙していた。リアンは仁王立ちで腕を組み、ここは絶対に通さないと言わんばかりに兄を睨み付けていた。
対する兄レクスも其処を退けとばかりに妹を睨み見下ろしている。
レクスはロジエの置き手紙を見て蒼白となり女官長を呼びつけた。こんな手紙があった。捜索隊を組織しろ。精霊師全員に精霊を使って探すように言え。と捲し立て、俺も直ぐに探しにいく。と飛び出そうとするのを「リアン様の処にいらっしゃいますよ」と呆れ顔で言われた。そしてまた「潔く早く謝ってしまいなさい」と言われた。
だから謝ろうとしているだろう!
が、肝心のロジエが会ってくれないのだ。リアンの部屋の中に確かにロジエの気配がする。レクスにはロジエの気配ほど探しやすいものはない。どんなに隠れようと見つける自信があった。
「退け」
「いや。お兄ちゃんこそ帰って」
「ロジエを返せ」
「いや! お兄ちゃんのじゃないもん!」
「俺の妻だ!!」
「じゃあどうして妻を抱いて妻以外の女の人の名前を呼ぶの!?」
痛いところを突かれ絶句するレクスにリアンは追い討ちをかけた。
「ロジエさんは絶対に会いたくないって」
妹の一言にレクスが膝を付かなかったのはひとえに王族として培った威厳のお陰であった。しかしもう心はぼろぼろだ。妻に、最愛の妻に「嫌い」「大嫌い」に続き「会いたくない」とまで。
「ロジエさん 泣きそうだったよ」
俺だって泣きたい。レクスは目許を覆い俯いた。と、扉の隙間に紙片が差し込まれた。レクスはリアンより先にその紙を奪い目を通す。はらりとその紙が手から零れた。リアンがそれを拾う。
【お仕事サボる人は嫌いです。
探さないでって書いたのに最低です】
この世の終わりだという顔をする兄を見て、リアンは流石に可哀想になった。
「え~と、とりあえずお仕事してきたら? 明日にはロジエさんも話をする気になってくれるかもよ? 」
「……明日? 今日は……」
「今日は無理だよ。本当に怒ってたもん。今夜はここに泊めるから大丈夫だよ」
レクスが大丈夫ではない。ロジエの顔を見ず、声も聴かずに丸一日過ごせというのか。
ドンッと扉を叩いた。
「ロジエ……会いたい……」
扉に両手と額をつき、さも切なげに言う兄に。
(朝 顔見たならまだ数時間しか経ってないよ。お兄ちゃん……)
とリアンは少し兄が憐れに思えた。
「ロジエさん、お兄ちゃん帰ったよ。すっごく落ち込んでたよ」
リアンはロジエが座っているソファの対面に座り、一仕事終わったとばかりに用意されていた菓子に手を伸ばした。
「反省しているのなら! ルーナさんの事を教えてくれればいいんです!」
ロジエは膝の上のスカートを握った。そうだ。ルーナが過去に付き合いのあった女性ならそう教えてくれればいい。結婚前の事ならロジエも追求するつもりはない。なのに何時までも知らないなどと嘘をついて。もしかして現在付き合いのある女性なのだろうか。
「わわ! ロジエさん泣かないで!」
「すみません……泣くつもりは……」
無かったのだが、次々と涙が零れてしまう。ロジエは零れる雫を指先で拭った。
「……私、レクス様に愛されているんだと自惚れていました……」
「えっ! 自惚れじゃなく愛されてるよ! 誰が見ても!」
迷惑なくらい、と言うのは控えた。
「いいえ。そういった慢心がきっといけないのでしょうね……」
「いや! もうそこは訂正させて! お兄ちゃんロジエさん大好きだから!」
「リアンさん、ありがとうございます。いいんです。……私、レクス様を自分の夫だと思って縛り付けていたんです。本当は自由になりたかったのでしょう。少し距離を置こうと思います」
「やめて! お兄ちゃん死んじゃう! だいたいお兄ちゃんが浮気とかおかしいよ。ルーナなんて名前も聞いたことないし!」
「リアンさんが知らなくてもレクス様は知っているのでしょう」
「だってそんな令嬢いないじゃない!」
「確かに貴族名鑑にはありませんが、レクス様は城下にもよく出られますし」
「ええ! まさか!」
「兎に角 過去の事ならそう言えばいいですし、今の事なら距離を置いた方がいいという事です。今日はリアンさんの言うようにここに泊めていただきますが、明日からは別の部屋を用意してもらいますね」
寂しそうに微笑んでいうロジエ。兄の妻は頭がいい。何を言っても真っ当に返事をしてリアンを言いくるめてくるだろう。兄が浮気などするわけがないことはロジエ以外の誰もが知っている。けれど言葉では自分は義姉を説得できない。
これは少し長くなるかも………リアンは兄が発狂しないことを祈った。
*****
小鳥が囀ずる早朝、クライヴは執務の下準備の為に王の執務室に訪れた。騎士団の早朝訓練をこなし、改めて身支度を整え、王がここに来るまで後半刻。部屋の不審物、掃除の行き届かない処はないか確認し、今日の予定を確め、必要な資料と書類を集め、優先順位順に並べる。机の上の備品を几帳面に並べ王を待つのだが。
「何をなさっているのですか、レクス様」
王が既に其処にいた。
「仕事だ」
確かにレクスは書類を読み、資料と照らし合わせながらサインし判を押している。机の脇には決裁済みの書類が山を作っていた。今日の分が既に終わりかけている。資料も自分で用意したのだろうか。
「夕べ戻られなかったのですか?」
「戻ってもロジエがいない」
書類から目も上げずレクスは答える。あれから暗雲を背負い戻ってくると黙々と書類を裁き始めた。日没を過ぎてもそれは続き、九時を過ぎる頃「何時までいるんだ。早く帰れ」とクライヴに言った。「レクス様が戻らなければ帰れません」と言えば「迷惑だ。帰れ」と返された。仕事をする上で迷惑だと言われたのは初めてだ。ほぼ、帰らせる為に言ったのだろうが、一人になりたいというのが本音だろう。「では帰ります」と部屋を出たのだが。まさか一晩中机仕事をしているとは。
「少し休まれたらいかがでしょう」
「ロジエがいないと眠れない。このまま続ける」
「……では部屋の掃除等しますので鍛練をなさって来ては」
「今日はいい。今日の執務を全て終わらせてからロジエを迎えに行く。次を持って来い」
“お仕事サボる人は嫌いです”が大分効いているらしい。“迎えに行く”と言っているが帰ってこなかったらどうするのだろうか。ずっとこうして仕事を続けるのだろうか。醸し出す雰囲気は既に殺伐としている。そろそろ文官達が怖がりだすなとクライヴは考えた。
「ルーナという女性のことですが」
「何か分かったのか!?」
「いえ、全く」
一瞬輝いた顔があからさまに舌打ちでもしそうな顔をしまた書面に戻った。
「本当にご存じないのですよね?」
「……知っていたらとっくにロジエに話している」
「わかりました。必要なら私もロジエ様を説得しましょう」
「……説得よりルーナを探せ。そうしないと本当の意味でロジエは納得しない」
確かにそうだ。他の女性なら、レクスのこの顔で真摯に「お前だけだ」と言われればそれで許してしまいそうだが、ロジエは違う。ちゃんと正しい答えが見えねば納得しないだろう。
「探せと言われましてもレクス様が名を呼んだのでしょう。心当たりは?」
「全く無い。お前が知らない女性の名を俺が知るわけがない」
その通りだが、胸を張らないで欲しい。だからこそ浮気はあり得ないのだが。しかし、そうではなくてロジエを抱き締めて別の女性の名が出てくるなど有り得るのだろうか、ともクライヴは思える。
「もういい。風呂の用意をしろ」
「は?」
「ロジエの話をしていたら我慢できなくなった。身体を清めたら迎えに行く」
「執務は……」
「ここにある分は終わった。問題は?」
「午後から謁見が」
「……それまでには戻ってくる。なんとか……」
「わかりました」
と、クライヴは言われた通りにしたのだが、しかし。
レクスはロジエに会うことは叶わず、一枚の書面と会う事になる。
【しばらくお互い一人の時間をとりましょう
お仕事は機嫌を損ねずしっかりとして下さい】
武神の血を色濃く継ぎ、武勇を誇る国の頂点に立つ王レクス。成人を迎えてより彼に膝を付かせたのは妻となったロジエだけであった。
*****
ロジエの姿を三日見ていない。
王の仕事は仮面を張り付け熟している。
仕事の合間合間にロジエを探す。城内にいるのはわかる。勘で其処に辿り着けば、確かにいた気配があるのに姿は寸での処で消える。精霊の力を使っているのだろう。
しかし、そうまでして会いたくないのだろうか。会わなくても平気なのだろうか。
隠そうとしても日増しに峻厳となる気配に密偵頭(表向きは騎士だが)の友人などは面白がって「ロジエ欠乏症」だと揶揄した。
実際そうだ。
これまで腕の中にいた温かみに触れることが出来ない。
それどころか声も聞けない、姿さえ見ることが出来ない。
見たい、会いたい、触れたい、抱きしめたい。
なんだこれは。何の拷問なんだ。
早朝、薔薇の花の咲き誇る中庭でレクスは鬱屈した思いを振り切るように神剣を振り回す。
剣の師匠であった大叔父が見れば眉を潜めるであろうその雑念にまみれた剣筋。それでも兎に角剣を振り回した。滴るほど汗をかき、ついに汗で滑った剣が手を抜け近くにあった高木に刺さった。溜め息を吐いて剣を抜き鞘に収める。灌木でなくて良かった。この程度なら木はおそらく枯れはしないだろう。けれどこれ以上続けては何を壊すか分からないので終わりとした。
かいた汗を浴場で流し、まだ朝食には早いため、することもないので執務室に向かう。書類仕事は随分先まで進んでいるし、表向きは態度も繕っている。ロジエに会ったときに後ろめたくないようにしっかりとやっている。此方は何時でも会える。
中庭から執務室に向かう途中にある絵画廊で一枚の肖像画を見上げる人物と出くわす。遠目でも間違いようがない。美しい銀の髪。いや、髪など見えなくとも分かる。ロジエだ。けれどロジエはレクスに気づくと、レクスが声を掛けるよりも早く駆け出し、階段を上がると空き部屋へと逃げ込んだ。
「ロジエ、そこに居るな」
返事はないが扉を隔てたそこにロジエの気配を感じる。レクスはそのまま言葉を続けた。
「本当にルーナなんて知らないんだ。頼む。会いたい。少しでもいいから顔を見せてくれ。俺はお前に会いたいんだ」
少し待ってみるが返事はやはりない。諦めて「まだ駄目か?………また探す」と言いそこから離れようとすると、空気の流れを感じた。振り返ると部屋の扉が僅かばかり開けられ、その隙間に俯いたロジエの顔があった。
「……ごめんなさい……」
ぽつりと落とされた言葉に、そのまま強引に扉を開けて抱きしめてしまいたい衝動にかられる。だが、レクスはぐっと耐えた。
「……やっと顔を見て声が聴けた」
*****
ロジエは客間の寝台の中で、ふうっと溜息を吐く。まだ起き出す時間には早い時間だが、どうしても目が冴えてしまった。
レクスと距離を取って三日。会いたい、と何度も思った。レクスはロジエを探してくれている。決して同じ処にいるわけでは無いのにレクスはロジエの居所を突き止める。精霊に命じて近付くと分かるようにしているが、日に何度も追い詰められそうになった。どうしてと思う。何故居場所が分かるのだろうか。何故こんなに探してくれるのだろうか。ルーナという女性の処に行けばいいのに………うそ。本当は行って欲しくない。本当は近くに行って、声を聞いて、温かく大きな手で触れて抱きしめて欲しかった。
けれどそれがもう自分のものでは無いのかもしれないと思うと、今度はそれを突き付けられるかもしれないと怖くなった。
「ルーナのことを好きなんだ」と言われたらどうしよう。考えただけで涙が滲む。
端正な顔立ちに逞しい長躯をもつ彼は容姿だけでも本当に素敵な男性で。更には内面だって毅くて優しくて、自分と婚姻を結んだ後でさえ、彼に秋波をおくる女性は沢山いる。その中にルーナがいたのだろうか。それとも彼が先に見初めたのだろうか。
怖い。何の為に彼は自分を探しているのだろうか。別れを告げられたらどうしよう。そうでなくても、ここまで避けていることを呆れて怒っていたらどうしよう。不安で不安でしょうがなかった。
もう二度寝なんて出来そうに無かった。ロジエは、早朝の風にあたろうかと起き出した。今は薔薇の時期で、時間的にもレクスが鍛練に出るには早い。中庭に行こうと絵画廊まで来たときにある肖像画の前で脚を止めた。
そこには歴代の王の肖像画が飾られている。その一つに何故か目が吸い寄せられた。
蒼皇レイル
五百年程前の賢王であり英雄だ。レクスと同じ蒼髪蒼瞳。改めて見ると顔立ちも良く似ている。肖像画は王位に着いた時のものなので今のレクスより五つほど年上になるのだろうか。確かにレクスより更に精悍さが増しているような気がする。左の手には金の指環。王妃との誓いの指環だ。けれど彼には寵姫がいた。ロジエと同じ銀の徴を持つ銀髪の女性。ルベウスの巫女だった女性……と考えて思い出した。確かルベウスの神託を残した巫女がルーナという名前だったはず。まさか。いや、レクスはルベウスの巫女の名前など知らないはずだ。そしてまた同時に思い出した。レクスに出逢って直ぐ、銀の髪の女性が泣く夢を見ると言っていたことを。関係があるのだろうか。
ぴりっと精霊が教えてくれる。でも遅かった。気付いたときには彼が……会いたくて、でも会いたくないレクスが回廊の先にいた。。咄嗟に逃げて空き部屋に入って、扉に背を預けながらまたも後悔の溜息を吐く。せっかく会えたのだからすっぱりと謝ってしまえばいいのに。でも、もしも……。
「ロジエ、そこに居るな」
扉越しに聞こえる優しい低い声に心臓が跳ねた。
「本当にルーナなんて知らないんだ。だが、謝る。悪かった。頼む。会いたい。少しでもいいから顔を見せてくれ。俺はお前に会いたいんだ」
会いたいと言ってくれた。
彼は真摯に謝罪の言葉を口にする。そして自分に彼は会いたいと言ってくれている。嬉しくて泣きそうになって声が出せない。この沈黙を彼はどう思うだろう。良いように取られるわけがない。
「まだ駄目か?………また探す」
聞えた拝辞の言葉に身体は動いた。静かに扉を開けて見えたその後ろ姿に「行かないで」と言いそうになった。でもその前に彼が振り返ってしまったから……ただ小さく「ごめんなさい」と返しただけ。
「……やっと顔を見て声が聴けた」
彼の何かに耐えるような切なげな笑顔に、ぎゅうと胸が締め付けられた。