4-1.走法・絶影 前
ごとごとと街道を馬車が行く。
一応馬車と呼びはしたが、二頭の馬が引くのは、辛うじて御者台がついた荷車というのが正しいような代物だ。昨夜無理を言っての交渉の末、多めの貨幣で買い取ったものだった。
そのお粗末な御者席で馬を繰るセシルの後方、荷車の上で、アルトは先程から憮然と膝を抱えている。
自身の馬術の未熟は理解しているし、これが確かに楽な移動法であるのは否定できない。元来は農作物を搬送する為の荷台は広く、二人分の荷物を置いてもまだかなりの余裕がある。
干し藁の上に布を敷いて簡便な座席を作ってあるので、振動で尻が痛いという事もない。
けれどもこれでは名実共に、自分は文字通りのお荷物ではないか。
そう思って頬をふくらませていた。
けれど昨日までと違うのは、「これは見栄えが悪いです」「絶対体裁が良くないです」「結局私を子供扱いしていませんか」「でなければ荷物扱いじゃないですか」。そんなふうにセシルに訴えているところだ。
一見不平ばかりだけれど、その実、アルトは不機嫌というわけではない。愚痴を言う素振りで、単にセシルにじゃれついているのだ。
昨日の一件以来、臆さずそんな真似ができるくらいに二人の間は近くなっていた。
「とにかく、午後は絶対私が替わりますからね!」
ただし、従兄弟の役に立ちたい、有能な自分を見せたいという気持ちは比例して強くなっている。
やらせてもらえなければできないままだと言い張って、午後はアルトが御者を務めると話が決まっていた。
ちなみに同様の根から、荷車の買い取りの費えも、彼女が自身の懐から出している。自分の為の買い物だから、兄さんには払わせられませんと頑張ったのだ。
ただしその金は父と母がそれぞれ持たせてくれた旅費であり、その辺りが内心忸怩たるところではあったけれど。
「そう気張らなくても、ちゃんと変わるさ」
「約束ですからね。ちゃんと私を頼ってもらうんですから」
「ああ。俺は後ろで楽に昼寝でもしているよ」
「もう!」
けれど以前であればこの手の役割分担だって、「アルがやる必要はないよ」なんて子供に言い聞かせるように断られていたはずだ。それを任せてもらえて、おまけに軽口まで加えてくれる。
至極単純ながら、それが少女の心を弾ませていた。
一方のセシルは、言い聞かせても背伸びはやめないのだなと、従姉妹の威勢を微笑ましく眺めている。
整備された街道筋である。彼女に手綱を任せても、夕暮れまでには十分な距離を進めるだろう。後は最寄りの宿場町で宿を取って、遅くとも明日の午後にはジョシュアに到着できる目算だった。
その日は街で旅塵を落として、ロートシルトの元へは翌日挨拶に赴けばいいだろう。
「あ、でも、でもですね、私はやっぱり未熟者ですから」
「うん?」
残りの旅程に思いを馳せていると、後ろでアルトが身じろぎする気配がした。
「ですから馬を扱っている間、兄さんが近くについて見ていてくれないでしょうか? あの、ご迷惑でなければでいいんです。その方が安心できるからって、それだけですから」
優等生のアルトは、生来の気質と相まって完璧志向だ。僅かなりとも不安があるのは嫌なのだろう。
「分かった、ちゃんと起きて見ていよう」
「ありがとうございます」
また甘えてしまった。
思いつつもアルトは、頼ってくれと言われたばかりだからと自分に言い訳する。
そしてふと気づいた。
馬の扱いを見るとしたら、今の自分と従兄弟とよりも距離は接近するだろう。しかし後ろからじっと目を据えられているというのはどうにも落ち着かない。
しかし御者台は二人が並んで座るには少々狭い。座ればかなり密着する事になる。それはまだ早いような気がする。
自ら切り出した事ながら、思わぬ問題に突き当たってしまった。どうしたものかと眉根を寄せて思案していると、とん、と背後で軽い音がした。
何気なく振り向いて、アルトは息を呑む。
「相乗り、いいかい?」
そこに青年が居た。
夜色の髪に闇色の瞳。その特徴は、話に聞くテトラクライムの民を思わせた。
揺れる馬車の上、事もなげにバランスを保って立つ彼は長身だった。ただし体躯の割に手足が長いから、全体としてはすらりとというよりもひょろりとしたシルエットになる。
速度はさして出ていないとはいえ、どうやって走行中の馬車に飛び乗ったのか。併走する馬などないし、そもそもさっきまで一本道の街道の、どこにも人影などなかったはずだ。
警戒心が先立って、反射的に腰のものに手が伸びる。
「来るだろうとは思っていたが、早かったな」
それを制したのは、振り向きもせずに放った従兄弟の言葉だった。
「少しは驚け。可愛げのねーヤツだ」
青年は、そう返して肩を竦める。
「それにオレが早いんじゃない。お前の到着が遅ーんだよ」
「お前の基準でものを言えば、なんだって遅くなるさ」
事態は飲み込めないままながら、アルトはいささかならずむっとする。
この従兄弟が、お前、だなんて気安く呼ぶ相手を他に知らない。自分の知らない従兄弟の一面があるのが妙に嫌だった。
しかも続く応酬は気心の知れたもの同士、信頼している友人同士の風情で、立ち入れない雰囲気にアルトは疎外感を覚えずにはいられなかい。
誰なんですかどういう知り合いなんですかこの人。本当に信用できる人なんですか。
「あの……?」
「おっと失礼お嬢さん。名乗り遅れたな。クロウだ。クロウ・ユイギ。真っ黒黒のクロと覚えといてくれ」
それはともかくと押し込めて声を上げると、青年が向き直った。剽げた仕草で自分の髪を掴んで見せる。
合わせて、セシルも肩越しにアルトを振り向いた。
「俺の友人だよ。ちょっと一口には説明できないが、変わった縁があってね」
多分その縁には聞かせてもらえないのだろう。けれど伏せておきたい事に、我がままを言って踏み込むのは違う。
自制しながらもほの暗い心地になったところに、
「長くなるから、それはまた落ち着いた時に話そう」
セシルが続けて、ぱっと自分の顔が明るくなるのが分かった。
なんだろうこの従兄弟は。昨日のあれから随分喜ばせ上手だ。まるで心を覗いているみたいに親切で、ひょっとしてこれは夢なのではと思ってしまう。
まあ兎にも角にも、従兄弟の友人と知れたからには警戒は無用だろうとアルトは判断。
「失礼しました。グラムサイド・アルトです。どうぞお見知りおきください」
柄から手を離し、一礼した。と言っても馬車の上で起立し続ける自信はなかったから、略礼しての会釈である。
「ああ、あの!」
「『あの』?」
「お兄様から話は伺っていますぜ、従姉妹さん。そりゃもう、よく、ね」
おそらく忌み名に対して何かあるだろうと考えていたら、クロウの反応は至極予想外だった。その上実に含みのある物言いだった。
「何を話したんですか!?」
「おかしな事は言っていない。ただ褒めただけだよ」
「あーあー、褒めただけでしたとも。ベタ褒めでしたとも。オレはよく耐えたと思ってる」
「──っ!」
物凄く気恥ずかしい。
一体兄はどんな話をしたのだろう。そわそわと気になりはするが、訊くに訊けない。
しかしながら当のセシルは鷹揚としたものだ。
「この速度で夕暮れまで行く。最寄りはどこになる?」
「そうだな、多分ヴァンになるんじゃねーか」
「ではそこの宿で落ち合おう。どうせお前が先に着くんだ、手配を頼む。支払いはこちらが引き受けるさ」
「おう、任せとけ。部屋はふたつでいいか?」
「ああ。どうせお前はジョシュアに戻るんだろう?」
「……からかい甲斐のねーヤツだ」
ちぇっとクロウは舌打ち。そんな彼を捨て置いて、セシルは不意にアルトへ話を振る。
「そういえばアルは、我法について知ってはいるんだったね」
「はい。父から聞いています」
「なら見るのは、これが初めてか」
セシルが言い終えた直後、心得たとばかりにクロウが荷台を蹴った。
ふわりと飛んだその体は馬の速度に引き離され、後方へ着地。膝のバネだけで衝撃を殺し、次の瞬間、その姿は切り取ったように掻き消える。
「……えっ」
思わず荷台の後方へ身を乗り出すアルト。するとその肩が、横合いからとんと叩かれた。
振り向けば馬車と併走するクロウが、にっと笑って手を振っている。そして走りながら力を溜め込むようにぐっと身を沈め、またしても彼は、体ごとアルトの視界から消え失せた。ひと呼吸の後、街道にはもうその影も形もない。
「えええっ!?」
「走法・絶影。影すら見せない神速の移動法。それがあいつの我法だ」
予想を裏切らないアルトの反応に少し笑って、セシルは馬にひと鞭当てる。
「さて、こちらも急ごう。悪い奴ではないのだけれど、悪戯が過ぎる時がある。あまり待たせ過ぎると意趣返しに、本当にひと部屋だけの宿取りをしかねない」
荷台の上のアルトは、その言葉でようやくクロウの軽口の意味を理解する。
耳まで赤くなった。