3-2.子供たち 後
ことりと寝入ってしまった従姉妹の稚い寝顔を見ながら、セシル・ウェインは自省する。
初日から、顧みてみれば汗顔の至りだ。
万事一切に配慮が足りない。彼女の体力不足、経験不足は初めから知れていた事。ならば年長の自分が察し助けて然るべきである。だというのにひどく無理をさせてしまった。
もう彼女は小さな少女ではない。一人前の騎士なのだ。過保護な保護者ではないのだから、その判断に煩く口を出すのはよくあるまい。そんな大人ぶった言い訳で強く干渉しなかった。
どうして彼女とそんな具合に距離をおいたのか。己を糊塗せずに突き詰めれば、それは彼が抱える罪悪感へとたどり着く。
そしてその感情はあの日の後悔に、アルトには語れぬままにいる過去に根ざしている。
──優先順位を間違えるな。
──もしここで陛下が崩御なされば、それは戦乱を生む火種になる。
あの時、セシルは言われるがままに頷き、走り出した。
斯くしてアルバート・グラムサイドは落命し、それを発端としてグラムサイドの家は凋落した。間接的にとはいえ、アルトを今の境遇に貶めたのは他ならぬセシル自身でもあった。
セシルはそれから幾度となく自問してきた。
自分があの場に留まれば、アルトの本当の兄を守れたかもしれない。王ではなく彼こそを守るべきであったかもしれない。
過去に関して人は賢者になりうるという。だが、あの日の最適解は未だ分からない。
──僕にもしもの事があったら、妹を頼む。
分からないまま罪の意識で、もういない人のその言葉を守っている。
そうした後暗い心持ちが、アルトとの関わりの始まりだった。
アルバートの名を出した所為があったのかもしれない。独りたたずむところへ声をかけたセシルを、彼女はあっさりと受け入れてくれた。彼がまるで悪意などない善人であると、少しも疑わないようだった。
そんな彼女の気質を、セシルはひどく好ましいものとして見た。
人の善良さを信じ込む彼女のそれは、しかし守られた温室の善性だ。悪意敵意の風に晒されれば、すぐにも枯れ果てる代物だ。斜に構えて、そんなふうに謗る事もできるだろう。
だが温室の花の全てがそんな形質を獲得するかといえば、そうではない。だからこそ尊敬に値する心根だと考える。だからこそ眩しく、臆するように目を逸らしてまう。
不思議と交誼は、一度のみならず幾度も重なった。
師匠譲りというわけではないけれど、セシルはあまり器用な質ではない。役柄や肩書きを与えられたなら、それを演じてのけはする。しかし素の自分というものは、気も口も回らぬ無骨者だと自認していた。
けれどどうしてか、アルトは彼によく懐いた。我から関わりを求めて行動してようですらあった。
いつしか彼女は自分を兄と呼び慕い、盲目的なほどに信頼してくれていて、今に至るもそれは変わらない。
代用ながら、そうしてセシルは兄の位置に立ち続けている。その立ち位置の居心地がよければよいだけ、始まりの嘘が際立つように感じている。
つまるところ自分は、そんな彼女に嫌われるのが怖いのだろう。
だから優しく、親しく、そんな素振りで気づかれぬよう遠ざける。だからきちんと彼女に向き合わない。踏み込まない、踏み込ませない関係でいれば楽だから。最初から横たわる罪に気づかれる事もきっとないから。
ではどうして自分は、彼女に嫌われたくないと思うのか。どうして苦い嘘を飲んだまま、それでもその傍に居ようと思うのか。残念ながらその辺りは、彼の思考の埒外にある。
もう一度従姉妹の横顔に目をやり、けれど、とセシルは結論づける。
そんなもの全部が全部、自分の理屈だ。自分だけの屈託だ。彼女には何の関わりもない。
アルトは自分の傍にいる時、いつも気を張り詰めている。いつも己を律した優等生であるのだが、それに殊更の磨きがかかるように見える。自分の一挙一動に、まるで怯えるが如く過敏に反応するようだった。
そうさせてしまったのは、おそらくこの態度が原因だ。
遠ざけようとする雰囲気、踏み込ませない空気を、聡い彼女は感じ取っている。だから触れてもいい境界線を見極めるように、神経を尖らせて自分に相対するのだ。
そうして弱音を吐かず弱みを見せずに無理を重ねて、折れる寸前まで自分を追い込んでしまった。
己を指して、まるで子供だ、と思った。
拗ねて部屋に閉じこもった子供だ。相手に分かって欲しいと思うだけで、伝える努力は放棄している。なんと情けない『兄』であろうか。
馬上で泣くアルトを見た時、強く頭を殴られた気がした。
彼女の涙を見て初めてのように悟った。ただもっと単純に、自分はこの子に泣いていて欲しくないのだと。
気の回らない自分であるから、また傷つけてしまう事もあるかもしれない。
だがそんな可能性を言い訳に、何もしないのは違う。今が間違っていると理解したなら正すべきなのだ。過りに気づきながら、それでも改めざる事こそを過ちという。
きちんと向き合おうと思った。
若輩にして未熟なこの身ではあるけれど、少しでも信頼できる年長者として振る舞えるように。
そしてこの旅を終えて彼女の理由を聞く時に、己の始まりの悔いについてもまた、告白をしようと心を決めた。
──
アルトが再び目を覚すと、辺りには夕暮れが差し掛かろうとしていた。
目覚めてまず、体は随分と楽になっているのを感じる。当然全快とはいかない。節々は痛むし、筋肉は熱を持っている。けれど動くのに支障がない程度だ。
訓練を積んだ身とはいえ年相応の基礎体力しかない彼女であるが、疲労や外傷からの回復は早い。それには彼女の魔術の才が関係していた。
例えば素振りや鍛錬法など、武術は学ぼうという意志さえあれば、誰もが基礎を身につけられる。その門戸は広い。
しかし魔術はまるで対極である。ただひたすら天賦の才に依る。
治癒、探索探知、元素操作、強化、付魔、定着、伝霊等々と、術式には様々な分野が存在するが、その何れにおいても、才のない者はその道の第一歩すら踏み出せない。
アルトには幸いにして治療、付魔の素養があり、騎士団への早い入団もこれが一助となった。
魔術の才を備えた者の多くがそうであるように、日常、意図せず自身の体にその属性を纏わせる。それ故前述のように、彼女の体は高い自己修復能力を備え、彼女の周囲では他の術式を構築行使しやすくなる。
であるにもかかわらず、ああした体たらくとなってしまったのは、やはり緊張や不安といった心の問題からであったろうか。
そこで視線を巡らせて、緊張の原因の所在を探った。すると彼はアルトの傍ら、剣を抱くような格好で木にもたれて眠っていた。周りを見ていると言っておきながら、まるで子供のように穏やかな寝顔だった。
その無防備具合に、アルトは悪戯心を刺激される。意趣返しというわけではないけれど、ちょっぴり驚ろかせてやろう。そんな悪戯心が湧く。
できるだけ静かに、音を立てないように、そろそろと立ち上がろうとしたその瞬間、ふっとセシルの目が開いた。
「起きたのか」
まるで始めから目覚めていたかのように言いながら、セシルは尻を払って立ち上がる。
アルトは半ば無意識に頬を膨らました。
何か、ずるい。どうしてかそう思った。
憮然とした表情の従姉妹に小首を傾げつつ、セシルは歩み寄って手を伸べる。
「体の方はどうだ? 動けそうなら、そろそろ出よう」
「え、あ」
反射的に応えて手を出しかけて、アルトははっとなって引っ込める。それから数瞬の逡巡の後、おずおずと遠慮がちに手のひらを重ねた。すると思わぬ強さで体を引かれた。どこをどうされたかも分からないうちに、横抱きに抱え上げられている。
絶句。
思考が停止し体が硬直したその隙に、ひょいと馬の背へ、横座りの形で運び上げられた。
いつの間に準備したものか、アルトを乗せていない一頭の背には二人分の荷物──といっても剣のふた振りに水と食料、それから二、三の衣類程度のものだ──がまとめられている。
セシルはアルトの敷いていた衣類を畳んで片付けると、当然のように二頭の轡を取って歩き出した。
「あの、あの!」
「次の宿場まではこれで行こう。そこでもう少し、楽に進めるよう工夫をするよ」
大慌てで上げた声は、するりと受け流される。この形で道を行くのは、もう彼の中で決定事項であるらしい。
ひょっとしたら傍目には、仲睦まじい光景として映るかもしれない。だがアルトは針の筵に座る気分である。これではまるで、従兄弟を馬丁扱いしているようではないか。
「私、もう平気ですから。ちゃんと乗れますからっ」
「君は、黙って無理をするから駄目だ」
あまり強く意見を返さない印象がある従兄弟にしては珍しく、有無を言わさぬ切り返しだった。
「俺に迷惑をかけているなんて思っているなら、言っておく。それは間違いだし、気にしなくていい。誰も一人でなんて立てやしない。必ずどこか、誰かに助けられてきているんだ。そんなのは当然で、だからここでアルが気に病む事なんて何もないよ」
そう正論めいて告げられてしまえば、アルトは何も言えなくなってしまう。
反論がないのを承諾と判断したか、セシルがゆっくり歩き出す。できるだけ反撞の少ないようにしてくれているのだろう。
その背中は言葉通り、迷惑や面倒などまるで感じてはいない様子で、だからこそ一層悲しい。
だってこれが当然という事はつまり、自分が一人前と見られていないという事を意味しているから。
いつだってそれが悔しくて背伸びをしているのに、彼の中できっと自分は、今も泣いている子供のままなのだろう。それこそ、あの日から少しも変わらずに。
それが子供の台詞と承知の上で、アルトは子供扱いされたくないですと唇を噛む。
いつも見上げるばかり、頼るばかりの従兄弟だった。
何か困っていると、迷っていると、いつの間にか傍らに来てくれて、紐解くようにするすると懊悩を解決してしまう。
だのに自分の弱いところ、脆いところはひとつだって見せてくれないのだ。
物腰は柔らかで丁寧なのだけれど。親しくしてくれて、優しくもしてくれるのだけれど。
どこか自分を、そして他人を寄せ付けない、拒絶している一線があると感じる。それはほんの薄紙めいて、しかし確かに存在する皮膜だった。
そうして彼は、肝心なところへは誰も踏み入らせない。肝心のところで、必ず他人を遠ざける。
だから、アルトはセシルを兄と呼ぶ。
それはアルバートを敬愛していた彼女の、幼い時分において最大級の好意を示す言葉だった。従兄弟であるし、それならそう呼んでもおかしくないだろうと、幼い自分が懸命に考えた呼び方だった。
兄の死に伴って父は家族でなくなり、母も沈みがちになってしまった。そんな当時のアルトにとって、セシルは縋ってでも離したくない相手だった。
親しくなりたかった。彼は誰にでも優しいようだから不安だったのだ。特別なつながりだという証明が欲しかった。兄というその呼称には、自分を置いて行かないで欲しいという願いが込もっていた。
無論、従兄弟への感情が家族へのものではなく、異性への思慕であると気づいた今となっては、それをとても悔いている。
きっとセシルは、自分をもう妹としてしか見てくれないのではないか。そう不安になってしまう。
けれど改められない。
怖いのだ。
兄と呼ぶのをやめるのは怖いのだ。
仮初めであるにとしても、セシルが他人よりも深く自分を許容してくれるのは、多分このつながりがあるからだ。
もし自分からそれを変えてしまったら、薄紙を感じるどころか、彼に近づく事すらできなくなってしまう。二人を結ぶほんのか細い縁すら、切れて断たれてそれきりになってしまう。
そんな気がして怖いのだ。
だから──アルトはセシルを兄と呼び続ける。
そうして関係であったから、自分にもセシルの為にできる事があると父に言われた時は嬉しかった。
それだけで動いてしまったから、彼に同行を望む理由を正面から問われた時は大層困った。
だって「貴方を守る為です」なんて、口が裂けても言えるわけがない。自分よりも遥かに力量が上の相手に対して不遜だし、何よりまるで愛の告白か何かのようではないか。
結局従兄弟の人の良さに付け込む格好で、「言えません察してください」で押し通した。少々心が痛んだが、こればかりは致し方ない。
その折に、セシルがある程度は自分を信じてくれているのだと分かって、また跳ね回りたい気分にもなった。
そんな具合にはしゃいで舞い上がっていたアルトだが、今は鞍の上でしゅんと悄気返っている。
頼り頼られる存在になりたかったのに、まるで程遠い。支え合うどころか、すっかりおんぶにだっこだ。結局彼に甘えてしまっている。支えられてしまっている。自身の足で立ってすらいない。
彼に気を遣ってもらうたび、自分が何も知らない足手まといなのだと悲しくなる。暗く後ろ向きの気持ちになって、すっかり俯いてしまっていた。
「……邪魔ですよね、私。迷惑ばかりかけてしまって」
言うつもりではなかった言葉がふと漏れて、アルトははっと口を抑えた。
どうしようもない卑屈だった。やっぱり自分は子供なのだと痛感する。これでは子供扱いされても仕方ない。
だが一度口を出た言葉は戻らない。
ぎゅっと目を閉じて、アルトは体を強ばらせた。セシルの叱責を待つ。
「そんな事はないさ」
けれど、耳に届いたのはいつも通りの声音だった。
アルトを傷つけないように、優しさで包まれた言葉だった。
彼女はまた俯きかける。いっそ叱ってくれた方がいい。
しかし。
「おかげで慣れた道にも、意外と知らない景色があるものだと知ったよ。それに一応とはいえ、公務の最中に堂々と昼寝したのも初めてだ」
あれ、と思った。どこか違和感があった。目を開けると、肩越しに振り向く彼と目が合った。
セシルが悪戯っぽく笑う。
「アル、今後はもっと俺を頼ってくれないか。俺も、その、君に頼るようにもする」
少し、唐突すぎたろうか。
言いながらセシルは考える。従姉妹はどうにも面食らったような顔をしている。
だがこれは自分への意思表示であり、遠まわしなアルトへの謝罪でもあるのだ。早くに言明しておくべきだろう。
彼はまた前を向き、空けた片手で照れたように頬を掻いた。
ぽかんとしたまま、アルトはしばらく考える。
言われた言葉の意味よりも、抱いた違和感の方こそが気にかかった。
彼の言いはいつものように優しい。けれどどこか違う。いつもよりも少しだけ、距離が近いような気がした。
等しく誰にでも優しくて、結局誰にも優しくない。そんな彼が、どうしてか特別に、自分にだけ胸襟を開いてくれた。そんな気がした。
薄紙なしの心に初めて触れさせてくれたようで、その事がひどく嬉しい。
「あの、こちらこそよろしくお願いします!」
それから自分が黙りこくっていたのに気づいて、大慌てでそう紡いだ。
見えるのは背中ばかりだけれど、セシルが確かに微笑んだのが分かった。