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0.暁天

 夜明けと呼ぶにはまだ早い、夜の気配が残る時刻。

 その薄暗がりの中で、剣士は抜剣した。わずかに腰を落とし、両手のひらのうちで柄を握り直す。

 す、と世界が静まったように思う。

 何かを切り替えたように、それだけで意識がクリアになっていくのを感じる。ただ一点へと鮮烈に集中しつつ、同時に四方へ果てしなく知覚は広がる。

 振り上げる。

 肘を開きながら、構えた剣を上方へと。

 体の中心線から少しもぶれずに描かれた軌跡は一刹那だけ頭上で静止。

 振り下ろす。

 転瞬、鋭く空を裂く音がした。

 半歩の踏み込みと同時に、上昇と寸分(たが)わぬ軌道を逆しまに辿って、剣は腰の高さにぴたりと止まる。


 目線と呼吸から始まって、爪先、指先、膝、手首、肘、腰、肩。

 あらゆる肉体の動き全てが、教本のようにあるべき理想の形に収まっている。

 彼が幼い日から何千何万と繰り返してきたその動作。それは剣士ならず、剣を握ろうと思った者なら誰もが知るような基本動作であったが、恐ろしく滑らかで、ため息が出るほどに美しかった。無駄と余計の一切が省かれた動きは、人の目にそうして映る。

 一体、どれほどの時間が研鑽がこの動きを培ったのか。

 それは点滴が石を穿つように、愚直なまでに積み上げた修練だけが為せる技だった。武に費やした時の長さに比例して、見る者はその妙を深く悟るだろう。

 剣先が再び上がった。

 初めの一刀で自分の体の確認を終えたのか、続く動作は先よりも速い。でありながら、やはり剣士の姿勢には少しの乱れもなかった。まるで時間を巻き戻し、そして繰り返すかのように、素振りは無心に、無想に、途切れなく続く。

 まるでそうする事が第二の天性、本能であるかのようだった。


 幾度とも知れないその反復が停止したのは、最初の朝日が草原を照らし始めた頃だった。 

 剣士は血振(ちぶ)りの所作の後剣を鞘に戻し、額を拭った。首筋に、汗で癖のある赤毛が張り付いている。また長くなってきたかと鬱陶しく思った。

 荒くなった呼吸。高くなった体温を、春先の風が心地よく撫でていく。

 剣士──セシル・ウェインは、毎朝必ずここへ来る。

 白亜の城塞、石の都の異名を持つアインスノット。王国と同じ名を冠する王都の北、この小さな丘からは、海へと続く大河ヘズの荒いうねりが一望できた。

 数十年前、この川を挟んで人と巨人とが対峙したという。

 一時は人類を滅ぼさんばかりに勢力を拡大した巨人は、しかし竜の介入を受け、遠くカジャ永久氷壁を越えて去った。その竜の参戦で人が勝利を得た地こそがここ、アインスノットである。

 だがセシルがここを訪れるのは、そうした古事を顧みる為ではない。

 心地よい疲労に身を任せ、セシルはごろりと草に転がる。アルト辺りに見つかれば、きっと「みっともないです」と叱られる事だろう。そう思いながらも、身は起こさすに懐かしく目を閉じる。

 ここは彼の始まりの場所だ。

 彼はここで、風変わりな男に師事をした。



 それは両親の葬儀の翌日の事だ。

 セシルの父母は共に、アインスノットの騎士だった。

 アインスノットは巨人との戦乱の最前線であり、その折の戦功から教皇府に独立国として認められ、人類の盾と世に謳う国だ。

 巨人の再来に備えて人類が爪を研ぐ近年、尚武の気風は国中に色濃くある。女性といえども武術魔術の才があれば、騎士として国に身を捧げるのは珍しい事ではなかった。男性が筋力で女性に勝るように、女性は魔術適正で男性に勝る。強化、治癒の施術を考慮すれば、性差による能力差などないに等しいのだ。 

 そして何より、ウェインの家は分家筋の下級貴族だった。

 実力を尊ぶこの国において、身分の高い者こそは民草の為に身を張る事を求められる。しかし実際問題として、そうした特権階級、権力階級は死を(いと)うし、不慮の事故があれば国政が滞るような人物とてもいる。

 それが為の下級貴族だった。

 貴族とは名ばかりで、待遇は庶民と変わらない。そして国が民に尽くす事の証明として、危急の折には生死を問わずの矢面に立たされる。下級貴族は生贄(いけにえ)貴族と揶揄(やゆ)される所以(ゆえん)だ。


 そんな世情であるから、セシルもまた覚悟はしていたし、させられていた。父母も同様だったはずだ。

 けれど両親が同時に身罷(みまか)るとは予想の埒外であったし、覚悟をしていたからといって、それで死に伴う悲しみが消えるわけではない。

 そしてそんな少年の内心はまるで慮ら(おもんぱか)れる事なく、太陽王赫怒(かくど)に際しての戦死者合同葬儀は騎士団主催で執り行われ、両親は埋葬されてしまった。

 幼いセシルの後見人として、本家筋であり騎士団長でもあるオーギュスト・グラムサイドが立った。が、彼は同じく孤児となった他の騎士団員たちの後見でもあり、実際は名目ばかりの事である。


 両親共に不在である事は多かったから、がらんとした家には慣れていた。独りで摂る食事にも慣れていた。けれどもう父も母も居ない、帰ってこないという事実は、一晩経っても飲み込めなかった。

 眠れずに家を出て、街を出た。

 ヘズを眺望する丘へ着いたのはただの偶然だったはずだが、ひょっとしたら父から聞いた人と巨人との戦いの昔語りを思い出しての事だったかもしれない。

 そこで草原に埋もれるようにして、少年は膝を抱えて泣いた。


「泣いているのは、弱ェからか?」


 声がかかったのはその時だった。

 夜明け前の薄暗がりから現れたのは、一人の剣士だった。旅人としてなら、身なりにおかしな点はない。腰に佩いた刀も、護身としてならば普通のものだろう。だが(まと)う気配が尋常ではなかった。

 (うと)い子供にもはっきりと分かるくらいに濃密な、血と死の匂い。

 肉食の巨獣の前に、裸で放り出されたようなものだった。涙など呆気なく止まった。


「……」

「……」


 セシルと男は、しばし無言のまま見つめ合った。

 不可思議な男だった。セシル自身の幼さにもよったろうが、年齢の見当がまるでつかない。少年のような幼い目と、辛酸を舐め苦渋を知悉した老人の瞳が同居している。

 やがて飽いたように男が(きびす)を返しかけ、そこでやっとセシルの舌が動いた。


「弱くなければ、強ければ、泣かなくて済みますか」


 ぎょろりと肩越しに、()めつけるような目。

 どう斬ろうかと舐めずるような視線の圧力に耐え、


「それなら僕は強くなりたい」


 そう続けると、男は足音も立てずに戻ってきた。

 しゃがみこんで、セシルと目線を合わせる。凄惨な空気はわずかに影を潜めた。


「腕っ節が強くなりゃ、選択肢は増えるかもしれねェな。膝を抱えて泣く以外の事はできるようになるかもしれねェ。だが見栄で、泣きたい時に泣けなくなるかもしれんぜ? 嫌だ嫌だと泣き喚いて、縋って頼ってしがみついて、それで生き延びる強さってのもある。生き物ってのは結局、長く生き抜いた奴こそが強くて正しい」

「──」

「お前はどういう具合に強くなりたい。強くなってどうする。泣かないだけか。それだけの為に強くなるのか」


 問いと同時に、再び気配がぞろりと這い出す。

 気圧されたのではなく、熟考の為にしばし口を閉ざし、


「強くなれたら、泣く人の出ないようにしたいです」


 なんとか(しぼ)り出した声で答えると、男はひどくつまらなそうな顔をした。


「ああ、お前の世界はまだ(ひれ)ェのか。おいガキ、いずれ世界は狭くなるぞ。手の届く距離、足を運べる距離を痛感して、抱え込めるものの少なさを憂うようになる。それでも取捨選択はしなけりゃならねェ。他人の事なんざ気にしちゃいられなくなるぞ」

「……僕には分かりません」

「『僕』か」


 吐き捨て、嘲笑う。


「育ちのいいガキだな。分からないのはガキだからか」

「違います」


 返った声は思いの外強かった。ほう、と男は目を細める。


「ぼ……俺はまだ強くないので、分かりません。でもガキなのは今、やめました」


 男はセシルを見て、また笑った。

 今度は悪意の欠片もない、からりとした笑みだった。


「面白いガキだ。その気があるならまた明日、この時刻にここへ来い。稽古をつけてやる」




 それから、セシルは男の教練を受けるようになった。

 走らせ、剣を振らせ、技術を伝授する。夜が明けるまでの間でその内容と重点とを叩き込み、後は課題として繰り返しておくように指示をする。

 そしてまた数日後に丘で会い、セシルを検分しておかしな動きと悪い癖とを正した。

 数年、そんな日々が続いた。

 足技を手始めに、もつれた折の肘、膝の使い方、投げ技逆技の組み技、目鼻耳といった急所への攻撃法とその対処、暗器についてや地形と環境利用法。真っ当な騎士なら一生涯知らず使わずで終えるであろう類の技も数多(あまた)仕込まれた。


「別に使わなくて勝てるんなら使わなけりゃいい。だが知らなけりゃ、対処できんだろうが」


 それが師の言い分だった。

 その是非は一先ず置く。だが彼のお陰で、セシルの技量は同年代では飛び抜けて、騎士として頭角を現すようになった。ただし一向に慢心などはできなかった。実力が付けば付くほど、師のそれを思い知るばかりだったからだ。

 師の器は大きかった。その水を自分に移すにあたって、多くがこぼれ落ちた。そうセシルは思っている。


「そろそろお前にゃ飽きた。オレは他所へ行くぞ」


 唐突に切り出されたのが、三年前だ。

 丁度アザーズロック親征のその前であったから、よく覚えている。


「まあお前がこのまま真っ当に伸びりゃ、そうだな、剣の腕だけならこの国で五本の指、世界で上から五十人程度にはなれんだろうよ。あァ、期待はするなよ? 魔術に我法(がほう)、剣以外の要素が混ざれば混ざるほど席次は落ちるぞ」

「我法?」

「知らねェのか。端的にいうなら、使い手の心魂の歪みに即した独立独固の魔術式だ。詳しくは自分で調べておけ。対処できるようにな。アレは強烈で相性もあるが、知ってりゃなんとか捌ける手合いだ」


 セシルが生真面目に頷くと、話が逸れたなと師は続けた。


「とりあえずオレが言いたいのはな、誤解するなって事だ。世界で何番目に強いってのは、勝ち負けには関係がねェ。仮にお前が国一番でも、世界最強が相手なら負ける。逆にお前が下から二番目でも、一番下には勝てる。勝負ってのはそういう事だ。要は勝ちたい時、勝ちたい相手に勝てりゃそれで十分。どうして勝ちたかったかを忘れるようじゃあ本末転倒だ」

「それは──」

「お前は間違えるな、という事さ」


 セシルの言葉を遮るように、師は手の甲でとんと胸を叩いた。共に過ごした年月のうち、セシルの背丈は高くなった。かつては見上げるばかりだった彼の顔を、今は真っ直ぐに見返せた。

 その眼差しを受け、男は自嘲めいて口元を歪める。


「……どうもオレは口が上手くねェな。まあ、いい。今の話だが、それでも格上に勝ちたい日も来るだろう。そん時はお前、夜討ち朝駆けなんでもしろ。卑怯だの卑劣だのと言い訳はするな。そいつはお前が勝ち取りたいものを卑しめる。お前が欲しいのはその程度の理屈、その程度の綺麗事で諦められるものって事になっちまう。なら最初から欲しがるんじゃねェって話さ。だから譲れないもんがあるんなら、非道結構無法上等じゃねェか。躊躇う必要なぞどこにもない。だから学んでおけ、手札は増やしておけとオレは言うのさ。牙がなくて噛みつけすらしないのと、牙があるのに噛まねェのとでは、まるで意味合いが違うんだ」

「……」


 会話の体裁ではあったけれど、おそらくこれは独白なのだ。押し込めてきたものの吐露であるのだ。

 セシルはそう感じ、そしてここで自分と出会うまでの、知り得ない師の半生を思って沈黙を守る。


「ま、しかしこんなのも結局、オレの一見解に過ぎねェんだ。例えばお前、オレが教えた動きを元に他流を蔑むか? しねェだろう。それは根源と成り立ちから違うものであって、同じ価値観で語るべきものじゃねェ。つまるところ解は観点によって浮動する。誰も彼もが満足する真実なんざ、この世にありゃしねェのよ。きっと真実ってのはそいつ固有のものだ。誰かから教わるもんでも押し付けられるもんでもない。自分の足で歩いて、自分の目で見い出すしかない代物だ。もし仮に真実に価値があるとするんなら、それはその過程にこそだ」


 師はそこで言葉を切って、空を指した。

 丁度曙光がやってくるところだった。


「だから覚えておけ。この暁天(ぎょうてん)を。ここにお前を縛るものはない。遮るものもない。ここから、お前はどこへだって歩いていける」


 ぽん、と頭に手を置いて。それから師は茜色の中をどこへともなく歩き出した。

 それが別れの言葉になり、師の背中を見た最後になった。結局武術以外は、名前すら教えてはもらえなかった。

 だがセシル・ウェインは忘れない。

 ここは彼の始まりの場所。ここが彼の原風景。

 その直後にあったアザーズロック親征により、セシルを取り巻く環境はまた激変する。だからというわけではないけれど、セシルは毎朝のように丘へと足を運んだ。

 ここで暁を思い出すたびに、確かに歩いていける心持ちになるのだ。



 ゆっくりとひとつ息を吐いて、セシルはまぶたを開く。

 物思いのうちに、夜は完全に明けていた。

 草の(しとね)から身を起こして振り仰げば、雲ひとつなく青色が、透明に澄み渡っている。あの日と変わらぬ暁天。ここに身を縛るものはなく、遮るものとてまたない。

 空の()に遠く、鳥の群れが渡っていくのが見えた。

 いい天気になりそうだった。

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