柔らかな台地
「よっと」
マニラは掛け声と共に大きな鞄を背負う。
宿の人に挨拶をして外に出ると、さわやかな風と気持ちの良い日差しが迎えてくれた。真っ白な雲がぐんぐんと流れて行く。
「讙の国まで3山里も歩くのね」
「そしてさらに貫匈山脈を越えないといけない」
マニラの言葉に途方もなくなったナルコマは、鞄の上にひらりと降りた。
「まずは歩いてみよう、そしたらまたなにか思いつくかも」
「そうね、まあ、歩くのはマニラだしね」
「たしかに」
マニラは背中から聞こえるナルコマの声に小さく笑って応えた。
3山里とは、山3つ分の距離を表す。
足に自信のある旅人が歩き通しで2日かかる。マニラは2泊の野宿で3日かけ、まずは讙の国を目指す。
もともとマニラは讙の国に行くつもりではあった為、初めて行くものの、道はしっかり確認していた。
だが、その先が気がかりである。歩くのは好きではあったが、さすがに煉獄の階段と言う恐ろしい別名のある、貫匈山脈を越えるのは気が乗らない。讙の国でなにか他の良い手段が見つかる事を祈るばかりだ。
今日の気候は歩くのには最適で、幸先の良い歩み出しを感じさせた。
特に会話も無く、二人、丁寧に石で舗装された道を歩いて行く。
雨の多い国である為、あまり人が歩かない道の端は苔むしている。通る道はなだらかな丘になり開けた台地であったが、遠く、瑞々しい森が濃く影ているのが見えた。
「思ってたよりも良いわね」
なんともなしにナルコマは言葉を口に出した。
「なにがさ?」
「んーん、なんでもないの、ただ、良い景色ね」
「そうだね、この街道は開けているから眺めがいいね」
マニラはそう言いながら空を大地を見渡した。
どこまでもどこまでも続く台地。その起伏の小さな地形は魃国を広く見渡すことが出来る。少し先に雲が大きな影を作って行く。
「ナルコマは私と会うまではどうしてたの?」
「辛で眠ってたのよ」
「それってさ」
「あ、ねえ、あれって黒雨の森かしら」
「うん?」
ナルコマの視線の先。濃い黒の森をマニラも見つめた。
「そうだね」
そこに湛えられた水の豊富さが離れていても感じられる。
「私は知識でしか世界をまったく知らなかったのだけれど、実際に見るのと考えてた姿は全然違うのね」
「たしかに、どれだけ言葉で尽くしても実際に感じた世界には敵わないや」
ナルコマの表情はとても小さいので見えなかったが、嬉しそうにしているのはマニラにはっきりと伝わった。
「あのさ、ナルコマ。竜神を封印するって言うけどさ、じつはいまだによくわからないんだけど」
「そうねえ、たしかに今はまだ世界にもはっきりと影響が出ていないし、昨日の水の申だっていまいちピンと来ないのもわかるわ」
「えっと、まだナルコマと出会って4日目……!」
マニラは4本の指を折り曲げ、その自身の右手を見て唖然とする。
「あとさ、闇の力? あれもなにがなんだかなんだけど」
「なんて説明したらいいかなあ」
ナルコマはひらひらとマニラの周りを回る。
「まあ、なんというかさ」
マニラが言葉を言い切る前に、突如、咆哮が聞こえた。
咄嗟に背負っていた鞄を下ろし、マニラは剣を構える。
「あっちのほう、あれは……」
ナルコマが遠く、柔らかな曲線を描く地平を見つめる。
「あれは戊申!」
「えっ、なに? 怪物じゃないの?」
まだかなりの距離があるというのに、大きな黒い影が見えた。その影は四本の足で地面を蹴り上げ、猛烈な速さでこちらへと駆けてくる。
「水の申の僕だけど……」
このナルコマの声はマニラには聞こえなかった。
「そこの君、危険だ下がって!」
まったく予想だにしなかった声が後から聞こえてきたのだ。
迫り来る怪物と突然の後からの声に挟まれ、混乱するマニラ。
ナルコマだけが冷静にその声の主を見ていた。
細くすらりとした健脚に、長い耳を持つ震と呼ばれる、俊足の野獣に跨った男。
その男は占時四課の制服に身を包んでいた。この世の法を統べる政府直属の人間だ。