闇の狭間
「わあっ!」瑞雲と呼ばれる、成人の手の平ほどの大きさの、翼を持った黒い鼠が激しく音をたて、マニラに纏わりついてくる。「このっ」剣を振り回すが、払っても払っても、減るどころか増えていた。
「早くこっちにきなさいよ!」
崖にぽっかりと開かれた穴からナルコマが呼びかけ、マニラは慌てて駆け込もうとする。「わあああっ」が、早朝に一降りした雨は岩肌を濡らし、マニラは足を滑らせた。
「きゃああ! ばかっ!」
危うく崖から転落しかけたマニラを見て、ナルコマは悲鳴を上げた。マニラは辛うじて岩肌にしがみ付き、難を逃れた。しかし、息つく暇はなく、胸から飛び出しそうな心臓を抑えながら、穴に駆け込む。幸いにも瑞雲達はそれ以上は纏わりついてこず、マニラはほっとした。
魃国は見事なまでの平野で、ここは唯一の山であり、この断崖絶壁は鎧の袖と呼ばれている。巨大な神様がどうのこうのという伝説を聞いた覚えがあったような気がしたが、マニラは思い出せなかった。
遠目では分からないが、この崖はそれ自体が遺跡になっている。穴は亀裂ではなく人工的な物で、石の柱が象られていた。
くぐった先はうって変わって風が吹き荒れ、雲が凄い速さで流れている。朝の雨なんてなかったかのように湿気が無い。
崖の所々に橋が渡されており、絶壁のいたる所に入り口と思われる穴があった。そして、マニラの3人分程の幅がある顔が崖にいくつも彫りこまれていた。
「わあ」
さっきまでの大騒ぎを忘れてマニラはその光景に息を飲んだ。
とりあえず二人はそばの穴に入ってみる事にする。そこは石で出来た建物の中の様になっており、洞窟みたいなものを想像していたマニラはとても驚いた。外の風の音が時折石畳を反響させる以外はとても静かで、マニラは眠っている古代の人々を起こさないように静かに歩く。
下に降りる階段がすぐ目に入り、その岩を削って造られた手すりには見事な細工が施してあり、壁には隙間なく石が積まれ、その所々には12角もある石が、見事に計算されはめ込まれていた。
ここには、たしかに人が生きた歴史があったのだとマニラは感じた。
いつの頃からか、旅人とは定住地を持たない、なんでも屋の様なものになっていた。危険な場所や、未開の地、滅多に見ることのない怪物は、占時四課と呼ばれる政府直属の機関が管理などを行っている。
各国のエリートしか入る事が出来ない占時四課は、平凡で暦術が使えないマニラにはまったく無縁の存在だ。そして、地方で最低限の勉強しかしていない為、なんとなくそういうものがあるという程度でしか知識はなかった。
漠然と、なんとなく旅に出たマニラは冒険なんてものに縁があるとは思わなかった。せいぜい、ピンインで紹介される、安全が確認された遺跡での発掘ぐらいが関の山と思っていたのだ。
ほんのすこしの不安と、それ以上の期待を胸に秘め、マニラは大きく踏み出す。
「わあああっ! むりむりむり!」
だがその胸の高鳴りはあっけなく消え去り、またしても無我夢中で駆け抜ける事になった。表に出たとたん瑞雲の群れに鉢合わせし、さらに今度は、ガイコツまで襲ってきたのだ。
「ちょっと、落ち着きなさいよ」
ナルコマが慌ててマニラを追いかける。
纏わりつく瑞雲に邪魔され、よく見えない視界の中でちらりと穴が見えた。
瑞雲はまだしも、ガイコツに捕まったらどうなるのかと考えただけでも恐ろしくなり、マニラは全力で、その穴に向かって走って行った。
無我夢中で飛び込んだ。
息を切らしながら慌てて振り向いた先には、入ってきたはずの穴が無かった。
前にも後にも真っ暗な闇が広がっている。
「ナ、ナルコマ?」
「ここにいるわよ」
慌てるマニラの眼前に、ひらりとナルコマが舞う。飽きれる様にナルコマは話す。
「んもう。サポートするって言っているんだから落ち着きなさいよ。」
「で、でも」
「まあ、いいわ。ちょうど行きたかった場所に来れたし」
怯える様にマニラは辺りを見渡した。真っ暗な闇は自分がちゃんと立っているのかわからなくなる様な感覚にさせ、恐ろしくなったマニラはナルコマにすがる様に近づいた。
マニラは声を出したが、口の中は乾き、ちゃんと言葉になったのか自分ではわからなかった。
「ここは……どこ……?」
「ここは常世と現世の狭間。慌てないで、落ち着いたら自分が立っている場所がわかるから」
そう言われたマニラは、自分を落ち着かせる為にゆっくりと目を瞑り、何度も深呼吸をした。
そうっと開いた闇の先に白く輝く無数の光が見えた。とたん、足元に硬い感触を感じ、たしかに今ここに立っていることを実感出来た。
胸の奥深くでまだ少し高鳴っている心臓を押さえ、マニラはナルコマを見る。
「ここは鎧の袖じゃないの? なんで突然」
「私が説明してもいいけど、ちゃんと納得させてくれる人から聞いた方がいいかも。ほら、来た」
「えっ」
ナルコマが示した先、闇の奥。白い光の粒に照らされ黒い外套が浮き上がった。