変わりもの
朝方の寒さ、特に秋のそれと言ったらひどく身にこたえる。巷では温暖化だなんて騒がれているけれど、ちっとも変わらないじゃないか。寒いとまたトイレに行く回数が増えるもので、俺はトイレまでの短い道のりを何度となく往復せざるをえなかった。
ビールの缶やつまみのゴミがトイレへの道の横に並べられている。自然にできたものではなく、俺がこのベッドからトイレやキッチンのある出入り口付近へと何度も往復したときに出来たものだと思われる。”けもの道”ならぬ”俺の道”と自分だけで呼んでいた。その俺の道を通ってトイレで用を足していると、すごい雨音が聞こえた。天井からぽつっと頭に滴が溢れ落ちた。
「流石、築ウン十年は違う」
うんうんと、頷きながら用を足すと、少しだけ小便が便器からはみ出してしまった。それでも許されてしまうのが一人暮らしというものである。トイレの中の蛇口で手を洗い、そしてベッドに戻ろうとした。トイレのドアを閉め手を拭いて振り返るとそこに何かが置いてあった。見ると白いワンピースの女性が倒れていた。
最初、びっくりしたというより、その人の顔の美しさに声が出なかった。きれいな顔をしている。顔のパーツは適材適所と言わんばかりに整っているし、そのパーツ自体も一級品だった。でもそんな女性がなぜ俺の部屋に?
「あの、もしもーし」
背中をさする。濡れていたから外より来たことは明白だった。弾力がありもちもちしている。濡れていて肌の感触がわかる。俺はごくっとつばを飲み込んだ。
「待て待てそれはいかん。こんなベタな話、官能小説家ですら書かんだろう」
繊維質の堅いところがあった。きっとそれがブラなんだろう。そして、女の人ってこんなにやわらかいんだと思った。そもそも、二十何年間か生きてきて、他人の女性に触れたのはこれが始めてだと言うことにびっくりしてしまう。
「だいじょうぶですか」
「ん……。はい?」
女性は意識を取り戻したみたいでほっと胸をなで下ろす。女性はこっちを見るやいなや、
「きゃああああヘンタイ!」と叫んだ。
「え、え? 俺の部屋に俺がいて変態……」
何か指挿している。その指の先を見る。
「うわあああああああああ」
「ちょっと! うるさいわよ!」
隣の部屋のおばちゃんに注意され、そして自分の置かれた状況を見つめる。そういえば、自宅ではパンツとシャツしか着ていなかった。
すみません、と頭を下げてそこら辺に置いてあったジーパンを履いた。
「なんで、私はあなたの部屋にいるのでしょう?」
女性、名前を秋さんというらしい。秋さん自身もなぜ自分がここにいるのかわからないみたいだった。
「えと、飲み過ぎて間違えて入っちゃったとか?」
秋さんは首を振る。
「私、そもそも酔ってませんし」
確かに酒のにおいはしない。そもそもいいにおいしかしていない。
他の場合を考えてみる。秋さんの服は濡れている。外は大雨が降っているようなので外から来たことは間違いない。こんなところに濡れている女性をそのままにしておくのはどうかと思うが、今はどうしてここにいるのかをはっきりするときだろう。決して透けブラがどうの言う話ではない。
「あ、あの」
「何かわかった?」
秋さんは手をもじもじして言った。顔は真っ赤。
「寒くてお手洗いに行きたくなりました。あと、タオルも欲しいです」
「あ、ごめん」
干してあった新しいタオルを投げて渡す。
「では行ってきます」
彼女はおぼつかないような手つきでそれをつかみ、トイレへと入った。俺は少しだけがっかりした。
「なんか便器の脇が水漏れで濡れていたので、拭いておきました」
「え、あ、あああああああああああああ」
「どうかされました?」
そういえば、さっきのトイレの後、拭くの忘れてたような気がするけれど、言ったところで何があるでもない。こっそりと言わないことにした。
「そういえば、ここに来る前のこと思い出しましたよ」秋さんはふーっと、息を吸ってから話し出した。「いつものように大学へ向かうためあまず川のほとりを歩いていました」
あまず川というのは、ここの近くを流れる川の上流の川だ。
「それで?」
「ぽつりと滴が落ちてきて、いきなり大雨が降ってきたので、私は少し早めに歩きました。すると後ろから大きな音を立てて濁流が」
「ん? 濁流?」
はい、と言い秋さんは続ける。とても真剣な顔もそそられる。
「それに飲み込まれたと思ったら」
「気付いたらここに?」
そうですと秋さんは答えた。
「オカルトチックだね」
「そうですか? 私はそういうのあったら面白いと思いますけど」
要は、濁流にのまれて気が付いたらここにいたってことだよな? 俺なんか今にも劣情の波にのまれそうなのに。
それにしても、そんなバカな話はないだろう。もしかして秋さんは幽霊なのか。いやでも足がある。いやでも……、うう、考えすぎて頭が痛くなってきた。
ふらふらっと立ちくらみを起こすと秋さんが心配をしたように、
「大丈夫ですか?」
と上目使いで見てくる。ちらっと下を見ると、胸が見える。小ぶりな胸だった。きっと触れば気持ちいいんだろう。それはさっきの背中とは比べものにならないほどに。
よくよく考えれば妻子がいるわけでもないし俺には失うものがないことに気付いた。
理性が飛ぶ音がした。
「秋さん!」
それからは早かった。がたっと音をさせながら彼女を布団に押し倒した。少し濡れていて冷たいが、ちょうど男の大事な部分のところに柔らかいものがあたった。それをもっと感じたくて、手を伸ばそうとした。
「あ、あの。痛いです。やめてください……」
大声をだされるとまずい。でもこういう場合はどうすれば……。
誰かの声がした。瞬間に体がびくっとする。リモコンを踏んでしまったのか、テレビが付いたらしい。ニュースキャスターの男性が記事を読み上げる。ふうと胸をなで下ろして続きをしようとする。
『えー。加えて、坂本 秋さんが行方不明です』
どこかで聞いた名前だと思った。
「え。私だ」
秋さんは飛び起きた。俺はなすすべもなくどかされてしまう。さっきまで見せていた弱いところが嘘のように、大きく目を見開いてテレビを見つめた。
テレビを見ると、秋さんの母親らしき人が泣いていた。
「ごめんなさい! 私帰らなきゃ」
思わず自分の口がぽかーんと開いてしまっているのに気がついた。
「気にしないでください。それよりなんかありがとうございます。靴がないので借りていきますね」と言って、俺のサンダルで出て行った。
何か大きな穴が心にぽっかりと空いたような気がした。これが失恋……。
仕方なしにたばこでも吸おうとベランダに出ると、そこにはトドのような男が倒れていた。とうとう頭が痛くなってきた。
『依然として行方不明なのは、城 貞昭さんと坂本 秋さんです』