♯3
長いような、でも短かった一日が終わる。
「あー、楽しかったぁ!」
両手を広げた千夏が満足気に声をあげた。
「……僕はちょっと疲れたよ」
濡れた体と髪はすっかり乾き、あとはもう帰るだけだ。
「わあ―――」
千夏が感嘆の声をあげる。
「うわあ……すごい夕焼け………」
「ホントだ」
赤かオレンジか………遠い空に降りて行く眩い光。
二人、照らされながら眺める。
「夕日なんて久しぶりに見た気がするよ。毎日見てるはずなのにさ」
「それだけ心に余裕が出来たって事じゃない?」
「うん………そうかも」
「宗士郎なら………この夕焼け、どんな色で描く?」
「え?」
声に顔を向けると千夏は一人、歩き出していた。その後を駆けて追い付く。
「私は宗士郎の描いた絵、好きだよ。温かくて、優しくて………見る人を幸せにしてくれるから」
穏やかな笑みを浮かべる千夏の横顔。
「だからこの夕焼けを宗士郎が描いたら、きっと素敵な絵になるよ……うん、絶対」
「………千夏」
「スランプって言ってたけど………今はちょっと休んで充電しろって事なんだよ、きっと」
並んで駅への道を歩いていると千夏がそんな事を言い出した。
「………昨日の僕、そんなに元気ないように見えた?」
千夏は昨夜の事を言ってるんだろう。
僕の様子を窺うように見つめてくる。
「ん? うん……なんだかいつもの宗士郎じゃないみたいだった、かな」
「そっか……」
それで今日の海水浴、か。気を使われちゃったんだな……。
「ありがとう……あと、ごめん」
「へ? な、何が?」
「なんか僕の事で心配させたみたいだし……でも千夏のおかげで少し元気になったよ。だから、ありがとう」
「そ、そんなお礼を言われる様な事じゃないってば! 私は本当の事言っただけだしっ……。それに、ただ………宗士郎が元気ないとこっちまで調子狂うな、って思って、それで……」
うろたえまくる千夏の目が泳いでる。それに顔が真っ赤だ。
もしかして照れてる?
その姿についつい苦笑が漏れた。
……本当にありがたかった。
幼馴染みの千夏。
よく気がついて、しっかり者で。勉強も運動も出来る優等生。
そんな彼女が、いつも僕の世話を焼いてくれるのはなんでなんだろう。
いつだって気が付けばそこにいて、僕を助けてくれた。
それは幼馴染みだから?
そういう性格だから?
僕が頼りないから仕方なく?
それとも………他に何か理由があるんだろうか?
「あ、宗士郎。早くしないと、もう電車来ちゃうよ! 急がなきゃ!」
「っとと、そんな引っ張らなくても大丈夫だよ」
「ほら、早く早くっ」
「わかった、わかったからっ」
誤魔化すように僕の手を引いて駅に駆け込む。
こんな風にいつも僕は千夏に引っ張られてここまできた。
ずっと一緒にいたからわかる………本当の千夏は優等生だけど時々素直じゃなくて実は可愛いものとアイスが好きな無邪気で優しい女の子。
………僕はそんな彼女に何かをしてあげられているのだろうか?
……………
キキーッと甲高いブレーキ音。ホームに電車が滑り込む。
ほてった体を潮風が撫でた。
「…………」
未だに耳まで赤くした千夏の横顔を横目に眺めながら思う。
―――もしも僕達が幼馴染みじゃなかったら。
二人はどうなっていたんだろう。
……………
電車に乗り込み、発車ベルが鳴る。
窓から覗く海が遠のいていく。沈む夕日のオレンジに染まった海はそれでも蒼く輝いて―――それは僕の胸に強く、強く焼き付いた。
家に着くと玄関の前で千夏と別れて家に入る。
……………
海からの帰り道、ずっと考えていた事がある。
それは絵を描きたい―――少しでも早く筆を走らせたい。
そんな自分でも不思議なくらい心の底から溢れてくる衝動にも似た思い。
だから僕は家に着くなり、まっさらなキャンバスに向かい合っていた。
「……ふう…」
心地好い疲れ。
こんなに充実した気分は久しぶりだ。
今ならいい絵が描ける気がする。
……いや、描ける。なぜか、そう確信していた。
つい昨日の夜までモチーフが見付からない、と悩んでいたのが馬鹿みたいに思える。
僕が描きたいものはすぐそこにあったのに。なんで気付かなかったんだろう? 灯台もと暗し……ってヤツかな。
とにかく、あとは今のこの気持ちを筆に乗せて最高の絵を描きあげるだけだ。
「―――よしっ」
パシッと頬を張って気合いを入れると僕は白い画布に筆を走らせ始めた。
描き上がったら一番に彼女に見せよう―――と思いながら。
・
―――それから三週間。
八月になって僕達の学校は夏休みに入っていた。
テレビでは毎日のように観測史上最高気温が更新されるニュースが流れている。
………そんな中、例のコンクールが行われたのが昨日の事。
千夏には随分心配されたけど僕はあの絵を書き上げ、なんとか締め切りまでに間に合わせる事が出来た。
そして………
「ごめん、待った?」
「ううん、大丈夫。私も今、来たところだから」
「はぁ~あ………なんかさ。偉い人とかに捕まっちゃって参ったよ。それに取材とかも」
「あはは、仕方ないじゃない。なんといっても史上最年少での金賞授賞者、なんだしね?」
「そんなの周りが騒いでるだけだよ。僕はそんなに大した事してないのになぁ……」
その翌日の今日、僕は受賞式に出席した足でそのまま千夏と待ち合わせていた。
場所は学校の美術室。
どうしても二人きりで話したい事があるから、と誰も邪魔が入らないこの場所に千夏を呼び出したのだ。
「まったく相変わらず呑気なんだから……」
ぐったりとした僕に千夏は呆れたように息をつくと悪戯っぽく言う。
「これからはそんな事も言ってられないんじゃない?」
「え?」
「だって、金賞なんて取っちゃったらもっと騒がしくなるのは目に見えてるもの」
「………やめてくれよ千夏……只でさえ全然知らないような人達に延々、囲まれてうんざりしてるんだから」
本当に、もう……受賞式では、あまりの騒ぎにちょっと人嫌いになりそうな勢いだった。
「あはは、ごめんごめん」
「ああ、これでまた平穏な日々が遠のいていくと思うと……」
正直、勘弁してほしい。
「昔みたいな騒ぎはもう懲りごりだよ」
「あはは……その気持ちはちょっとわかるけどね」
昔を思い出したのか千夏も少し困ったように笑った。
「だろ? 人に迷惑かけてまで天才なんて言われたくないんだよ、僕は」
……………
言って思い返す。
仲のよかった友達が、みんな僕から離れていき、周りの大人からは特別な目で見られ始めた、あの頃。
そのせいで人間を信じられなくなり………寂しくて、辛くて塞ぎこんでしまいそうだった僕を助けてくれた千夏。
僕が一人にならないようにと、どんな時にも、ずっと変わらない態度で接してくれた千夏。
物心ついた時から傍にいてくれた。そして今も目の前には千夏がいる。
今までは当たり前すぎて気付かなかった………千夏という存在の大きさ。
でも今はわかる。それがどんなに大切でかけがえのないものなのかが。
「でも私は宗士郎は自分がやった事に胸を張っていいと思うよ?」
「そう、かな?」
「うん」
はっきりと頷いてくれる。
「私もすごいと思ったよ。宗士郎の作品。ちょっと………ううん、すごく感動した」
「…………」
そう。それだけは素直に嬉しい。
コンクールで金賞を受賞した絵。
あれは僕の気持ちを込めた………千夏への思いを込めた絵だ。
最初に決めていた通り、描き上げて一番最初に千夏に見せた。その時、彼女は笑って完成を喜んでくれた。
あの絵から千夏に何か伝わったかどうかは、わからないけど僕にとって一番大事な人が僕の絵を褒めてくれた。
僕にはそれが賞を取った事なんかよりもずっと、ずっと嬉しかった。
「だから宗士郎はもっと自分を誇っていいと思う」
「………うん、ありがとう。千夏がそう言ってくれると少しは凄い事した気になってくるよ」
「そうそう、天乃宗士郎は天才だもん。凄いんだから」
「だから、それはやめてってば」
「あははは」
「笑い事じゃないよ」
とか言いつつも、僕は千夏とこうして話してるだけで疲れが吹っ飛んでしまうのを感じていたりする。
………僕も現金だな。
「あ、そういえば宗士郎」
と、千夏が何かを思い出したように僕に向き直った。
「ん? 何?」
「何か私に話があるんじゃなかった? 昨日、『受賞式のあと話があるから』って言ってたよね?」
「あ、あー。うん………まあ」
話が本題に及んだ途端に緊張で体が堅くなる。
「…………」
覚悟は決めてきたつもりだったけど、いざ本人を目の前にするとなかなか言葉が出てこない。
「?? ……どうしたの? なんか顔赤いよ?」
「あ、うん……大丈夫だからちょっと待って」
大きく深呼吸。
―――これから僕が言う事に千夏はどんな反応をするだろうか?
「………こほん」
「??」
一つ咳払いして千夏の様子を窺う。
千夏の顔からはその答えはわからない。ただただキョトンとしている。
―――頑張れ、天乃宗士郎。
僕は自分を激励し、ありったけの勇気を振り絞って。
「実はさ……」
爆発しそうな心臓を必死でなだめながら。
真っ直ぐに千夏を見据えて。
「僕は………」
これからも彼女と一緒にいたいから。
ただの幼馴染みじゃもう嫌だから。
「千夏の事が―――」
その言葉を………言った。
―――――………
―――……
――…
その夏―――そうして僕は彼女に思いを告げた。
青空と眩い太陽、蝉の大合唱と蜃気楼。
二人で行った海水浴。白い砂浜、オレンジと深い青が交わりあった不思議な海。
―――気付いた思いと君の優しさ。
僕と君が過ごし、これからも過ぎていくだろう幾多の季節。
―――どれだけの年月を経ても僕は忘れない。
この夏を。
二人で食べたアイスの甘さを。
無邪気に笑い、水と戯れる君の姿を。
あの休日の水平線に沈む夕日の美しさを。
君の言葉に一喜一憂した僕自身を。
そして―――
授賞式の日、君と繋いで帰った手の温もりを。
その全てを。
僕はきっと忘れないだろう。
……………………
……………
………
―――Fin.
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