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【完結保証/毎日更新】帳簿令嬢の答え合わせ ~その不正、すべて帳簿が覚えています~  作者: Lihito


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9話:帳簿は嘘をつかない

朝。応接室の準備を終えて、帳簿を机に並べた。


収支の推移。対前年比。今後の成長見込み。全部数字。感情を挟む余地を一切残さない構成。


「大丈夫ですか」


セバスが聞いた。


「数字がある限り、負けないわ」


***


応接室。


レオナルドとミレーヌが長椅子に座っている。ドルトンが隅。

こちら側はセバスと、私が声をかけた住民代表が数人。老婆もいる。杖をついて、壁際に立っている。


グレンは部屋の隅。いつもの定位置。


レオナルドは余裕の態度で足を組んでいた。


「さあ、聞かせてもらおうか。まあ、帳簿が赤字でも気にすることはない。戻れば済む話だからな」


私は帳簿を広げた。


「では、ご報告いたします」


数字を読み上げる。淡々と。


「レムリア草事業の売上推移。初月、金貨八枚。二ヶ月目、金貨二十二枚。三ヶ月目、金貨三十五枚。販路が二件に増えたことで、来月以降はさらに伸びる見込みです」


「前代官による支出の不正を全て洗い出し、架空請求と水増しを排除しました。これにより支出を四割削減」


「食料輸送ルートの見直しで、輸送コストを二割削減。浮いた分を食料備蓄と道の修繕に充てています」


「着任三ヶ月で黒字化を達成。現在のペースなら、半年後には道の全面修繕も完了する見込みです」


「住民の労働参加率。初月五人。現在三十人超。領地人口の一割が自発的に作業に参加しています」


全部数字。一つひとつに根拠がある。感情は一切挟まない。


レオナルドの表情が変わっていった。余裕が消え、困惑に変わり、そしてじわじわと動揺が滲む。


「……黒字だと?」


「はい。着任三ヶ月で黒字化しました」


ミレーヌが口を挟んだ。


「で、でも、辺境の小さな領地でしょう? 公爵家の規模とは——」


「小さな領地だからこそ、数字の改善が早いのです。無駄を削り、収入源を作り、仕組みを整える。経営の基本ですわ。——公爵家の帳簿より、よほど健全よ」


最後の一言で、ドルトンの顔から色が消えた。

アイリスは公爵家の帳簿がどうなっているかを直接は言わない。でも「よほど健全」が何を暗示しているか、ドルトンだけが分かっている。


住民代表たちが顔を見合わせていた。数字の意味を全部は理解できなくても、空気は読める。帳簿で王子を圧倒している領主の姿は、彼らの目にはっきりと映っていた。


***


沈黙が続いた。


レオナルドが口を開いた。プライドを立て直そうとしている顔。


「ま、まあ、辺境にしては頑張ったようだな。だが、それならなおさらだ。お前の力は公爵家のために——」


「お断りします」


「……は?」


「この領地には可能性があります。私はここで結果を出します。戻る理由がありません」


静かに。淡々と。感情を込めない。数字が裏付けた事実として。


レオナルドの顔が赤くなった。


衆人の前で「お断り」された。住民代表が見ている。セバスが見ている。ミレーヌが見ている。「連れ戻してやる」という恩着せが、数字で完全に否定された。成功している相手に「戻れ」は通じない。


ミレーヌの笑顔も消えていた。「泣いて感謝する」はずだった女が、黒字の帳簿を広げて拒否している。台本にない展開。


レオナルドが立ち上がった。椅子が鳴った。


「……ならば仕方ない。この領地の薬草取引だが——」


声が変わった。余裕を取り繕うのをやめた声。


「王家の名において、取引先に通達を出す。公爵家を経由しない薬草取引は認めない」


セバスの顔が強張った。住民代表たちが不安げにこちらを見る。せっかく積み上げたものが、王子の一言で潰されるのではないか。


グレンの手が剣の柄にかかった。


「殿下」


私は座ったまま言った。


「それは王都周辺の商会には有効でしょうね」


「当然だ。逆らえる商会があると思うか」


「王都周辺には、ないでしょうね」


レオナルドの眉がひそまった。


「東の港町の商会とは、すでに取引が始まっています」


「……何?」


「港町の商会は海外交易が主体です。王家の国内通達より、交易条約のほうが優先されます。殿下の通達では止められません」


レオナルドの表情が固まった。ミレーヌが横で何か言おうとして、言葉が出ない。


「さらに申し上げますと」


立ち上がった。帳簿を閉じて、レオナルドを見据える。


「王子が特定領地の交易を恣意的に制限する場合、枢密院の承認が必要です。殿下個人の通達には、法的拘束力がありません」


ドルトンが青ざめた。法的リスクに気づいている。だがレオナルドに「それはまずい」と言える立場にない。


「つまり、殿下の通達は——港町には届きません。王都の商会も、法的に従う義務がありません。効果がないだけでなく、通達を出したこと自体が殿下のご評判に傷をつけます。『王子が辺境の小さな領地を潰そうとした』と」


淡々と。数字と法律を並べて、レオナルドの行動の「コスト」を突きつける。


応接室が静まり返った。


レオナルドの顔が赤を通り越して白くなっていた。怒りと屈辱で、言葉が出ない。反論する材料がない。帳簿で殴られ、法律で殴られ、衆人の前で二度目の恥をかかされた。


ミレーヌが立ち上がった。レオナルドの腕を取る。


「殿下、もう帰りましょう。こんな辺境に長居する必要はありませんわ」


レオナルドがミレーヌの手を振り払った。一歩、アイリスに詰め寄る。


その瞬間。


グレンが一歩、前に出た。


言葉はない。ただ一歩。アイリスとレオナルドの間に、壁のように立った。

灰色の瞳が、まっすぐレオナルドを見ている。元近衛の視線。感情はない。ただ、「これ以上は近づかせない」という事実だけが、そこにある。


レオナルドの足が止まった。


「……覚えていろ」


絞り出すように言った。


「この借りは必ず返す。辺境で好き勝手やっていられるのも今のうちだ」


背を向けた。ミレーヌが慌ててついていく。ドルトンがおどおどしながら最後に続く。


扉が閉まった。


馬車の音が遠ざかっていく。


しばらく、誰も動かなかった。


老婆が杖を鳴らした。


「……やるじゃないか、お嬢」


それを合図にしたように、住民代表たちが息を吐いた。顔を見合わせて、小さく笑い始めた。


セバスが深く頭を下げた。目が赤い。こらえていたのだろう。


「アイリス様——」


「泣かないでよ、セバス。帳簿が滲むでしょう」


セバスが笑った。泣きながら。


***


夕方。事後処理を終えて、一人になった執務室。


帳簿を閉じて、息をついた。


勝った。


でも終わってみれば、結構緊張していた。レオナルドが立ち上がった瞬間、心臓が跳ねた。数字では勝てる。法律でも返せる。でも相手は王子。権力で押し潰されたら——と、一瞬だけ思った。


その一瞬で、グレンが前に出た。


あれで助かった。あの一歩がなかったら、声が震えていたかもしれない。


ノックの音。


「入って」


グレンだった。夕方の報告。


「異常ありません」


いつもの一言。何も変わらない日課。


「グレン」


「はい」


「ありがとう」


言ったら、笑ってしまった。


緊張が解けたせいだと思う。王子を追い返した後で、護衛に「ありがとう」と言っている自分がおかしくて。あるいは、あの一歩が本当に嬉しくて。どっちか分からないけど、気づいたら笑っていた。


取り繕った笑顔じゃない。領主としての微笑みでもない。ただ、ほっとして、嬉しくて、笑った。


「あなたが前に出てくれたから、落ち着いて話せた。本当に助かったわ」


グレンの目が、わずかに見開かれた。


それから——耳の先が赤くなった。


本人は気づいていない。表情はいつも通りの無表情を保とうとしている。でも耳だけが正直に色を変えている。


「……護衛、ですから」


声がかすかに上擦った。いつもの「護衛ですから」とは違う。逃げるような響き。


(この人、照れてる?)


面白くなって、もう一歩踏み込みたくなった。でもやめた。これ以上追い詰めたら、明日から報告に来なくなるかもしれない。


「そうね。護衛ね。ありがとう」


二度目のありがとうで、グレンの耳がさらに赤くなった。


「……失礼します」


足早に扉へ向かう。いつもの静かな足音が、今日は少しだけ速い。


扉の前で立ち止まった。振り返らないまま。


「……お見事でした」


小さく、ぼそりと。それだけ言って、出ていった。


***


一人になった執務室。


帳簿を開き直した。数字を見ていると落ち着く。いつもの自分に戻れる。


でも今日は、少しだけ数字がかすんで見えた。


(お見事でした、か)


誰かに仕事を褒められたのは、いつ以来だろう。前世でも、この世界でも、帳簿の仕事を「見事」と言った人間はいなかった。便利だとは思われていた。使えるとは思われていた。でも「見事」とは、一度も。


あの声が耳に残っている。ぼそりと。振り返らないまま。逃げるように。


自分の頬に手を当てる。


少しだけ、熱い。


(……何よ、今の)


振り払う。ペンを取る。明日の帳簿。来週の出荷予定。ロッソ商会への連絡事項。


やることは山ほどある。


でも、ペンが止まる。


あの耳の赤さを思い出す。無表情のくせに。声が上擦っていたくせに。


……明日にしよう。今日は、もう。


窓の外の夕日が最後の光を投げている。

小さな領地に、灯りが点々と灯り始めていた。


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