7話:信じるに足る
港町から戻って数日。ロッソ商会との取引が始まり、レムリア草の出荷が定期化した。
朝、窓を開けると、領地の空気が変わっているのが分かる。
道が広くなった。住民たちが自分で修繕を始めたのだ。日当が出ると分かってからは手を挙げる人間が増え、今では順番待ちになっている。館の周囲も小綺麗になった。割れた窓は直し、門の錆びた鉄柵も取り替えた。
食料の備蓄ができた。南からの輸送ルートを見直して、コストを二割削った分を備蓄に回している。次の冬は乗り越えられる。
市場ができた。といっても広場に台を並べただけだが、住民同士が野菜や保存食を交換し始めている。金が回ると、人が動く。人が動くと、町ができる。
何気なく、鑑定した。
【アーレン領】
現在価値:750
潜在価値:2,800
750。着任時の12から、60倍以上。
まだ潜在の2,800には遠い。でも方向は間違っていない。数字が証明している。
***
夕方、帳簿を閉じて窓の外を見た。
住民が挨拶を返すようになった。最初は「また来たのか」という目だったのが、今は会釈を返してくる。老婆に至っては「お嬢、今日の分だよ」と採れたての野菜を持ってくるようになった。受け取らないと怒る。
前世でも同じだった。数字を整え、無駄を削り、仕組みを作った。結果も出していた。
でも認められなかった。
「やり方が冷たい」「人の気持ちが分からない」。上司に言われた言葉を、今でも覚えている。数字で正しさを示しても、「正しいけど、そういうことじゃない」と。じゃあ何が「そういうこと」なのか、最後まで分からなかった。
内部告発の時もそうだ。データを揃えて、論理的に説明して。それでも握り潰された。「会社のためを思うなら黙っていろ」と。黙っていたら会社が潰れる、と言っても通じなかった。
正しかったのに、排除された。
今は違う。
セバスは帳簿を任せたら応えてくれた。住民は数字で示したら動いてくれた。ロッソ商会の店主は帳簿の正確さを見て信用してくれた。
(前世と何が違う?)
答えは出ない。でも手応えはある。ここでは、数字を信じてくれる人がいる。
***
その夜。
港町の取引分を帳簿に組み込む作業をしていた。ロッソ商会への出荷が加わったことで、収支の構造が変わる。収入の柱が二本になった分、輸送コストの見積もりも更新しなければならない。
セバスは帰宅済み。執務室にはグレンと二人。
数字を追っていく。南の薬師への出荷分。ロッソ商会への出荷分。輸送コスト。人件費。食料備蓄の予算。
合わない。
港町の取引分を入れると、輸送コストの見積もりが三割ずれる。セバスの日次記録は正確だから、ずれているのは元の見積もりの方だ。でも項目を一つひとつ確認しても、計算は合っている。
「……おかしいわね」
独り言。帳簿を見直す。数字を辿る。どこかに抜けている項目があるはず。
「……荷馬の飼葉代が、入っていないのでは」
手が止まった。
グレンだった。壁際から、こちらを見ている。
「道中、荷馬に三回飼葉を買いました。宿場で。帳簿には旅費としか」
正確だった。港町への往復で、宿場に三回寄った。そのたびに荷馬の飼葉を買った。私は「旅費」として一括で計上していたが、飼葉代は輸送コストに入れるべきだ。定期的に発生する費用だから。
旅費と輸送費の仕訳が間違っている。だから輸送コストの見積もりがずれた。
「……グレン、あなた、帳簿の中身を見てたの?」
「いえ」
「じゃあ、なぜ」
「旅の間、自分が何にいくら使ったかは覚えています」
帳簿は見ていない。ただ、自分の行動と支出を記憶していた。それだけ。でもそれだけで、私が見落としていた項目を指摘した。
前に仮説を試した時、グレンは「興味がありませんでした」と言った。予算管理も、補給の仕組みも、相場感も。全部「知らない」で終わった。
あの時と何が違う?
違うのはグレンじゃない。状況だ。あの時は聞かれたから答えただけ。今は自分から言った。「入っていないのでは」と。
護衛の範囲を超えている。帳簿の話に踏み込んだ。
「……ありがとう。助かった」
素直に礼を言った。
グレンは目を逸らさなかった。初めて。いつもなら視線が合った瞬間に壁の一点に戻るのに、今日は違った。灰色の瞳がこちらを向いたまま、小さく頷いた。
それから、いつもの定位置に戻った。
私は帳簿を修正した。飼葉代を旅費から輸送コストに振り替える。数字が合った。三割のずれが消えた。
ペンを置いて、息をつく。
(この人——変わったわね)
出会った頃は、頷きすらしなかった。自己紹介で一日の発言量を使い切るような男だった。それが今、帳簿の誤差を指摘している。
9,999の意味は、まだ分からない。
でも、この男が信用できることは——数字とは関係なく、分かった。
***
翌朝。
セバスが慌てた様子で執務室に駆け込んできた。
「アイリス様、王都から書状が」
差出人はヴァレンシア公爵家。紋章入りの封蝋。
開封する。内容は短かった。
——第二王子レオナルドがアーレン領を視察する。三日後に到着。
手が止まった。
レオナルド。元婚約者。私を追放した張本人。
「視察」という名目。つまり「お前が失敗しているか確認しに来る」か、あるいは「惨めな姿を見に来る」か。
セバスの顔が曇っている。住民たちに伝わったら動揺する。せっかく信頼が芽生えたところに、王子が来る。
帳簿を見る。数字は積み上がっている。750まで来た。でも、外から見れば「辺境の小さな領地が少しマシになった」程度だ。華やかな数字じゃない。地味な改善の積み重ね。それを理解できる人間は少ない。
レオナルドに理解できるとは思えない。
(……来るなら来なさい)
帳簿を閉じた。
「セバス、準備をして。客間の掃除と、領地の収支報告書を作り直すわ。三日分の時間があれば十分」
「は、はい」
「それと——数字を綺麗にまとめて。見せる相手は帳簿が読めない人間だから、分かりやすさ重視で」
セバスが頷く。こういう指示にすぐ動けるようになった。三ヶ月前とは別人だ。
グレンが部屋の隅にいる。いつもの定位置。
レオナルドの名前を聞いた時、グレンの表情は変わらなかった。でも、手が——ほんの一瞬、剣の柄に触れたのを、私は見逃さなかった。
「グレン」
「はい」
「三日後、面倒な客が来るわ。護衛、よろしくね」
グレンは頷いた。
「……はい」
いつもの一言。でも、力が入っていた。
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