表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】帳簿令嬢の答え合わせ ~その不正、すべて帳簿が覚えています~  作者: Lihito


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

64/72

64話:ただいまの距離

ノイマン商会を訪ねた。


グレンが隣を歩いている。前に来た時は、店の中では壁際に立っていた。今日はそうしなかった。並んで歩いて、並んで店に入った。ノイマンに会いに行くのに、護衛の距離である必要はなかった。


店の前に立った時、前回とは違っていた。扉が開いていて、中から声がする。番頭の声だった。何かの荷受けをしている。人がいる。それだけで空気が違った。


中に入ると、ノイマンが帳場にいた。顔色はまだ良くない。でも、前回のように指先が震えてはいなかった。こちらを見て、少し目を見開いた。


「アイリス・ヴァレンシア様」


「ご報告があります」


帳場の椅子を勧められた。グレンも椅子を出された。ノイマンが茶を淹れてくれた。前回はそんな余裕はなかった。


「会合で賛成多数を取りました。四条項と信用組合の法制化が進みます」


ノイマンの手が止まった。茶碗を持ったまま、こちらを見ている。


「カイルさんが王室への上申を出しています。早ければ半月で通ると」


「……通った、のですか」


「はい。それと——」


あの壮年の男の言葉を伝えた。ノイマンの店は組合で何とかする。一括請求の分は、基金の最初の案件にする、と。


ノイマンが茶碗を置いた。音がしなかった。そっと置いたのだ。しばらく何も言わなかった。反物の棚を見ていた。


「……ありがとうございます」


声が小さかった。でも震えてはいなかった。


帳簿を返した。ノイマンが受け取って、棚に戻した。元あった場所に。自分の商売が、まだそこにあるのを確かめるように。


店を出た。通りに朝の日差しが落ちている。


「……行きましょう。帰らないと」


「はい」


アーレン領に帰る。やるべきことがまだたくさんある。でも一つ、終わった。


***


領地に戻ったのは三日後だった。


馬車が領境を越えた時、窓の外の景色が変わった。王都の石造りの街並みではなく、畑と丘と、遠くに森。見慣れた風景だった。


「……帰ってきた」


呟いた。独り言のつもりだった。


「お帰りなさいませ」


グレンが言った。少し間があった。それから小さく付け足した。


「——俺も、少し安心しました」


思わず横を見た。グレンは窓の外を見ていた。


館に着くと、セバスが出迎えてくれた。いつも通りの佇まい。背筋が伸びていて、白髪が整っている。でも目元が少しだけ緩んでいた。


「お帰りなさいませ、アイリス様。ご無事で何よりです」


「ただいま、セバス。留守の間、ありがとう」


「お荷物はお部屋に運ばせます。お茶の用意もできておりますが、先にご報告がございます」


「報告?」


「領の運営に関わるものが幾つかと——縁談のお話が三件、届いております」


足が止まった。


縁談。


「ええ。隣領のブレナン家、南部のオルテガ家、それから王都のハウザー家から。いずれもアーレン領の発展を受けてのことかと」


セバスの声は淡々としていた。事務報告の延長。だが目がこちらを見ている。


前にもあった。あの時は書状を読んで「条件だけ見ると悪くないわね」と言った。交易路の本数、事業との相性。数字だけで判断して、断る理由がないと。


あの後、後ろで音がした。剣が床を打つ音。


——つい、振り返った。


グレンがいた。さっきと同じ距離に、同じ姿勢で立っている。


目が合った。


「……何か?」


声が普通だった。硬くない。あの時とは違う。壁を作って「護衛に戻ります」と言った、あの声とは。


(……大丈夫だ)


何が。分かっている。分かっているけど、それ以上は考えない。


セバスに向き直った。


「断って。三件とも」


「承知しました」


それだけだった。あの時は「てっきり即座にお断りになるものかと」と驚いたこの人が、今日は何も聞かなかった。一礼して、下がっていった。


後ろでグレンが動いた気配はない。壁際に退がりもしない。距離が変わっていない。


自分の部屋に入った。荷物を下ろして、窓を開けた。領地の風が入ってきた。土と草の匂い。王都にはなかった匂いだった。


***


翌日から帳簿設計に取りかかった。


信用組合の出入りを全て可視化する帳簿。どの商会がいくら出して、いくら借りて、いくら返したか。全員が確認できる形式。これがなければ、帝国の融資と同じになる。


執務室で紙を広げている。インクの匂い。ペンの音。集中している。


グレンが紅茶を置いた。


「ありがとう」


手を止めずに言った。カップに口をつけた。温度がちょうどよかった。最近、グレンが淹れる紅茶の温度が毎回ちょうどいい。こちらが飲むタイミングを分かっているのだ。


「グレン」


「はい」


「……この帳簿の項目、見てくれる? 抜けがないか確認したい」


グレンが近づいてきた。隣に立って、紙を覗き込んだ。肩が近い。王都に行く前なら気になったかもしれない。今は気にならなかった。自然だった。


「月次の集計欄がありませんが、意図的にですか」


「あ——抜けてた。ありがとう」


「それと、ここの遅延ペナルティの記録欄。帝国の融資と比較できるようにしておいたほうが」


「なるほど。並べて見せれば、違いが一目で分かる」


ペンを走らせた。グレンの指摘を反映していく。この人は帳簿が読める。数字が読める。ただの護衛ではない。いつからだろう、こうやって仕事の話をするようになったのは。


「グレン、王都から帰ってきてから思うんだけど」


「はい」


「あなたがいなかったら、あの会合は乗り切れなかった」


「大したことはしていません」


「大したことよ。少なくとも私にとっては」


言ってから、自分の言葉に気づいた。グレンが黙った。少しの間。


「……光栄です」


短かった。でも声が少し低かった。いつもの事務的な返事ではなかった。


気まずくはなかった。でも空気が変わった。紅茶の湯気が、二人の間でゆっくり昇っている。


ペンを持ち直した。帳簿の続きに戻る。グレンは隣に立ったまま、紙を見ている。


(——この時間が、好きだ)


名前はつけなかった。つけなくてもよかった。ここにいて、この人がいて、やるべき仕事がある。帳簿を設計して、領地を回して、信用組合を立ち上げる。


窓の外に、夕日が落ち始めていた。執務室が橙色に染まっている。


ペンを置いた。


「今日はここまでにしようか」


「はい。夕食の準備ができているはずです」


立ち上がった。伸びをした。グレンが扉を開けて待っている。


廊下に出た。夕暮れの光が長い影を作っている。


並んで歩いた。半歩横ではなく、同じ速さで、同じ幅で。護衛の距離ではなかった。


(帰ってきてよかった)


この領地を守った。この場所に帰ってこられた。隣にこの人がいる。


それだけで、十分だった。

お読みいただきありがとうございます!

もし「面白そう!」「続きが気になる!」と思っていただけたら、

広告の下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、執筆(投稿)の励みになります!

ブックマークもぜひポチッとお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ