64話:ただいまの距離
ノイマン商会を訪ねた。
グレンが隣を歩いている。前に来た時は、店の中では壁際に立っていた。今日はそうしなかった。並んで歩いて、並んで店に入った。ノイマンに会いに行くのに、護衛の距離である必要はなかった。
店の前に立った時、前回とは違っていた。扉が開いていて、中から声がする。番頭の声だった。何かの荷受けをしている。人がいる。それだけで空気が違った。
中に入ると、ノイマンが帳場にいた。顔色はまだ良くない。でも、前回のように指先が震えてはいなかった。こちらを見て、少し目を見開いた。
「アイリス・ヴァレンシア様」
「ご報告があります」
帳場の椅子を勧められた。グレンも椅子を出された。ノイマンが茶を淹れてくれた。前回はそんな余裕はなかった。
「会合で賛成多数を取りました。四条項と信用組合の法制化が進みます」
ノイマンの手が止まった。茶碗を持ったまま、こちらを見ている。
「カイルさんが王室への上申を出しています。早ければ半月で通ると」
「……通った、のですか」
「はい。それと——」
あの壮年の男の言葉を伝えた。ノイマンの店は組合で何とかする。一括請求の分は、基金の最初の案件にする、と。
ノイマンが茶碗を置いた。音がしなかった。そっと置いたのだ。しばらく何も言わなかった。反物の棚を見ていた。
「……ありがとうございます」
声が小さかった。でも震えてはいなかった。
帳簿を返した。ノイマンが受け取って、棚に戻した。元あった場所に。自分の商売が、まだそこにあるのを確かめるように。
店を出た。通りに朝の日差しが落ちている。
「……行きましょう。帰らないと」
「はい」
アーレン領に帰る。やるべきことがまだたくさんある。でも一つ、終わった。
***
領地に戻ったのは三日後だった。
馬車が領境を越えた時、窓の外の景色が変わった。王都の石造りの街並みではなく、畑と丘と、遠くに森。見慣れた風景だった。
「……帰ってきた」
呟いた。独り言のつもりだった。
「お帰りなさいませ」
グレンが言った。少し間があった。それから小さく付け足した。
「——俺も、少し安心しました」
思わず横を見た。グレンは窓の外を見ていた。
館に着くと、セバスが出迎えてくれた。いつも通りの佇まい。背筋が伸びていて、白髪が整っている。でも目元が少しだけ緩んでいた。
「お帰りなさいませ、アイリス様。ご無事で何よりです」
「ただいま、セバス。留守の間、ありがとう」
「お荷物はお部屋に運ばせます。お茶の用意もできておりますが、先にご報告がございます」
「報告?」
「領の運営に関わるものが幾つかと——縁談のお話が三件、届いております」
足が止まった。
縁談。
「ええ。隣領のブレナン家、南部のオルテガ家、それから王都のハウザー家から。いずれもアーレン領の発展を受けてのことかと」
セバスの声は淡々としていた。事務報告の延長。だが目がこちらを見ている。
前にもあった。あの時は書状を読んで「条件だけ見ると悪くないわね」と言った。交易路の本数、事業との相性。数字だけで判断して、断る理由がないと。
あの後、後ろで音がした。剣が床を打つ音。
——つい、振り返った。
グレンがいた。さっきと同じ距離に、同じ姿勢で立っている。
目が合った。
「……何か?」
声が普通だった。硬くない。あの時とは違う。壁を作って「護衛に戻ります」と言った、あの声とは。
(……大丈夫だ)
何が。分かっている。分かっているけど、それ以上は考えない。
セバスに向き直った。
「断って。三件とも」
「承知しました」
それだけだった。あの時は「てっきり即座にお断りになるものかと」と驚いたこの人が、今日は何も聞かなかった。一礼して、下がっていった。
後ろでグレンが動いた気配はない。壁際に退がりもしない。距離が変わっていない。
自分の部屋に入った。荷物を下ろして、窓を開けた。領地の風が入ってきた。土と草の匂い。王都にはなかった匂いだった。
***
翌日から帳簿設計に取りかかった。
信用組合の出入りを全て可視化する帳簿。どの商会がいくら出して、いくら借りて、いくら返したか。全員が確認できる形式。これがなければ、帝国の融資と同じになる。
執務室で紙を広げている。インクの匂い。ペンの音。集中している。
グレンが紅茶を置いた。
「ありがとう」
手を止めずに言った。カップに口をつけた。温度がちょうどよかった。最近、グレンが淹れる紅茶の温度が毎回ちょうどいい。こちらが飲むタイミングを分かっているのだ。
「グレン」
「はい」
「……この帳簿の項目、見てくれる? 抜けがないか確認したい」
グレンが近づいてきた。隣に立って、紙を覗き込んだ。肩が近い。王都に行く前なら気になったかもしれない。今は気にならなかった。自然だった。
「月次の集計欄がありませんが、意図的にですか」
「あ——抜けてた。ありがとう」
「それと、ここの遅延ペナルティの記録欄。帝国の融資と比較できるようにしておいたほうが」
「なるほど。並べて見せれば、違いが一目で分かる」
ペンを走らせた。グレンの指摘を反映していく。この人は帳簿が読める。数字が読める。ただの護衛ではない。いつからだろう、こうやって仕事の話をするようになったのは。
「グレン、王都から帰ってきてから思うんだけど」
「はい」
「あなたがいなかったら、あの会合は乗り切れなかった」
「大したことはしていません」
「大したことよ。少なくとも私にとっては」
言ってから、自分の言葉に気づいた。グレンが黙った。少しの間。
「……光栄です」
短かった。でも声が少し低かった。いつもの事務的な返事ではなかった。
気まずくはなかった。でも空気が変わった。紅茶の湯気が、二人の間でゆっくり昇っている。
ペンを持ち直した。帳簿の続きに戻る。グレンは隣に立ったまま、紙を見ている。
(——この時間が、好きだ)
名前はつけなかった。つけなくてもよかった。ここにいて、この人がいて、やるべき仕事がある。帳簿を設計して、領地を回して、信用組合を立ち上げる。
窓の外に、夕日が落ち始めていた。執務室が橙色に染まっている。
ペンを置いた。
「今日はここまでにしようか」
「はい。夕食の準備ができているはずです」
立ち上がった。伸びをした。グレンが扉を開けて待っている。
廊下に出た。夕暮れの光が長い影を作っている。
並んで歩いた。半歩横ではなく、同じ速さで、同じ幅で。護衛の距離ではなかった。
(帰ってきてよかった)
この領地を守った。この場所に帰ってこられた。隣にこの人がいる。
それだけで、十分だった。
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