49話:濃いめで、同じがいい
数日が経った。
グレンの朝の報告を、普通に聞けるようになった——と思う。
「異常ありません。——北の街道に、早朝から荷馬車が二台入っています」
低い声。報告はいつも短いが、最近は一言多い。見回りで気づいたことを足してくる。あの縁談の頃は「異常ありません」だけだった。壁際に立って、それだけ言って、黙った。
今はちゃんと聞ける。聞いて、ちゃんと流せる。流せている。
「……ありがとう」
机に向かった。帳簿を開いた。数字が並んでいる。追える。止まらない。ペンを取って、昨日の続きに線を引いた。出荷記録の集計。軟膏は今月も安定している。
大丈夫。仕事はできる。
足音がした。グレンが部屋を出ていく。紅茶を淹れに行ったのだと、考えるより先に分かった。
(……いつから分かるようになったんだろう、この足音の意味)
考えない。帳簿。数字。出荷量の推移。先月比で微増。微増の内訳は——
戻ってきた。盆に湯飲みが二つ。湯気が立っている。机の端に一つ置かれる。
「どうぞ」
「ありがとう」
声が自然に出た。あの日みたいに震えなかった。手を伸ばして、湯飲みを取った。指先はちゃんと動く。
一口。
——濃い。
セバスより蒸らしが長い。渋みが少し強くて、でも嫌じゃない。この人はいつもこうだ。もう何度か飲んでいるから分かる。
あの日は分からなかった。温かいということしか。
今日は分かる。味が。濃いめで、蒸らしが長くて、グレンの紅茶だと。
(……覚えちゃってるじゃない、この人の淹れ方)
湯飲みを置いた。少し乱暴に置いたかもしれない。音が鳴った。
帳簿に戻った。数字を追った。ちゃんと追えている。追えているから大丈夫。
グレンが机の端に立って、自分の湯飲みを持っている。あの日と同じ距離。殻に入る前の距離。
窓から朝の光が入っている。帳簿のインクが光を反射した。
大丈夫。仕事はできる。ただ、背中の気配の解像度が、前よりずっと高い。
***
午前中にルッツが来た。
「お姉さん、北の道の拡幅、終わりました」
報告書を受け取った。ルッツの字は相変わらず大きい。でも書いてある内容が変わった。数字がある。工期と実績の差分。使った資材の一覧。以前は口頭で「できました」だけだった。
「予定より二日早いわね」
「地盤が思ったより固かったんです。掘削が早く終わって、その分を南の測量に回しました」
先を読んでいる。言われる前に次の工程を動かしている。
「南にもう一区画、いるかもしれません。移住の問い合わせが先月の倍来てて、今の住居だと足りなくなります」
「数字は」
「ここに」
ルッツが別の紙を出した。問い合わせ件数の推移。現在の空き住居数。建設にかかる工期と資材の見積もり。
(……この子、本当に変わった)
企画力100。あの独り言がきっかけだったのかは分からない。でも今のルッツは、目の前の一棟ではなく領地全体を見ている。
「分かったわ。南の区画、計画書を出して。セバスと予算を詰めるから」
「はい!」
ルッツが出ていった。入れ替わりに、グレンが報告書を一枚差し出した。今朝の見回りの分。ルッツの報告を待ってから出すのは、情報の重複を避けるためだ。この人は報告の順序まで考えている。
受け取る時、指先が近かった。
近かったというだけだ。触れてはいない。なのに手を引く速度が普段より速かった。自分の手が。
(……もう)
グレンは何も言わなかった。壁際に——戻らなかった。机の端に立っている。ここが定位置になっている。いつからか。
報告書に目を通した。異常なし。外周の状態。商人の往来。見慣れた書式。見慣れた筆跡。
仕事に戻った。
***
午後、現場を見に行った。
北の街道に出ると、空気が違った。荷馬車が三台、向こうから来ている。すれ違いざまに御者が軽く頭を下げた。見知らぬ顔だ。外から来た商人。
道が広がっていた。ルッツの言った通り、拡幅工事が綺麗に仕上がっている。二台の馬車がすれ違える幅。以前はすれ違うたびに片方が止まっていた。
加工場の前を通る。出荷の荷造りをしている人が四人。半年前は二人だった。トビアスの声が中から聞こえる。
「温度、もう少し下げて。この気温なら冷却を早めにかけないと粘度が変わる」
いつもの指示。いつもの精度。この人がいるから軟膏の品質が安定している。
奥でリーゼが薬草の仕分けをしていた。先週着いたばかりだが、もう手が馴染んでいる。着いた翌日に試作を一壺作らせた。配合の手際と温度の見切りで、トビアスの弟子だと分かる動きだった。月額金貨10枚。条件を出した時、「そんなにいただけるんですか」と目を丸くしていた。港町では推薦状一枚でどうにか繋いでいたのだ。
トビアスの母も、リーゼの翌日に着いた。セバスが手配した住居に落ち着いている。顔色は思ったより悪くなかった。
人が増えた。仕事が増えた。帳簿の行が増えた。いいことだ。
市場通りまで歩いた。仮設の屋台が並んでいる。市の日ではないのに、常設に近い形で商いをしている者がいる。果物。乾物。布。半年前にはなかった光景だ。
人が増えた。物が動いている。アーレン領を通って、北と南を繋ぐ荷が日に日に増えている。
立ち止まって、領地を見た。
【アーレン領】
現在価値:2,250
潜在価値:2,800
前に見た時は1,850だった。あの頃はまだ軟膏の出荷が始まったばかりで、道は細くて、市場通りには屋台すらなかった。
+400。悪くない。悪くないが、まだ途中だ。第二加工場が動いていない。外から来る商人はまだ「通りすがり」で、拠点として使っているわけじゃない。
あと550。物が通る場所から、物が集まる場所に変わった時、この数字は動く。
隣にグレンがいた。半歩後ろ——ではなく、ほぼ横。いつの間にか、歩く時の距離が変わっている。前は一歩分の間隔があった。今は腕を伸ばせば届く距離。
届かせないけど。
「……戻りましょうか」
グレンの声。静かな確認。仕事の区切りを見ている。
「ええ」
二人で街道を戻った。並んで歩いた。それだけのことだった。
***
執務室に戻って、帳簿の続きを開いた。
出荷の数字を確認し終えて、仕入れの帳簿に移って、雇用台帳の更新を片付けて。一つずつ区切りがついていく。
手が止まった。
机の引き出しに、書簡が入っている。
三通。ヴァルト商会から二通、ロッソ商会から一通。届いたのは——もう半月以上前だ。読んだ。内容も覚えている。でも返事を出していない。
ヴァルトの一通目。納入は順調だが、周囲の商会の入れ替わりが続いているという報告。二通目。入れ替わりがさらに進んでいる。見慣れない商会が増えた。
ロッソの一通。港町で周囲の商会が入れ替わっている。帝国系の看板が増えた。
読んだ時、気にはなった。でも足元が先だった。第二加工場の着工。リーゼとトビアスの母の受け入れ。ルッツのインフラ計画。一つずつ片付けなければ、外に目を向ける余裕がなかった。
——そして、あの数日間は、それどころではなかった。
引き出しを開けた。三通の書簡を並べた。
ヴァルトの二通目を開く。「顔ぶれが変わった」。新しく入ってきた商会の名前が書いてある。聞いたことのない名前が三つ。
ロッソの一通を開く。「周囲が流れている」。港町で帝国系の商会がじわじわ広がっている。エルスト商会が消えた後の穴を、別の商会が埋めている。名前が変わっただけで、看板の色は同じ。
以前と似ている。あの時は循環取引だった。今度は——まだ分からない。分からないが、同じ匂いがする。
ヴァルト商会はアーレン領軟膏の卸先だ。王都の市場が崩れたら、うちの売上に直撃する。ロッソ商会は港町の最後の砦みたいな存在だ。あの商会が飲まれたら、港町は完全に塗り替わる。
どちらも、放置していい話ではない。
帳簿を閉じた。ペンを取った。便箋を出した。
ヴァルト商会宛。王都の市場について、もう少し詳しい状況を聞かせてほしい。新しく入った商会の取引条件が分かれば、それも。
ロッソ商会宛。近いうちに直接話をしたい。港町の状況を聞かせてほしい。
二通、書いた。封をした。明日の便で出す。
具体的に何をするかは、まだ決まっていない。情報が足りない。でも、保留は終わりだ。
(足元は固まった。次はこっち)
窓の外が暮れ始めていた。グレンが湯飲みを下げに来た。朝の分ではない。いつの間にか二杯目を淹れてくれていたらしい。飲み干していた。自分でも気づかないうちに。
濃いめの、同じ味だったはずだ。味わう余裕がなかっただけで。
「……ありがとう」
それだけ言った。他に何か言おうとした気がする。でも出てこなかった。
グレンが盆を持って出ていった。足音が遠ざかる。
机の上には封をした二通の書簡と、閉じた帳簿。窓から夕暮れの光が差している。
明日から少し忙しくなる。でも、今日はここまで。
手のひらに、湯飲みの温度がまだ残っていた。
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