45話:留め具
封を切った。
重い封蝋。見覚えのない紋章。書状を広げる。
相手の家格。領地の規模。所有する交易路が二本。こちらの薬草事業と流通拠点化に関心がある旨。
目が数字を追った。いつもの帳簿を読む目で。
「条件だけ見ると悪くないわね」
交易路二本。アーレン領の物流拠点化構想と噛み合う。相手側にとっても、うちの薬草事業は魅力がある。利害は一致している。
セバスが黙っている。
顔を上げた。驚いている。
「……何?」
「いえ。てっきり、即座にお断りになるものかと」
「なんで?」
セバスが口を開きかけて、閉じた。飲み込んだ顔。
「……いえ、失礼いたしました」
首を傾げたが、深追いはしない。書状に目を戻す。
「即断で断るほどの話じゃないわ。私だって年齢的にいつかは考えないといけないし、アーレン領のためにも悪い条件じゃない」
小さな音がした。
金属が床を打つ音。軽い。
振り返った。グレンが屈んでいる。足元の剣を拾い上げている。
「……すみません。手が滑りました」
立ち上がったグレンの顔は、いつも通りだった。無表情。壁際に戻る。
——今、何か。
屈む直前、一瞬だけ。何かがグレンの顔を走った気がした。
「グレン、今——」
「剣の留め具が緩んでいたようです。調整しておきます」
目を合わせない。
セバスが何も言わずに紅茶を注ぎ足した。
***
翌日。書状を机に出した。
「グレン、これ見て」
護衛に見せるようなものじゃない。でも最近はそういう距離になっていた。
グレンが書状に目を落とした。
「辺境伯家。交易路を二本持ってる。アーレン領の物流拠点化と噛み合うし、相手にとってもうちの薬草事業は魅力的なはず。利害が一致してるの」
「……そうですか」
沈黙。
「——断らないんですか」
平坦な声。いつも通りに聞こえる。でもこの人が自分から質問すること自体が稀だった。まして私的な判断に踏み込む質問は、初めてだ。
顔を上げた。
「断る理由が、今のところないのよね」
言いながら、少し首を傾げた。自分でも確信がない。
「嫌ってわけじゃないの。会ったこともないし。ただ、数字だけ見ればアーレン領にとって悪い話じゃない。だから——」
「分かりました」
遮られた。
グレンが私の言葉を遮ったのは、あの夜以来だ。倒れた時の「明日でいい」。
顔を見た。無表情。いつも通り。でも何かが違う。何が違うのか、分からない。
「……グレン?」
「良い話だと思います。アーレン領のためにも。アイリス様のためにも」
一歩下がった。壁際に戻る。
「護衛に戻ります」
***
朝、紅茶が来なかった。
正確にはセバスが持ってきた。盆に二つ。私とセバスの分。
「グレンの分は?」
「グレン殿からは、お気遣いなくとのことでした」
グレンは壁際にいた。机の端に立っていた場所から、二歩ぶん後ろ。
セバスが盆を机に置いた時、グレンの手が動いた気がした。ほんの少し。盆に向かって——いや、すぐに戻った。見間違いかもしれない。
(……まあ、毎日淹れる義理はないわよね。護衛なんだし)
紅茶を飲んだ。セバスの味。いつも通り美味しい。
午前中はリーゼの除名撤回手続きの書面を仕上げた。監査院に提出する添付証拠のリストが長い。カイル経由で通すルートを確認して、抜け漏れがないか三回見直した。
昼過ぎ、ルッツが第二加工場の進捗を持ってきた。基礎工事が始まっている。予定より三日早い。トビアスの見積もりが正確だったおかげで、資材の手配に無駄がなかった。
「お姉さん、ここの排水路なんですけど——」
「南に流して。地形的に北は無理。勾配が逆」
「やっぱりそうですよね。じゃあ溝をもう二本追加で」
ルッツが出ていった。入れ替わりでトビアスが来て、新商品の試作経過を報告した。配合は決まった、器具の調整に入る、と。
忙しい。手が止まる暇がない。それでいい。
夕方、棚の帳簿を取ろうとした。上から三段目。背伸びすれば届く。
手を伸ばした。指先がぎりぎり背表紙に触れる。
前は——こういう時、横から手が伸びてきた。何も言わず。聞いてもいないのに、自然に。
壁際で、グレンの足が少しだけ動いた。半歩。こちらに向かって——止まった。元の位置に戻る。
自分で取った。
***
数日が過ぎた。
見回りに出た。グレンが半歩前を歩いている。
南の道を歩いていると、見慣れない荷馬車が停まっていた。御者が道端で何かを調べている。身元証明の木札が見えない。
グレンが半歩から一歩に変わった。私と荷馬車の間に入る形。自然な動きだった。
「失礼。身元証明を」
声は静かだった。御者が木札を探し始める。荷馬車の中身を見て、荷物の紐を一つ確認して、それから木札を受け取った。確認が終わるまで、グレンは私との間の位置を崩さなかった。
「……問題ありません」
「そう。ありがとう」
歩き出した。一瞬、グレンの歩幅が揺れた。横に並びかけて——半歩前に戻る。
見回りの後、執務室に戻った。報告。
「異常ありません」
それだけだった。前なら、あの荷馬車のことを補足しただろう。聞いていないのに、見たものを教えてくれた。
「……」
グレンの口が開きかけた。何か続きがある顔だった。木札のこと、荷のこと——言いかけて、飲み込んだ。
「……ありがとう」
「失礼します」
背中を見送った。姿勢はいつも通り。足音も変わらない。
***
また数日。
朝の執務。帳簿を開いた。出荷の数字を追いながら、ふとグレンの方を見た。
逸らされた。
目が合った——一瞬だけ。こちらを見ていた。見ていたのに、気づかれた瞬間に外された。前もそういうことはあった。ふと顔を上げると、グレンの視線が窓の方へ流れていく。でも前はもう少し、緩かった。目が合って、それからゆっくり逸れる。今のは違う。ぱっと切られた。
(……見てたの?)
グレンは窓の外を見ている。朝の光で横顔の輪郭が白い。きれいな顔だ。相変わらず。
「グレン」
「はい」
「……何でもない」
何を聞こうとしたのか、自分でも分からなかった。
夕方、セバスが縁談の条件交渉の返書案を持ってきた。先方の条件に対するこちらの提示をまとめたもの。交易路の使用条件、薬草事業の取り扱い範囲、居住地の取り決め。
返書を確認しながら、何気なく口にした。
「セバス、最近グレンがおかしくない?」
「おかしい、と申しますと」
「前はもう少し……色々してくれてたのに。お茶とか、帳簿取ってくれたりとか。最近全然」
セバスの手が一瞬止まった。すぐに動き出す。
「……環境の変化もございますから。お忙しいのでしょう」
「護衛って別に忙しくなってないと思うけど」
「さあ。グレン殿のお考えは、私には分かりかねます」
それ以上は言わなかった。セバスにしては歯切れが悪い。普段ならもう少し踏み込んでくる人なのに。
(……まあ、護衛に雑用させてた方がおかしかったのかしら)
返書を仕上げた。条件は悪くない。数字だけ見れば。
***
夜。帳簿を閉じて、ふと思い出した。
最近やっていなかった。色々あって後回しにしていた。
鑑定した。
【グレン・ファルクス】
現在価値:4,850
潜在価値:9,999
(……下がってる)
前に見た時は4,999だった。
この数字の正体は分かっていない。能力じゃないことは分かった。何をさせても動かなかったのに、いつの間にか上がっていた。鑑定が返す「価値」が市場価格でも純粋な能力値でもないことは確認した。
何が載っているのか、まだ分からない。分からないまま、ずっと上がり続けていた。
700から始まって、850になって、1,200になって、4,999まで来た。一度も下がったことがなかった。
初めて、下がっている。
(何が変わったんだろう)
考えた。帳簿の数字なら、原因を遡れる。仕入れが変わったのか、需要が変わったのか、外部環境が変わったのか。
でもこの数字は帳簿じゃない。何を測っているかすら分かっていないものの変動原因なんて、推測のしようがない。
(……強いて言うなら、環境かしら。王都から戻って、領地は拡大期に入った。業務も人も増えた。変化が多い時期は数字が不安定になることもある)
帳簿の端にメモした。4,850。日付を添えて。
壁際のグレンを見た。こちらを見ていなかった。
帳簿を閉じた。
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