35話:渡すべきもの
監査院に行く前に、ヴァルト商会に寄った。
出荷停止の通達が出た時、すぐに連絡は入れてある。品質に問題はない、調査中だから待ってほしい、と。商会主は「分かった」とだけ返してきた。短い返事だった。怒っているのか信じているのか、あの人は顔を見ないと分からない。
扉を開けると、商会主が番頭と何か話し込んでいた。こちらに気づいて、立ち上がった。
「停止の件、片がつきました。通達の根拠は潰しました。近日中に解除されます」
「そうか」
商会主が腕を組んだ。こちらを見ている。怒ってはいなかった。待っていた顔だった。
「で、今日は何の用だ。解除の報告だけなら、文で済んだだろう」
「お願いが一つ。ヴァルト商会の直近一年分の取引記録を、写しでいただけますか。監査院に提出します」
「何のためだ」
「うちの軟膏の流通経路を証明するためです。正規の仕入れ元から正規の卸先へ、正当な価格で取引している記録」
「……今出しておく理由があるのか」
「あります。今後、さらに面倒な出来事に巻き込まれる可能性がある。その時に、あなたの帳簿がまともだということを、公的な記録として先に残しておきたい」
商会主の目が変わった。初めて帳簿を見せた時と同じ、数字の向こう側を読む目。
「……大きな話だな」
「大きいです。だから先に手を打ちたい」
商会主が棚から帳簿を一冊抜いた。番頭を呼んで、写しの作成を指示した。
待っている間に、茶が出てきた。
「あんたの軟膏、客の評判はいい。追加発注を出そうと思っていたところだった」
「停止が解けたら、すぐ出荷を再開します」
「待ってる。——ただ、うちの帳簿を出すからには、最後まで筋は通してくれ」
「もちろん」
写しを受け取った。仕入れ日、数量、単価、支払い方法。全部揃っている。
商会を出た。
***
監査院の応接室。
カイルの前に書類を並べた。昨日まとめた取引の構造図。商会ごとの記録の写し。仕入れ元のリスト。
「軟膏の転売の件、報告が終わりではありません」
「……と言いますと」
「転売の裏に、もっと大きな仕組みがあります」
全体像を説明した。ドライゼ商会、ケルツェン商会、フォーゲル商会、ランゲ商会。同額の取引が輪を描いて回っている。帳簿上の売上だけが膨らんで、実態がない。
「金が輪を描いて回ってるだけなんです。でも帳簿の上では全員が売上を計上できる。その売上を信用にして融資を受けている商会が複数ある」
カイルが取引記録を一枚ずつ確認していた。表情が変わっていく。
「全部の輪の中心にいるのがエルスト商会です」
カイルの手が止まった。
「産地偽装も同じ根です。アーレン領産の軟膏がブランドをすり替えられて流通していた。窓口は全てエルスト商会の系列」
書類の束を押した。
「ここから先は監査院で追ってください」
カイルが書類を受け取った。取引記録を一枚ずつ確認している。指が数字を追っている。
「……大きい話ですね。ただ、帳簿上の売上が水増しされているだけなら、実害は——」
「あります。水増しされた売上を信用にして、実際に融資を受けている商会があります。借りた金は本物ですから、店も出せる、人も雇える、税も払える」
カイルの手が止まった。
「……それで街の景気がいいように見えている、と」
「全部がそうだとは言い切れません。でも、この輪に入っている商会は相当数ある。そして嘘の売上が止まれば信用が消えて、融資が返せなくなって、全部倒れます」
カイルが書類を持ったまま、こちらを見ていた。
(バブル。……この街全体が、嘘の信用で膨らんでいる)
「それと、今回の出荷停止の通達。上から降りてきたものでしたよね」
カイルの目が動いた。
「品質基準の見直し通達、ですね」
「この仕組みを守りたい人間がいるとすれば、うちの軟膏が正規ルートで流通するのは都合が悪い。出荷停止の通達を出す動機はある」
名前は出せない。そもそも誰が出したのかは分からない。ただ、動機のある人間が上にいるという推測は伝わったはずだ。
「もう一つ。この仕組みは意図的に作られたものです。この規模のものが勝手に回り始めるとは考えにくい」
「……意図的に」
「膨らませた人間がいるなら、弾けさせるタイミングも選べる。もし主要商会への一斉処分命令が出たら、それは不正対策じゃありません」
カイルがこちらを見た。
「崩壊させる合図です」
部屋が静かになった。
「……覚えておきます」
カイルの声は低かった。
「これを預けておきます」
ヴァルト商会の取引記録の写しを出した。
「うちの軟膏の正規流通経路です。ヴァルト商会との取引は全て正当な価格と数量で行われている。もし一斉処分が出た時に、この帳簿を持つ商会まで対象に含まれていたら——その処分が妥当じゃないことの証明になります」
カイルが受け取って、別の棚に仕分けた。
「出荷停止の通達ですが、今回の調査結果を踏まえて、報告書に不当であったと記載します。停止は解除です」
「助かります」
立ち上がった。
「王都の用件は終わりました。帰ります」
「こちらは正式に報告書を上げます。転売ネットワークの摘発報告として。輪の全容調査はこれから入ります」
「よろしくお願いします」
「——お気をつけて、アイリス・ヴァレンシア様」
***
監査院を出ると、グレンが門の横に立っていた。
「終わったわ」
「帰りますか」
「帰る」
王都の通りを並んで歩いた。朝の光が建物に当たっている。
「グレン、帰ったらトビアスに出荷再開の連絡を頼んで。生産計画の見直しも」
「分かりました」
「セバスには——帰れば分かるか。あの人は顔を見れば察するから」
しばらく黙って歩いた。
「……お疲れ様でした」
グレンが言った。珍しい。
返事はしなかった。少し歩く速度を上げた。
***
財務卿府の最上階。
ヴィクトール・ハイゼンは、監査院から届いた報告書を読んでいた。
薬種通りにおける転売ネットワークの摘発報告。産地偽装。関連商会の取引記録。
最後のページを閉じた。机に置いた。
「——またあの小娘か」
報告書には転売の摘発としか書かれていない。だが取引記録が監査院に渡った。辿れば輪が見える。輪が見えれば、その先も見える。
前回はブルクハルト商会だった。末端の駒が一つ消えた。それだけだった。
今度は末端ではない。仕組みの血管に触れられている。
窓の外を見た。王都の街並み。自分が回した金で動いている街。
机の端に、帝国トレヴィーゾの封蝋が押された書簡があった。三日前に届いたまま、未開封。
手が伸びかけた。
止めた。
たかが辺境の小娘一人だ。この程度のことを、いちいち報告する必要はない。自分の管轄は自分で始末する。
椅子から立ち上がった。窓際に歩いた。
王都の屋根が午後の光に照らされている。前回、この窓から見た景色と同じだ。だがグラスには手を伸ばさなかった。
「次は——こちらから動く」
声は低かった。余裕の色は、もう残っていなかった。
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