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【完結保証/毎日更新】帳簿令嬢の答え合わせ ~その不正、すべて帳簿が覚えています~  作者: Lihito


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14話:職人の手

トビアスが来て三日目。


帳簿を全部見せた。収支台帳、取引記録、在庫管理表、修繕費の明細。隠すものはないから、好きなだけ見ればいい。


トビアスは朝から応接間に籠もって帳簿を読んでいた。


最初の数時間は、ページをめくる手が速かった。ざっと目を通すというより、何かを探している手つき。数字の並びを追うのではなく、数字の「裂け目」を探している。不整合、辻褄の合わない項目、意図的に隠された支出——そういうものを。


(心当たりがあるわね、その読み方)


前世で監査が入った時の調査員が、まさにあれだった。最初から「何かあるはず」と決めて読む。見つけるまで帰らない目。


でも午後になると、手が遅くなった。ページを戻る回数が増えた。同じ箇所を二度、三度読み返している。


探しているものが、見つからないのだ。


夕方、トビアスが帳簿から顔を上げた。こちらを見る目が、朝とは違っていた。疑いではない。困惑だ。


「……これ、全部お一人で?」


「セバスが手伝ってくれてるわ」


「いえ、そういう意味ではなく。この仕訳の精度、王都の商会でもなかなか——」


「褒めても何も出ないわよ」


出た。帳簿を褒められると機嫌が良くなるのは自覚している。でもそこは顔に出さない。


トビアスが帳簿を閉じて、少し黙った。何か言いたそうな、でも言葉を選んでいるような顔。


「……殿下から聞いていた話と、だいぶ違います」


「何を聞いてたの?」


「品質管理が杜撰で、流通も整っていない、と」


(やっぱりそう吹き込んだのね)


「見ての通りよ」


それだけ言った。「嘘をついてたのは殿下の方」とは言わない。この男が自分の目で見たものと、殿下の言葉と、どちらを信じるか。その判断は本人に任せる。


トビアスは何も言わなかった。否定もしない。でもまだ、その先に踏み込む覚悟はないらしい。仕方ない。自分の恩人が嘘つきだなんて、三日で受け入れろという方が酷だ。


***


四日目。トビアスを連れて領地を回った。


まだ構えている。隣を歩いていても、半歩分の距離を保っている。自分から縮めない距離。


老婆の畑。南から来た若い夫婦の家。修繕が終わったばかりの井戸。どこでも住民がトビアスに話しかけた。


「あんた、薬師さんかい。お嬢が連れてきたのなら安心だね」


「道が直ってから、本当に楽になったよ」


「この前の蕪、美味かったでしょう。また持ってくるからね」


トビアスは最初、住民の反応を黙って観察していた。領主への愛想笑いや、怯えた従順さを探していたのかもしれない。でも老婆はこちらに蕪を押しつけてくるし、若い夫婦は井戸の修繕の礼を言いながら世間話を始める。命じられて動く人間の顔ではなかった。


見るたびに、トビアスの眉間の力が少しずつ抜けていく。帳簿で感じた困惑が、今度は目の前の光景で裏づけられている。聞いていた話と、違う。


昼過ぎ、広場のベンチで休んでいた時。トビアスが呟いた。


「ここの人たち、アイリス様を信頼しているんですね」


「信頼というか、利害が一致してるだけよ。私が領地を立て直せば、住民の生活も良くなる。損得勘定」


「それだけですか」


「それだけ」


嘘だ。老婆の蕪も、息子が戻ってくるという手紙も、損得だけでは説明がつかない。でも、そういうことを口にするのは得意じゃない。


トビアスがこちらを見ていた。何か気づいた顔をしていたけど、追及はしなかった。


ただ、帰り道の半歩分の距離が、少し縮まっていた気がした。


***


五日目。加工の試作を始めた。


トビアスが館の裏に仮設の作業場を作った。すり鉢、蒸し器、濾過用の布。道具は簡素だが、手つきに迷いがなかった。


レムリア草を刻む。煮出す。濾す。油脂と混ぜる。温度と時間を細かく調整しながら、軟膏の形にしていく。


横で見ていた。三日目の帳簿の前、四日目の領地巡り。あの時の固さが嘘のように、道具を持った瞬間に全部消えていた。背筋が伸びて、手の動きに無駄がない。草を刻む速度、温度を指先で測る仕草、工程の切り替えに迷いがない。


手際がいい。1,800の潜在価値は伊達じゃない。仕分け係として腐らせておくには、あまりにもったいない腕だ。


「アイリス様、ここからが重要です。冷却の速度で品質が変わります。早すぎると分離する。遅すぎると硬化が不均一になる」


「温度管理の基準は?」


「室温にもよりますが、目安として——」


「待って。それ、数値で出せる? 基準温度と冷却時間の関係を表にしたいの。再現性がないと量産できないから」


「数値、ですか」


「感覚でやってるなら、今のうちに全部数字に落として。あなたがいない時でも同じ品質で作れるようにしたい」


トビアスが少し目を丸くした。それから、初めて笑った。


「……分かりました。工程表を作ります」


「お願い。原材料の歩留まりも記録して。何グラムのレムリア草から何壺の軟膏が取れるか、正確に」


メモを取り始めた。原価計算が頭の中で走っている。


レムリア草の仕入れ原価——いや、自前の群生地だから採取コストだけ。人件費と道具の減価償却。製造工程の時間あたりコスト。軟膏一壺の原材料費。王都での軟膏の相場。


「トビアス、王都の軟膏の相場って今いくら?」


「品質によりますが、レムリア草の軟膏なら一壺で金貨八枚から十枚です」


「生のレムリア草がひと束で金貨三枚。一束から軟膏は何壺取れる?」


「二壺半から三壺、というところです」


金貨三枚の原料から、金貨二十枚以上の製品が作れる。原価率を計算すると——。


「利益率、三倍どころじゃないわ」


声が上がった。完全に上がった。


「輸送コストも下がるわね。生の薬草は嵩張るけど、軟膏なら同じ容積で——セバス、紙を持ってきて。大きいやつ」


セバスが慌てて紙を持ってきた。テーブルに広げて、数字を書き始める。年間の生産計画。月ごとの出荷量。必要な人員と設備。損益分岐点。


「ここを加工拠点にする。原料は目の前にあるんだから、輸送費はほぼゼロ。問題は製造の人手と——」


ペンが止まった。トビアスがこっちを見ていた。


「……すみません、続けてください」


「何?」


「いえ。帳簿の話をしている時のアイリス様は、少し——」


「少し、何」


「……楽しそうだなと」


(うるさいわね)


「数字の話は楽しいの。当たり前でしょう」


ペンに戻った。顔が熱いのは気のせいだ。


***


夕方。作業場の片づけをしていたら、グレンが来た。


午後からずっと、作業場の入り口付近に立っていた。監視と言えば監視だが、トビアスが危害を加えるような人間でないことは、もう分かっているはずだ。


「お疲れ様。今日も異常なし?」


「……異常ありません」


いつもの一言。でも、何か引っかかる。


グレンが作業場の中を見回した。テーブルの上に広げた計算用紙。トビアスが書いた工程表。二人で書き込んだメモ。


「……随分、進んだようですね」


「ええ。加工が軌道に乗れば、領地の収入が大きく変わるわ」


「そうですか」


短い。いつも短いけど、今日のはなんだろう。温度が低い。


トビアスが裏口から戻ってきた。手に試作の軟膏を持っている。


「アイリス様、最初の一壺が完成しました。品質を確認していただけますか」


「見せて」


壺を受け取る。蓋を開けると、澄んだ薬草の香りがした。色は薄い緑で、質感も滑らか。市場に出せる品質だ。


「上出来じゃない。トビアス、明日から本格的に量産計画を——」


「アイリス様」


グレンが一歩前に出た。


「日が暮れます。作業は明日に」


「……まだ計算が途中なんだけど」


「体を壊します」


その声が妙に近かった。見上げると、グレンがすぐ横に立っている。いつの間に距離を詰めたのか。トビアスとの間に、自然に体を入れるような位置取り。


「……分かったわよ。続きは明日」


グレンが頷いて、先に出ていった。背中が少し硬い。


トビアスが小声で言った。


「あの方、少し怖いですね」


「あれが普通よ。愛想がないだけ」


(でも今日は、いつもよりちょっと愛想がなかったわね)


理由は分からなかった。帳簿には載らない種類の変化だった。

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