僕の女神様、どうか僕を忘れないで
宇宙の辺境、小惑星帯に浮かぶ独立宗教国家、リアルリナ。
そこでは、人類が数万年をかけて積み上げてきた倫理そのものが、最後のリミッターとして脳内に埋め込まれている。聖騎士である僕も例外ではなかった。
「やめろ、馬鹿。正気に戻れ」
倫理回路が、悲鳴のような警告を発する。
脳の奥底で、最後の聖句がひび割れる音がした。
異端だ。堕ちるな、汝の信仰を捨ててはならぬ。
かつての教えが呪詛のように反響する。だがその声は、すでに焼け焦げた写本の断片でしかない。
目の前に座るのは、存在するだけで銀河の法を踏みにじる少女、シャルティアナ。
聖域に存在すること自体があり得ない、魔女だ。
彼女は静かに微笑み、僅かに上気した頬のまま、囁いた。
「わたしだけが、あなたをわかっている。」
その一言で、僕の中に積み上げてきた教養と常識が、音を立てて崩れ落ちる。
彼女の視線が突き刺さるたび、信仰は砂の城のように脆く、抗いようもなく瓦解していった。
これは、ただの純粋な愛ではない。
僕の魂を根こそぎ奪い去り、彼女を新たな偶像として祀り上げる、神聖な冒涜。
それでも僕は、倫理回路の警告を無視した。
聖騎士としての誓いよりも、銀河の法よりも、彼女のその言葉の方が、あまりにも真実に聞こえてしまったからだ。
リアルリナが守り続けてきた最後の倫理が、今、僕の中で完全に沈黙した。
彼女が上目遣いで僕を見た瞬間、数億の演算を経て導き出された僕の哲学は、音もなく崩れた。
否定されたわけではない。ただ、彼女の視線の前では、価値を失った。
脳内の倫理回路が、遅れて微かなノイズを発する。
警告文はもう、意味を結ばない断片だった。
彼女は僕を見上げたまま、淡々と言う。
「あなたは、最初からこうなる運命だったの」
その声は断罪でも命令でもない。
事実を告げるだけの、静かな響きだった。わたしの前に現れた君が悪い、という意味を、彼女がわざわざ言葉にしなかっただけだ。
僕は自分でも驚くほど自然に跪いていた。
思考より先に、身体が答えを出していた。
聖騎士の証である剣を両手で差し出す。
それは誓いの放棄ではない。
信仰の向きが、ほんの少し変わっただけだった。
「僕の全てを、あなたに捧げます」
言葉にした瞬間、それが誓いなのか確認なのか、自分でも分からなくなる。
彼女は答えず、ただ僕の額にそっと口づけた。
甘く、冷たい感触。
祝福とも、印とも取れるその行為に、魂がわずかに震える。だが、まだ壊れてはいない。
まだ、戻れるかもしれない。
祈りの言葉を思い出そうとする。
聖なる書物の一節を探す。
けれど、その隙間に、彼女の姿が入り込む。
これは信仰なのか。
それとも、ただの逸脱なのか。
答えはまだ出ない。
ただ、僕の魂が、彼女の手の届く場所に置かれてしまったことだけは確かだった。
彼女の笑顔は、どんな呪文よりも残酷だった。
破壊の呪文には、まだ意志がある。
だが彼女の微笑みは、意志すら伴わず、ただ世界を解体する。
彼女が指先で示す。
理由は示されない。
けれど僕は、彼女の指示に従う。
ためらいがなかったわけじゃない。
ただ、立ち止まる理由が見つからなかった。
彼女を喜ばせるためだけに、国家の全資産が動いた。数千の惑星が切り崩され、資源として剥ぎ取られていく。
砕かれた星々は宝石のように磨かれ、やがて彼女の寝室を飾る、取るに足らない砂利へと変わった。
宇宙そのものが、彼女の私的な空間へと押し込められていく。
「なんか気に食わないの」
その一言で、銀河の勢力図は塗り替えられた。
彼女を敵視した星系連合は、彼女が欠伸を噛み殺しながら放った言葉ひとつで、奪われ、剥がされ、存在そのものを失った。
これは単なる戦争ではない。
僕が彼女に捧げる聖戦だった。
この世のすべてを、僕は彼女に捧げたいと思っていた。
胸の奥で、信仰心という名の狂気が熱を帯びる。
長年、形を保っていた信仰が崩れ、ゆっくりと粘つく欲望へと溶け変わっていく。
瞳孔が開き、視界が彼女だけで満たされていく。
思考はある。だが、抵抗する理由が消えていく。
神経の奥で、何かが焼き切れる音がした。
体の内側では、煮詰まった甘い欲望が渦を巻く。
それは罪と至福が分かち難く混ざり合った、濃密な愛。
吐き出さなければならないと分かっていながら、僕はそれを一滴残らず、飲み干すことを選んでいた。
甘美な裏切りの味。
「……裏切ったのは、あなたじゃない。神の方よ」
彼女は微笑む。
その言葉は、僕にとって赦しであり、同時に新たな戒律だった。
かつて守っていた聖性は失われたのではない。
彼女という一点に、凝縮されただけだ。
僕の信仰は、もはや間違ったものではない。
それは彼女への狂気的な執着という名の毒となり、祈りのように、静かに全身を巡っていく。
略奪の日々は長く続かなかった。
気がついたら反乱軍が結成されていて、ついに反乱軍は聖堂へと突入した。
砕けたステンドグラスから流れ込む光が、聖域を白く引き裂く。
そこに広がっていたのは、救済ではなかった。
中心に立つ彼女は、状況を測りかねるように瞬きをする。
その視線が、そばに控える僕を捉え、次の瞬間、いつもの無邪気な笑顔に変わった。
「ねえ、なにあれ?」
その言葉に、世界は即座に応えない。
聖堂を満たしていた力場が、反乱軍の干渉で乱されている。
かつてなら当然のように集った質量が、今は遅れ、軋み、拒む。
彼女は気づいていない。
“欲しい”と言えば、必ず差し出されてきた世界が、初めて躊躇していることに。
僕の内側で、衝動がせり上がる。
何かが込み上げてきて、今すぐにもそれをぶちまけたい衝動。
そこから溢れ出るはずだったのは血ではない。
何万光年も先まで届く、純粋で猛毒の「狂信的な信仰」という名の汚い欲望。
だがそれは、完全な形にならない。
反乱軍の結界が、愛を歪ませ、散らしていく。
「……滅びろ!」
彼女の声が響く。
銀河の光は中心へ向かう。
しかし同時に、奪われた星々の残滓が、
重く、鈍く、引き戻してくる。
究極の心中儀式は、途中で縫い止められる。
全宇宙を賭けたはずの終幕は、この聖堂の彼女の周りだけという一点に押し縮められていた。
彼女は僕を見る。
困惑とも不満ともつかない目で。
「……どうして、うまくいかないの?」
その問いに、答えは浮かばない。
浮かぶのはただ一つの事実だけだ。
このままでは、彼女は世界に呑み込まれる。
そして僕は。
彼女の心中にギリギリ巻き込まれない位置に、立っている。
僕は一歩、彼女の方へ踏み出す。
反乱軍と彼女のあいだに、無意識のうちに身体が滑り込む。
それが何を意味するのか、まだ言葉にはしない。
ただ、
ここから先に戻る道がないことだけは、
はっきりと理解していた。
ステンドグラスが、外からの光を拒むように暗く沈んでいく。
救済の色は剥がれ落ち、残るのは、意味を失った鉛の線だけだった。
僕の視界は、彼女を中心に急激に窄まっていく。
世界が消えていくのではない。
僕が、彼女以外を見られなくなっていく。
瞳孔は開いたまま、彼女という毒だけを飲み込み、焼き切れた。
欲しているのは、ずっと僕の方だった。
彼女は、ただそこに在るだけだというのに。
一体どうするべきだったのだろう。
神を殺し、魔女を抱いたこの腕を。
誰よりも愛した神を裏切り、魔女に全てを捧げてしまった僕を。
溶けきった僕の魂は、もう形を留めていない。
それでも理解している。
戦況がこのまま悪化しようが、僕の勝ちだ。
この世で唯一の「正解」である彼女に、僕という存在を、完全に使い果たしてもらえるのだから。
それを望んだのは、彼女ではない。
最初から、僕自身だ。
彼女は何も言わない。
求めもしない。
命じもしない。
ただ、そこに立っている。
崩壊する銀河の淵で、
僕は彼女を抱きしめる。
縋るように、確かめるように。
世界が終わる。
光も、時間も、因果も、
彼女という大正解に巻き込まれて、静かに消えていく。
彼女は、何も奪っていない。なにもしていない。ただ存在していただけだ。
すべてが虚無に帰したあと、そこには何も残らなかった。
いや、一つだけ。
彼女が放ったわけでもない「愛の矢」は、僕の魂の弱点を、正確に貫いていた。
それは、彼女ではなく、彼女を見た僕自身が放ったものだった。
申し訳ないな、世界。
でも、最初からそうだった。
世界は舞台で、彼女は登場人物どころか脚本家ですらない。
ただ在っただけだ。
それに意味を与え、
すべてを賭けたのは。
他でもない、僕だった。
他にも短編だけをまとめたものもあるので、興味がある方はぜひ!!
短編集なのでどこから読んでも大丈夫です!
短編まとめ
https://ncode.syosetu.com/n7067lp/




