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僕の女神様、どうか僕を忘れないで

作者: 高橋 淳
掲載日:2026/01/10

宇宙の辺境、小惑星帯に浮かぶ独立宗教国家、リアルリナ。

そこでは、人類が数万年をかけて積み上げてきた倫理そのものが、最後のリミッターとして脳内に埋め込まれている。聖騎士である僕も例外ではなかった。


「やめろ、馬鹿。正気に戻れ」


倫理回路が、悲鳴のような警告を発する。

脳の奥底で、最後の聖句がひび割れる音がした。


異端だ。堕ちるな、汝の信仰を捨ててはならぬ。


かつての教えが呪詛のように反響する。だがその声は、すでに焼け焦げた写本の断片でしかない。

目の前に座るのは、存在するだけで銀河の法を踏みにじる少女、シャルティアナ。

聖域に存在すること自体があり得ない、魔女だ。

彼女は静かに微笑み、僅かに上気した頬のまま、囁いた。


「わたしだけが、あなたをわかっている。」


その一言で、僕の中に積み上げてきた教養と常識が、音を立てて崩れ落ちる。

彼女の視線が突き刺さるたび、信仰は砂の城のように脆く、抗いようもなく瓦解していった。


これは、ただの純粋な愛ではない。

僕の魂を根こそぎ奪い去り、彼女を新たな偶像として祀り上げる、神聖な冒涜。


それでも僕は、倫理回路の警告を無視した。

聖騎士としての誓いよりも、銀河の法よりも、彼女のその言葉の方が、あまりにも真実に聞こえてしまったからだ。


リアルリナが守り続けてきた最後の倫理が、今、僕の中で完全に沈黙した。


彼女が上目遣いで僕を見た瞬間、数億の演算を経て導き出された僕の哲学は、音もなく崩れた。

否定されたわけではない。ただ、彼女の視線の前では、価値を失った。


脳内の倫理回路が、遅れて微かなノイズを発する。

警告文はもう、意味を結ばない断片だった。


彼女は僕を見上げたまま、淡々と言う。


「あなたは、最初からこうなる運命だったの」


その声は断罪でも命令でもない。

事実を告げるだけの、静かな響きだった。わたしの前に現れた君が悪い、という意味を、彼女がわざわざ言葉にしなかっただけだ。


僕は自分でも驚くほど自然に跪いていた。

思考より先に、身体が答えを出していた。

聖騎士の証である剣を両手で差し出す。

それは誓いの放棄ではない。

信仰の向きが、ほんの少し変わっただけだった。


「僕の全てを、あなたに捧げます」


言葉にした瞬間、それが誓いなのか確認なのか、自分でも分からなくなる。

彼女は答えず、ただ僕の額にそっと口づけた。


甘く、冷たい感触。

祝福とも、印とも取れるその行為に、魂がわずかに震える。だが、まだ壊れてはいない。

まだ、戻れるかもしれない。


祈りの言葉を思い出そうとする。

聖なる書物の一節を探す。

けれど、その隙間に、彼女の姿が入り込む。


これは信仰なのか。

それとも、ただの逸脱なのか。


答えはまだ出ない。

ただ、僕の魂が、彼女の手の届く場所に置かれてしまったことだけは確かだった。


彼女の笑顔は、どんな呪文よりも残酷だった。

破壊の呪文には、まだ意志がある。

だが彼女の微笑みは、意志すら伴わず、ただ世界を解体する。


彼女が指先で示す。

理由は示されない。

けれど僕は、彼女の指示に従う。

ためらいがなかったわけじゃない。

ただ、立ち止まる理由が見つからなかった。

彼女を喜ばせるためだけに、国家の全資産が動いた。数千の惑星が切り崩され、資源として剥ぎ取られていく。

砕かれた星々は宝石のように磨かれ、やがて彼女の寝室を飾る、取るに足らない砂利へと変わった。


宇宙そのものが、彼女の私的な空間へと押し込められていく。

「なんか気に食わないの」

その一言で、銀河の勢力図は塗り替えられた。

彼女を敵視した星系連合は、彼女が欠伸を噛み殺しながら放った言葉ひとつで、奪われ、剥がされ、存在そのものを失った。

これは単なる戦争ではない。

僕が彼女に捧げる聖戦だった。


この世のすべてを、僕は彼女に捧げたいと思っていた。


胸の奥で、信仰心という名の狂気が熱を帯びる。

長年、形を保っていた信仰が崩れ、ゆっくりと粘つく欲望へと溶け変わっていく。


瞳孔が開き、視界が彼女だけで満たされていく。

思考はある。だが、抵抗する理由が消えていく。

神経の奥で、何かが焼き切れる音がした。


体の内側では、煮詰まった甘い欲望が渦を巻く。

それは罪と至福が分かち難く混ざり合った、濃密な愛。

吐き出さなければならないと分かっていながら、僕はそれを一滴残らず、飲み干すことを選んでいた。


甘美な裏切りの味。


「……裏切ったのは、あなたじゃない。神の方よ」


彼女は微笑む。

その言葉は、僕にとって赦しであり、同時に新たな戒律だった。

かつて守っていた聖性は失われたのではない。

彼女という一点に、凝縮されただけだ。


僕の信仰は、もはや間違ったものではない。

それは彼女への狂気的な執着という名の毒となり、祈りのように、静かに全身を巡っていく。




略奪の日々は長く続かなかった。

気がついたら反乱軍が結成されていて、ついに反乱軍は聖堂へと突入した。

砕けたステンドグラスから流れ込む光が、聖域を白く引き裂く。

そこに広がっていたのは、救済ではなかった。


中心に立つ彼女は、状況を測りかねるように瞬きをする。

その視線が、そばに控える僕を捉え、次の瞬間、いつもの無邪気な笑顔に変わった。


「ねえ、なにあれ?」


その言葉に、世界は即座に応えない。

聖堂を満たしていた力場が、反乱軍の干渉で乱されている。

かつてなら当然のように集った質量が、今は遅れ、軋み、拒む。


彼女は気づいていない。

“欲しい”と言えば、必ず差し出されてきた世界が、初めて躊躇していることに。


僕の内側で、衝動がせり上がる。

何かが込み上げてきて、今すぐにもそれをぶちまけたい衝動。

そこから溢れ出るはずだったのは血ではない。

何万光年も先まで届く、純粋で猛毒の「狂信的な信仰」という名の汚い欲望。


だがそれは、完全な形にならない。

反乱軍の結界が、愛を歪ませ、散らしていく。


「……滅びろ!」


彼女の声が響く。

銀河の光は中心へ向かう。

しかし同時に、奪われた星々の残滓が、

重く、鈍く、引き戻してくる。


究極の心中儀式は、途中で縫い止められる。

全宇宙を賭けたはずの終幕は、この聖堂の彼女の周りだけという一点に押し縮められていた。


彼女は僕を見る。

困惑とも不満ともつかない目で。


「……どうして、うまくいかないの?」


その問いに、答えは浮かばない。

浮かぶのはただ一つの事実だけだ。


このままでは、彼女は世界に呑み込まれる。

そして僕は。

彼女の心中にギリギリ巻き込まれない位置に、立っている。


僕は一歩、彼女の方へ踏み出す。

反乱軍と彼女のあいだに、無意識のうちに身体が滑り込む。


それが何を意味するのか、まだ言葉にはしない。


ただ、

ここから先に戻る道がないことだけは、

はっきりと理解していた。


ステンドグラスが、外からの光を拒むように暗く沈んでいく。

救済の色は剥がれ落ち、残るのは、意味を失った鉛の線だけだった。


僕の視界は、彼女を中心に急激に窄まっていく。

世界が消えていくのではない。

僕が、彼女以外を見られなくなっていく。


瞳孔は開いたまま、彼女という毒だけを飲み込み、焼き切れた。

欲しているのは、ずっと僕の方だった。

彼女は、ただそこに在るだけだというのに。


一体どうするべきだったのだろう。

神を殺し、魔女を抱いたこの腕を。

誰よりも愛した神を裏切り、魔女に全てを捧げてしまった僕を。


溶けきった僕の魂は、もう形を留めていない。

それでも理解している。

戦況がこのまま悪化しようが、僕の勝ちだ。


この世で唯一の「正解」である彼女に、僕という存在を、完全に使い果たしてもらえるのだから。

それを望んだのは、彼女ではない。

最初から、僕自身だ。

彼女は何も言わない。

求めもしない。

命じもしない。


ただ、そこに立っている。


崩壊する銀河の淵で、

僕は彼女を抱きしめる。

縋るように、確かめるように。


世界が終わる。

光も、時間も、因果も、

彼女という大正解に巻き込まれて、静かに消えていく。


彼女は、何も奪っていない。なにもしていない。ただ存在していただけだ。


すべてが虚無に帰したあと、そこには何も残らなかった。


いや、一つだけ。


彼女が放ったわけでもない「愛の矢」は、僕の魂の弱点を、正確に貫いていた。

それは、彼女ではなく、彼女を見た僕自身が放ったものだった。



申し訳ないな、世界。

でも、最初からそうだった。


世界は舞台で、彼女は登場人物どころか脚本家ですらない。

ただ在っただけだ。


それに意味を与え、

すべてを賭けたのは。

他でもない、僕だった。


他にも短編だけをまとめたものもあるので、興味がある方はぜひ!!

短編集なのでどこから読んでも大丈夫です!


短編まとめ

https://ncode.syosetu.com/n7067lp/

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