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第二こもれび荘 引きこもり同盟

作者: 阿野麿 刈須
掲載日:2025/12/07

 目が覚めたとき、カーテンの向こうがまだ薄暗いのを見て、ちょっとだけ勝った気がした。


 スマホを見ると、午前八時五十二分。

 社会人だった頃の自分からしたら「寝坊」なんだけど、今のボクにとっては「早起き」に分類される。


 布団の中で、しばらく天井を眺める。


(今日、起きるか、もうちょい寝るか……)


 どちらにしても大して変わらない一日が待っている。

 悩むほどのことじゃないけど、起きるかどうかを悩むくらいの自由は、無職の特権だ。


(……まあ、起きとくか)


 理由はない。ただ、眠気より腰の痛みのほうが勝ってきたので、布団から這い出した。


 ワンルームの部屋は、散らかってもいないけれど、片付いてもいなかった。

 昨日脱いだスウェットが椅子にかかりっぱなしで、読みかけの本が伏せられたまま机の端に積まれている。


 人が来る予定はない。今日も、ない。

 だからこの状態で困るのは、自分だけだ。


 まず、スマホを手に取る。ロック画面には通知がいくつか溜まっていた。


 母親からの「最近どう?」、元同僚からの「久々に飲まない?」、見覚えのない番号からの不在着信。

 全部まとめて、通知センターからスワイプして消す。


(今日も、電話には出ない)


 ボクには、自分を守るための小さなルールが何個かある。

 そのひとつが、「知らない番号には出ない」。もうひとつが、「知ってる番号でもだいたい出ない」だ。


 SNSを開くと、「出社」「出勤」「朝活」の文字がタイムラインを滑っていく。

 グラノーラの写真とか、スタバの新作とかも一緒に流れてくる。


(おつかれさまです)


 心の中でそうつぶやきながら、アプリを閉じた。


 キッチン代わりの一角で、電気ケトルに水を入れてスイッチを押す。

 インスタントコーヒーをマグカップにざらっと入れていると、ポストに何かが投げ込まれる音がした。


 ガタン、と金属的な音。

 郵便受けをいじる音だけは、なぜか毎回ちゃんと聞き分けられる。


 ケトルが沸く前に、ボクは玄関まで歩いていった。

 ドアを開けて廊下に出る。冷たい空気が頬を撫でた。


 ポストを開けると、白い封筒が一通。

 差出人には、アパートの名前と「管理組合」の文字。


(家賃、払ったよな……?)


 一瞬不安になる。慌てて記憶を巻き戻すと、ちゃんと先週コンビニで振り込んだことを思い出した。

 少なくとも今日追い出されることはないはず。


 部屋に戻って封筒を開ける。中には、コピー用紙一枚分の案内文が入っていた。


『住民のみなさまへ

 来月〇日(日)一〇時より、防災訓練兼顔合わせ会を実施します。

 ……任意参加ですが、なるべくご協力ください』


 ざっと目を通して、「任意参加」を二回読み直す。


(任意ね。はいはい)


 ボクの辞書では、「任意参加」は「行かなくていいよ」とほぼ同義だ。

 そっと紙を折りたたんで、ゴミ箱の上で一瞬止まる。


 数日前のある出来事が、頭をよぎった。


─────


 その「ある出来事」は、一週間ほど前のことだ。


 いつものコンビニまでの往復を終えて、自分の部屋のドアを開けようとしたときだった。


 足元に、段ボール箱が置いてあった。

 Amazonのロゴが入った、見慣れた茶色いやつ。


(……頼んでないけど?)


 最近自分が何をポチったか、記憶を総ざらいする。箱買いのカップ麺、ペットボトルの水、洗剤、イヤホン。どれも先月だ。

 今月はカードの請求額が怖くて、なるべく何も買わないを目標にしていた。


 箱を少し持ち上げて、伝票を覗き込む。


「あ」


 宛名はボクではなかった。

 住所は同じだけれど、部屋番号が「208」になっている。ボクは「203」だ。


(はい誤配〜)


 声に出さずにそうつぶやいて、数秒固まる。


 正しい行動としては、


1:配達会社に電話して、「誤配です」と伝える

2:あるいは、208号室まで持っていってピンポンする


 たぶんどちらかだ。


 でも、「電話をする」と「知らない部屋のチャイムを押す」は、ボクの「しないことリスト」の上位にランクインしている。

 そのどちらかを今日いきなり達成するくらいなら、この箱を飛び越えて生活する方法を真剣に検討したほうがまだマシだ。


 とはいえ、放置したら通路の邪魔だし、管理人に見つかったら「佐伯さん、見てました?」とか聞かれてしまうかもしれない。


(管理人さん……)


 一階の端っこに、小さな管理人室があるのを思い出す。

 このアパートに住み始めてから二年、そのドアをノックしたことは一度もない。


 でも、「知らない人の家」と「管理人室」のチャイムなら、ギリギリ後者のほうがハードルが低い気がした。

 ボクはコンビニの袋を部屋の中に置き、代わりに段ボール箱を持ち上げた。


 階段を降りて、一階の一番端まで歩く。

 「管理人室」と書かれたプレートの下のチャイムを押すと、中からテレビの音と、人の動く気配がした。


「はーい」


 ドアが開いて、エプロン姿の女性が顔を出す。

 五十代くらいだろうか。柔らかい印象の、よくある「感じのいいおばちゃん」だ。


「あら、二〇三の……ええと」


「佐伯です」


「そうそう、佐伯さん。どうしたの?」


「これ、誤配っぽくて……部屋番号が違ってて」


 ボクが箱を見せると、管理人さんは「あらまあ」と笑った。


「最近多いのよね、これ。忙しいんでしょうねえ、配達の人も」


 箱を受け取って、一瞬ボクの顔をじっと見る。


「佐伯さん、久しぶりに顔見たわ」


「え」


「ゴミ置き場のところでは袋だけ見てたんだけどね。本人見かけないなーと思って」


 つまり、ボクの生活は「ゴミだけ外界と接点を持っている状態」らしい。

 やめてほしい事実の突きつけ方ランキング、堂々の上位だ。


「具合悪くなったりしたら、すぐ言ってね。誰か倒れてても気づかなかった、なんてなると困るから」


「……はい」


 本気で心配しているのか、管理人としての社交辞令なのか、判断がつかない。

 たぶん、その両方なんだろう。


 部屋に戻る途中、廊下の窓から外を見る。

 アパートの前の道路と、向かいのマンションと、電線と、薄い雲。


 いつもと同じ景色なのに、さっきよりも「ここで暮らしている人間の数」が、具体的に想像できるような気がした。


─────


 防災訓練の案内文を、ボクはゴミ箱の上でしばらく眺めた。


 管理人さんの顔が浮かぶ。


(……行きたくはないけど)


 ついこの前、「倒れてても気づかないと困るから」と言われたばかりだ。

 じゃあせめて、「生きてる」ことくらいは、年に一回くらいは見せておいたほうが、向こうも安心するのかもしれない。


 ゴミ箱の縁でふにゃふにゃになりかけていた紙を、机の上に移動させる。

 それから、ノートを一冊引っ張り出した。


 前に「日記でもつけてみようかな」と思って二日で飽きたノートだ。

 最初のページには、「一日で、やったことを書く」と元気よく書いてあり、二ページ目で静かに終わっている。


 その三ページ目の上部に、ボールペンで書き込む。


『今日しないことリスト』


 その下に、いつものルールを書いていく。

 電話には出ない。知らない番号は調べない。求人サイトは開かない。元同僚からの飲みの誘いには即レスしない。


 書いているうちに、ふとペンが止まる。


 ページの真ん中に線を引いて、その下に新しく見出しを書く。


『今日ひとつだけやることリスト』


 そして、今日の日付と一緒に、こう書いた。


『防災訓練に行く(たぶん)』


 「たぶん」と書き足す手の震え具合で、自分の弱さがよく分かる。

 でも、まったくの嘘ではない。


─────


 そうして迎えた、防災訓練当日。


 日曜の午前十時は、ボクの体内時計的にはまだ「起床時間」じゃない。

 それでも、アラームを九時半にセットして、どうにか起き上がる。


 顔を洗って、適当にパーカーを着て、ジャージのまま玄関に立つ。

 インターホンの横の時計は、九時五十八分を指していた。


(……行かなかったことにして、布団に戻るのも、正直アリではある)


 ドアノブに手をかけて、しばらく固まる。


 そのとき、外から、やけに通る声が聞こえてきた。


『えー、それでは、防災訓練を始めまーす! みなさん、案内文にも書いてありますとおり、一階の駐車場まで避難お願いしますねー!』


 管理人さんの声だ。

 たぶん、あの黄色い手持ちの拡声器を使っている。音量だけは無駄にやる気がある。


「……うるさ」


 思わず声が漏れる。

 それでも、うるさいおかげで、足は勝手に玄関の外へ出ていた。


 廊下には、すでに何人かの住人が出てきていた。

 パジャマのままの人、きちんと服を着た老夫婦、子どもを連れた家族連れ。


 ボクはその列の最後尾に紛れ込んで、階段を降りた。


 一階の駐車場には、思っていたよりも人が集まっていた。

 こんなに住人いたんだ、という感想がまず頭に浮かぶ。


 管理人さんが、誘導灯を持って入口のところに立っている。

 目が合うと、彼女は「佐伯さん、来てくれてありがとう」と軽く会釈した。


(見つかった)


 逃げ道は完全に断たれた。

 ボクは、なるべく目立たない端っこのほうに立ち位置を探す。


 そうやって端っこを求める人間は、他にもいるらしい。

 駐車場の隅には、ボクと同じように「真ん中に行きたくない人たち」が自然と集まっていた。


 ひとりは、三十代くらいの女性。猫のパジャマに上だけコートを羽織っていて、スリッパのままだ。

 もうひとりは、色あせたパーカーを着た中年男性。髪がぼさぼさで、マスクの下から伸びかけの無精ひげが見えている。


 その少し離れたところに、ジャージ姿の中学生くらいの男の子が立っていた。

 イヤホンを片耳だけ外していて、明らかに「来たくなかった」オーラを全身から発している。


(仲間……?)


 そんな言葉が頭をよぎる。


 管理人さんの横には、若い男の人が立っていた。

「今日は、防災訓練の説明をしてもらうために、知り合いの消防士さんにも来てもらいました」

 管理人さんがそう紹介すると、その人が黄色い拡声器を口元に当てて、

 消火器の使い方や避難経路について説明し始めた。


 「初期消火が〜」「煙を吸わないように〜」という真面目な話を、ボクたちはそれなりの顔をして聞いているふりをする。


 隣のパジャマの女性が、ぼそっとつぶやいた。


「……寝起き十分で避難訓練はきついわ……」


 ボクは思わず吹き出しそうになった。

 笑いを噛み殺していると、その中年男性も、ぼそっと続ける。


「この時間に外出るの、年に一回レベルですね、僕」


 その言い方が妙に誇らしげで、ボクの笑いのツボを正面から殴ってきた。


「ボクも……です」


 気づいたら、口が勝手にそう言っていた。


 三人で顔を見合わせる。

 なんともいえない、居心地の悪さと安心感の混ざった空気がそこにあった。


 消防士さんの説明が一段落すると、管理人さんが拡声器を受け取った。


「はい、それでは最後に、少しだけ顔合わせを兼ねて、お隣さんと一言ご挨拶をお願いします〜」


(やめて)


 心の声が駐車場全体に拡散しそうになる。

 いちばん端っこのボクたち三人も、その「お隣さん」に含まれてしまった。


 パジャマの女性が、「じゃあ……」と観念したように口を開く。


「二〇一に住んでます、三浦です。あの、在宅でイラスト描いてるので、だいたい家にいます」


「二〇七の、森といいます。フリーランスでプログラム書いてるので、だいたい家にいます」


 中年男性がそれに続く。


 ボクも、逃げられない流れだ。


「あ、二〇三の佐伯です。今……無職なので、だいたい家にいます」


 三人同時に、「だいたい家にいます」で締めたせいで、変な一体感が生まれた。

 近くにいた管理人さんが、こちらを見て小さく笑う。


「じゃあ、インターホン鳴らしてもちゃんと出てくれそうなチームね」


「出るとは言ってない……」と三浦さんが小声で抗議して、ボクと森さんもこっそりうなずいた。


 少し離れたところで、さっきの中学生が、じっとこちらを見ていた。

 管理人さんが気づいて声をかける。


「陽太くんも、自己紹介しとく?」


 促されて、彼は一歩前に出た。


「……二〇六の、陽太です」


 ぶっきらぼうに、それだけ言う。


「普段は、だいたい家にいる感じ?」


 管理人さんの聞き方は、あくまでゆるい。


「……はい。学校、今ちょっと行ってなくて」


 その場の空気が、一瞬だけ固まる。

 次の瞬間、森さんが「僕も会社行ってないから、同じチームですね」とさらっと言った。


 空気が、少しだけゆるむ。


「じゃあこの四人で、『だいたい家にいます班』ってことで覚えとくわね」


 管理人さんの命名センスがひどい。

 でも、妙にしっくりもきていた。


─────


 防災訓練が終わるころには、ボクはいつもの三倍くらいの「社会と接触した」の疲れでぐったりしていた。


 駐車場から部屋に戻ろうとすると、背後から声がかかる。


「あの」


 振り向くと、森さんが立っていた。

 さっきの中学生・陽太も一緒だ。三浦さんは、スリッパのまま走るのがつらかったのか、少し遅れて小走りで追いついてきた。


「なんかさ……」


 森さんが腕組みしながら、言葉を探すように口を開く。


「同じ『だいたい家にいます班』同士、もしものとき用に、一応LINEくらい交換しておきません?」


「もしものとき?」とボクが聞くと、


「たとえば、またこういう訓練あったときとか、本当に火事になったときとか……あと、家から出たくないのにピザの宅配が二階で迷子になってるときとか」


 最後の一例が一番切実そうだった。


「……まあ、たしかに」


 陽太が、小さくうなずく。


「学校から電話かかってきたとき、代わりに『留守です』って言ってほしい」


「それは犯罪のにおいがするからやめとこうか」と森さんがすかさずツッコむ。


 三浦さんが、「じゃあ、そういうのじゃなくて」と笑いながら言葉をつなぐ。


「ちょっと、誰かに『生きてる?』って聞いてほしいとき、とかね」


 その言葉に、ボクの胸のどこかが、じわっと温かくなる。


「……いいですね、それ」


 自分でも驚くくらい、すんなりとそう言っていた。


 エレベーター前の廊下で、四人でスマホを取り出す。

 誰かがQRコードを出して、誰かが読み込んで、気づけば新しいグループがひとつできていた。


 グループ名は、森さんの提案でこうなった。


『第二こもれび荘・だいたい家にいます同盟』


 とても人には見せられない名前だ。

 でも、このマンションの中だけなら、まあいい。


─────


 それからしばらく、グループはほとんど動かなかった。


 初日に三浦さんが「今日は外に出ました(スーパーまで)」と報告し、森さんが「今日は外に出てません(冷凍餃子が神)」と返していた。

 ボクはスタンプをひとつだけ送って、そこで力尽きた。


 陽太は、既読もつけたりつけなかったりした。

 「中学生が『だいたい家にいます同盟』に入っていていいのか」という倫理的な問題は、一旦見なかったことにしている。


 ボクは例のノートの『今日ひとつだけやることリスト』を、ときどき思い出したように開いては、ぽつぽつと何かを書いていった。


『カーテンを開けた』

『コンビニの新作スイーツを試した(まあまあ)』

『洗濯機を二回まわした』


 どれも、ショボい。


 でも、白紙よりはマシだと思うことにした。


─────


 事件が起きたのは、防災訓練から三週間後の夜だった。


 その日も、ボクはなかなか眠れなかった。


 ベッドに横になっては天井をにらみ、スマホで求人サイトの名前を検索欄に打ち込んでは数秒で消し、通帳アプリの残高を見てため息をつく——その繰り返しで、あっという間に日付は変わっていた。


(明日こそハロワ行く、とか言ってさ。どうせ起きられないんだろ、ボク)


 そんな自分ツッコミだけが頭の中でぐるぐる回っている。

 部屋はとっくに消灯しているのに、暗闇の中でスマホの光だけが、妙に白く顔を照らしていた。


 そのときだった。


 ――ぱちん。


 ふいに、天井の照明が落ちた。

 スマホの充電ランプも同時に消える。


「え?」


 部屋の中が、ほとんど真っ暗になる。

 エアコンも、冷蔵庫も、全部一度に止まったみたいだ。


 すぐに非常灯がぼんやりと点いた。

 外から、誰かの「えーっ」という声が聞こえる。アパート全体が停電したらしい。


 スマホだけは生きていたので、ライトをつける。

 試しにコンセントを抜き差ししたり、ブレーカーを見たりしてみるが、素人がどうにかできるレベルではなさそうだ。


 そのとき、LINEの通知が鳴った。


『今停電してます?(森)』


『してる(佐伯)』


 送ってから数秒で、『してる(泣)(三浦)』が続く。


『うちの冷凍庫が死ぬ(森)』

『冷食の命の危機(森)』


 森さんの冷凍食品への信頼が厚すぎる。


『廊下、真っ暗?(陽太)』


 久しぶりに、陽太の名前がグループに現れた。


『非常灯ついてるけど、足元見づらいかも(佐伯)』


『懐中電灯、管理人さんから預かってるやつうちにあります(森)

 いる人、取りに来ます? 207』


 そのメッセージを見て、ボクの中で、ふたつの選択肢が並んだ。


 1:スマホのライトでなんとかする(人と会わない)

 2:207号室に懐中電灯を借りに行く(人に会う)


 いつものボクなら、迷わず1を選ぶ。

 でも、真っ暗な廊下で足を滑らせて転んで救急車、という展開も、ありえないわけではない。


 それに——視線が、机の上に置きっぱなしのノートに引っかかった。


 防災訓練の日に引っ張り出した、「今日ひとつだけやることリスト」のノートだ。

 ベッドから手を伸ばしてそれを引き寄せ、三ページ目を開く。


 今日の日付の下に、ボールペンで書き込む。


『懐中電灯を借りに、207号室まで行く(たぶん)』


 「たぶん」の三文字が、情けないような、保険のような。

 でも、ここまで書いておいて「やっぱやめた」は、自分でもさすがにダサいと思った。


 なにより。


(……せっかくグループまで作ったのに、ずっと画面の中だけっていうのもな)


 自分でも驚くくらい、そんなことを考えていた。


『一本借りてもいいですか(佐伯)』


 送信ボタンを押した瞬間、動悸が少しだけ早くなる。

 森さんからすぐに返事が来た。


『どうぞどうぞ。ほかの方も、よければ』

『今、207の前で待ってます』


 スマホのライトを頼りに、ボクは玄関へ向かった。

 サンダルをひっかけて廊下に出る。


 非常灯だけの薄暗い廊下は、いつものアパートより少しだけ異世界感があった。

 階段のほうからは、誰かが懐中電灯を持って上がってくる足音が聞こえる。


 207号室の前には、森さんが本当に立っていた。

 片手に懐中電灯を三本持っている。パジャマの上からパーカーを羽織った姿は、防災訓練のときとあまり変わらない。


「あ、佐伯さん。これ、どうぞ」


「ありがとうございます」


 一本受け取る。ひんやりとした感触が、妙に心強い。


「三浦さんも来るって言ってたけど……あ、来た」


 階段のほうから、スリッパのペタペタいう音が近づいてくる。

 猫パジャマの三浦さんが、「うわ暗っ」と言いながら顔を出した。


「なんか、キャンプファイヤー前みたいね、これ」


「火はないですけどね」と森さんが笑う。


 そのとき、階下から誰かが走ってくる音がした。

 見下ろすと、スマホのライトを掲げた陽太が、少し息を切らしながら上がってきていた。


「……あった」


 彼は、森さんから懐中電灯を一本受け取ると、ぼそっと付け足した。


「ゲームのボス前で急に電源落ちてさ。最初、ブレーカーじゃなくて人生終わったかと思った」


「終わるのゲームだけでしょ」と三浦さんが即座にツッコむ。


 四人で、一瞬だけ笑い合う。


 その笑いの輪の中に、自分もちゃんといることに、ボクは少し驚いていた。


 停電は、そのあと一時間ほどで復旧した。

 部屋に戻って電気が点いたとき、ボクは思わず「おお」と声を出してしまった。


 机の上のノートをもう一度開く。

 さっき書いた今日の『ひとつだけやることリスト』の一行の横に、小さくチェックマークをつける。


『懐中電灯を借りに、207号室まで行く(たぶん)✓』


 その下に、もう一行、小さく付け足した。


『↑ついでに、暗い廊下でちょっと笑った』


 それだけのことだ。

 誰かに胸を張って話せるような「事件」ではない。


 それでも、ボクの中では、かなりの出来事だった。


 スマホを見ると、「だいたい家にいます同盟」のグループに、新しいメッセージが届いていた。


『停電、無事復旧。みなさんご生存の確認ができました(管理人)』


 いつの間にか、管理人さんもグループに入っている。

 どうやら誰かが招待したらしい。


『生存報告:カップ麺食べました(三浦)』

『冷凍餃子も無事です(森)』

『ゲームのデータも無事だった(陽太)』


 ボクは少し迷ってから、こう打ち込んだ。


『今日もだいたい家にいました。生きてます(佐伯)』


 送信すると、すぐにスタンプが何個か返ってくる。

 ゆるい犬とか、だるそうな猫とか、どこかで見たことのあるゆるキャラたちが、画面の中でぴょんぴょん跳ねた。


(……なんか、こういうの、どっかに残しといてもいいかもな)


 画面を閉じても消えない場所。

 誰かに見せるわけじゃないけど、「今日ちょっとだけ外に出た」とか、「生きてますって送った」とか、そういうのを積み重ねていける場所。


 視線が、机の端に放りっぱなしにしていたノートに止まる。


 ノートの表紙に、ゆっくりと文字を書く。


『第二こもれび荘 引きこもり同盟 活動日誌』


 立派な『日誌』ってほど大げさなことはしないつもりだ。

 いきなり完璧な人間になるなんて、ボクには無理だし、明日もきっと電話には出ないし、求人サイトも開けない。


 でも、防災訓練に顔を出したり、停電のときに懐中電灯を借りに行ったり、

 「生きてます」って送れるLINEグループがひとつできたり。


 そのくらいの変化なら、たぶんボクにも、ちょっとずつなら続けられるかもしれない。


 窓の外を見る。

 カーテンを開けた先にあるマンションの壁も、電線も、空も、前と同じようで、でも少し違って見えた。


 世界との接点は、今のところこのアパートと、このLINEグループくらいだ。

 それでも、「明日もここにいる予定の人間」としてカウントされているなら、まあ悪くない。


(……じゃあ、明日もひとつくらいは、何かやるか)


 とりあえず、「起きる」と「カーテンを開ける」。

 それができたら、このノートに一行だけ書こう。


 そう決めて、ボクはノートを閉じた。

 部屋の明かりは、さっきまでより少しだけ明るく感じられた。

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