第3話:記憶の欠片と秘密の匂い
城の夜は、思ったよりも長かった。石造りの廊下に灯る松明の光が、影を濃く落とす。私の嗅覚は疲れているはずなのに、香りだけは疲れを知らない。——誰かの嘘、誰かの過去、そして誰かの意図が渦巻く匂い。
側近の部屋の前で立ち止まる。微かに酸味が混ざった香り——恐怖と不安が交錯している。指先で薬壺を軽く撫で、呼吸を整える。匂いは正直だ。匂いは、隠せない。
「……椿薬師様」
小さな声に振り向くと、少女側近が再びそこにいた。彼女の瞳に映るのは、期待と不安の入り混じった光。私は軽く微笑む。
「大丈夫。あなたの記憶も守る。安心して」
手を差し出す。少女は戸惑いながらもその手を握った。匂いの重さが少し和らぐ——恐怖と悲しみが蒼い煙の中に溶けていく。
部屋の中は静かだ。側近は薄い汗をかき、ベッドの上で微かに震えている。私は薬壺を並べ、古い調合法を使って蒼い煙を作り出した。それは匂いの構造を視覚化する魔法のようなもの。煙の中に、側近の体内で変化している成分が色で浮かぶ——赤みがかった微粒子は、禁草の影響だ。
「……やっぱり、禁草の微量混入」
呟きながら、手元の観察眼を働かせる。記憶を消すには十分な量ではないが、繰り返し作用すれば危険だ。しかも、匂いの分布に微妙な偏りがある——誰かが意図的に操作した形跡だ。
その瞬間、廊下の端から冷たい視線を感じる。霧夜だ。肩に力を入れず、背筋は真っ直ぐ、目だけは鋭く私を見つめている。警戒と評価の入り混じった匂い——言葉より正直だ。
「これ、誰かが意図的に……」
私の言葉を遮るように霧夜が前に出る。
「詳細は後で聞く。今は側近の安全を確保しろ」
短い命令だが、その冷静さに少し安心する。彼は感情を押し殺す天才だが、必要な時は守る側にも回る。——匂いで、わかる。
私は薬壺を軽く振り、蒼い煙をベッドの上に漂わせる。側近の呼吸が落ち着き、匂いの微細な波が鎮まる。記憶を消す薬の成分を和らげることに成功した——小さな勝利だが、王都全体を救うには遠すぎる。
「……椿薬師様、誰が……?」
側近が震える声で尋ねる。私は答えない。匂いは知っている。匂いだけが真実を隠さない。だが、今は守ることが優先だ。問い詰めるのは、もう少し先にしよう。
廊下に出ると、霧夜が静かに待っていた。
「匂いは、何を示している?」
彼の言葉に、私は全てを匂いで説明する。禁草の残香、混入の偏り、そして誰かの指先の匂い——王都に潜む陰謀の痕跡。
「まだ特定はできません。でも、誰かが王都の秩序を変えようとしているのは確かです」
私は淡々と告げる。霧夜の眉がわずかに動いた——警戒だけではなく、興味と承認の色が混じる。匂いだけで、彼の感情が手に取るようにわかる。
その夜、私は王都の宮廷で初めて、薬師としての力を本格的に試すことになった。匂いで真実を嗅ぎ分け、人を守り、陰謀を見抜く。小さな手順のひとつひとつが、やがて国の運命を左右する——そう、匂いは教えてくれていた。