■4-2 祈りが人を変えるなら
「君の、大切なひとも、そうなってしまいそう……ということなんだろう?」
心臓の奥が、わずかに跳ねた。
なんで、それを――
口に出す前に、メイロンがまた笑った。
「私は占い師だよ、朔くん。忘れたのかい?」
いつもの調子だ。嘘も本気も混ざっている声。
でも、言葉のひとつひとつが、ちゃんと“当たって”くるのが腹立たしい。
「君だけじゃない。消えていく名は、もう何千、何万とある」
メイロンの声が落ち着いていたぶん、その内容が刺さる。
香炉の煙がふわりと形を変えるたびに、語られる言葉の実感が深くなる。
「誰かが誰かを想って、名前を呼ぶ。その“祈り”が強すぎると、名は人を超えてしまう」
メイロンは、香炉を弄びながらそう言った。声の調子は淡々としていたが、言葉の端々にはどこか諦めに似た響きがあった。
「定義が、人間の輪郭を越えてしまうんだよ。名前が存在を塗り替えて、気づいたときにはもう――“人間”じゃなくなってる」
俺は、息を殺した。
「祈りはね、願いなんかじゃない。“定義”なんだよ」
メイロンは、まるで教科書を読み聞かせるように淡々と続けた。
香炉の煙が、また形を変えて漂っていく。
「名を呼ばれる。存在を望まれる。輪郭が固定される。……そうして、少しずつ少しずつ、神に近づいていく」
口調は静かだが、言葉の芯は冷たい。
そして、そこにわずかな哀しみが滲んでいた。
「誰も気づいていない。なぜなら、みんな“少しずつ”壊れているから」
少し間を置いてから、メイロンはカップを机に戻し、目だけこちらに向けた。
「君の大切な人は――今、どの段階なんだい?」
わかってるくせに。
でも、あえて聞いてくるのが、こいつのやり方だ。
「フェーズ。君と私はそう呼んでいるね?」
香炉の煙が細く流れながら、言葉の間に影をつくる。
「構文感染の進行段階。祈りに触れて、名が変質していく過程を、祈りの深度に応じて分類したものだ」
俺は黙って頷いた。
いまさら説明されるようなことじゃない。
でも――口に出された瞬間、それは再び“現実になる”。
「フェーズI――違和感の始まりだ。感覚の揺れ、些細な記憶のずれ、人の輪郭がうまく掴めなくなる。でもこの段階では、誰も異常とは思わない。“気のせい”で済まされる」
俺は黙って聞いていた。
わかっている。わかっているけれど、こうして再び語られると、あのときの彼女の表情が浮かんでくる。
「フェーズII。構文との共鳴が始まる。祈られる頻度が増え、名が外部から“定義される”ようになる。存在の境界が薄れていって、現実の重みが軽くなる」
“フェーズIII”という言葉が出てくるのを、俺は少しだけ待っていた。
「そして、フェーズIII。名が構文に侵され、自我と能力が結びつく。
祈りに応答する形で“力”が生まれる。異能、神紋、視界の変質――この段階の者は、すでに“人間でありながら神に触れた存在”だ」
それが、俺だ。
俺の肩に宿っているもの。
俺の中で喉元まで上がってくる“それ”が、構文の中で渦巻いている。
「フェーズIV。人格と神格の境界が曖昧になり、“名の器”と“神の定義”がひとつになり始める。願いと存在が直結して、もはや引き返すことは困難になる」
……そして。
「フェーズV。“神”の完成だ。存在は意味そのものに変わり、“この世界”の中に物理的には留まれなくなる。祈られた名が、その人間を構文上の概念にまで変質させてしまう」
俺は、拳を握っていた。
いつの間にか、呼吸が浅くなっている。
「……それと、これは大事なことだけれど」
メイロンが言葉を区切った。
香炉の煙が、一瞬だけ逆流する。
「感染したからといって、全員が段階を踏めるわけじゃない。むしろ、大半は“途中で解ける”」
煙の揺らぎが、誰かの輪郭をなぞるように宙を漂う。
「フェーズIで現実の構造に耐えきれず、祈りに引きずられて消える者もいる。フェーズIIで名を支えきれず、記憶の中に霧のように溶けていく者もいる」
ひとつひとつの言葉が、まるで予告のようだった。
「段階が進めば進むほど、“適合するか、解けるか”――そのどちらかしかないんだ」
俺は黙ったまま、息を吐いた。
「――だから、君の大切な人がまだここにいて、“君の目で見える形”をしているのは、はっきり言って、運がいいんだよ」
そういってメイロンは物憂げにため息を一つついた。