■3-1 呼ばれた気がする
――佐伯奏。
そうだよね、私の名前。
呼ばれた気がする。
鏡の前で、確かめるように呟いた。
制服の第一ボタンを留めながら、ゆっくりと顔を上げる。
そこに映っているのは、私のはずの顔。
でも、どこかが、ほんの少しだけ違う気がした。
目の縁が、昨日より暗く見える。
頬の線が、微かに丸いような気がする。
髪の分け目がずれていた。いや、違う。これはきっと、私の錯覚。
“私が思っている私”と、鏡の中の“私”が、ぴたりと重ならない。
そんな奇妙な感覚が、胸の奥にひっかかった。
「佐伯奏」
もう一度、声に出してみる。
でもそれは、私が言ったというよりも、“誰かが言った名前”をなぞっただけのように聞こえた。
少しだけ、怖くなった。
唇を閉じて、視線を逸らす。
登校の道は、昨日と同じだった。
少し湿った春の風。ゆるやかな坂道。
並んで歩く朔の肩が、風に揺れるたびに、なんだか遠くに感じられる。
呼ばれた気がする。
「おはよう、奏」
朔の方から声をかけてきた。
それだけで、少し驚いてしまった。
「……変なさっくん。めずらしく先に挨拶するじゃん」
なるべく明るく返したつもりだったけど、自分でもわかるくらい声が浮いていた。
朔の目が少し揺れて、表情がわずかに固まるのが見えた。
何かを言いかけて、それでも言葉にしなかった。
「ねえ、私の顔……なんか変じゃない?」
歩きながら、ふと口に出すと、彼はしばらくじっとこちらを見ていた。
「……いつも通りに見えるけど」
「……そっか」
嘘じゃない。でも、本当でもない。そんな言い方だった。
「最近、ちょっとおかしいんだ。自分のことなのに、自分じゃない気がするときがあって」
彼は何も言わなかった。
でもその沈黙が、私の中のざわつきを静かに広げていくようだった。
そのとき、不意に朔が口を開いた。
「……奏、大丈夫か」
短い言葉だった。でも、その声は真っ直ぐで、まるで私の胸の奥を打つようだった。
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
それと同時に、視界の端で、朔の表情がわずかに強ばるのが見えた。
彼の瞳が何かに気づいたように揺れて、それを打ち消すように瞬きした。
しまった、というような。
どうしてそんな顔をするのか、私にはわからなかった。
けれどその動揺は、明らかにこちらに伝わっていた。
まるで彼の声が、私の中の何かを“動かしてしまった”かのように。
私はうまく返事ができなかったけれど、それでも。
彼が私を見ていてくれることだけが、頼りのような気がしていた。
教室に入っても、違和感は消えなかった。
席につこうとしたとき、村井理沙が声をかけてきた。
「ねえ奏、昨日の……あれ? なんだっけ……」
理沙は笑いながら首を傾げる。
でもその言葉は、途中で切れた。
私の名前を呼んだはずなのに――そのあとに続く言葉が、空白になった。
呼ばれた気がした。でも、誰に?
私も、何かを言い返そうとした。
けれど、喉の奥がざらついて、言葉が出てこなかった。
声にしようとするたびに、何かが“抜けていく”。
筆箱の色が変わっていた。
見覚えのない模様。けれど、それは確かに私のものだった。
昨日もこれを使っていたはず。なのに、その記憶だけが、曖昧に霞んでいた。
なんで、こんなにざわざわするんだろう。
全部が、少しずつ“ずれてる”。
でも、それを誰にも言えなかった。
昼休み。
お弁当を出そうとして、鞄の中を探る。
――ない。
家に忘れてきた? それとも、最初から持ってきていなかった?
朝、自分が何をしていたのか。何を食べたのか。
ほんの数時間前のことが、もう、ぼんやりしていた。
どうして、私、お弁当なんて作ってたんだろう。
当たり前のはずの習慣が、今はよくわからなかった。
チャイムの音が、いつもより少し遅れて聞こえた気がした。
誰かの話し声も、遠くから響くような、輪郭のぼやけた音に聞こえた。
私って、いつからこんなだったっけ。 何が変わったのかもわからないのに、自分の形だけが崩れていく。
前の席の男子が一瞬、こちらを見た。
でもすぐに目を逸らした。
まるで、私は最初から“そこにいない”みたいに。
男の子……。
……そういえば、昔、助けてくれた子がいた。
小さくて、でもまっすぐで、泣きそうな私の前に立ってくれた子。
砂場のそばで、ランドセルを引っ張られて、何も言えなかった私を、
ただ黙って、かばってくれた子。
ぼろぼろになって、顔も血だらけになって、
それでも、私を見ていてくれた。
私は泣きながら、その子の怪我をティッシュで拭いた。
ポケットの中でぐしゃぐしゃになったそのティッシュを、ずっと握ってた。
大切な思い出。
大事な人。
……なのに。
あの子の名前が、どうしても思い出せない。
呼ばれた気がする。
――どこからか声が聞こえる。
私を、呼ぶ声が。
私は、そっと胸のあたりを押さえた。
左肩が、微かに熱を持っていた。
まるでそこに、
誰かの手のひらが、そっと添えられているかのように。