■2-6 まだ足りないと知っている
夜の帳が降りていた。
街は静かだった。
人気のない裏路地を抜け、灯りのつかない玄関の前で、俺はようやく足を止めた。
腕の中の奏は、まだ熱を残していた。
まるで自分の祈りの余燼を燃やし尽くしたあとの熾火みたいに、静かに呼吸していた。
玄関の鍵は、彼女の家の人間が昔から知っている場所に隠してある。
そう――彼女の家は、俺の家だった場所の隣だ。
鍵を開けて、誰もいない家のベッドに彼女をそっと寝かせる。
布団を引き、髪が乱れていないかを確認して、俺はそっと立ち上がった。
「……またな」
それだけ呟いて、静かに扉を閉めた。
◇
帰り道。
夜風が頬を撫でるのを感じながら、俺は無意識に右肩を押さえていた。
まだ、焼けたような痛みが残っていた。
皮膚の奥、骨の裏側――そこに、あの“蛇”はいる。
名もなく、形もなく、ただ喰うためだけに蠢く“それ”。
誰かの祈りがあれば、それを媒介に現れる神。
名前があれば、肉体を変質させるほどの力を得る。
そしてそれを喰らうことで、俺の中の“それ”は満たされる。
……けど。
それは俺じゃない。
俺は、まだ“俺”でいたい。
◇
部屋に戻って、洗面所の鏡を覗いた。
黒い文様が、首筋にかすかに残っていた。
触れると、指先がじりじりと痺れる。
「……黙ってろ」
俺は鏡に向かってそう呟いた。
声には出していないのに、“それ”はすぐに反応する。
――喰わせろ。祈りを。名を。
――今日の女も、惜しかったな。
「うるさい」
――その名前、お前のじゃない。
「知ってる」
◇
中学の頃から、こんなことばかりだった。
最初に“消えた”のは、クラスの男子だった。
前の日まで机を並べていたのに、朝にはいなかった。
教師も誰も話題にしなかった。名簿からも消えていた。
でも、俺だけは覚えていた。
そいつが、何を話し、何に笑い、最後にどんな顔をしていたか。
全部。
なぜか、俺だけが“忘れられなかった”。
それが、最初の違和感だった。
◇
世界は壊れている。
誰かが消えても、誰も気づかない。
何かが起きても、報道されない。
神社の火事のことも、ニュースにはひとつも出なかった。
“あの神”も、“あの男”も、初めから存在しなかったかのように。
……違う。
存在した。
焼け跡も、熱も、名も、全部そこにあった。
けど、それは「祈りの終わり」と共に、現実から“上書き”される。
――祈りは現実を侵す。
誰かが神に名を与えれば、それだけで世界は書き換わる。
だから、管理庁は祈りを禁じた。名前を呼ばせないように、全てを秘匿した。
でも、それでも祈る者はいる。
神を再び、この世界に招こうとする者たちがいる。
そして、現れるのだ――“神”が。
なら、俺は。
俺は――
「……その前に、喰らう」
それしか、俺にはできないから。
◇
ベッドに倒れ込んで、天井を見上げる。
視界の端に、今も揺れている火があった気がした。
名前を削られていく痛み。
そこにいた少女が、最後に俺を呼んだあの声。
「……奏」
その名を口に出す。
何度も、口の中で確かめる。
世界に消されないように。
俺が、この手で守った証を刻むように。
「奏」
誰よりも先に、それを呼んだ。
――でも、これだけじゃ足りない。
奏は既に発症している。
このままだと、彼女は――。
このままじゃ、“守るふり”しかできない。
俺はまだ、何も知らなすぎる。
……会いに行かないと。
この世界の裏を、俺よりも遙かに知ってるはずの――あいつに。
あの、得体の知れない占い師に。