第四話 飽きもせず
夜の帳が下りる直前のことです。
長大な城壁の上から望む東の空はもうすっかり暗く、天には無数の星がきらめいていました。対して、西の空は未だ赤みが残り、しかしそれも四半刻と経たず、私の命と同じく失われることでしょう。
私はその風景を、飽きもせず眺めていました。
何だか、何度も見たような気がして、それともセサニア王国はどこも似たような風景なのでしょうか。草原は地平線まで続き、遠く山脈がうっすらと見え、夕日は沈む。そういうものなのかもしれません。
そう思うのですが——この既視感は、違うような気がします。
(なぜかしら。やはり、偽装でも処刑を前にすると、変なことを思うものかしら)
私はここでようやく、髪を縛っていないことに気付きました。この前切ったばかりの猫っ毛の白に近い金髪がふわりと風にそよぎ、また肩まで戻ってきます。
小さいころは背中の紋章を隠そうと、髪を伸ばしていました。厚手のコートを着たり、うなじまで隠れるようマフラーやスカーフを巻いたり、涙ぐましい努力をしていたものです。でも、いつのころからか、私は髪を伸ばさなくなりました。年に一度切って、さっぱりするようになったのです。それがいつ、なぜだったのかはもう憶えていません。
それよりも、城壁の石畳に触れる足の裏が冷たいです。サンダルでももらえないかしら、と私は周囲に視線を送ります。しかし、険しい目の兵士、騎士、処刑人に見咎められるように睨まれて、私は萎縮してしまいました。怖い人ばかりです。
でも、大丈夫。私の背後にいるヴォルテア卿が守ってくれるはずです。
そう思って、私はちらりとヴォルテア卿を横目で捉えます。
銀の鎧をまとい、青い大きなマントを羽織り、大柄な体の前で大剣を地面に突き刺すように構える、ハンサムな銀髪の青年です。
ヴォルテア卿は、私の視線に気付いて、ほんの少しだけ微笑んでくれました。すぐにその笑みは消えてしまいましたが、私は心強くなりました。
(ヴォルテア卿がいるわ。大丈夫、大丈夫……)
セサニア王国騎士団を率いる、勇猛果敢な英雄。卓越した剣術で数多の敵を討ち、異種族どころか人間からも恐れられる騎士。
そんな人がいてくれるのだから、大丈夫に決まっています。私は勇気を持って処刑台へと足を踏み出し、処刑人の宣告を耳にします。
「これよりヘリナス子爵が一子、アリアーヌ・カロレッタの処刑を実施する! これは王命であり、何人たりとも異を唱えることまかりならん! アリアーヌ・カロレッタ、前へ!」
前へ、という言葉は、風の音に遮られてしまって、最後まで聞こえませんでした。
上から降ってくる無数の甲高い風切り音が、降り注いだのです。轟音を立てて石畳を砕き、兵士たちを巻き込んで悲痛な叫びを引き起こします。
「ぎゃああ!?」
「上だ、上、あああ!」
呆然としながらも、私は空を見上げました。
空はもう、とっくに暗くなっています。夕日は沈んで間もなく、しかし星は一つも見えません。
そこへ、明かりがいくつも灯りました。松明が明々と上空を照らします。
すると——空には、人影があるのです。それは目にも止まらぬ速さで降ってきて、私の背後に降り立ちました。
今、私の背後です、背後にいます。振り返る勇気なんてありません。誰かがいる気配を感じながら、冷や汗が止まりません。これは一体、何が起きているのか、どういう状況なのかと周囲へ目を凝らしたところ、処刑台を囲むようにセサニア王国騎士たちが剣を構え、今にも飛びかかってきそうです。
(ひえ!? な、何!? なんで!? どうしてぇ!?)
その疑問に答えるように、私の背後から、甘く軽やかな、弾む声がしました。
「ふう、処刑前に着いてよかった。皆々様、ご機嫌うるわしゅう。おや、ヴォルテア卿もいらっしゃるとは!」
楽しそうな声とは裏腹に、騎士たちの剣呑な雰囲気はますます強くなって、私でも殺気が放たれていることくらい分かります。挑発しないで、と背後の誰かに懇願したい気持ちです。
(そうだ、ヴォルテア卿! あの方なら……!)
はっと思い出した銀髪の青年、ヴォルテア卿へ私は一縷の望みをかけましたが、あろうことか聞こえてきたそのヴォルテア卿の声は怒りに燃えていました。
「ああ、来ると思っていたぞ、ヴェリシェレン王。祖父の仇、ここで討たせてもらう」
ここで、私はふと冷静になりました。
あれ、ひょっとしてヴォルテア卿、私ごとこの……ヴェリシェレン王という方を殺そうとなさっていませんか、と。
何だかおかしいのです。さっきから、私はここで殺されるのだと確信しているかのように、私はどこか諦めているのです。それに、ヴォルテア卿、何か違うような気がします。いえ、具体的に何がどう、とは説明できないのですが、そもそもヴォルテア卿は、私の幼馴染でしたよね? ——違う? 違わないでしょう? どういうこと?
混乱の極みにある私は、もうどうすることもできません。逃げようにも、いつの間にか後ろの方、ヴェリシェレン王に後ろ手の縄を掴まれていました。一蓮托生とはこのこと、もうだめです。私はここで死ぬのです、もうおしまいです。
なのに、私はくるっと、ポイっと、スイングされて体ごと投げられました。
「は、はいぃ!?」
情けない悲鳴が私の口から堂々と出ていき、世界はぐるりと一転して、目が回りました。そのまま石畳に打ちつけられるかと思いきや、ヴォルテア卿——銀髪の青年がちゃんと受け止めてくれて、事なきを得たのです。
心臓が高鳴るどころか、爆音で響いている状況、私はもうだめです。ヴォルテア卿にしっかりと胸の前で、両腕で抱えられた私は、そこでやっとヴェリシェレン王なる方を正面から捉えました。
「……?」
黒髪赤目の、絶世の美形たる細身の男性が、処刑台に立っていました。見覚えがあるようなないような、とにかくその背中に影のような巨大なコウモリ羽があること以外、人間と変わりない姿形です。
私を見て、目を細めたヴェリシェレン王は、右腕を折って胸の前に置き、うやうやしく一礼しました。
「今宵はこれにて、上々としよう。まあ、置き土産はさせていただくがね!」
ヴェリシェレン王は、私へ、もしくはヴォルテア卿へとしっかりウインクして、次の瞬間には一陣の竜巻となっていました。
処刑台から猛然と、鋭い刃物のような風が縦横無尽に放たれ、騎士たちに直撃していきます。咄嗟にヴォルテア卿は私を庇うように地面へ倒れ込み、風から私を守ってくれました。
こんな状況で何ですが、私の顔に、右頬に、ヴォルテア卿のお顔が当たっています。身内である父以外の殿方に触れられて、舞い上がるように赤面した私は、途中から記憶がなくなってしまいました。
どうやら、私はここで気絶したようです。
次に目覚めたときには、見知らぬ天井、見知らぬ天蓋付きベッド、見知らぬ布団の中でした。