第三話 偽装が偽装でなくなるとき
城壁の石畳に触れる足の裏が冷たく、偽装であるならサンダルくらい履かせてくれればよかったのに、と私は今思っています。
それにしても、偽装のはずなのに、処刑台は本物を用意してきっちりと造られていますし、周囲の騎士や兵士たちも真剣そのものです。このまま私は処刑されてしまうのではないかしら、と不安になってきました。
この偽装処刑ののち、私はヘリナス子爵家令嬢としての身分を失います。しかし、ヘルマン宰相が代わりの相応の身分を用意してくださるとのことで、父も納得したようです。ただし詳細は偽装処刑後まで私にさえ伏せられ、周囲に一切漏れないよう細心の注意を払っています。それもそのはず、せっかく偽装処刑までして戦争も辞さないのだから、私の今後の身分がバレてしまっては意味がありません。
でも、本当にそれで十分なのでしょうか。私は何もしていませんし、元凶ですので、文句を付けられる立場にはないのですが、本当にこれでよかったのかという疑念が頭から消えません。
(いっそのこと……私の背中にある『豊穣の女神』を紋章を消せたらいいのに。それができれば何もかも解決して、と思うのは安易かしら……うーん)
色々と悩みは尽きませんが、ようやく西の夕日が沈みそうです。城壁には夕日からの一条の光の線が伸び、端から端までを最後の足掻きのように照らしています。
正装に身を包んだ処刑人が私の前にやってきました。
「前へ、階段を上って」
私は小さく頷き、案内する処刑人の指し示す先へそろりと足を踏み出しました。
絞首刑用に設えられた木製の台は、ちょっとしたステージです。その上には長い三本の丸太が互いを支えるように組まれ、中心からは大きな輪っかを作ったロープがぶら下がっています。
よく見ると、そのロープは黒ずんでいて、年季を感じさせるものです。今まで処刑用に使っていました、とばかりの本物です。
黒ずんだロープが、輪っかを作って私を待ち構えています。私は固唾を呑み、これは偽装なのだと自分に言い聞かせますが、やはり恐怖は生まれてしまいます。そもそも、偽装ならここまでしなくていいのでは——。
一段、また一段と処刑台へ上る階段を踏み、高台へ着いた私を待っていたのは、処刑人による高らかな宣告でした。
「これよりヘリナス子爵が一子、アリアーヌ・カロレッタの処刑を実施する! これは王命であり、何人たりとも異を唱えることまかりならん! アリアーヌ・カロレッタ、前へ!」
処刑人だけでなく、周囲の兵士、騎士たちまでもが私へ注目しています。
私が一歩、足を踏み出せば、処刑を受け入れるかのようです。そんなの、怖くてできるはずがありません。私は何も悪いことはしていないのに、偽装だからって処刑されるなんて。
私は助けを求めるように処刑人へ、そして周囲へと視線を送りますが、逆に睨まれてしまいました。ひょっとして、彼らは本当に私が処刑されると思っているのではないだろうかとばかりの、厳しい目つきです。
なぜここに父がいないのだろう。助けてほしいのに、なぜ。私の足先は、冷たさと恐怖で震えていました。
——これは、本当に処刑されるのでは?
そう思ってしまえば、私はもう足を踏み出せません。湧き出す感情が、目を潤ませます。
——死にたくない。
思わず、私はその言葉を口に出していました。
「死にたく、ない。助けて、誰か」
これは、偽装処刑だ。誰がそう言ったのか、本当にそうだったのか。それはどこに何の保証があって、父と私は信じてしまったのか。
痺れを切らした処刑人が、私の背中を押そうと手を伸ばしてきました。
見知らぬ殿方に強引に背中へ触れられる、その瞬間のことです。
どこかからか、甲高い風切り音が飛んできました。同時に、処刑台が私の横でスパッと前後に切断され、続けてもう一度、目も開けていられないほどの強風が私に向けて吹いたのです。
「うっ……!」
何が何だか分かりません。頑丈に造られた処刑台は切断されてもそのままで、私は足を踏み締めたまま目を開けようとしました。
なのに、私はいつの間にか、誰かに正面から抱き抱えられていたのです。
「え? えっ!? だ、だれ!?」
混乱する私の誰何の声は、あっけなく別の怒号にかき消されました。
「敵襲だ!」
それに合わせ、野太い殿方たちの鬨の声が上がり、空気がビリビリと振動します。ですが、抱き抱えられて視界も塞がれ、身動きの取れない私にはどうすることもできません。
うぬぬ、後ろ手に縛られ何もできないものの、それでも状況を把握しようとする私へ、甘いささやきが降ってきました。
「大丈夫かい、アリアーヌ。もう心配いらないよ」
それは周囲から叩きつけてくる野太い鬨の声とは一線を画す、穏やかで優しい声です。
私をギュッと抱きしめているこの人は、一体誰なのか。
そんなことよりも、瞬く間に聞こえてくる怒声が悲鳴に、次々と空を切る鋭い音がして、私の周囲ではとんでもないことが起きている——それを知らなければならない、必死に、私は首を回して、やっと隙間から視界が開けました。
ところが、それは見てはいけないものだったのです。
処刑台の周辺にいた多くの兵士、騎士、処刑人たちは、そのほとんどが倒れ伏していました。鮮血の海の中で呻き、痛みに悲鳴を上げ、そうでない人々はもう息絶えてしまっているかのように動きません。
私の目がわずかな間に捉えられたのは、それだけです。もうそれ以上見たくなくて、私は目をしっかりと閉じました。恐怖しかない、むせかえる生臭さから顔を背けて、何者かも分からない誰かの胸へと顔を埋めるしかありません。
そこへ、ヴォルテア卿の老いてなお張りのある声がしました。
「やはり貴様か、吸血鬼の王。単騎でやってくるなど、侮られたものだ」
誰かは軽い口調で返事をします。
「そうだとも、老いさばらえたな、ヴォルテア。ふふん、ご自慢の騎士団はやっつけてしまったぞ?」
「抜かせ、日の光も浴びていられぬ化け物が。ここで引導を渡してくれる!」
ヴォルテア卿が石畳を砕くほどの勢いで、叫び声とともに向かってくるのを、私は感じました。
ヴォルテア卿が私を抱きしめたこの人と戦うのであれば——あれ、私は邪魔なのでは。
そう思っている最中、私はズブリと背中からひどく硬いもので刺され、それが何のためらいもなく胸を貫いて出て、銀色の切先が私を抱きしめた人の胸へと刺さっていくのを、この目で見ました。
まるで世界がゆっくりと進んでいるかのようで、まったく現実味のない光景です。私はやっと事態を理解し、胃から溢れてくる血液を吐き出しながらこう思ったのです。
(あ……ヴォルテア卿、私ごと、この人を殺そうと……剣を、刺して)
ヴォルテア卿の一撃は、きっと強烈なものだったのでしょう。私は誰だかよく分からない人に抱きしめられたまま、溺れるように息絶えるのだと分かりました。
久々に連載です。
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