第十七話 これは私の選択で、お願い
王都陥落の日の夜は、後年、セサニア王国でもっとも長い夜と呼ばれることになる。
夕刻を過ぎ、突如王都の中心にある王城が崩れていったことを皮切りに、王都を混乱が支配した。壮麗かつ巨大な城は瞬く間に瓦礫と粉塵と化し、王都を囲む壁までまったく視界が遮られてしまい、人々は夜の到来を前に一切の光を失っていた。
そして、夕日が落ちるまでの間に、王都から出入りする門は何者かによって閉ざされた。動揺も束の間、王都中を『何かを探すように』執拗に巡り、出会い頭に人々を斬り殺していく集団が出た。
セサニア王国騎士団——正確には、すでに何者かの眷属となった騎士たちだ。意思なき死体が操られたように動き回り、王都でもっとも強力な武装集団が民を殺戮しはじめた。
王城は失われ、騎士団は敵となり、残った兵士や傭兵たちも太刀打ちできずにそこいらに生まれつづける血の海へ沈んでいく。老若男女、誰もが王都のあちこちを逃げ惑い、外へ通じる門を開けようと殺到して待ち構えていた騎士団に虐殺され、多くの人々がもう逃げられないと悟って家屋の中へ閉じこもるまで、さして時間はかからなかった。
この日は、王都に初めて一つも火が灯らない夜となった。騎士団に発見されないよう、人々は扉を閉め、窓を雨戸や板で覆い、息を潜めて朝を待つ。どういうわけか、騎士たちは建物の中には入ってこられないようだった。
だが、朝を待ったところで、生きながらえられるのか? 様子のおかしい騎士団は、このまま王都の住民を最後の一人まで根絶やしにするつもりではないか? あまりにも突然の事態に、誰もが未来を見通せなかった。
それぞれ頑丈な建物の暗い室内に身を寄せる老夫婦や若い恋人たち、赤ん坊を抱えた家族、父と生き別れた娘、母が囮となって生き延びた幼い兄弟、それに幸運にも避難誘導に従事して騎士の殺戮から逃れられた一部の兵士たち。
誰もが息を潜めて、建物の中に入ってくるな、と祈る。この国の民ならば例外なく誇らしく思っていたセサニア王国騎士団は、今はまるで死を振り撒くかのように王都中を徘徊している。
どこかで子どもが泣いた。大人が声を殺して叱り、泣き止むよう懇願する。遠くで大きな何かが落下したような、腹に響くような崩壊音と衝撃が地面を伝わってきた。王城がまだ崩壊しているのか、それとも騎士たちが建物を壊しはじめたのか、恐れ慄く人々に判断する術はない。
一人の少女が、震える両手の指を組んで、一生懸命に神へ祈っていた。本心で神が助けてくれるなどと思っているわけではない、何かをしていなければ正気でいられないから祈っているだけだ。
ふと、少女の耳に、奇妙な音が聞こえた。
「……?」
甲高い、風切り音だ。しかし、聞いたことがないほど高い音色で、それに大きい。こんな大きな音を立てて、しかも夜に飛ぶ鳥などいない。なんの音だろう、少女は採光用の高窓を見上げた。すっかり粉塵が収まった夜空には、細長く頼りない月が出ていた。
その直後である。
鼓膜を破らんばかりの破裂音とともに、高窓のガラスが割れて落ちてきたのだ。
「……きゃ!?」
高窓を見ていた少女だけがそれに気付き、落ちてくるガラスから身を守ろうと背中を丸めて地面に這いつくばる。ガシャン、とバツが悪くなるガラス片の壊れた音が響き、人々の間にざわめきが起きる。
「何だ……? 上、上から来たのか?」
「いや、何もいないぞ。脅かすなよ」
「だが入ってこられちゃ困る、どうにか塞げないか?」
男性たちが高窓を塞ごうと動きはじめた。まさか騎士が屋根から入ってくるとも思えないが、開いたままの窓というのは、今ここにいる誰もが恐怖を感じてしまう。
うずくまっていた少女に、近くにいた幼い兄弟が手を差し伸べた。
「大丈夫?」
「ガラス、こっち来てないよ」
「あ……あ、ありがとう」
少女は手を取り、それからまた高窓を見上げた。
見間違いだったかしら、と少女はつぶやく。
高窓が割れる寸前、黒い何かが横切った気がしていた。
☆
すー、はー。すうー、はあー。
私は深く深く、深呼吸をしました。
これから私は、真面目に、私にしかできないことをするのです。
「アリアーヌ、落ち着いて。キスが嫌なら他の手が」
「大丈夫! 大丈夫、だから!」
そう言いつつ、私の声はかなり上擦ってしまいました。フィオが苦笑しています。
私の部屋の隅っこで三角座りをしていじけている、黒い翼に覆われた黒髪赤目の美青年こと吸血鬼の王ヴェリシェレン……ラヘルの往年の姿の復活は、私の力を証明してしまったのです。
「わ、わた、私の、唾液で本当にフィオが強くなるの?」
フィオは真面目くさって頷きます。
「ああ。ほんの少し触れるだけで十分だ。僕が自分で傷を作って、そこを舐めてもいい」
「それはダメ! ……よし、覚悟、できたわ!」
「お願いするよ」
すうー、はあー。
私はもう一度だけ、深呼吸をします。
ついさっき、フィオがラヘルの姿について種明かしをしたのです。
「昔、君と初めて会ったとき、君は僕のすり傷の手当てにと舐めたんだ。それ以来、僕は常人離れした腕力や五感を手に入れた。体格だってこんなによくなったし、周囲は祖父の才能を引き継いだと喜んでいたが……そうじゃない。これは間違いなく、君の『豊穣の女神』の紋章の影響だろう。その証拠に、ラヘルは昔の力を取り戻したみたいだ」
どうやら私は、まったく覚えのない所業でフィオを偉丈夫にしてしまったようです。いえ、それはいいのです、本人も喜んでいるみたいですし。
『豊穣の女神』の紋章を持つ私の血肉は、異種族の力を強化する。そう聞いていたのに、同じ人間にも効果があったなんて。しかも、原因は唾液が触れたから、なのです。血肉どころか唾液です、唾液。
なぜかラヘルは傷ついたように激しく拗ねていますが、そんなにキスが嫌だったのでしょうか。いえ、あまりつつかないほうがいいですね。血液の話のときだって、あんなに怒らせてしまいましたもの。
一応ですが、傷口から体内に唾液が入ったのと同じく、キスで唾液を得て、という手段で私は相手に力を与えることができるようです。他にもあるかもしれませんが、それを研究している暇はありません。
私は意を決しました。ええ、決したのです。
床に片膝をつき、私に身長を合わせてくれているフィオの顔を見つめます。しみじみ見下ろすと、本当にフィオは精悍な顔立ちで、立派な騎士様そのものです。美形といえばラヘルに軍配が上がりますが、頼り甲斐という面では圧倒的にフィオです。
私は少し身をかがめ、何も考えないよう心を無にしながら、フィオの唇へと口づけします。
嫌なわけではないのです。ただ、こういう雰囲気は何も今じゃなくてもよかったんじゃないかなー……と未だに思ってしまうだけですとも。ええ。
ラヘルよりも固い唇にそっと触れ合って、先に舐めておいた自分の唇からどれほど唾液が渡るのかは分かりませんが、一秒、二秒と、じっと待ちます。
まあ、あれです。頬にキスと同じ感じで、本当によかったと思います。いわゆる夫婦や恋人のキスだと私はもうラヘルの横で並んでいじけるしか道がなくなっていたでしょう。
フィオは、首を少しずらして、唇を離しました。そしてそのまま、私を抱き寄せます。
フィオの肩にもたれかかる形になった私の耳元へ、フィオはこう言いました。
「すまない、もっと君とたくさん話すべきだった。お互いに理解し合わなければならないことだってあったのに、一方的に君に負担を強いてしまった」
ずるいですね、フィオは。そんなふうに言われると、今までの不信も怒りも何もかも吹き飛んでしまうではありませんか。
私はこう返します。
「いいの。だって、これから私は、あなたとラヘルにもっと負担を強いるのよ」
たとえ、それが吸血鬼の王と騎士団長には容易いことであったとしても、私の選択で命を懸けてもらうのです。だったら、私のくだらないプライドや感情なんて、とりあえず引っ込めておきます。
はあー、と思いっきりため息を吐きながらやってくるラヘルと、立ち上がって並び立つフィオへ、私は恥を忍んでお願いします。
「フィオ、ラヘル。お願い、『ブリジット王女』を退治して、王都を取り戻して」