第十五話 選択のもたらした現実
ひとまず、危機を退けた私たちがやるべきことは、フィオの治療です。
ところが、フィオはやんわり拒絶しようとしました。
「このくらいはなんともない。それより」
「いいえ、確認しますし怪我は手当します! ラヘル、手伝ってください!」
「ぷははは、いいだろう! では、君の部屋に連れていってくれ。着替えだのなんだのは私が持っていこう」
ラヘルの同意と指示に従い、私がぐっと左の袖と手を握って、私の部屋にフィオを引っ張っていきます。観念したフィオは大剣を持って、大人しくついてきてくれました。
ついさっきの大蛇に破壊されなかった私の部屋は、何事もなかったかのようです。椅子とスツール、それにテーブルを用意して、ランプの光量を大きくすると、ようやく私はフィオの状態をしっかりと視認できたのです。
「フィオ、いったい、何があったの? こんなに顔も服も血みどろで」
明るい場所で椅子に座ったフィオの全身をまじまじと見つめた私は、血のついていないところを探すほうが難しいほどに、フィオの体も服も血まみれでいたことに改めて驚きます。フィオはこの姿で、王都から戻ってきたのでしょうか。だとすれば、何があったというのでしょう。
ただ、フィオは顔色もよく、決して不調ではないことは一目見て分かります。
「返り血だよ。僕は怪我なんてしていないから、安心してくれ」
「そ、そうなの? そうだ、このカゴに服を脱いで入れてちょうだい。ラヘルが着替えを持ってきてくれるわ」
「ああ、分かった」
フィオが礼服のジャケットを脱いでも、中のシャツまで血は染み込んでいます。壁際に置いた大剣も、血抜きの溝から赤い絨毯の床へと血溜まりが生まれているほどです。
それでも、べとべとのシャツと肌着を脱いで、立派に鍛えた上半身が現れれば、確かにフィオには傷一つついていませんでした。どこもくっきり分かれたすごい筋肉です、さすがフィオ。
ところが、一ヶ所だけ気になるところがありました。
「あら? フィオ、手首に……咬み傷?」
フィオの右手首の内側に、小さな二つの傷跡が並んでいました。袖で隠れる位置です、今まで気づきませんでした。ちょうど動物の牙でガブリとやられたような、まだ赤みが残る傷跡です。
フィオはなぜか慌てて、傷について説明しようとします。
「こ、これはその、決して人間につけられた傷ではなくて!」
「そうなのね。もう治っているみたいだし」
「そうなんだ! 忌々しいことに、あいつにやられて」
「あいつ?」
ちょうどそこへ、ラヘルが服や医薬品の箱を抱えてやってきました。
「なんだね、私に何か文句でも?」
ラヘルを睨むフィオ、フィオを見下ろすラヘル——座ったフィオとラヘルの視線は同じ高さですが——どうやら、二人の間に何らかの出来事があってできた傷跡のようですね。
「ラヘルが噛んだの?」
普通でしたら、吸血鬼に噛まれるということは眷属のグールになることを意味しています。吸血鬼の下位種族で、同じく日光に当たることができないはずなので、王都まで行き来してきたフィオはそうなっていないはずです。
ラヘルは乱暴にタオルをいくつもフィオへ放り投げ、「さっさと拭け」「うるさい」と騒がしくやり取りしてから軽く種明かしをしました。
「うむ。保険として、マイナーの血が不味くなるよう魔法を仕込んでおいただけだがね」
「不味く……?」
「何、大したことではない。普通はこんな筋肉まみれの男よりもっと肉の柔らかい乙女のほうが食われやすい」
「そうじゃないだろう。違うんだアリアーヌ、認識阻害の魔法をかけただけなんだ」
認識阻害。フィオの口から、難しい言葉が出てきました。しかしなぜフィオは慌てているのでしょう。
「大抵の場合、人間以外の異種族たちは人間を見た目で判断できていない。鳥に近い種族はともかく、それ以外は匂いで個体識別をしているわけだ。なら、その見分けがつかないようにすれば、戦いを優位に進められるだろう?」
「なるほど。そういうこともあるのですね!」
「理解が早くて何よりだ。で、役に立ったかね、マイナー」
「ああ。あなたの魔法の腕前だけは信頼しているさ」
そう言いつつ、フィオがどこか不満げなのはなぜなのか。
フィオの全身にこびりついた血を拭くため、私も手伝います。それにしても……私は、つい思ったことを口に出してしまいました。
「なんだか、体を拭いているというより、大きな岩を磨いているみたいで……」
「……まあ、うん」
「あ、ごめんなさい! くすぐったくはない?」
「全然、気にしないでくれ」
フィオは気軽にそう言ってくれますが、私は殿方の半裸を触るどころか見ることさえ初めてです。これは岩、フィオは岩なのよ、と思い込もうとしても、やっぱり気にしてしまいます。別のことを考えましょう。そう、たとえば……二の腕の太さが私のウエストくらいありませんか、フィオ。
うっすらと傷跡だらけの背中を拭きながら私がそんなくだらないことを考えていると、フィオはふと、つぶやきました。
「昔、ヘリナス子爵領へ初めて出向いたときも、君に傷の手当てをしてもらったな」
それは——思ってもみなかったことに、私は知りません。そんな記憶はないのです。
私の返事が遅れたせいか、フィオはすかさずフォローしてくれました。
「憶えていないかい?」
「う、うーん」
「いや、いいんだ。ずいぶん昔のことだから」
フィオの優しさが、私を余計に気まずくさせます。多分、私は誤魔化せていなかったのでしょう。幼馴染であるはずのフィオと過ごした思い出が、私は今でも何一つ思い出せないのですから、なんだかとても申し訳ないのです。
幸いなことに、フィオはそれ以上話を深掘りしようとはしませんでした。ラヘルの持ってきた服を素早く身につけ、私が血まみれの服をカゴに押し込んでいる間にズボンも着替え終えていました。
「さて、これからの話をしよう。現在、分かっていることから共有しておく」
その宣言を受け、私とラヘルは、フィオの報告を聞き逃すまいと耳を傾けます。大蛇の襲撃、フィオの帰還……これらは、おおよそ私の予想もしていない重大事態が起きていることを示すものでした。
「さっきも言ったとおり、セサニア王国の王都はすでに陥落していた。正確には、ブリジット王女と称する者に何年も前から侵食されていたため、このタイミングで完全にやつの手中に落ちた、と言える」
セサニア王国の王都陥落。フィオが冗談で口にするわけがありません、私は息を呑みます。
セサニア王国は、国自体はさほど大きくはないとはいえ、異種族にも対抗可能な強力な騎士団を擁することで知られていました。それゆえに、ヘルマン宰相や父へリナス子爵は異種族に対して強硬な態度を見せ、たとえ戦争になったとしても負けはしない目算があったものと思われます。
しかし、実際にはもう王都が落ち、しかもブリジット王女という王家の一員がそれを主導したのだとすれば、これは偶然ではなく仕組まれていたと考えるべきです。フィオの言うとおり、何年も前から、です。
ラヘルは顔色ひとつ変えず、フィオへ問いかけます。
「ご自慢の騎士団もかね?」
「ああ。まとめて食われたよ」
「ふむ」
「だが、ただやられたわけではない。騎士団の面々が残してくれた手がかりのおかげで、ブリジット王女の正体は明らかとなった。その上で、僕が王都で仕留めることは困難と判断し、ここまで逃げてきたんだ」
——フィオが戦わず、逃げることを選んだ?
これには、私も口を挟んでしまいました。
「ちょっと待って。フィオでも倒せない相手だったの? あんな大蛇を一撃で倒したのに?」
「すまない。仕留めるだけなら問題なかったんだが……王都にはまだ万を超える民がいた。できるだけ逃がしてきたものの、今も無事かどうかは分からない」
なんと、それは私の考えが及びませんでした。王都にいるのは、王様や騎士だけではなく、そこで暮らす国民も多くいるに決まっています。引きこもりの田舎娘には、そこまですぐには考えつきませんでした。
「ご、ごめんなさい。フィオはそこまで考えていたのね」
「それは」
「気にすることはない、アリアーヌ。むしろ、マイナーは賢明かつ残酷な判断をした」
私とフィオの目の前でどかりとスツールに座り、真新しい執事服のまま不服げな顔のラヘルが、フィオの選択によってもたらされる『現実』を明確な言葉にします。
「敵の腹にそれだけの獲物を蓄えさせれば、動きも鈍る。王都から散らばった者たちも近場から順次食われていくだろうが、その間に我々はできるだけ遠くへ逃げさせてもらおう。せいぜい、その命は撒き餌として活用させてもらうしかあるまいよ」
私は、ラヘルの言葉の意味を、どうしても頭が受け付けませんでした。
「え……それは、どういう……」
フィオをちらりと見れば、つらそうに俯いています。
つまり——。
「……王都から逃げ切るだけの移動手段を持つ者はごく限られる。敵が一体のみであれば、まずは王都を閉めて片っ端から人間を食うだろう。あの大蛇のような手下を送り込み、いつでも僕たちを追い詰めることができるとたかを括ることは容易に想像できた」
「ゆえに、だ。囮となってくれた者たちを思うのであれば、我々はさっさと敵の索敵範囲外へ逃げ切らねばならない。違うかね? マイナー」
ラヘルの呼びかけに、フィオは答えません。
フィオは、まさか、私たちのためにも、王都にいた人々を囮とする道を選んだのですか。
私たちが逃げ、その間に王都の人々は大蛇の主人に食べられ、犠牲となるのですか。
騎士団長たるフィオが、その選択をしてしまった理由は、なんですか。
それは、私のせい、ではありませんか。
現実は重く、選択は残酷で、結果は到底受け入れられない。
私は——私のせいで、こんな状況になってしまったのかと、誰かを問い詰めたくてたま離ません。フィオ、ラヘル、誰に問えば答えが返ってくるのでしょう。
いいえ、それは無意味です。
こうなったのは私のせいであることは、どう足掻いても疑いのない事実ですから——。