第一話 豊穣の女神の紋章を背負った子爵令嬢
夜の帳が下りる直前のことです。
長大な城壁の上から望む東の空はもうすっかり暗く、天には無数の星がきらめいていました。対して、西の空は未だ赤みが残り、しかしそれも四半刻と経たず、私の命と同じく失われることでしょう。
夜を前にする処刑は、伝統的な貴種への敬意を払っての作法です。通常、処刑というのは昼間に行い、そのまま蘇らないよう心臓に銀の短剣を指す措置をして一昼夜以上死体を放置するものですが、多くの衆目に死体を晒すことはしのびないという理由で——何とも私ごときが畏れ多いのですが、一応は子爵家令嬢なので妥当だそうです。
申し遅れました。私、アリアーヌ・カロレッタ・ヘリナス=アンナプルナと申します。ヘリナス子爵家の一人娘で、たった今、このセサニア王国を統べる国王陛下のご下命により、処刑されようとしています。現状、私は後ろ手に縄で縛られ、白い綿のシンプルなドレスに裸足というおしゃれからはほど遠い格好なので恥ずかしく思いますが、どうかご寛恕を。
処刑理由は……『あまりにも人間以外にモテすぎるから』です。
いえ、ふざけてはいないのです。ちゃんとそう伝えられましたし、私も自覚しています。……そうですね、訳が分かりませんよね。勤務時間外にもかかわらず働いてらっしゃる兵士や騎士諸兄、処刑人たちの様子を見ていますと、絞首刑の台の準備が終わるまでもう少しかかりそうですから、ご説明しましょう。
まず、私は生まれつき、背中に大きな赤い紋章が刻まれています。私の背後にいる監視役兼誘導役の兵士たちはそれを見て気味悪そうにしていますから、綿のドレスではやはり透けて見えてしまうほど派手なようです。何度か私は鏡を二つ三つ使って見たことがありますが、それほど背中全体に広がる複雑かつ緻密な紋様なのです。それは『豊穣の女神』の紋章と呼ばれ、その紋章を背負って生まれた私は、実家であるヘリナス子爵領では大変ありがたく、めでたいものとして喜ばれていました。
しかし、私が五歳のころのことです。隣国であるルジェータ統一帝国の北部に住むトロル・オークの長アイダナウが同族の屈強な戦士たちを引き連れやってきて、私へ求婚しました。
そう——人間の二、三倍の背丈があるトロルの、もっとも強い方です。青灰色の肌に激しく筋骨隆々の肉体を持つ、暴力の化身ともあだ名されるアイダナウ氏が、人間の言語を用いて礼儀正しく話を持ってきたのです。
「『豊穣の女神』ノ子、アリアーヌ嬢。余ハ、ソナたに結婚を申し込ミたい。トロルとオークの長アイダナウとシテ、我ガ名にかケて一生大切にすルと誓オウ!」
これには誰もが面食らいました。慌てて私を地下のワイン蔵に隠し、応対に当たった私の父であるヘリナス子爵は、何とか恐怖で気絶しないよう踏ん張りつつ、アイダナウ氏にこう言ったそうです。
「遠路はるばるおいでいただき恐縮だが、その、失礼ながら、貴殿は娘と同じ人間ではない……のでは?」
「うム。しカシ、問題ナい。トロルもオークも人間と子ヲ成せル。女神の祝福ヲ受けタ子と婚姻を結ベバ、我が一族の繁栄は約束サれるダロう! 当然、持参金も用意シテあル。こノとおリ」
アイダナウ氏が父に見せたのは、人間の二倍以上の背丈があるトロルやオークたちが担いできた大量の頑丈な鉄箱の中にあるもの、持参金としては破格の山のような金塊だったそうです。あれは全部でヘリナス子爵領の何十年分の収入だったか、と父は思わず目が眩みそうだったと語っていました。
ですが、ヘリナス子爵家の大事な一人娘を異種族、それも野蛮で乱暴と知られるトロルやオークの長に嫁がせることは、さすがにありえません。なので、父はこう言い訳しました。
「アイダナウ殿、我が妻は体が弱く、きっとこの先も娘以外に子どもはできないことでしょう。その大事な愛娘には、我が領のことはさておき自分で見つけてきた愛する人と結ばれてほしい……父親として密かにそのように思っておりますので、ここで娘の将来を決めてしまうことはできかねぬのです」
「なント、そノヨうな事情ガ」
「そうなのです、そうなのです。ですので、このたびはどうか一度帰国なさったのち、未来の娘の意思を尊重してくださればと」
「ウウむ、それナらば……そレガ女神ノご意思とモ取れル」
「もし娘が成長し、そのときにアイダナウ殿を選んだならば、私も反対はしますまい」
「そうカ、でハそうシヨう」
納得したアイダナウ氏は、素直に帰国してくれました。もっとも、私の母はとても健康で今も元気ですし、今まで私はヘリナス子爵領の後継者となるべく教育を受けてきました。
そうやって父はアイダナウ氏の求婚を口八丁で乗り切り、ホッとしたのも束の間のことです。
毎年のように異種族である吸血鬼の王、ドラゴンの各族長、世界各地の怪鳥や妖鳥、各種精霊、ドワーフ、ホーリーエルフ、挙げ句の果てには樹木の王までもが私へと求婚してくるのですから、いちいち応対する父もたまったものではありません。私も攫われないようにと迂闊に外を出歩くことさえできなかったほどです。
それでも、父は私を——本心から愛娘の意思を尊重したいという考えから、それらの求婚をすべて断ってくれました。あるときは嘘も方便とばかりに話を盛り、あるときは国王陛下の勅許状を手に演技し、あるときは毒殺されかけたふりをして遠い土地で外交問題を引き起こしてでも、です。
まさに、父の心労、おして知るべしです。
それだけ、人間以外の種族にとっては信奉する『豊穣の女神』の紋章を持つことが一大事であり、躍起になって己の一族に迎え入れようとする理由らしいのですが、どうにもそれ以外にも理由がありそうな気がする、と父はよくぼやいていました。面目ないことに、それは当事者の私にもよく分かりません。幸いにして、私をめぐっての武力侵攻などはそれまで起こらなかったので、最悪の事態は回避できていたのです。
そして、私が十六歳になる今年、あろうことか事件は起こりました。