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ノアの方舟  作者: 望月真昼
霧隠れ編
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多面チェス その3

すうとメヌエットは深く息を吸い込む。小さな体に血液が十全に回るように、それは血が要の吸血鬼にとってちょびっとだけ機能的な意味を持つ。

この学園に入学するため、村を出た当初はかの少年の3歩後ろを歩むくらいで丁度良いと思っていた。彼より、前に立ち脚光を浴びることは悪手だと考えていた。

「でも、それこそが悪手だった」

彼、ノアは本当に子供で、その心はとても移ろいやすい。確かにそのきらいはあったと感じていたが、想像以上だ。

オズに、フラテル、ピットにアーサー。彼の関心は常に強者へと向かう。最近ではピットが良い例だ。ああも懐かれてはピットも悪い気はしないだろう。

彼らはノアに尊敬を抱かれている。その尊敬こそが不要なものだと考えていたのだが、盗み見したノアとアーサーの会話。あれはいい、ああいう距離感はとても良い。

「私も欲しくなった」

だから、今回はノアからの尊敬を勝ち取るために、本気で行くことにした。

ただのレクリエーションにしてはグロい戦略。目標はノアを4位に沈めること。欲を言うなら、アーサー、ノア並んで下位二位に沈められれば、なお良し。

「首領、もうそろそろ始まります」

「一時間は短いね。e2からe4へ」

一見、よくあるオープニング。一時間で導き出した最善手、その真価は2手目に出る。

「e1からe2へ」




「e2からe4へ」

早指しならこのオープニングだろうと繰り出した一手、というか、これじゃないと打てない。d4もある程度打ち込んでいるが、早指しの混戦、激しい展開で相手を押し切ることで腕は誤魔化す。状況によってルイ・ロペスなどの定番を繰り出し、頭ではなく、手癖で詰める。

相手の火組、つまりピットの返しを待つ。

「意味不明だ」

初手で意味不明とまで言い切れる手はそうない。打ってこないのだ。

いや、そういう戦略か? 打たずに時間経過で試合が終了するのなら、144万円は確実に手に入る。面白い戦略だが、実利はない愚策の類のはず。

「早指しだぞ?」

己率いる水組の生徒がわらわらと己の盤上によって見入る。一分経過しても打ってこない。設備不良を疑う声、ざわざわと波紋は広がる。

一手目から1分43秒ようやっと彼の一手目が繰り出された。

「d6」

そこからはそんなに時間はかからなかった。

「あからさまに守ってきたな」

続く手はこちらの手に対する守りの意図が見て取れる。一手目の長考、これは勝敗を喫するための時間は必要なという宣言か。

「どうやら、駒取り合戦を所望みたいだね」

隣でメヌの金組を相手にしているリタが盤上を覗き込んで言った。

「無理に攻めてきた駒を取るつもりなんだろうか」

勝つ気が無いのなら、それは歓迎すべきことなのだが。

「こんな子供の遊びには興味ない?」

彼とは本気で戦いたかったのだが、残念だ。

「それより、こっちの盤面を見て」

言われて、盤上を見やると、別になんの変哲もないように思える。

初手はおそらくc4、そこから繰り出される柔軟な一手一手は彼女のチェスのスキルが高いことを示していて、実際傍目からは圧しているように見える。

「上手いな。なんで最初に手上げなかった?」

「敵に塩を送ることはしない主義なので」

「気づいていたか」

「当然」

この少女はやはり頭がキレる。己と彼女らで勝利条件が異なる見えない敵というのをよく理解できている。

「本当は手伝うつもりも無かったんだけど、ルナレスには借りがあるからね」

己はピットに矢印を、リタはメヌに矢印を向けていることで、王族でチェスの教育ぐらいは受けているだろう最難関の敵をミスターに丸投げしてしまっている。

「気づかない?」

「分からん」

額に冷や汗を浮かべるリタを、圧されているのなら分かろうものだが、客観的に見て圧しているのはこちらだと判断できる。

「まあ、横目で見ていてよ。多分、グロいことになってる」

一手、二手……、五の七。

「グロい、グロい! やられてる!」

己の言葉の意味にどれだけの生徒が真意を理解しているだろうか。わらわらと集まった生徒の8割ほどが理解できていないきょとんとした表情をしているが、のこりの2割は己と同じように顔を引き攣らせている。

「バレてる! ジョーカーが!」

盤上全体の攻防という意味でなら、こちらが優勢。しかし、相手は明確に右に寄せている。もっと言うなら、ルークを狙っている。キングを守るならともかく、ルークをずっと守ってはいられない。このゲーム、キングが二枚いるような構成だ。配置したもう一つのキングは見破られないのが、前提。守りのほんの僅かな偏りを見極めて、ジョーカーを潰しに来るというゲーム。でも、この序盤でこれは。

「これ、いるよ」

「ああ、いるな」

内通者がいる。

「でも、なんでだ?」

内通者がいる。これは確定だろう。この一時間少し、トイレ等で教室を出ることを制限はしていなかった。誰にでも内通者の可能性がある。

しかし、内通者が出るようなゲーム性では無かったはずだ。これは生徒同士の仲を深めるためのレクリエーション大会。スパイなどして、後にバレれば、長い学園生活に深い傷がつく。

いくらで買われた? 20万そこそこでスパイなんぞしてられない。

最大、最大限を見積もって一人一万の50万程度、いや、それもこのクラスだけじゃなく、ピットらにも施している可能性を考えても一クラス50万は現実的じゃない。というか、50万も支払っていたら、仮にすべて優勝できたとしても50万すべてをペイすることは出来ないだろう。そんな買収、クラスメイトが同意するわけがない。今になって考えても、裏切り者が出るゲームフローには思えない。金じゃあないのか?

「僕もリタにつく! 突然で悪いが、僕の方、マイト頼んだ!」

「ええっ、うん、任された!」

マイトというのはクラスメイト、リタの盤上を見て、己と同じように、引き攣った顔をしていた。そこそこの腕前はあるだろう。引き受けてくれて助かった。

「どうするんだ?」

横目に伺っていたミスターが問いかける。他のクラスメイトもこの難局を前にして、己がどう向き合うのかを値踏んでいる。

「最初に宣言しておく。内通者探しはしない。そんな時間もないし、ゲームが終わってからもするつもりはない。これは全て頭である僕の責任だ」

内通者を出す方が悪い。

「ここから挽回するぞ!」

「2手目でe1からe2?」

これはノアの一手目が打たれてから、ピットが次の手を返すまでの2分弱の出来事。

「珍しい手だね。キングが動くか」

いんや?

指示する手が止まる。この早打ち、一分一秒と無駄に出来ないが、思考する価値がこの一手にはある。

「そういうことか! 面白いなあ。考え付かなかったよ。優勝を目指してるとさ」

「どうしたんだ? そんなに面白い手か?」

クラスメイトが怪訝そうにピットを見つめる。

「次もまたキングは前進してくるよ」

「本当だ」

次もまた、前進、その次も。

「首を差し出すか。いいよ、受け取ってあげる」

クイーンで相手のキングを取ってあい、終わり。

「今日はボクの番じゃないみたい」

ノアはピットがこんな児戯に興味はないかもしれないと予想したが、そんなことは全くない。彼はこういうお遊びが大好きで、いつだって本気で挑む。でも、そこで輝くのが自分である必要はないと感じている。主役がいれば脇役もいる。脇役がいるからこそ、主役は輝くし、その相互関係はいつだって可変的だ。

今回は自らの首をピットに差し出すことで、一つの試合を強引に終わらし、時間制限を実質無いものにする。言外の同盟を申し込んできた。

それは、全勝、優勝を目標とするノア達には有用ではあるが、選べない選択肢。

目的はノアを下位に沈めることだろう。勝利を手土産にノアに自己の有用性を認めさせる。


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