逆光の弊害
そうやって、七年が経過した。
彰はやっと12歳になっており、あれだけ案じた大学にも、ギフテッドであるという事実からギフテッド枠というのを設けてもらえることになり、試験を受けることができて無事に入学していた。
それと言うのも、彰が一年の間、毎日大学へと通い、様々な研究室で、それは流暢な英語を使って、皆と研究について議論を戦わせたりしていたので、それを見ていた教授達や生徒達から、是非自分の研究室に来て欲しいとの声が多数上がり、大学側も考慮するしかなかった結果だった。
なので、彰はしばらくは細胞学の研究室に入り、その後は細菌学を学び、要が持ち帰った細菌のような性質を持つものを探して大学に残っていた。
紫貴との文通は続いており、あちらは高校生になっていた。
どうやら前の生と違うのは、高校が公立高校ではなくなっていた事だ。
紫貴は、10歳の時から彰と文通を続けて、英語力が半端なく上がって、電話で時々会話を学んだりしていた結果、英語を難なく話せるようになっていたのだ。
なので、英語力で特待生になり、私立の女子高に入学していた。
それを始めに聞いた時には、彰はとても喜んだ。
高校に受かったからだと紫貴は思っていたが、彰が喜んだのは女子高だったからだ。
そんなわけで紫貴には変な虫が付くこともなく、平和に毎日過ごしていた。
とはいえ、もう今年は紫貴は高校卒業だ。
やはり紫貴は就職を選んだのだと言っていた。
なぜなら、紫貴は何も言わないが、父親の小さな会社がここのところあまり芳しくなく、負担を掛けてはと思ったからのようだった。
「…紫貴は英語ができるようになった。」彰は言った。「恐らく、前の人生とは違ってどこかに必ず受かるはず。そろそろ帰らねばならないな。私も段々やることがなくなって来たところだったし、お祖父様の事もそろそろ心配だ。戻る事にする。」
間下は、頷いた。
「はい。では、今年の7月にはここを引き払われるということで。」
彰は、頷く。
「そうしよう。キリがいいしな。9月には紫貴は18になるし、紫貴の就職先が決まる前に会って話さねば。もう充分だろう…次に戻る時には紫貴を連れて来る。」
そんなに簡単に行くのだろうか。
間下は思ったが、そう彰が決めたのだから仕方がない。
間下は、やっと日本に帰れるなと、帰国の準備を始めたのだった。
惜しまれながら大学を後にした彰は、やっと日本に戻って来た。
健一朗の癌は、つい三ヶ月前の定期検診の際にステージⅡで見つかった。
本来、ステージIVの末期で見付かったらしいので、今回は順調に治療できている。
特に目立った倦怠感なども全くなく、普段なら絶対に気付かなかったと祖父は言っていた。
空港へと降り立つと、高校生ぐらいの女性が駆け寄って来た。
彰が思わず構えると、相手は微笑んで言った。
「彰さん!」
彰は、紫貴だ、とパアッと明るい顔をした。
「紫貴!」
もう、ほとんど紫貴だ。
彰は、思わず自分より背の高い紫貴を抱き締めた。
「迎えに来てくれたのか。」
紫貴は最初驚いた顔をしたが、思えば外国から帰ったんだからと彰を抱き締め返した。
「はい。フフ、大きくなりましたね。」
彰は、紫貴を離して顔をしかめた。
「まだ君の方が大きいな。だが、すぐに追い抜く。後数年だ。」
紫貴は、頷いた。
「そうですね。まだ12歳なんでしょう?とてもそうは見えないわ…近所の小学生とか中学生は、みんなまだ走り回っていて。」
彰は、苦笑した。
「一緒にしないでくれ。私は大学を出て来たのだぞ?」
紫貴は、顔を引き締めた。
「そうでした。ごめんなさい。」
間下が、言った。
「彰様、旦那様のお使いが参っております。車へご案内致しましょう。」
紫貴は、え、と慌てて彰から離れた。
「あら、お迎えが?私、一人で帰って来るのかと勝手に思ってしまって。そうか、まだ12歳なのに、おうちの方が来ますよね。」
彰は、急いでその手を掴んだ。
「いい、一緒に帰ろう。家まで送る。」
紫貴は、首を振った。
「いえ、大丈夫です。バスで帰りますから。お顔を見たし、また電話します。」
しかし彰は譲らなかった。
「いいと言うのに。」と、間下を見た。「紫貴も一緒に帰る。そうだ、せっかくだから一緒に家で食事でもどうか?祖父に紹介しよう。」
紫貴は、恐縮して言った。
「いえ、それはまたの機会に。それなら、最寄り駅まで送ってください。そこから帰りますから。」
彰は、残念そうにしたが、思えばもう日本に居るのだからいくらでも会える。
なので、無理強いしなかった。
「では、帰ろう。」
そうして、結局紫貴を家まで送り届けて、やっと祖父の屋敷へと帰った。
彰は、車の中で紫貴にある提案をしていた。
それは、自分の身の回りの世話をする人を、探しているということだった。
祖父の屋敷のメイド達は、皆住み込みで働いているので、きちんとシフトが組まれているのだが、自分が戻ると皆、仕事が多くなって休みが減ってしまう。
なので、自分のことをよく知っている紫貴に頼みたいのだと。
給料はメイド達と同じで、三食の食事と部屋はタダだ。
ちなみに住み込みのメイド達の給料は、初任給でもかなり良かった。
彰の世話をしようと思うと、海外からも電話が来るだろうし、その対応もしなければならない。
英語ができる紫貴は、なので適任なのだと言うのだ。
それを聞いた紫貴は、少し考えるような顔をした。
これから、就職先を探そうと、求人票を見ているだろうから、彰の申し出はかなり良い待遇なのだと分かるだろう。
間下は、物は言いようだと思いながら、そんなことを数年前から考えていたのかと感心した。
19になってアメリカへ戻る時に連れて帰るのも、世話係なら問題ない。
適齢期に近付いて来た、紫貴を手元で監視するつもりなのだろう。
紫貴は、考えておきます、とだけ答えて、車を降りて行ったのだった。
彰の数年に及ぶ計画は、そういう事だったのかと間下はただただ感心した。
健一朗の屋敷へと戻った彰は、まるで病院の如く機器が集められた屋敷の一室で健一朗を診察した。
健一朗は、彰がここを飛び立つ時に言っていた、機器を揃えてラボを作りたいという言葉から、その直後に医療機器のメーカーを買収し、資金を投入して彰から言われるままに開発を進めて来たので、ここには現在の最新機器が揃っている。
現場のニーズに合わせた改良が繰り返されるので、シェアもナンバーワンのメーカーにのし上がっていた。
それでも、彰は不満なようだった。
「…まだ荒い。」と、側の機械をポンと叩いた。「もっと最密に表示されないと…せめて小数点以下三桁は欲しいな。」
健一朗が、苦笑した。
「センサーの開発が先になっていてな。まだ少し掛かる。」
彰は、ため息をついた。
「…ま、AIがない時代では仕方がないか。」AIとは何だろうと皆が不思議な顔をしたが、彰は首を振った。「専門の者に任せよう。彼らは天才なのだ。私とは別の意味でな。ところでお祖父様、今のところ再発はないようですね。大事をとって手術して正解だったでしょう。」
健一朗は、頷いて診察台から起き上がった。
「そうだな。私は抗がん剤にはどうも抵抗があるので、その方が良かった。念のためと1度投与されたが、あんなに気分が悪くなるのは初めてだ。もうやりたくないものだよ。」
彰は、真顔で言った。
「それでも、シキアオイが間に合わない時は再発したら必ずそれを使ってもらいますよ。あれは…AIを駆使した機器で慎重に作り上げねば、できない代物なのですよ。今なら私の勘頼みになります。時間が掛かる。」
健一朗は、頷いた。
「仕方がない。お前は大層な金と手間を使って何かもって帰って来たと聞いているのに、それでもダメなのか。」
彰は、ため息をついた。
「あれは、必要な細菌です。だから手続きに時間が掛かりました。思えば以前は研究所へ移送したのでこんなに難しくなかったのに。今回も、医療機器メーカーの開発のためでやっと申請が通りましたしね。」
健一朗は、彰を軽く睨んだ。
「大変だったのだぞ?わざわざ隔離室を作って大層な装備で運び込んで。まさか危険なものなのかと皆警戒したぐらいだ。私は君を知っているので、心配はしていなかったがね。」
彰は、頷いた。
「…あの中の一つでも、当たりであればいいのだが…。」
健一朗は、首を傾げた。
「…違うかもしれないのか?」
彰は、頷く。
「元は私の部下が持ち帰って、何度も培養し直して変異した一つがそれだったのです。私が見つけたわけではない。今から22年後…要という部下が発見する予定でした。自殺細胞を持つ細菌でした。その中でも、扱い易いものだった。私はそれを使って、シキアオイを完成に近付けました。その処理が、できる機器もまだ、無い…。」
彰は、遠い道のりだと思った。
やはり歴史に逆らうのは無理なのだろうか。
まだパソコンすら一般的でない今、道のりは遠い。
健一朗は、考え込む彰の肩に、ポンと手を置いた。
「…焦る必要はない。」彰は、健一郎を見る。健一郎は続けた。「私は、癌を早期発見した。お前も傍に居る。本当なら、お前が14の時に、空港で見送ってそのまま会えなかったのだろう?私は生きているし、恐らく来年も生きているだろう。それだけでも、私を救っているのだ。焦ると、余計に遠ざかる。ゆっくりやればいい。」
彰は、健一郎を見つめた。
「ですが…結局、私は既存の先人たちが残した薬にあなたを託すしか今はないのです。何があっても、再発を何度しても苦しめずに助けられる未来が欲しい。私はその未来を一度は掴んでいるのに。歯がゆくて仕方がないのですよ。」
健一郎は、彰の頭をポンポンと叩いた。
「ああは言ったが、私だって死にたくない。それは苦しまずに治るのなら良いが、そうでないなら仕方がない。心配しなくても、きちんと治療は受ける。君は確実に一歩一歩進むのだ。焦っても良い事は無いのは、分かっているだろう?」
彰は、ため息をつきながら頷く。
祖父の言う通り、焦ったら真逆の効果を出してしまうかもしれないのだ。
彰は、とにかくまずは、まだ全く手が付けられていない、細胞を自由に動かすための薬を作り出すために、祖父が作り上げてくれていた、自分専用のラボに籠って開発に没頭したのだった。
そんな毎日を過ごしている時、紫貴が一度、職場を見せて欲しいと電話で知らせて来た。
いよいよ就職活動も佳境に入って来て、回りがどんどんと決めて行く中、紫貴はまだ迷っていたのだ。
紫貴の能力では関東へと行かなければならない仕事が多かったらしく、できたら慣れ親しんだ関西を離れたくない、という紫貴の意向に、彰の提案が一番良い条件で合致しているらしかった。
同じ実家を出るにしても、関西なら気軽に里帰りもできる。
紫貴は、なので彰から聞いた時にはそれほどでもなかったのに、今では前向きに考えているようだった。
彰は、そんな紫貴を屋敷へと迎える事にして、祖父にも事前に話しておいた。
祖父は、前世この彰がそれほどに愛した女とはどんなものだろうと、興味もあったのか、その日は食事を共にしようと言い出して、忙しいはずのスケジュールを無理に空けてその日に備えていた。
もちろん紫貴は、そんな大層な事になっているとは思っていなくて、ただ就活の一環なのできちんと制服を着て、最寄り駅までやって来た。
本当は家まで迎えに行くと彰は言ったのだが、こちらから頼んだことだからと紫貴が断って来て、そういう事になったのだ。
そこからバスでまた20分ほどかかるので、そこには迎えに行かせてくれと言い、そうして紫貴を駅のロータリーで拾って、屋敷まで連れて帰ることになった。
あまりに前のめりだとあちらが退くと間下にアドバイスされて、彰は迎えに行った間下を待って、じっと屋敷の入り口でソワソワしながら立って待っていた。
そんな彰の様子に健一郎は笑っていたが、優子から、あなたも同じようだったわよ、と言われて笑うのをやめた。
そこへ、間下の運転する車が、予定通りに車寄せに入って来た。
彰は、それを見て急いで健一郎を振り返った。
「お祖父様、そんな見える場所に居ないでください!紫貴が気を遣ってしまうでしょう。見るなら扉の隙間からにしてください!」
え、と健一郎は驚いた顔をしたが、優子が確かに、と急いで健一郎の袖を引っ張った。
「そうですわ。確かに健一郎さんは黙っていても威圧感が。こちらへ入ってくださいませ。」
健一郎は、二人から言われて渋々見えないようにと脇の使用人部屋の一つに入って、少しだけ隙間を開けて、待っていた。
すると、間下が若い制服姿の女性を車から降ろして、大きく開かれた玄関扉から案内して来た。
彰が、進み出て言った。
「紫貴。よく来てくれた。」
紫貴は、大きな屋敷に戸惑いながら、頷いた。
「はい、彰さん。というか、こんなに大きなお屋敷だとは思っていなくて。あの、履歴書の事を何も仰っていなかったので、一応持って来たのですけれど。」
彰は、首を振った。
「いや、私が直接雇用するから、そんなものは要らない。君の事はよく知っているから。」
確かに子供の頃から文通して来たが、本当にそれでいいのだろうか。
紫貴は思ったが、彰は踵を返した。
「こちらへ。屋敷の中を案内してから、私の部屋を教える。そこの脇に私が今研究に使っている部屋があるのだが、そこが執務室も兼ねていてね。君の机も置いてあるから、そこで電話を取ったり、書類をまとめたりと仕事をしてもらう事になるのだ。後は、私の世話といって、私はもう自分で大概の事は出来るので、服を揃えてもらったり、スケジュールは…間下が管理しているのでそこまでしなくてもいいし、茶を淹れてもらったりという感じか。」
紫貴は、頷いた。
「秘書のようなお仕事でしょうか。それで、こちらのメイドさん達を同じようなお仕事はしなくてもいいのでしょうか。」
彰は、首を振った。
「それは要らない。あれは祖父が雇っている者達で、君は私が雇っている者になるから。私がやって欲しいことをしてもらうだけだ。」
紫貴には、その違いが分からないようだった。
彰に、収入があると思っていないからだ。
彰は、後で説明する、と言ってまずは、屋敷の中を案内して回ることにしたのだった。
健一郎は、そんな彰を見送ってから、呟くように言った。
「…優子に似ていないか?」
優子は、苦笑した。
「どうですかしら。可愛らしいお嬢さんでしたけど、確かに今は、大人と子供に見えてしまいますわね。あちらは、恐らく全く彰の気持ちに気付いていないと思いますけど。」
健一郎は、頷いた。
「それはそうだろう。今ならあの子の方が罪に問われてしまう。とはいえ、二人共成人してしまえば問題ないのだが…最悪彰が18、あの子が23でもいいか。」
優子は、顔をしかめた。
「まあ。いくら何でも紫貴さんがどう思うかぐらい、考えて差し上げてくれないと。勝手に決めてしまってはいけませんわ。彰が紫貴さんを好きなのは分かりましたけれど、今は駄目です。心配ですこと。」
健一郎は、バツが悪そうに言った。
「そんなつもりはないのだ。ただ、あの彰を嫌う子など居ないと思って。」
優子は、フフと笑った。
「確かに彰はとても良い子ですけど、では私が紫貴さんのお世話を。気にかけておきますわ。後で紹介してくださいませ。でないと、彰とあなたでは強く出て逃げ出してしまうかもしれないから。とても心配ですの。」
健一郎は、優子には逆らないと、頷いた。
「ではそのように。どうせ食事は一緒にしようと言ってあるし、後で顔を合わせるだろう。」
優子は、頷いた。
「はい。では、準備をしないと。少し気軽な様子に見える服装に換えて来ましょうね。スーツでは威厳がおありになるから…きっと、紫貴さんは緊張してしまって、食事の味も分からないのではと案じられますから。」
健一郎は、観念して頷いた。
「分かった。」
仕事から帰ったばかりだったし、スーツ姿なのは仕方がない。
健一郎はそう言いたかったが、優子にせっつかれて部屋へと着替えに上がって行ったのだった。