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彰は、しっかりと紫貴の手を握っていた。

傍には新が付き添い、彰は霞む目でバイタルサインを見ながら、隣りに横たわる、紫貴の顔を必死に覗き込んだ。

「紫貴…。」

紫貴は、その声にハッとしたように薄く目を開き、確かに彰を見た。

「おお、意識が戻ったか。」

彰が言うと、紫貴は薄っすら微笑んだ。

「まあ…そちらに、居てくださったのですね…。」

彰は、頷いた。

「君に約束した。」と、震える手で頬に触れた。「痛みはないか。」

紫貴は、フフと小さく声を上げた。

「全く。とても快適ですわ…まるで、雲の上に居るみたい…ただ、声が、出しづらいので…。」

彰は、握っていた紫貴の手に唇を寄せた。

「いいのだ。最後に、話せるだけで…。」

彰は、声を詰まらせる。

新は、険しい顔でそれをじっと見つめていた。

紫貴は、彰を見ようと一生懸命目を開いて、言った。

「…ありがとうございます。幸せですわ。愛してますわ…ずっと。これからも。」

バイタルサインが乱れている。

彰は、必死に言った。

「私もだ。私も愛している…これからもずっと。君を探す。あちらへ行っても。すぐ、後を追うから。待っていてくれ。」

紫貴は、フッと力を抜くと、頷いた。

「はい。はい…。新…ありがとう…。どうか、彰さんを…。」

紫貴の呼吸が、フッと途切れた。

「紫貴!」

彰は、身を乗り出した。

彰自身も、立ち上がることもできないほど衰弱している状態だったが、最後の力を振り絞って紫貴の肩に手を回した。

「紫貴…!」

計器の波形が、無くなった。

紫貴は、彰が紫貴を抱きしめた瞬間に息を引き取り、姿は若いままでありながら、老衰、と診断されて亡くなった。

彰は、紫貴を腕に抱きしめたまま、がっくりとベッドの上に沈んだ。

「お父さん!」新が、急いで彰を仰向けにさせた。「お父さんも、同じ状態なのですから!」

彰は、小さく息を上げながら、紫貴を抱きしめたまま言った。

「いい。このまま。私も、もう逝く。さっきから、実は何度か意識が飛びそうになっていた。紫貴が逝くまではと、気力だけでここまで来た。お前も、言っていたではないか。本来、私の方が先だったと。」

新は、唇を噛みしめた。

そう、見た目は若いが、もう二人の細胞には限界が来ていて、これ以上は心拍も、呼吸も維持することができなくなっていた。

紫貴は、それなりに薬品に素直な細胞のお蔭で新の研究成果が如実に表れて幾分マシだったのだが、彰の方はそこまで効果が出ていなかった。

なので、本来彰の方が、もう細胞がボロボロで、実は呼吸をするのすら、難しい状態のはずだったのだ。

それを、紫貴が生きているのだからと、必死に踏ん張ってここまで来た。

紫貴が逝った今、彰にはもう、その気力が残っていなかった。

「お父さん…。」

どこまで頑固な人なのだろう。

新は、思いながら彰を見た。

ここまで、気力だけで生きることなどできるだろうか。

きっと、自分にはできなかった。

もう、水に溺れているのではないかというほど、苦しいはずだったのだ。

彰は、ホッと長い息をつくと、紫貴に頬を摺り寄せて、嬉し気に言った。

「ああ…良かった。約束を、果たしたぞ。そして、君に、いくらも遅れず、逝ける。新、よくやってくれた。私は…もう、逝く。私は、幸福だ…。では…」

彰は、目を閉じた。

自分の呼吸が、フッと楽になるのを感じる。

それは、呼吸が問題ないというのではなく、呼吸が止まって、それを苦しく感じなくなった、という方が正しいのかもしれない。

「お父さん!」

新の声がする。が、遠くにあるようだ。

…そうか、これで終わりか。

彰は、思った。

…紫貴に、早く会いたい。

そのまま、彰はスーッと意識が無くなって、何も分からなくなったのだった。


彰は、ハッと目を開いた。

…ここはどこだ。

回りを見ると、どこか懐かしいような、書棚がたくさん乱立している部屋で、積み上げられた本を前に座り込んでいた。

…ここは、幼い頃によく籠っていた屋敷の書庫。

彰は、怪訝に思った。

死んで、この場所に来たいと願ったとは思えない。

何しろ、ここに居た時は父親に疎まれて、母親は父親の言いなりで、いつもたった一人で本を友として過ごしていた時期だ。

…紫貴はどこだろう。

彰は、キョロキョロと見回す。

もしかしたら、紫貴がここを見たいと思ったからここへ来ているのかもしれない。

そう思って立ち上がって、ハッとした。

どうしたことか、視線がとんでもなく低い。

え…?

彰は、自分の手を見た。

それは、信じられないほど小さかった。

「まさか…、」

彰は、急いで書庫を飛び出すと、廊下に立て掛けてある、大きな姿見の鏡を探した。

そこは、もうあるはずのない屋敷であり、すれ違う召使達は、皆遠い記憶で見覚えのある顔ばかりだった。

「彰様?どうなさいましたか?」

侍女の一人が何か言っていたが、彰は構わず駆けて行って、自分の姿を見た。

「!!」

彰は、その姿に驚愕した。

どう見ても、自分はあの4歳か5歳の時の、子供の姿だったのだ。

…どういうことだ。

彰は、自分の姿をまじまじと見た。

死んで、地獄へでも来たのだろうか。

それで、自分は紫貴にも会えないこんな時間に飛ばされて、未来永劫この中に囚われるとでも言うのだろうか。

しかし、鏡を前に固まっている、彰の後ろに、若い男が立った。

「彰様?どうかなさいましたか。」

彰は、顔を上げた。

この声…。

「間下?!」

間下は、びっくりした顔をした。

「え、え、彰様?!その、お言葉が、出ていらっしゃる?!」

彰は、そうか、まだ5歳か、と思って頷いた。

「分かっている。私は話せないわけではないのだ。間下、お祖父様に会いたい。連れて行って欲しい。」

間下は、びっくりし過ぎて目を丸くしていたが、彰を抱き上げると、サッと歩き出して、脇の空き部屋へと入り、言った。

「…彰様。なぜ、ご主人様の事を私に?」

彰は、頷いた。

「信じてくれるか分からないが、私は一度この状態を経験していて。」間下が目を丸くしていると、彰は続けた。「おかしなことを言っているのは分かっている。だが、私は全て知っているのだ。君が、お祖父様の指示でこちらへ来ている事も、私を見守っていることも。私は、天寿と言っていいのか分からないが、長く生きて、死んだ。気が付いたら今だった。またこんな所に戻って来てしまって、ハッキリ言って迷惑していて。この頃が一番地獄だったからな。君が地獄の番人でないのなら、私をお祖父様の所へ連れて行って欲しい。調べたいこともあるし…私の妻が、今いったいどこに居るのかと。」

間下は、すぐには信じられないことだったが、たった5歳の子供が言うことではなかったので、彰を床へと降ろすと、言った。

「彰様、とりあえず今はそれを信じましょう。ですが、すぐにはお連れできません。何しろ、彰様が居られなくなれば、皆大騒ぎで探し始めるでしょう。御主人様が人攫いだと言われてしまう可能性があるのです。」

彰は、少し考える顔をしてから、言った。

「…ならば虐待を受けていたと。」と、体のあちこちを調べた。「どこかにあるはずだ。あの父は機嫌が悪いと私を小突いたりすることが多かったからな。」と、太ももの所に青あざを見つけた。「あった!ほら見ろ、あいつはしょっちゅう私をこんな目に合わせていたのだ。私が逃げたのだと言え。行く場所は、祖父の所しかない。それとも、勝手に警察へ行くか…いや、もみ消そうとするだろうな。」

間下は、それを見て険しい顔をした。

「…まさか、常習ですか?」

彰は、頷く。

「そうだな。この頃はしょっちゅうだったな。何しろ、会社の方も祖父が手を回しているから、段々に業績が悪くなっているだろうが。そのせいで私はとばっちりを受けていたのだ。後から見たら分かるが、実際この頃には知らなかった。」

彰は、思っていた。

そうだ、だからあいつはいつも、この頃機嫌が悪かったのだ。

それで、従業員もどんどんと離れて行ったのだ。

「…わかりました。」間下は、言った。「行きましょう。多勢峰家の、ご主人様の所へ。ですが、先ほども申し上げたように、大騒ぎになりますから。あちらからお迎えに来て頂きます。正式にあちらへ向かった方が、絶対に彰様にとっても有利ですから。」

彰は、頷く。

「どうしたらいい?なんなら、今夜父を突っついて痣を増やしておくか?」

その方が信憑性も上がるだろうし。

だが、間下は大慌てでブンブンと首を振った。

「駄目です!彰様のお言葉を信じない方が難しいご様子ですが、今は小さなお子様の体なのですから。何か、とんでもない後遺症でも残ったらどうするのですか。とにかく、お待ちを。すぐに手配を致します。それまで、おとなしくなさってください。それ以上傷が増えないように。」

彰は、頷きながらあちこち見た。

「他にないか?何しろ、さっき我に返って、ここでの最近の事がはっきり思い出せないのだ。」と、ハッとしたように間下を見た。「そうだ間下、関西に行くのなら尾上紫貴という、今は10歳の女性を探して様子を調べて欲しい。私の妻なのだ。もしかしたら、妻も我に返って戸惑っているかもしれない。彼女も同じ時に亡くなって…とにかく、私の妻の様子だけでも知りたいのだ。」

間下は、頷いた。

「はい。ですがそれは後で。とにかくは、彰様がこちらから脱出なさるのが先ですから。そのように頻繁に、妻妻と仰らないでくださいね。私は、彰様を信じますが、他はおかしくなったのかと思うかもしれません。何しろ、まだ5歳でいらっしゃるのです。とにかく、落ち着いてください。」

彰は、仕方なく頷いた。

5歳だと言われたら、その通りだったからだ。

確かに今自分が言っていることは、5歳には見えないだろう。

ここが地獄でないのなら、私はあの頃のように物を知らない子供ではない。

一度生きた長い記憶が、今自分の頭の中にある。

…お祖父様を、助けて差し上げられるかもしれない。

彰は、気付いたその可能性に、急がねばと気持ちを新たにして、このわけの分からない現状を、良くしていくことを考えた。

そして、紫貴を探さねばならないのだ。


彰は、口が利けないと罵倒してくる父の聡につらつらと言い返し、皆に衝撃を与えた。

母の杏美はやはり、どこまでも父に従属していて、彰が聡に突き飛ばされてもおろおろするだけだ。

こうして見ると、自分の母は祖父と似た顔立ちでありながら、弱々しい意思の無い顔立ちをしていた。

…私は母に似ていたのか。

彰は、若い母親の顔を改めて見てそう、思っていた。

つまりは、祖父に母は似ていて、彰は祖父にそっくりに成長していたのだ。

こんな母でも、何かにすがらねば生きて行けない弱い女だった。

これから数十年後に起こることを知っている彰は、母にも一度、話しておかねばと思った。

選択肢を与えてやらねば、何もできない女なのは知っていたからだ。

もう、腹には樹が宿っていて、臨月だ。

この三日にでも、生まれるはずだった。

自分がここを出たら、兄を知らずに育つ樹のためにも、彰は母と二人きりの部屋で、言った。

「…お母さん。」母は、まだ彰が話すのに慣れないのか戸惑う顔をしたが、こちらを向いた。彰は続けた。「お父さんは、これから大変なことになります。会社の業績が悪くなりつつあるのです。ここ最近の、機嫌の悪さはそのためです。と言っても、今のところ生活に影響がないのでお母さんにはピンと来ないかもしれませんが…このまま、お父さんと一緒に居ても良いことにはならない。結婚の際のご事情は知っておりますが、お祖父様に頭を下げて、お戻りになった方がいい。お祖父様は、お父さんより一枚も二枚も上手なのですよ。勝手にこちらへお母さんを連れて来た、お父さんをそのままにしておくと思いますか。私はそうは思わない。お母さんのことなら、お祖父様は許してくださいます。弟が生まれる前に…は無理かもしれませんが、生まれたらすぐにお祖父様に連絡を。あの男と共に、苦しむ道を歩みますか。」

母は、驚いた顔をした。

「…お腹の子が弟だとなぜ知っているの?」

彰は、ため息をついた。

重要なのは、そこではないのに。

「…知っています。お父さんはその子に、樹と名付けるでしょう。もし私が言っていることが間違いではないと分かったら、樹を連れてお祖父様の所へ行くと約束してくださいますか?」

母は、戸惑う顔をしていた。

何しろ、あの祖父の娘なのに姿以外は全く似ていないのだ。

理解が追い付いていないのだろう。

「…お母さん。あなたは何事も流されるままだ。私があからさまな虐待を受けていても、あなたは見ているだけ。言葉で止めて聞くような男ではないのをもう、知っているでしょう。私はまた子供だが、すぐに力を付けます。あの男など踏みつけるでしょう。その時、どうするのですか。私に媚びるおつもりですか。私は、私や弟がただ苦しめられるのを傍観しているだけの女を母とは見ない。よく考えられるが良い。これは私からの、最後の忠告です。選ぶのはあなただ。父と堕ちて行くのも、またあなたの選択でしょうしね。よく覚えておかれると良い。後で助けを求めても、私はそれがあなたの選択であるので決して助ける事はありません。」

母の杏美は、涙を流した。

たった五歳の息子から、辛辣に言われてショックだったらしい。

母はその場を飛び出して行き、彰はまた、ため息をついた。

…これで、それでも父から離れられないのならそれもあの人の運命だ。

彰は、暗くなった窓の外を見つめた。

紫貴なら、こんな事はなかった。紫貴…早く会いたい。

彰は、死ぬ間際ですらこれからもずっと愛していると言ってくれた、紫貴が恋しくて仕方がなかった。

だが、本当に会えるのかもまだ、分からない。

会えたとしてもその紫貴が、彰のことを覚えているのかも分からないのだ。

彰は、切なくて胸を押さえて、そのまま眠りについたのだった。


それから、間下が彰に付きっきりになった。

聞いたところによると、祖父はすぐに手続きをすると言って、今対応に駆けずり回っているらしい。

間下にソッと連れて行かれた病院で、彰は自分の体に結構な痣があるのを知った。

痛みはあったがそれほどでもないので気にしていなかったが、思った以上に自分は過酷な環境に居たようだった。

医師から診断書を出されて、そこから間下は二度と同じ事がないようにと、彰に24時間張り付いて離れなかったのだ。

父がイライラして彰に当たり散らすこともあったが、間下が盾になって彰に傷は付かなかった。

そんな中で生まれた弟に、思った通り父は樹と名付けた。

母はそれを聞いて卒倒しそうな顔をしていたが、同じように名前を聞いていた間下は、もはや驚くこともなかった。

そもそもが彰の話を聞いていると、一度死んで戻ったという話を、信じない方が無理なのだ。

たった五歳児が、知るよしもないことばかりがポンポン口から出て来るので、間下はもはや、疑っていなかった。


そんな日々の中で、何とかやり過ごしていると、急に玄関辺りが騒がしくなった。

何事かと急いで玄関へと向かうと、そこには誰かを連れた、まごうことなき祖父自身が、立っていた。

…お祖父様!

彰は、心の中で叫んだ。

記憶より若くすらりとした立ち姿は、どう見ても中年期の自分に瓜二つだった。

…自分は、こんなに祖父に似ていたのだ。

その時、彰は父の気持ちを少し理解した。

散々に自分を馬鹿にした男にそっくりの息子が、常に側に居たら、それは腹も立つだろうと。

「健一朗様!」

間下が、言って祖父に駆け寄る。

祖父は、言った。

「彰を連れに来た。」と、背後に立つ背広姿の男を見た。「私の弁護士の一人の、堤下(つつみした)だ。今回の件は全てこれに任せている。彰、こちらへ来い。」

彰は、頷いて歩き出した。

が、その腕を、誰かが乱暴に掴んだ。

「何を言っている!突然押し掛けて来て、息子を連れて行くなど許さん!」

それは、父の聡だった。

乱暴に掴まれたので、彰が思わず顔をしかめると、祖父は言った。

「…堤下。」

すると、堤下は進み出て、言った。

「あなたに、虐待の容疑がかけられています。児童相談所には通報済みです。体に残る痣の診断書も提出されています。警察への通報はただいまは保留しています。」と、おろおろしている、杏美を見た。「あなたも。虐待行為を止めなかったので保護責任者遺棄の罪で警察に通報する準備をしています。」

杏美は、ショックを受けて口を押さえた。

祖父は、言った。

「…私が彰を引き取ろう。」と、彰を見た。「これをこれ以上こんな場所に置いておけない。杏美、お前はどうしようもない奴だな。私に逆らう気概があったのかとこれと逃げた時には少々感心したが、全く変わらない。子供を守ろうと思わないのか。この男はどうせ、彰が私に似ているので代わりに憂さでも晴らしていたのだろうが、私本人に逆らえない癖に小さい奴だ。聡、諦めろ。どうせここで否と言っても、塀の中に放り込んで無理に親権を奪うだけだ。それとも、その方が世のためになるか?一度罪人達に揉まれて来ても良いぞ。」

聡は、ぐ、と黙った。

「…虐待の事実など無い!」聡は、往生際悪く言った。「幼い子供の体に痣など、しょっちゅう転ぶのにあり得る事だろう!」

健一朗は、ため息をついた。

「身体中、無数にあるのにか?」と、聡を睨んだ。「私は医師でもあると言っただろうが。まあ、医師として働いてはいないが、きちんと他の医者に診させたので間違いはない。それに、別に私自身が弁護士でもあるから、堤下に頼まなくてもお前を吊るし上げるなど容易いのだぞ?お前は私に勝てない。諦めろ。」

聡は、ギリギリと歯を食い縛り、彰の腕を掴む手に力が入って痛む。

彰は、言った。

「痛いだろうが。また痣になる。離さないか。」

聡は、ハッと手を離した。

…また痣になったな。

彰は、その腕を擦って思った。

その物言いに、祖父は少し驚いた顔をしたが、笑った。

「そうか、お前は私と同じ。」と、手を差し出した。「来い。」

彰は、今度こそ祖父の所へ向かった。

また掴まれてはたまらないので走って行くと、祖父は彰を抱き上げた。

「よく我慢したな彰。これからお前は、多勢峰彰だ。」と、堤下を見た。「堤下。手続きを進めろ。抵抗したら容赦なく警察に通報しろ。逮捕されたらすぐ、こいつの会社は私が買収する。ま、何もかも捨ててでも、応じない気概などこれには無いだろうがな。」

聡は真っ赤な顔をしていたが、買収の話に青くなり、そうして躊躇う執事に案内されて、応接間の方へ歩いて行った。

残された杏美が、立ち去ろうとする健一朗の背に言った。

「お父様!」

健一朗は、チラと振り返った。

「…樹が気になるが、お前は二度は間違うまい?あれの横暴な様は間下から聞いていた。なので、彰を救おうと頭を下げて来るなら、遺産相続の放棄の書類も破棄させても良いかと思っていたのに。お前は、私が来るまでこれを救おうとはしなかった。他ならぬ彰本人から私に助けを求めて来たというのに。こんな幼児になんと言う苦労をさせたのだ。私譲りの頭脳がなければ、そのうち死んでいたかも知れないのだぞ。お前はもう、私の娘ではない。樹だけなら考えよう。だが、もう帰る場所など無いと思うが良い。今さら頭を下げてももう遅い。それがお前の選択だ。」

祖父は、今回のことで母を見限ったのか。

彰は、遅かったのだ、と項垂れる母を、祖父の肩越しに見ながら思った。

思えば自分もそうするだろう。

仮に娘が孫を虐待されているのを見過ごしていて、それを孫自身からの助ける求める声で知れば、その娘の人間性に許す事はできない。

これが最後かもしれない。

彰は思いながら、小さくなる母の姿を目に焼き付けていた。

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