隠居生活で
そんな生活も穏やかに過ぎて行った。
樹は、毎週末に彰の屋敷を訪れては乗馬をしたりして、おっとりと滞在して過ごして帰っていたのだが、そんな生活が性に合っていたようで、数か月でサッサと仕事を辞めて、引っ越して来た。
三階を樹とクリスのために改装し、軽く4LDKの洋風マンションのようなものが二つ出来た様子になった。
つまり、風呂もキッチンも備えた部屋が二つ出現したのだ。
要もそのうちに来ると言っていたので、四階も同じように改装し、まるで洋館の中にマンションを経営しているような感じだ。
とはいえ彰は家賃などとることはなく、食費だけを負担するということになっていた。
クリスは、認知症から解放されてから、いろいろな財産を子達に生前贈与して来たので、身軽に第二の人生を送っていた。
時々気が向いたら彰と要と共に研究の話などに興じて、今はもうボケる暇もない。
要は研究所の所長をしていたが、そうやって戻って来ては相談して、なんとかやっていた。
そんな毎日だったが、紫貴はゆるゆると老いて、弱って行った。
見た目こそ若かったが、もう実年齢は90を越え、彰も80代後半に差し掛かっていた。
新は、もう45になっていた。
クリスは老衰で皆に看取られて大往生でその一生を終え、今残っているのは樹だけだったが、その樹も、年明けから床に臥して起き上がれなくなっていた。
樹は、彰のように新の検体にはなっていなかったので、見た目も老いてもう、枯れ木のような老人だ。
彰は、そんな樹をいつものように朝、見舞った。
「…どうだね?今日は。」
樹の回りには、たくさんの機器があり、まるで病院の集中治療室だ。
樹は、管に繋がれた状態で言った。
「…先ほど、新が診察してくれました。もう、いつ私の心臓が止まってもおかしくはないようです。」
樹は、途切れ途切れにそう答えた。
彰は、脇の椅子に座って言った。
「…君は早かったな。老衰なのだよ。多臓器不全なのだ。どこが悪いというのではない。なので、これ以上私達にできることはない。」
樹は息を吐くと、小さく頷いた。
「はい。義姉さんは?どうですか。」
彰は、それには険しい顔をした。
「…紫貴も同じ。だが、君ほど悪いわけではない。今も起き上がっていたが、体が重いようだった。対処療法しかないので、なんとか楽になるように模索している。だが…私もそうだが後数年か。」
樹は、また息を吐いた。
「…新は、間に合わなかったのですね。見た目だけしか、結局は維持できず…。」
彰は、頷いた。
新が、自分達の晩年に生まれたばかりに両親を惜しんで必死にこの世に留めようと研究しているのは知っていた。
だが、不老不死など踏み込んではいけない分野だ。
まだ、そこまでの準備は人類にできていないと彰は思っていた。
人は、死ぬ。
その平等な現象があるからこそ、世は滞りなく回る。
誰か一人がその特権を得るようになれば、我も我もと力のあるものが生き残り、その中には良くないものも混じっているだろう。
そんなことでヒトに上下関係ができ、新たに生まれ出た善良なものが押さえ付けられる世の中など、あってはならない。
彰は、だからこそ神はヒトに、それを成せないようにしているのではないかと思っていた。
そもそもが、こんなに不自由な体に留まりたいと願うのはなぜだろう。
見た目は若く保たれているが、彰も実は少し歩くと呼吸も苦しくなることが多かった。
新のしていることは、無駄なのだ。
彰には分かっていたが、新が自分達を愛し、惜しんでいる気持ちは分かるので、強くは言わなかった。
結局、無駄に時間を過ごすよりも、とりあえず目先の病に苦しむ人類を救う方向に生きて欲しかったのだが、それは自分達が死ぬより他、無理だろう。
彰は、なので自分の命を惜しんではいなかった。
ふと、目の前の計器の数値に彰は我に返った。
…もう…。
「…樹?!」
彰は、腰を浮かせてその手を握る。
樹は、息を小さく乱しながら、彰を見た。
「…兄さん。」
すると、扉から新が飛び込んで来た。
「叔父さん!」と、彰が居るのを見て、立ち止まった。「…お父さん。モニターしていた数値が乱れたので…。」
彰は、頷いた。
「…樹。お別れだ。」
樹は、口元を緩めた。
「はい。」と、必死に言った。「もし、また会えたなら、次は…間違えません。あなたを、助けて…生きます。」
樹は、息を長く吐いた。
弱々しく乱れていた波形は、その途端に平坦になって赤い光が激しく点灯する。
「…9時54分。」彰は言った。「死亡を確認した。」
新は、頷く。
樹は、彰と新に見守られて、旅立ったのだった。
樹の葬儀は、生前の本人の希望で簡素に行われた。
結局、樹に彰が贈与していた祖父の財産はそっくり彰に返って来て、子供の居なかった樹は全てを彰に残す形で逝った。
紫貴も悲しんではいたが、自分もそろそろだと思っているせいなのか、悟ったような顔をして、涙に暮れたりはしなかった。
「…私も、最近では朝と夜の区別が一瞬、付かなくなったりしますの。」紫貴は言った。「お昼寝していたのに…朝だと勘違いしてしまったり。認知に異常が出ておるのでは。」
彰は、答えた。
「…もう90を超えているのだから、それはいろいろ出て来てもおかしくはない。君はまだしっかりしている方だ。」と、窓辺から紫貴を遠ざけようと、車椅子を押した。「こちらへ。まだ風が冷たい。」
紫貴は、素直に頷きながら答えた。
「はい。今年の桜も見に行けたらよろしいですわね。後何度見れられるものかと、最近考えますの。」
彰は、微笑んだ。
「そうだな。」と、彰はフラとふらついた。「…!」
咄嗟に足を踏ん張ったが、力が足りなくて彰は絨毯に膝をついた。
紫貴が、慌てて言った。
「彰さん!」と、声を上げた。「千夏!居る?!」
メイドの一人が、慌てて駆け込んで来た。
「奥様!何か…」と、床に膝をついて何かを振り払おうと頭を振っている、彰を見た。「まあ、旦那様!要様、要様旦那様が!」
千夏は廊下に向かって叫んだ。
彰は、必死に眩暈と戦っていた。
…最近血圧が安定しない…恐らくそのせいだ。
彰には、分かっていた。
自分も、老衰に向かって進んでいるのだ。
樹よりはもっている。
だが、それも恐らくは新の薬がいくらか作用しているからこそで、元々同じ遺伝子の元に生まれているのだから、そろそろガタが来てもおかしくはないのだ。
「彰さん!」要が、飛び込んで来た。要も、年相応に老いていてもう70代なのだ。「彰さん、しっかり!ベッドに!」
彰は、言った。
「…大丈夫だ、心臓だろう。最近血圧が安定しない。樹が逝ったのに、私だって新の検体になっておらねばもっと早く逝っていただろう。問題ない、薬がある。そこの、サイドボードから出してくれ。」
要は、急いで言われた通りにベッド脇のサイドボードを開いた。
そこには黒い箱が入っていて、開くと綺麗に並んだ薬品が装填済みの注射器が入っていた。
「どれですか?!」
彰は、箱の中を見た。
「これだ。」と、迷いなく一本引っ張り出すと、それを自分に投与した。「…これで落ち着くだろう。新が戻ったら、また処方し直させるから問題ない。」
紫貴が、涙を浮かべて言った。
「彰さん…。」
彰は、なんとか踏ん張って立ち上がると、紫貴を安心させようとその手を握って微笑んだ。
「心配しなくていい。大丈夫だ。君を看取ってからしか私は死なない。そう約束したではないか。君を置いては逝かない。絶対に。」
紫貴は頷いたが、こればかりは気力でどうにかできることではない。
紫貴は、不安で胸が潰れそうになっていた。
その夜、研究所から戻って来た新は彰を診察すると、急いで新たに薬を調合して、彰に投与した。
だが、紫貴ほど顕著に効果が現れるわけではないので、すぐに良くなるわけではない。
新は、言った。
「…お父さん。正直に言います。私にはまだ、あなたを留めるだけの力がありません。」
彰は、頷いた。
「分かっている。これは気休めでしかない。だが、私を紫貴が逝くまではもたせて欲しいのだ。あれを置いてはいけない。そう約束した。」
新は、注射器を片付けながら言った。
「…お母さんが、もう検体にはならないと今日、私の薬を拒否しました。恐らく、今日お父さんが倒れたからでしょう。」
彰は、紫貴が思った以上に彰を失うことを怖がっているのをそれで知った。
黙っている彰に、新は続けた。
「…私はそれを飲みました。」彰が驚いて顔を上げると、新は続けた。「お母さんのことは、恐らくまだまだ生き延びさせることができるでしょう。あの人は、とても薬品に対しての反応が良いからです。ですが、お父さんのことは、そう長くもたせることができない。お父さんが逝けば、お母さんは気力失くして後を追う。そこは細胞の力云々ではないのでお父さんにも分かっておられるでしょう。お母さんは、お父さんが居なくなったこの世に未練などないと仰いました。死なせてくれないのなら、自ら命を絶つと。なので、お父さんを留められないのなら、お母さんもまた留めることはできないのです。」
紫貴は、私の後を追うつもりなのか。
彰は、紫貴もまた自分を愛している事実に、知ってはいたが、改めて嬉しくて涙を浮かべた。
そして、言った。
「…ならば、できるだけ私も踏んばろう。新、なんとしても紫貴より長く私を生かせるのだ。ほんの数分でいい。私も紫貴を失って生きられる未来はないからだ。どんな薬も受け入れる。だから君は、私を生き延びさせることだけを考えて進めろ。」
新は、頷いた。
「はい。とはいえ、あと数年。正確には、一年でも怪しいぐらいなのです。今日の発作で死んでいてもおかしくはありませんでした。」
彰は、険しい顔をした。
「…紫貴は、数値を見たところまだ治療をやめても三年はもつだろう。やれ、新。私を三年もたせてみろ。君にならできるはずだ。」
新は頷いたが、途方もないことだった。
時間が掛かる…だが、その時間が今、ないのだ。
それから、要の手も借りて彰は何とか紫貴の介護もこなしていた。
基本的にメイド達も居るので、苦労することはなかったが、段々に彰自身が立ち上がる事が出来なくなって来て、大きなキングサイズの自分達のベッドに、二人並んで横になり、彰は起き上がっては隣りの紫貴の食事の介助など、できる限りの事をしながら、二人はどんどん衰えて行った。
紫貴はゆっくりと衰えていた上、新と彰が必死に軌道修正しながら痛みや苦しみなどを感じないように手当を続けていたので、毎日穏やかに生きていた。
それでも、眠っている時間が段々に長くなり始めて、遂にある朝から、全く意識がない状態へと陥った。
表情は穏やかで一見して眠っているだけのように見えたが、紫貴は目覚めることはなく、彰もそれを無理に起こすことはせずに、その時に向けて必死に生きた。
時々、彰自身が意識を失って布団の上に倒れ込んだりしていたが、新の力を借りて、紫貴がまだ世にある内はと、様々な薬でボロボロになりながら、その時を待った。
そして、その時は来たのだ。