弟と
次の日の朝、まだ早いので二人でまだベッドで横になっている時に、彰がふと、言った。
「…そう言えば…君は博正には特別親しみを感じているように前から見えていたのだ。だから今回、誤解することにもなったのだが、なぜなのだ?」
紫貴は、そうかしらと首を傾げた。
「そうでしょうか?…そうかもしれませんわね、何しろ慣れない最初から、よく気遣って話し掛けてくださったんです。犬や猫が好きだと何かの話の中で言ったら、目の前で狼になってくれて。私が実家で昔飼っていた犬によく似ていたから、とても嬉しかったので。もしかしたらそれでかも知れません。」
彰は、驚いた顔をした。
「え、君の犬に?」
紫貴は、頷いた。
「はい。真司さんもなって見せてくれましたけど、色と顔つきが違って。博正さんの方がそっくりでしたの。幼かった私をとても守ってくれた優しい犬でした。散歩の時も、いつも見ていて危ないものから遠ざけようとしてくれて…大好きでしたの。なので、亡くなった時には何日も泣きました。抱き締めている腕の中で眠るように逝ったのです。それを思い出して、あの子が戻って来たみたいに感じて。だから特別なのかも知れません。」
知らなかった。
彰は、思った。
紫貴の幼い頃の体験が、恐怖よりも慕わしさで狼の博正を受け入れていたのだ。
だから、紫貴は最初から人狼達を怖がることもなかったのだ。
紫貴は、遠い目をして言った。
「思えば…あの子…レックスは最初に野犬狩りで捕まった犬が居る、と父に連れられて行った場所でも、皆に怖がられる大きな狼みたいな子でしたけど、私は不思議と怖くなくて。他にもかわいい子犬も居たけど、私はあの子の前から離れなくて、あの子も私には吠えることもなくて。父にあの子がいいとごねて、引き取ってもらったんですの。それからはずっと一緒でした。父には反抗的なこともありましたけど、私の言うことは聞いてくれた。本当に、とても好きでしたわ。」
そこまで思い入れのある犬に似ているのなら、紫貴がああして接するのも分かる。
紫貴は、博正を人というより犬として見ているのかもしれない。
だが…。
「…だが、チークキスをするなど。ダメだ、分かっていても私の感情が許さない。だからこれからは、博正が…人の姿の時は、しないで欲しい。狼の時は、我慢するから。」
紫貴は、そう言えば、とバツが悪そうな顔をした。
「はい。見ておられたのですね。あの時は、店で外国人の対応をした後でしたから、ついあのように。これからはやりませんわ。博正さんは、レックスではないのですものね。」
彰は、何度も頷いた。
「そうだ、君の犬のレックスではないぞ。」と、紫貴を抱きしめた。「私には?」
紫貴は、笑った。
「彰さんとはチークキスレベルではないではないですか。今さらですわ。そもそも、私だって結婚するまであんな挨拶はしたことがありませんでしたのに、彰さんがあちこち連れて出てくださるから慣れただけですのに。」
彰は、むっつりと言った。
「だが、私は誰ともそんな挨拶はしないぞ。向こうが来たら拒絶しているからな。細菌の問題があるし。」
紫貴は、苦笑した。
「確かにそんなお考えなら。でも、私はあちらが好意を示してくださっているのに、拒絶はできないのですの。私が女性とそんな挨拶を交わしていても、何も仰らなかったのに。」
彰は、答えた。
「思うところはあったが、それでも君の交友関係に口出しするのはと思ったからだ。その後君の頬をさり気なく拭っていたと思うぞ。」
そういえば、そうだったかもしれない。
誰も見ていない時を見計らって、それはスムーズに手の中に彰が重用している除菌シートを隠し持って、それでスッと頬を拭って来たのだ。
傍目には、ただ愛おしそうに頬に触れただけに見えるように考えているようだった。
だが、紫貴からしたら化粧が落ちるのにぃと内心ちょっと恨んでいた。
彰は、せがむように言った。
「それより、私には?君しかそんなことはできないのだから。」
紫貴は、子供みたいだなと思いながら、彰にチークキスをした。
「今さらですわよ?それ以上の関係なのですから。これは挨拶なのですし。」
彰は、嬉しそうに笑って紫貴を抱きしめた。
「どんな感じなのか知りたかっただけだ。これで分かったが私は君以外とはできない。だから、やっぱり君も博正には駄目だぞ。」
念押しする彰に、紫貴は頷いた。
「分かりました。もうしませんわ。」
勘違いとはいえ、つらい想いをさせてしまったのだ。
彰がどんなに苦しんでいたのかと思うと、それぐらいは聞いてあげなければと紫貴は思った。
彰は満足げにその答えに頷くと、まだ起き出すは嫌なのか、紫貴を抱きしめてじっと目を閉じた。
紫貴は、今日はしっかりと彰に向き合おうと、そんな我がままも聞いてやることにして、彰を抱きしめ返したのだった。
とはいえ、今日は出勤して欲しいと要がわざわざ起こしに来た。
なので、彰は明日にして欲しいと駄々をこねていたが、結局起き出して、出勤準備をすることにした。
むっつりと食卓についていると、同じ食卓についていた、樹が言った。
「兄さん、まだ何か問題でも?」
彰は、その問いに首を振った。
「もう紫貴との間には何も。だが、せっかくなのに今日出勤せねばならないのが面倒で仕方がないのだ。せめてあと一日ぐらい、休みをくれてもいいではないか。どのみち今日は土曜なのに。」
研究所では土日祝日はあまり関係ないが、何か理由を付けたいようだ。
樹は、苦笑した。
「私は休みなので、ゆっくりさせてもらって、ここで兄さんが帰って来るのを待っていますよ。やることさえ済ませたら帰って来られるんじゃないですか?午前中にでも、集中してやり切ってしまわれたら。」
簡単に言うが、かなりの数のデータを見て次へステップはどの選択肢を選んだら良いかなど、指示を出すには結構な思考の量が要る。
彰だからこそ速いが、他なら一案件にどれだけの時間を取るのか分からないぐらいだ。
しかし、彰は頷いた。
「分かった。なるべく急いで戻って来る。溜まりに溜まった案件を、さっさと処理して来るから。そもそもが私に頼り過ぎなのだ。要だって、私の立場になったら分かる。自分で考えろと言いたくなるからな。」
要は、次の所長候補と言われていて、確かに彰と同じことをこなすのは自分には無理だと顔をしかめた。
「確かに彰さんの言う通りなんですけど…でも、居る間ぐらい、助けてくれてもいいじゃないですか。」
彰は、横を向いた。
「それが助けてもらう側の態度か。私の一大事が、やっと収まってホッとしているところなのに。もう一日ぐらい、待ってもいいではないか。まあいい、適当に指示して帰って来るから。」
樹は、困ったように彰を見ている。
こうは言っているが、完璧主義なので適当でもそこそこ考えて指示するのだろうが、それでもいつもの正確さは望めないかもしれない。
要もそう思ったのか、ハアと肩でため息をついて、言った。
「…分かりました。そう言われてしまったら諦めるよりありませんから。でも、明日は。絶対明日には来てくださいよ!ほんとにみんな困ってるんですから。」
彰は、行かなくていいのかと明るい顔をした。
「そうか。ならば良かった。では、明日まで暇なら、私に見せる前に自分達でどれがいいのか二択までに絞っておけ。そこから私が選んでやろう。これまで時間短縮のために、私が全てを見て選んでいたのがまずかったのか、君達は自分で思考することをやめてしまっているだろう。二択だ。暇ならそうしろ。」
要は、え、と顔を上げた。
「そんな!捨てた中に良いのがあったらどうするんですか。」
彰は、ブスッとして言った。
「私を待つ間、ただ待っていたわけではあるまい?一昨日、昨日、今日と時間があるわけだから、私が数時間でやる決定を、君達が寄って集ってできないとは言わせないぞ。無理だと言うなら、君達はその無理な事を私に強いているのだ。少しは私の思いも理解したらいい。」
淡々といつも通りだが、どうやら彰は怒っているらしい。
何もかもを把握して、その中からこっちへ行け、あっちへ行けと指示してくれる彰の存在は、研究所員には神のようなものだった。
だが、言われてみたらそんな神が、どこの研究所にでも居るわけではなく、大概が自分で考えて行動して道筋を見つけて行くものだった。
要は、がっくりと下を向いた。
「…すみません、彰さん。分かっています、当然のようにあれこれ聞くのが普通になってしまって、甘えているのは。本来、こんなことを無理強いできることではないと言うんですね。」
彰は、やっと分かったかと胸を張った。
「そうだ。それは私の仕事ではないと言いたいのだ。何も口出ししないというわけではないが、ある程度は自分で当たりを付けてから相談するか、勝手に進めるものだろう。それを、全て私の好意で聞いてやってるのに、当然のように仕事をしろという、立場を弁えない言い方に腹が立ったのだ。分かったか?」
言われて、要は頷いた。
「はい。すみません。こういう流れでこれまで来ているから、当然のように思っていました。確かにもう少し、考えた方が良かったですね。」
紫貴が、隣りから言った。
「お仕事の事は分かりませんが、もうそのぐらいで。彰さん、研究所へ通われるのもあと少しの間なのですから。それまでは出来る限りのサポートをして差し上げたら良いのではありませんか。私はいつでもここで待っていますし、そうやって皆さんに頼られる彰さんを誇りに思っておりますの。」
彰は、片眉を上げた。
「…君は頼られる私を誇りに?」
紫貴は、頷いた。
「はい。検体として研究所に居る時にも、回りの皆さんはジョンにはお世話になっていると言って、とても良くしてくださいました。お仕事をする彰さんを身近に見て、難しいことをさっさと決めて行かれるのにすごいなあとご尊敬して、慕わしく思いました。私は昔から頭のよろしいかたがとても慕わしく感じるのですけれど、身近には居なかったので、とても幸運だなあと気持ちを新たにしておりましたの。言いませんでしたけど。」
彰は、明るい顔をした。
「君は私が人より頭が切れるのを慕わしく思うのだな?」
紫貴は、頷いた。
「はい、とても。もちろんそれだけではありませんけど。」
彰は途端に機嫌を良くして、言った。
「そうか、ならば私も励まないと。」と、立ち上がった。「着替える。やっぱり行って来る。明日休む。」
ええ?!
と樹も要も思ったが、やる気になっているうちに連れて行った方がいい。
なので、要も立ち上がった。
「はい!じゃあ急ぎましょう!もうヘリが来ますから。」
彰は頷いて歩き出す。
紫貴も着替えを手伝いに慌ててそれについて行き、それを見送った樹はため息をついた…やはり兄は、あの義姉のことばかりなのだな。
あれほど人生を左右させる出逢いなど、もう50になる自分にはないのではないかと、樹は思っていた。
彰が、要と博正と一緒に機嫌よく紫貴に挨拶して迎えに来たヘリへと乗り込み、飛び立って行くのを見送って、樹は敷地内をぶらぶらと散歩していた。
やることも無いし、休みの日は家でダラダラと過ごすことが多い樹には、兄の屋敷へ来ることもいい気分転換になる。
普段もよく呼ばれて来るのだが、その度に彰はここに住めばと言って来る。
ここは広いし部屋は余っているので、紫貴も気遣うことも無さそうなので、もちろんそうしてもいいのだが、現役でいる間は一人暮らしをしようと思っていた。
たまにここを訪れるぐらいが、一番いいと思っているのだ。
もちろん、引退したらどうするかはまだ決めていない。
数少ない親族なので、兄の側に居てもいいかと思うが、兄は難しい人だった。
嫌いではないが、扱いが難しい以上、こちらがあちらを不快にさせはしまいかと気に掛かる。
こうして少しずつ接して行って、兄のツボを探って知ってからの方が、お互いのために良いかもしれない、と思っていた。
間違いなく一番のツボはあの義姉の紫貴だが、樹ですらあまり話しかけると彰の機嫌が悪くなるのではと気になって仕方がない。
なので、あまり自分から話しかけるのは気が咎めていた。
樹が、敷地内をぐるっと歩いて来て歩いて戻って来ると、厩舎の前に、紫貴の姿が見えた。
馬達は、全く警戒する様子もなく紫貴の側に居て、広い牧草地に走って行っては、また走って戻って来て紫貴に頭を擦り付けたりしている。
彰は紫貴に博正の臭いが移っていて馬が嫌がっていると言っていたが、そんな様子は今はなかった。
「今日は乗せてもらえるかなあ。」紫貴は、小さい方の馬に笑いながら言っている。「もう臭いはしないでしょ?毎日会っていたものね。あなたも戸惑うわね。ごめんなさいね。もう慣れないことはしないから。」
働くことなど、ここ何年かは無かったのだものな。
樹は、それを聞いて思った。
それでも、夫のために働いて稼ごうと考えるのだから、紫貴も彰を愛しているのだろう。
樹がそちらへ足を向けると、紫貴がハッとしたようにこちらを見て、微笑んだ。
「あら、樹さん。お散歩ですか?」
樹は、頷いた。
「ええ。あまり運動などする機会がないので、ここへ来た時ぐらいは少し歩こうかと思って。」
紫貴は、微笑んで自分に鼻をゴツゴツと当てて来る馬を片手で撫でながら、言った。
「まあ。じゃあ乗馬でもなさいます?私も今から乗ろうかと思っていて、彰さんのハオウもこちらへ来ていますし、今なら乗せてくれそうですわ。」
そうだった、ここでは馬の気分次第で乗馬するんだった。
樹は思った。
馬が呼んで来なければ、乗らないのだ。
厩舎も常時開けっ放しで、出入りは馬の自由だった。
夕方、分かっていて戻って来る二頭が厩舎へ入ったら、扉を閉じるという感じだった。
なので、掃除もたまたま外へ出ている時に急いでするという感じで、あくまでも馬の都合に人が合わせている状態だった。
馬は賢いので放って置いても日が暮れて来たら絶対安全な場所へと戻って来るのだが、あくまでも気分次第なので、二頭だけとはいえ世話はそれなりに大変だった。
樹は、言った。
「…あまり回数乗っていないので、上手く乗れるかどうか分からないんですがね。」
紫貴は、フフと笑った。
「平気ですわ。この子達は分かっていて合わせてくれるので。でも、そうですね…じゃあ、樹さんはこちらのアカリに乗ってくれたら。この子は本当に優しい子なので、慣れていないのが分かると気を遣ってくれますの。ハオウは気分次第なので、ちょっと難しいかもしれませんし。」
樹は、誘ってくれているのにこれ以上断るのも、と思い、頷いた。
「分かりました。じゃあ着替えて来ますので待っていてください。」
紫貴は、微笑んで頷いた。
「はい。では鞍を着けておきますわ。」
樹は、それに頷いて、急いで屋敷へと入って行った。
それから、樹は紫貴と共に細川が昼食だと呼びに来るまで、敷地内の広い森の小道を、馬に乗って散歩した。
馬達は確かに心得ていて、変な動きをしたり、いきなり走り出したりはしない。
特に、樹が借りたアカリという馬は、時々こちらを振り返るような仕草をしたので、恐らく樹の様子を見ていたのだろうと思われた。
本当に、頭が良くこちらを見ているのだなと樹は思った。
細川が呼びに来てから厩舎の方へと戻って来て、鞍を外してやると、二頭はもう、手綱も引いていないのに慣れたように嬉々として厩舎の方へと入って行く。
樹が何事かと見ていると、乗馬の後そこへ入ると、おやつがもらえると馬達は知っているらしい。
紫貴は、リンゴと黒糖を手に、言った。
「はい。樹さんはアカリにこれを上げてください。ハオウはリンゴよりニンジンが好きなので、ニンジンと黒糖をあげますわ。」
樹は、頷いてそれを受け取った。
アカリの前に近付くと、アカリは喜んでもう涎を流している。
樹は、フッと頬を緩めて、半分に切ってあるリンゴをその口元へと持って行った。
アカリは、それを控えめに咥えて、そうしておいしそうに食べた。
その様子が可愛くて、ついつい二個目へと突入してあげていると、紫貴が苦笑しながら言った。
「あら、あまりたくさんあげては駄目よ。お腹を壊しちゃうの。後は黒糖にしてあげて。」
言われて、樹はバツが悪そうにリンゴを引っ込めて、黒糖をあげた。
アカリは、樹の手を噛まないようにと気遣って、うまく食べてくれた。
「お前はかわいいなあ。」
紫貴が言う通り、本当に気立てのいい馬だ。
そう思いながら思わずそう口にすると、紫貴が微笑んで頷いた。
「そうでしょう?本当に優しい子で。だからかもしれないけれど、競走馬としては向いていなかったみたいで…もう少しで、お肉になってしまうしかなかったところだったの。それをたまたまいろんな厩舎のサイトを見回っていた私が見つけて、彰さんに頼んで買い取って頂いたの。私も大好きで。」
樹は、つい口から出てしまったと、頷いた。
「義姉さんが可愛がっている気持ちが分かります。気立てのいい馬で驚きました。」
アカリは、食べて満足したのか、歩いて自分の部屋から出て来た。
樹が驚いて道を空けると、アカリは同じように出て来たハオウを見て、ハオウもアカリが出て来るのを見て、二頭でさっさと牧草地へとまた、出て行った。
「フフ。まだ厩舎に入るのは早いものね。多分夕方までは遊んでいると思いますわ。」と、足を屋敷の方へと向けた。「さあ、着替えて来ましょう。昼食の準備ができたと言って来ていたし。行きましょう。」
樹は頷いて、紫貴と共に屋敷の中へと向かった。
そのまま、紫貴と樹は一緒に昼食を摂り、そのまま居間で語り合って、茶を飲んで結局一日一緒に過ごした。
彰に知られたら大騒ぎだろうと樹的には胸が騒いだが、しかし紫貴は聞き上手でうまく会話を続けてくれるので、話していて楽で久しぶりに楽しいと思えたのだ。
彰が、紫貴は学歴は無いが頭が良いと言っていたが、確かにその通りなのかもしれない。
きっと兄も、こんな風に紫貴と一緒に居て和むのだろうな、と思った。
知らないことでも、こちらが説明するとすぐに理解して、結構的を射た疑問を口にしたり、驚くような視点で物を訪ねて来たりするので、こちらも話甲斐があって、つい話し過ぎてしまう。
理解力と想像力が豊かなのだろうな、と樹は分析していた。
樹も彰と同じように、かなり頭が切れて今の会社でも取締役をやっている。
表に出たくないのでかなりごねて重役止まりで長く居たのだが、今回株主総会でどうあってもと押し上げられて、その座に就いてしまったので、もう引退するかと思っているほどだった。
彰ほどではないものの、彰のように頭が切れる樹が一般社会に居るのだから、回りには話が通じる者も居るが、ほとんどが通じないのでストレスなのだ。
そんな会社でのことを思い出して樹がため息をついていると、紫貴がそれに気付いて言った。
「…どうしたんですの?何かご心配事でも?」
樹は、ため息をついた。
「いえ、仕事で。実は、早めに辞職しようかと思っていて。」
紫貴は、目を丸くした。
「あら。でも取締役になったのだなと彰さんがニュースを見て言っておりましたのに。それなのにもうお辞めになるのですか?」
樹は、頷いた。
「私はあまり表に出たくないので。そもそもが生きるために入った会社で、そこそこ生活を支えるだけ稼げたらと思って働いていたのです。それが、会社のためと励んでいたら、このように。かなり抵抗したのですが、今回は半ば強引に決められてしまいました。」
紫貴は、フフと笑った。
「そういうところはご兄弟でよく似ておられること。彰さんも絶対に表に出られずに、最後まで来てしまいました。とても素晴らしい成果を出されたのに…私には少し、もったいないような気がしますのに。」
樹は、また頷いた。
「兄さんの気持ちが分かりますね。あの人は私よりずっと優秀な人で、私の憧れでした。きっと偉大な事を成してくれると思っていましたが…シキアオイですよね?」
紫貴は、彰は樹には話しているのだと、驚いたが頷いた。
「はい。私と、私達の娘の名前を付けてくれましたの。でも、未だ調整中で、一握りの人にしか使っていないそうですけれど…皆が助かる未来を作られたのだと思うと、本当に誇らしい気持ちなんですわ。」
紫貴は、本当に嬉しそうに言う。
回りから聞いている限り、兄の方からそれは強く望んで半ば無理やり押し切って結婚したのだと聞いていたが、こうして聞いていると、紫貴もそれなりに兄を愛しているらしい。
樹からしたら、あの兄を拒絶する女性が居るなど思いもしないので、紫貴が渋っていると最初聞いた時には驚いたものだった。
だが、紫貴の方の事情を聞いて、それはそうだろうと思った。
兄も兄で、わざわざそんな難しそうな境遇の人を選ぶなんてと、樹も最初はやめておくべきだと思ったものだ。
だが、こうして紫貴と接していると、兄の気持ちがよく分かる。
紫貴は、場を上手く回す機転が利く。
それはこれまで生きて来た道で身に付けなければならなかった事なのかもしれない。
元の夫の機嫌を損ねず、子達を無事に育て上げねばならなかったからだ。
そう思うと、紫貴のそんな境遇さえも、兄という人と生きていくために必要な事だったのかもしれないと思えて来るから不思議だ。
今は紫貴も、幸せなのだろう…と思いたい。
何しろ兄は、あんなに紫貴紫貴と結構べったりだ。
普通に考えると面倒だと考える女性の方が多いのではないかという感じなので、樹も常、大丈夫かと気にしてはいたのだ。
すると、紫貴は何かに気付いて、ふと空を見た。
樹もこの音はと窓から空を見上げると、ヘリが向こうから帰って来るところだった。
「まあ!」紫貴は、嬉しそうに立ち上がった。「一時間も早いわ。きっと頑張ってお仕事を終えて帰ってくださったのね。」
細川が、入って来て頭を下げた。
「奥様、旦那様がお帰りのようですが。」
紫貴は、頷いた。
「参ります。」と、樹を見た。「樹さん、待っていてくださいね。お迎えに出て来ます。」
樹は、自分も立ち上がった。
「私も出ますよ。」
そうして、二人で彰を出迎えるために、玄関へと向かった。
細川が、玄関扉を開くと、ヘリがそこに到着して、彰と要が降りて来るのが見えた。
要はそこから停めてある自分の車の方へと歩いて行き、ここから穂波が待つ家へと帰って行くようだ。
紫貴が、微笑んでそこで立って待っていると、彰は真っ直ぐに紫貴に向かって歩いて来て、他の使用人達が頭を下げる中、紫貴の手を握って言った。
「紫貴、帰った。急いだのだぞ?」
紫貴は、微笑んで頷いた。
「はい。おかえりなさいませ。戻って来られるのを見て嬉しかったですわ。頑張ってくださったんですね。」
彰は、それは嬉しそうに頷いた。
「集中して思い切り急いでやった。君が待っているからと頑張ったのだ。」と、そこでやっと樹を見た。「樹。明日も休みならここに滞在したらいいだろう。今夜も泊まるのだろう?」
樹は、頷いた。
「はい。お邪魔でないなら滞在しようかと思っています。」
彰は、笑った。
「君が邪魔などということがあるはずがないだろう。」と、歩き出した。「今日はどう過ごしたのだ、紫貴?」
紫貴はそれに合わせて歩きながら、答えた。
「はい、樹さんと乗馬をして、それから居間でずっとお話相手になって頂いておりました。」
それを聞いた彰が、少し眉を寄せた。
それを見た樹が、まずい、と思った。
自分は兄の妻に横恋慕など絶対にしないが、兄の執着は半端ない。
もし今度は博正ではなく自分と紫貴がなどと思ったら、どうしたらいいのだろうか。
彰は、言った。
「…樹と一日中一緒に居たのか?」
やっぱり、と樹が思っていると、紫貴がサラッと言った。
「ええ。だって彰さんがいらっしゃらないのに、姉の私がお相手をするのが女主人としての務めでもありますから。私には弟が居ないので、お世話するのは楽しいですわ。」
彰は、紫貴から何を言ってるのかしら、という空気を読み取ったようで、慌てて言った。
「ああ、そうか。私の弟は君の弟でもあるものな。」と、取り繕うように樹を見た。「楽しんだか。」
樹は、控えめに頷いた。
「はい。兄さんが仰るように、義姉さんはとても聞き上手ですので。頭の良いかたですね。」
紫貴は、驚いた顔をする。
彰は、それで途端にパッと明るい顔をした。
「そうだろう。やはり君は話が分かるな。」
紫貴は紫貴で、そんな彰の様子を見て、樹が彰の扱いをよく弁えているのを知った。
多分樹は、本当はそんな事は思っていないのかもしれないが、そう言えば彰の気持ちがそっちへ反れるので、良いと思ったのだろうと判断したからだ。
三人で食卓へと着くと、細川とメイド達がせっせと夕食を持って来てくれる。
彰と樹は、そのまま目の前に居る紫貴談義に花を咲かせていて、紫貴は居心地悪い気持ちでそれを聞いていたのだった。
結局、彰は紫貴を褒めていれば機嫌が良い、ということが樹には分かった。
紫貴も、彰がそんなに単純なのに驚いたが、あまりにも彰が素直過ぎてそこがまた慕わしいと思った。
明日は、研究所にも出勤しないらしいし、樹と三人で過ごそうと食後に居間で話し合い、紫貴は先に部屋のお風呂に入って来ると言い置いて、彰と樹を置いて、居間から出て行った。
彰がそれを見送っているのを見て、樹は言った。
「兄さんは、本当に義姉さんが好きなのですね。でも、今日で分かった気がします。義姉さんと話していると、楽なんですよね。つい話し過ぎてしまう。」
彰は、頷いた。
「紫貴は頭の回転が速い。知らない事でも理解が早いのでこちらも教え甲斐があるしな。そんなところも好ましいのだ。」と、樹をじっと見た。「…だが、紫貴に興味を持つんじゃないぞ。兄弟で争うのだけはしたくない。前にも言ったが、抗うことができないのだ…こういう気持ちというのは。君は女性と付き合ったことがあると言っていたし、知っているか。」
樹は、首を振った。
「兄さんのように何をもとりあえずその女性を優先するほど、想ったことはありません。ただ、良いかなと思って寄って来た女性と付き合ったことはありますが、すぐに結婚と言い出すのです。私は、父母の事もあるし結婚する気もなかったし、その気持ちには応えられないと言うと、大体が離れて行ったので。それを引き留めようとも思いませんでした。特に悲しくも寂しくもありませんでしたし。兄さんのように、本気で誰かを愛したことは、まだないのかもしれません。」
彰は、そうかと何度も頷いた。
「そうか。私だって、こんな気持ちになるとは思ってもいなかったのだ。君より酷かった。女性など物だと思っていたからな。何しろ、断っても断っても寄って来るのだ。子供の頃の記憶もあって、女性全てを軽蔑していたのかもしれないな。皆が皆、ああではないのに…虐待とは罪深いものだ。その後の価値観を変えてしまうのだからな。」
樹は、頷いた。
「あってはならないことでした。兄さんが自分で判断して逃げることができて、良かったと思っています。未遂なのが不幸中の幸いでした。」
彰は、また頷いた。
「だが、そのお蔭であの歳まで独身でいて、紫貴に出逢った時面倒がなかった。もし誰かと妥協して結婚した後に紫貴に出逢っていたら、私は心から後悔したと思うしな。やはり結婚は、本当に想う相手とした方がいいのだ。君もその歳まで待ったのだから、無理に相手を決める必要はないと思う。仕事も、取締役になってまだこれからだろう?」
樹は、大きなため息をついた。
「それなのですが、兄さん。私は、辞表を出そうかと思っているのですよ。私が望んだ位置ではありませんでした。無理やり就かされたのです。そもそもがずっと断っていたのに、総会でだまし討ちのように発表されてしまって。そこでは、会社のためにも否とは言えませんでしたが、その後どういうことかと皆に問い質しました。これまで、ずっと私に打診していたのに、断られるので強硬手段に出たようで。私はでも、表舞台には立ちたくないのですよ。」
彰は、気持ちが分かるだけに苦笑した。
「ならば、それでもいいではないか。君が望まないことはしなくてもいいと思うぞ。だまし討ちなどそれが私なら、その場でハッキリそう言って断ったかもしれない。君は一応、義理は通したのだし、さっさと辞めたらいいのだ。金には困っていないだろう?」
樹は、渋々ながら頷いた。
彰から、再会した後祖父の遺産を分割したいと言われた時に、最初は断ったのだが、それでも気が済まないと言われて、数棟のビルとマンションを分けられて所有しているのだ。
本当はきっちり全体の半分をと言われたのだが、もうそれだけで良いと他は放棄して、もらったものだった。
それがあるので、本来働かなくても充分生きていけたのだ。
「はい。確かにそうです。そうですね…もうそろそろ、自分のために生きてもいいのでしょうか。」
彰は、笑って頷いた。
「もう良いと思うぞ。君は頑張った。私より経済的に困窮していた時期を乗り切ったではないか。私は、祖父に引き取られてそれがなかったからな。退職したら、ここへ来ないか。三階を君に使わせてやってもいいと思っているのだ。私達は二階を使っているから。」
ここの三階には、大きなひと部屋16畳ほどもある寝室が10室、居間が一つにバストイレがある。
一人で住むのは広過ぎる場所だった。
「三階全部は広過ぎますよ。私は一人なんですからね。三つぐらい部屋を戴けたら、それで。」と、少し考えた。「…アカリが可愛かったし、確かにここに住むのもいいですね。」
彰は、眉を上げた。
「君もアカリを気に入っているのか。確かにあの馬は賢い上に気が利くのだ。まるで紫貴のような馬だといつも思って見ているのだよ。」
言われてみたらそうかもしれない。
では、ヒトに対しては気分次第だがアカリには常に優しいハオウは、彰に似ているのかもしれない。
樹は、笑った。
「確かに言われてみたらそうですね。ならば、ハオウは兄さんでしょうか。」
彰は、心外な、という顔をした。
「私はあんなに自分勝手か?あれはプライドが高いから、細川が難儀している。私はそこまで世話をしているわけではないのだが、なぜか私の言うことは聞くのだ。紫貴の言うことならもっと聞く。人を選んでいるのだ。」
やっぱり似てる。
樹は面白くなって来て、声を立てて笑った。
彰は、それを見てむっつりとしていたが、それでもそのうちに一緒に笑い出したのだった。