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誕生日と

屋敷の敷地内へと入ると、彰の帰宅を気取った皆が続々と玄関へと集まって来るのが見えた。

その中には、紫貴の姿もある。

暗い気持ちになりながら、樹と彰は、駐車場に車を停めて、歩いて玄関へと向かった。

昨日彰が乗って出た車は、きちんと駐車場に停まっていた。

細川が、頭を下げた。

「おかえりなさいませ、旦那様。車は回収しておきました。」

彰は、無言で頷く。

樹は言った。

「急に話があると私のマンションに来たので。兄さんの誕生日だとか。」

細川は、頷いた。

「はい。ご準備ができております。どうぞこちらへ。」

紫貴は、彰が自分と目も合わせないのに戸惑った。

いつもなら、他には目もくれずに自分に寄って来て、くっついて来るのにそれがない。

「…彰さん?お加減がお悪いのですか?」

心配そうに言う紫貴に、彰は首を振った。

「なんでもない。」と、歩き出した。「行こう。」

さっきまで博正と一緒だったのに、なんでもないふりをできるなんて。

彰は、腹を立てていた。

こんなに愛している自分を裏切っておきながら、こんなにつらい気持ちにさせながら、何を今さら案じるのだ。

紫貴はまだわけがわからないようだったが、そんな紫貴を置き去りにして、彰はずんずん歩いて居間の扉を開いた。

するとそこには、要、穂波、颯、博正、美沙とメイド達が、並んで立っていた。

そして、そこに運び込まれたテーブルの上には、たくさんの料理やケーキ、チョコレートが所狭しと並んでいた。

「お誕生日おめでとうございます。」紫貴が、後ろから入って来て、言った。「皆で準備しましたの。」

準備したのはメイド達と細川なのではないのか。

彰は思った。

何しろ紫貴は、ずっと洋菓子店に居たのだ。

無表情で黙り込む彰に、博正が呆れたように言った。

「だからちょっとは嬉しそうな顔をしろよ。紫貴さんはな、毎日お前が仕事の間、洋菓子の店で働いてこのケーキを焼いて来たんだぞ?お前の金で何か買ってもって、自分が働いた金で何か買いたいって言って。」

彰は、え、と紫貴を見た。

「…私のために?」

紫貴は、苦笑した。

「はい。毎年のことでやって差し上げられることも限られていましたし、細川さんにどこかで働けないかって聞いて。そしたら要さんに聞いてくれて、要さんが博正さんに、博正さんが美沙さんに聞いてくれて、美沙さんのお知り合いのお店で雇って戴いておりました。バレンタインシーズンだけなんですけどね。こちらの車を使うと彰さんにバレてしまうので、博正さんが送り迎えまでしてくれて。」と、手にぶら下げていた、小さな紙袋を差し出した。「私のお給料ではこんなものしか買えませんでしたけど、注文していた物で。今日、お仕事の帰りに受け取って来ました。彰さんに。お誕生日おめでとうございます。」

彰は、思ってもいなかったことに、呆然とそれを受け取った。

紫貴は、私のために働いていたのか。

私に、これを買うために。

中を開くと、小さな箱が出て来て、その中には、これまた小さなカフスボタンが入っていた。

そこには、英語で『彰 私の愛するひと 紫貴』と書いてあった。

「ああ」彰は、声を漏らした。「そうだったのか。」

紫貴は、これのために働いていたのだ。

彰が与えた物ではない、自分の力で稼いだ金で、彰にこれを買って贈りたいと思ってくれたのだ。

安堵感と歓喜と、いろいろな感情が混ざり合って、彰は涙が流れて来るのを感じた。

何を疑っていたのだろう。紫貴が自分を、裏切るはずなどなかったのに。

彰が、傍目も気にせず涙を流すのを見て、紫貴は慌ててポケットからハンカチを取り出して、急いでその涙を拭った。

「まあ、あんまり小さいので呆れてしまわれましたか?あの、字を刻んでもらおうと思うと、ちょっとお値段が張ってしまってたったひと月働いただけではこれが精一杯で。」と、メイドが持っている、花束を受け取って、彰に渡した。「あの、これも。残りのお金で買って来ましたの。バレンタインデーですから。」

彰は、それも受け取ろうとして、花束ごと紫貴を抱きしめた。

紫貴は、皆が見ているのでびっくりしてじたばたした。

「きゃ、彰さん、みんなが見てますから!」

彰は、それでも紫貴を離さずに、言った。

「ありがとう、紫貴。」と、その髪に頬を摺り寄せた。「すまない。」

紫貴は、困った顔をした。

「え、何を謝っていらっしゃるの?」と、体を少し離して、彰の顔を見上げた。「喜んでくださったのなら良かったです。」

樹が、それを見て自分も熱いものがこみ上げてくるのを感じたが、言った。

「…では、おめでたい席ですから。こんなにおいしそうな御馳走があるのですし、皆さんで戴きましょう、兄さん。」

こんな誤解で樹を、昨日から今日も一日中振り回したのに、彰に対して全く怒っている様子もない。

彰は、樹を見た。

「樹、私は…、」

だが、樹はそれを遮って首を振った。

「久しぶりに、一緒に過ごせて良かったと思っています。」彰が黙ると、樹は微笑んだ。「お誕生日おめでとうございます、兄さん。」

要が、言った。

「さあ、冷めてしまうから早く食べよう!今日はメイド達も細川さんも一緒に食べるようにって紫貴さんが言ってたんだ。すごくたくさんケーキとチョコレートがあるぞ。」

穂波が、嬉々として言った。

「楽しみ~!あの洋菓子店はおいしいって評判だから。お母さんがパティシエに手伝ってもらって焼いて来たんでしょ?」

紫貴は、嬉しそうに頷いた。

「そうなの!みんな食後に食べてね。」と、彰を促した。「彰さん、イチゴのタルトもホールで三つも作って来ました。たくさん食べましょうね。」

嬉しそうに笑う紫貴に、彰は涙を拭いて、笑い返した。

「そうか。あれはとてもうまいからな。楽しみだよ。」

一度作ったら、彰がうまいと言ったので、紫貴が頻繁に彰のために作るケーキだった。

彰は、そのパーティの間中しっかり紫貴の手を握って離さず、数時間前では考えられないほど楽しく幸せな時間を過ごしたのだった。


メイド達が片付けを始めたので、穂波と美沙、紫貴はそれを手伝ってキッチンへと行ってしまった。

要は、パンパンになったお腹をさすりながら、彰を軽く睨んで言った。

「それにしても彰さん、昨日あれだけ言ったのに今日出勤してくれなかったでしょう。樹さんとの約束があったんなら仕方がないですけど、明日は来てくださいよ?進まないんですってば。」

彰は、それに下を向いた。

樹が、脇から言った。

「その、兄さんにも都合があったんですよ。」

彰は、樹が庇ってくれようとしている、と、顔を上げた。

「…実は、私は博正と紫貴を疑っていて。二人が、私に隠れて会っていると思って。」

博正が、驚いた顔をする。

要が、目を丸くした。

「え、もしかして職場に送り迎えしているのを知ってたんですか?」

彰は、頷いた。

「ヘリが遅れた日があったろう。あの日、紫貴が慌てたように奥へと引っ込んで行くのが見えて、どこかへ出かけるのかと怪訝に思っていたら、博正の車が森の木々の隙間にチラと見えて。いろいろ考え併せると、どう考えても紫貴を待っているようにしか見えないし、紫貴は何かを隠しているようだし…何やら毎日浮足立っているし。アカリも紫貴を怖がるし、もしかしたら博正の臭いが移っていて、怖がっているのではと思いが至って。」

要は、眉を寄せた。

「どうしてオレに聞いてくれなかったんですか。そうじゃないって教えてあげたのに。」

彰は、それには視線を落とした。

「それは…言いづらいではないか。紫貴が博正と会っているかもしれないなんて。いつも頼む調査会社も使いたくなくて、樹ならと頼みに行った。樹が、いろいろ手配してくれて…だから、昨日からずっと樹と一緒に行動していたのだ。」

樹は、もう皆に打ち明けてしまったのだからと、頷いた。

「そうなんです。紫貴さんが働いているから、どういうことだろうと私も怪訝に思いました。博正さんが職場に迎えに来て二人で車に乗って、紳士服店に寄っているのも博正さんに何か買ってるのかと疑っていましたし。でも、実際は違ったんですね。」

博正が、とんでもないと手を振った。

「そんなはずあるか!要が細川から相談されたとか言うから、だったらって美沙に聞いたら美沙が求人があるって言うからわざわざ知らせに行ってやった上、毎日送り迎えしてやったのによ。お前を驚かせたいからって内緒にしてるわけだし、車を使うわけにゃいかねぇだろうが。それを疑うってどういうこった。お前、オレと紫貴さんがそんな仲になってもいいのか。だったらなるぞ。疑われるだけなんて損じゃねぇか。オレもあの人だったらいけるしな。その気になりそうな時もあったしなあ。」

なんてことを。

そこに居た皆が思ったが、どうやら博正は怒っているらしい。

博正にしたら善意でしていたのに、疑われたから腹を立てているのだろう。

要が、慌てて言った。

「こら落ち着け博正!美沙がキッチンに居るんだぞ、聴こえたらどうするんだよ!」

博正は、要を睨んだ。

「別に。美沙はそんなめんどくせぇこと言わねぇし。オレが本気かそうでないかぐらい分かるさ。」

すると、美沙が一人で居間へと急いで入って来て、言った。

「博正!分かってるでしょ、私は耳が良いのよ。紫貴さん達には聴こえてないみたいだったけど、私には丸聞こえよ!いい加減にしなさい、もちろん今さら私はあなたが他の女をどうこう別に何も言わないけど、紫貴さんは駄目!言ったでしょ、人妻でない人にしなさいって!」

え、と皆が二人を見る。

この夫婦は、もしかして価値観が他と違うのだろうか。

博正が、言った。

「あのなあ、だったらお前はどうなんだよ。お前が先に男作ったんだろうが!それでも人狼同士だから仕方なく夫婦やってんの!お互い様だろうが。」

美沙は、フンと横を向いた。

「あなたが帰って来なさ過ぎなのよ!話し合ったでしょ?私達は同志なのよ。それ以上でも以下でもないって。ほんとにもう、ヒトに戻ろうかしら。」

博正は、同じようにフンと横を向いた。

「勝手にしろ。家に帰らなくてよくなるから楽にならぁ。」

彰も、よそ様の家庭の問題に、免疫もないし驚いて固まって見ている。

要が、見兼ねて割り込んだ。

「落ち着けって!美沙も、人狼のままが良いって言ったの自分だろ?こっちは検体にもならない人狼なんか要らないし、君が戻したい筆頭だったのに博正が頼むからそのままにしてるんだぞ?嫌なら今すぐでも処置してヒトに戻す!」美沙は、ぐ、と黙った。要は博正を見た。「博正も!彰さんの祝いの席なんだから、面倒なことを言い出すのはやめろ。怒るのは分かるよ、いろいろやってくれてたんだから。でも知らなかったんだから仕方がないだろうが。そもそも、紫貴さんどうのと彰さんに言うのはやめろ。本気にするんだから。病んだらどうするんだよ!」

博正も、言われて黙った。

樹が、ハアとため息をついた。

「もう…私は独身で良かった。もう生涯これを貫きます。新が居るし、そっちを可愛がってそれでいい。こういう面倒は、私には無理だ。」

彰は、樹を見て残念そうに言った。

「…私だってそうだった。だがな、ある日突然やって来るのだ。そのうち分かる。抗う術などないぞ。」

そこへ、何も知らない紫貴と穂波が、談笑しながら入って来て、何やら深刻な様を見て、はたと固まった。

「…どうかしましたか?」

紫貴が言うと、彰が慌てて立ち上がって、紫貴の所へと歩くと、その肩を抱いた。

「何もない。美沙と博正が話していただけだ。それよりも紫貴、私はバタバタしていて君に何も準備できていない。」

紫貴は、目を丸くした。

「え?彰さんのお誕生日ですのに。別に何も要りませんわ。」

彰は、首を振った。

「日本では違うようだが、海外ではバレンタインは愛する人に花やチョコを贈る日なのだ。君は私にくれたのに、私が何も準備していないのはおかしい。気が付かなくてすまない。」

紫貴は、フフと笑って首を振った。

「日本から出た事もないから、バレンタインは女性から男性にという気持ちですわ。ですから、どうしてもと仰るのなら、日本の習慣通りにひと月後のホワイトデーに花かチョコをください。もう今はお腹いっぱいですし、何も食べられないので、もし戴いていても食べられないところでしたし。」

彰は、頷いた。

「ではそのように。」と、皆を見た。「今日は集まってくれてありがとう。そろそろ、休もうかと思うのだ。ゆっくり二人で話したいしな。良ければ、泊まって行ってくれないか。部屋はある。」

要が頷いた。

「ああ、いつも泊めていただいてる部屋を、もう借りてるので今夜は泊まらせていただきます。」

博正は、ため息をついた。

「オレは明日出勤だしここに居たらヘリに一緒に乗ってけるから泊まるけど、美沙は帰るだろ。」

美沙が、顔をしかめた。

「どうしてそう思うの?」

博正は、はあ?という顔をした。

「おんなじ部屋だぞ。お前が泊まるってんならオレは車で寝る。」

また喧嘩になる。

回りが焦ってどうしようと思うと、彰が割り込んだ。

「部屋は二つ用意する。」と、細川を見た。「頼む。」

細川は、頷いた。

「はい、旦那様。」

二人は、黙った。

これ以上空気を乱しては思ったようだ。

樹が、言った。

「では、私もいつもの部屋に泊まらせてもらいます。私のスーツもシャツもここに置いてありますしね。」

彰は、頷いた。

「いつでも来てくれていいのだぞ。いっそここに住んだらどうだ。」

樹は、苦笑した。

「いつもそう言ってくださいますが、まあまだしばらくは今のマンションに住みますよ。」

今回みたいな時に、兄さんが逃げて来る場所にもなれるし。

樹は言わなかったが、そう思っていた。


彰と紫貴が部屋へと帰ったので、穂波が先に部屋のお風呂に入って来ると出て行ってしまい、要は遅れて帰ろうとまだ居間で座っていると、博正も樹もまだそこに居た。

要は、言った。

「…それにしても博正、美沙とはいつもあんな感じなのか?いつからなんだよ。昔は仲良かったって思ってたのに。美沙を実験台にしたくないから、君が研究所に通うことにしたんだろう?」

博正は、息をついた。

「何十年前の話をしてるんでぇ。まあな、最初はそうだった。オレ達はそれでうまくいってたさ。だが、オレは忙しいし一度出勤したらなかなか帰れねぇ。だから美沙が、こっちで何をしてるかなんて知らなかったんでぇ。」

さっきの男が云々か。

要は、バツが悪そうにした。

「まあ…ヒトに戻す方法を探すのにどうしても必要だったから、長く研究所に留めてた時もあったけど。」

博正は、息をついた。

「まあな、オレだって仕方ねぇと思ってたし、進んで検体になってた。でもあいつ…家に男を連れ込んでて。オレが怒って目の前で思わず狼になっちまったんで、相手は失神してなあ。それでちょっとおかしくなっちまって、美沙と会ってた時だったから、美沙を見たら怯えるようになった。それでそいつとは別れたけど、最初は一緒に居るのも嫌だった。でもあいつも人狼だし行き場がねぇだろ?だからまあ、そのままって感じ。別にいいんだよ、長く一緒に居るからその頃は妹みたいな感情だったし。オレ達はな、獣だからか、フェロモンっての?濃いみたいでめちゃくちゃ寄って来るんだ。美沙もその中の一人にほだされたんだろう。別にいいかって思った時に、あ、オレ別にもう好きでもねぇか、ってなっちまってなあ。それでも少ない同族だし、表向き夫婦で居るってわけだ。結婚してる方が、世の中いろいろ言い訳が立って便利だしな。」

樹が、言った。

「だが、それならヒトに戻せばいいではないか。もうその方法は確立されたのだろう?」

要が、頷く。

「そうなんだ。でも、博正が美沙も今さら人狼からヒトには戻れないって言ってるって言うから。」

博正は、ため息をついた。

「それなあ、オレは戻ったらどうだって言ったんだよ。だが、今さら夜目が利かなくなったり、聴こえなくなったり困るとか言うから。オレは今でも、美沙をヒトに戻して離婚していいと思ってるさ。でもな、最初はオレが美沙を人狼にしちまったからな…無理には戻せない。あいつが人狼で居る限りは、責任取ろうと思ってるよ。もういい歳だし、今更人に戻ってあいつが一人、生きて行けるかって言ったら疑問だ。オレだって下界じゃ女に困ってねぇし、いくらでも寄って来るから、その気になりゃ遊ぶ。美沙もそう。オレ達はそれでやってるのさ。」

夫婦というより、同族というのか。

樹も要もよく分からなかったが、それで良いとお互いが思っているのならいいのだろう。

要は、言った。

「でも、紫貴さんはダメだぞ。彰さんが死んでしまう。思えば昨日は悲壮な顔をしてたんだよな。離婚したらどうするんだよ。」

樹が、首を振った。

「それはない。」要が驚くと、樹は続けた。「兄さんは二人の仲が決定的でも、やめさせたいと言うだけだった。私は離婚を勧めた。だが、兄さんは首を縦には振らなかった。証拠を突きつけて、やめさせたいだけだと。それはつらそうなのに、絶対に離婚はしないと言っていた。だから私は、思い違いで良かったと思っているのだ。本当に紫貴さんがそんな人なら、兄さんはこれからもつらいだけだからな。」

要は、それを聞いて涙が浮かんで来た。

本当に紫貴を愛しているのが分かったからだ。

博正は、ため息をついた。

「あの人はいい人だ。最初から好みのタイプだったし、普通の人なのにこんな所に無理に押しきられて連れて来られてかわいそうにと思って、気にしてただけだったんだよ。だが、さっきも言ったようにオレ達人狼は異性にモテる。嫌になるほどな。なのにあの人は全くそんな感じがない。オレに対しても真司に対しても、まるで息子扱いだ。狼になれば犬のように可愛がってくれるしな。怖がることもなく。それが珍しくて、確かにあの人ならいいかって思う事もある。真司だってそうだと思うぞ。あの人にはフェロモンなんか利かねぇの。それがなんかな…いいって言うか。」

樹と要が、仰天した顔をした。

「こら、だめだって!他にしろよ、モテるんだから!」

要が言う。

樹も頷いた。

「これ以上兄さんを煩わせるな。そもそも義姉さんはその気がないんだろうが。」

博正は、肩をすくめた。

「ま、オレは一応既婚者だから。こっちからどうこうねぇよ。あっちから来たら別だけど。」

「それがダメだって言ってるの!」

要が叫ぶ。

するとそこへ、風呂上がりらしい素っぴんの穂波が顔を出した。

「何がダメなの?要さん、お風呂空いたよ。」

要は慌てて立ち上がった。

「ああ!ごめん、行くよ。」穂波が怪訝な顔をしながらも引っ込んだのを見てから、要は声を落として言った。「じゃあ行くよ。とにかく、紫貴さんはやめとけよ。」

要は、そう博正に釘を刺して戻って行った。

それを見送って、博正も立ち上がった。

「さ、オレも戻るかな。」と、誰にともなく、続けた。「別にオレは、女にゃ不自由してないってのによー。」

それでも、そう言う博正の声音は、どこか寂し気だった。

樹は、それを聞いてハッとした。

そういえば、その寄って来る女達の中で、博正が人狼だと知っている女性は何人居るのだろう。

人狼だと知って、それでも恐れず愛してくれる女性など居るのだろうか。そもそも、フェロモンの影響で寄って来た女達なのだ。

これは小説の中とは違う…実際に、人狼として姿も変えずに生きる男を、恐れず愛する女性など、現れるのだろうか…。

そう思うと、博正が気の毒になった。

今さら、ヒトには戻れないのだと聞く。

優れた聴覚と視覚、そして身体能力と理由の分からない若さ…。

それに慣れた者達が、今さらヒトに戻れと言われても無理かもしれない…。

樹は、戻って行く博正の背を見ながら、そう思った。

皆が皆、複雑な想いを抱えているものなのだな。

樹は、そう思いながら自分も彰にいつも使わせてもらっている、この屋敷の部屋へと移動して行ったのだった。


一方、紫貴と彰は、自分達の部屋へと帰って、それぞれ今夜は部屋の風呂で汗を流して、そして寝る準備をした。

それから、メイド達が持って来てくれていたレモン水にシロップを入れた物を飲みながら、紫貴が買って来たカフスボタンを前に、ベッドに並んで座って話をしていた。

「そんなに大層なものでもないのですから。」あまりに彰が大切そうにそれを扱うので、紫貴は言った。「もっと高価な物なら良かったのですけれど、宝石とかついていたらもっと高くて。私、あのお店で週に三日しか働いていなかったし、ひと月で12万円ぐらいしか稼げていませんの。恥ずかしいのですけれど。」

彰は、首を振った。

「これは、何よりも大切な物だ。君が一生懸命働いて私のために作ってくれたのだから。」と、愛おしそうにその小さな文字を指先で撫でた。「『私の愛するひと』だ。私も君に、何か記念に残るような物を渡したい。」

紫貴は、首を振った。

「もう戴いておりますわ。この結婚指輪も、婚約指輪もそうですから。全部彰さんが出してくださったんですもの。私だって、一つぐらい何かあってもと思ったんですの。よく学会とかに行かれるし、これを付けて行ってくれたらなあって…この人は私の愛する人なんですよって、名札を付けてる感じ。浮気できませんでしょ?フフ。」

彰は、浮気、と聞いて眉を寄せた。

「私がそんな事はあり得ない。だが、いつでもこれは着けて行く。君の心と一緒だ。」と、紫貴の手を握り締めた。「紫貴、私は君に謝らねばならないのだ。」

紫貴は、え、と目を丸くした。

「何をですの?どこかで女のかたと間違いでも?」

まあ、彰さんならあっちから寄って来るだろうし、何もないのが不思議だけど。

彰は、それを聞いてびっくりした顔をした。

「え、君はもしそうでも平気なのか。」

私はあれほど苦しかったのに。

彰がショックを受けていると、紫貴はため息をついた。

「あの、平気なはずはありませんけれど、私がこんな風なので、もしそうでも責めることもできません。でも、悲しいのは確かですし、だったら知りたくないので、できたら黙っていて欲しいですけれどね。」

彰は、驚いたまま言った。

「…私が不貞していても、君は離婚しようと思わないと?」

紫貴は、首を傾げた。

「そうですね…もう浮気とか、そんなものには疲れ切ってしまったので、できたら逃げ出したいのが本音ですわ。今度こそ信じるのだと彰さんと結婚したのですし。何かの間違いだと思って、一度ならもしかしたら我慢するかもしれません。でも、その時にならないと分かりませんけど。」

彰は、何度も首を振った。

「信じてくれていい。私は絶対に他の女などに手を出したりはしない。私が謝りたいのは、君を疑っていたからなのだ。」

紫貴は、びっくりした顔をした。

疑うって…。

「それは、もしかして私が浮気をと?」

だから目を合わせなかったのか。

紫貴は、彰が昨日からおかしかったのを思い出していた。

帰って来て目も合わせないで夕飯も食べずに、樹の所へ自分で運転して出て行ってしまい、帰って来なかった。

もしかして、誤解していたから?

彰は、続けた。

「私は…博正の車が森の木々の中にあるのをヘリから見つけてしまったのだ。いつもは最後まで見送ってくれる君が、すぐに中へと引っ込んだのも気になった。帰ってから細川に聞いたら、君は街まで歩いて菓子作りを習いに行っているという。そんなはずはない…博正と、会っているのだと思った。」

そう思っても仕方がない。

まさか、見られているとは思っていなかったのだ。

あともう少しでそんな思いはさせずに済んだのに、ギリギリの所でバレてしまっていたのだろう。

紫貴は、頭を下げた。

「申し訳ありません。だったらとても憤られたでしょう。慣れないことをするものではありませんわね。驚かせようと思ってしまったんです。喜ぶかなって…逆に怒らせてしまうなんて。」

彰は、首を振った。

「そうではないのだ。私が勝手に思い込んでしまって。それに、怒るより先に、悲しみが襲って来た。私がこんなに愛しているのに…それは苦しくて。ただ、やめて欲しいと思った。やめさせるために、事実を知りたいと樹の知っている調査会社に頼んでもらったのだ。」

紫貴は、驚いて彰を見つめた。

彰さんは、離婚しようと怒ったのではないの。

紫貴は、言った。

「彰さんは、私と離婚しようと思われなかったのですか?」

彰は、ブンブンと首を振った。

「例えそれでも、やめてくれさえしたらと思ったのだ。きっと、一時の気の迷いだろうと思って。私は君を愛しているし…君も私を、きっとまだ愛してくれているはずだと思って。そう信じようとしていた。だが、つらくて…。君は、こんな想いを前の結婚で何度もしたのだな。」

紫貴は、彰のその時の気持ちを思うと、涙が出て来た。

とても健気で、いじらしいと思ったのだ。

「そんなに…私のことを想ってくださるのね。」

紫貴が涙を流すと、彰は慌ててそれを袖で拭きながら、言った。

「何を泣くのだ。当然ではないか。ただ…私は、君を肝心なところで信じ切れていなかった。そもそも君が、そんな事をするはずなど無かったのだ。信じて待っていれば、今日答えが出たのに。樹にまで迷惑をかけて、こんなことに。」

紫貴は、首を振って彰の手を握った。

「私が悪いのですわ。彰さんが、気付かないはずなどないのに。もう少し配慮するべきでした。申し訳ないですわ…そんなつらい想いをなさっていたなんて。何も知らなくて。」

紫貴は、堪らず彰の頬に触れて、その唇にそっと口づけた。

彰は、グッと紫貴を抱きしめると、深く紫貴に口付け返してから、唇を離して、言った。

「信じていたらつらい事など無かったのだ。私が勝手に君を疑って、勝手に苦しんでいただけだ。君は何も変わらなかったのに。愛している、紫貴。これからはもう、疑ったりしない。疑問に思ったら、必ず君にその場で聞く。きっと君から、納得のいく答えが聞けるはずだから。もう怖がったりしない。」

紫貴は、頷いた。

「では、私も。もし同じような事があったら、私も彰さんに聞きますわ。信じておりますけど、彰さんには未だにたくさん女性が寄って来られるもの…私だって、心配になるのですわ。」

彰は、微笑んで紫貴と共にベッドへと沈みながら、言った。

「私はどうしたことか、他の女性は全てヒトという種の生き物ぐらいにしか見えなくて。病気かもしれない。」

真面目な顔でそんなことを言う彰に、紫貴は確かに病的なのではと思っていたこともあって、心底心配そうな顔をした。

「え、そんな病気がありますの?そういえば、クリスさんが前に脳というのは僅かな刺激でおかしな動きをすることがあるとか教えてくださったことがありましたけど、もしかして…。」

彰は、真面目に言う紫貴に、クックを笑った。

「そうではない。私の脳は正常だよ、君に関する以外は。私は専門ではないので詳しいことはクリスに聞かねば分からないが、この君を愛さねば気が済まない衝動が、毎晩抑えきれないのはどうしたことか。君も呆れているのは分かっているが、今夜は私の誕生日なのだから…いいだろう?」

紫貴は、苦笑した。

確かにもう歳なので、毎晩とか疲れるから少し間を空けてしませんかと紫貴に言われて、彰は落ち込んでいたことがあったのだ。

ほんの三週間ほど前のことで、久しぶりに仕事をしていて疲れていたから言ったことだったのだが、そんな事はその時の彰が知らなかったのだからそうなるだろう。

紫貴は、答えた。

「あれは、仕事を始めて久しぶりだったので疲れていたからですの。本当の理由を言うわけにもいかなくて、あんな風に申しました。でも、彰さんがそう望むのなら、いいですわ。愛しておりますから。」

彰は、パアッと明るい顔をして、頷いた。

「私も愛している。では、これからは良いのだな?」

紫貴は、彰の頭を撫でて、頷いた。

「はい。でも時々お休みの日も作りましょうね。」

彰は嬉々として頷いて、紫貴を抱きしめた。

「分かった、それはまた後で話し合おう。」

そうして、二人は幸せに夜を過ごしたのだった。

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