未知の未来
クリスと彰が、そのままステファンと別れてホテルへと戻って来ると、連れて来たメイド達が、ホテルのラウンジへと出たがる子達に付き合って出て来ていたので、紫貴も一緒にそこに居た。
子供達は、すっかりベルボーイやレセプションの人達と仲良くなっていて、話を聞いてもらっていた。
基本的に紫貴もメイド達も英語しか分からないので、子供達がドイツ語で何を言っているのか全く分かっていなかった。なので少し困っているようだったので、彰の顔を見た紫貴は、ホッとした顔をした。
「彰さん。」
と、まだ何かを話している新の手を握った。目を離す時は必ず側の子供の手を握ると決めているのだ。そして、こちらを見た。
「おかえりなさいませ。あの、子供達がせっかくドイツに来ているのだから、どうしても本場の方々と話したいと言って。こうして出て来たのですけれど、私達にはドイツ語が全く分からないので…子達が、何か失礼な事でも言っているのではないかと困っておりましたの。」
彰は、急いで紫貴に歩み寄ってその肩を抱いた。
「心細い思いをさせてしまってすまないな。」と、ベルボーイを見た。「君も。相手をしてもらってすまない。言葉を習得して誰かと話したくて仕方がないようで。妻は英語しか分からないので、子達が何か失礼な事を言っているのではないかと案じてるようだ。」
彰が、そうドイツ語で言うと、ベルボーイは微笑んで答えた。
「いいえ。とても流暢なドイツ語を話すので、珍しいと皆で話していたところだったのです。まるでアナウンサーのような発音ですね。」
まあ、毎日録画されたTagesschauを見ているからな。
彰は、そう思いながら聞いていた。
有名なニュース番組だった。
「…こちらのテレビが好きでね。」と、新を見た。「さあ、部屋へ帰るぞ新。私が居ない時に母に無理を言ってはならない。困っていたのに気付かなかったのかね?」
新は、ハッとして紫貴を見上げた。
「…すみません、お母さん。私が話せれば、問題がないと思っていたので。」
最初は幼児言葉だった新も、前世と同じくすぐに敬語で話すようになっていて、もう成長した新の片鱗がそこに垣間見えた。
紫貴は、苦笑して言った。
「良いのよ。でも、海外に来るとお父さんが居ない所では私も不安なの。できたらお父さんと一緒に外へ出てくれたら嬉しいわ。」
百乃が、言った。
「ごめんなさい、お母さん。でも楽しかった。お父さん、お腹空いた。」
すると、宗太が振り返った。
「僕も!お父さん、お腹空いた!」
穂波も寄って来て、彰に手を上げながら言った。
「穂波も!お腹空いたー。」
彰は、もう6歳で結構大きい穂波を、サッと抱き上げた。
「そうか、もう昼だものな。では、食事に行こう。」
紫貴も、急いで葵を抱き上げた。
全員が自分の受け持ちの子供の手を引いて、スタンバイした。
「では、私の知っている店へ行くぞ。子連れでも大丈夫なレストランだ。近いので歩いて行けるし、皆私に遅れずついて来るのだぞ。」と、片手で穂波を抱いているので、空いた片手で紫貴の手を握った。「行こう。」
紫貴だけは、どうあっても離さないつもりらしい。
だが、そうなると紫貴も片手で4歳の葵を抱いて行かねばならず、それは少しつらかった。
なので、歩き出す彰に言った。
「彰さん、葵はこの間計ったら16キロを超えていたのですわ。いくら何でも片手で抱いて行くのは私も辛いのですけれど。」
彰は、それを聞いてハッとした。
「確かに。」と、穂波を下ろした。「穂波、歩けるな?お母さんと手を繋ぐんだ。お父さんは葵を抱くから。」
だが、穂波はブンブンと首を振った。
「お父さんに抱っこ!抱っこがいいのー!」
普段から、なかなか彰に甘えることができないので、こんな時にはくっついていたいのだろう。
だが、あいにく彰は大人げなく紫貴とくっついていたい。
なので、言った。
「穂波、お父さんはお母さんを誰かに取られてしまっては困るので、手を放しておけないのだよ。」
そんな事はそうそう起こらない。
皆が思ったが、クリスが進み出て言った。
「穂波、おじちゃんが抱っこしようか?」
クリスと手を繋いでいた、新が言った。
「そうだよ穂波、私はお母さんと手を繋ぐから。クリスに抱っこしてもらってはどうか?」
穂波は、弟にそう言われてしまうと、無理も言えないと思ったらしい。
なので、渋々頷いた。
「分かった。クリスに抱っこしてもらう。」
新が紫貴の手を握り、クリスが穂波を抱っこして、彰は葵を抱いて、紫貴の手を握った。
そして、満足そうに言った。
「では、行こうか。」
やっと落ち着いた一行は、昼食を求めてホテルを出て歩いて行ったのだった。
レストランに着いてしまえば、子達はとても静かだった。
しっかり躾けられているので、騒いだり走り回ったりしない。
驚きの行儀の良さで、食事は穏やかに進んだ。
彰は、自分で粛々と食事を進める子達を横目に見ながら、紫貴に言った。
「紫貴。」紫貴は、隣りの葵から視線を彰に移した。彰は続けた。「ステファンが、一緒に日本へ行ってくれると言った。なので、ドイツに長く滞在する必要がなくなったのだ。」
紫貴は、びっくりして目を丸くした。
「え、ステファンさんを連れて帰るんですの?」
彰は、頷いた。
「そうなのだ。ステファンも前の生を覚えていて。私を待っていてくれたようだった。今回、幸福になった私を見て、喜んでくれていた。案じていた癌も、私のためにと先に治療していて、今のところ問題ないようだ。だが、再発のこともあるし、共に研究もしたいしで、連れて戻るのが一番良いと思ったのだ。」
紫貴は、驚いたまま言った。
「でも、よくいきなり承諾してくださいましたわね。ビザは大丈夫ですの?」
彰は、肉を切りながら頷く。
「私の会社で雇う事にするから。就労ビザを申請するよ。しばらくは、屋敷で共に研究に勤しもうと思っているのだ。研究所からオファーが来たら、そちらへ移る。どちらにしろ、ステファンの予後を見守るためにも、その方が良いと思っていたし、ステファンもそう考えて承諾してくれたのだと思う。」
また間下さんが大変ね。
紫貴は思ったが、彰が何とかしてドイツに一人で留まらなくても良いようにと考えた末の事なのだろうし、頷いた。
「ステファンさんが承諾してくださって良かったこと。では、私達と共にあちらへ来られるんですの?お荷物とか、あと九日しかありませんけどまとめることはできるのかしら。」
彰は、もぐもぐと咀嚼していたが、飲み込んで答えた。
「ステファンは出来ない事は出来るとは言わない。突然の事だったが、問題なくすぐに準備すると答えてくれたよ。なので君は心配することはないのだ。ただ、ステファンの分の帰りの飛行機の席を取らねばならないから、さっきホテルに戻って来る時に電話で細川に手配を指示しておいた。葵の分の席を空けさせてそこへ乗せた方が良いのかもしれないな。」
子達にまで、一人分の席を取っているものね。
紫貴は、頷いた。
「でしたら、寝る時は私が一緒に寝るので問題ありませんわ。普段はあちこち走り回っておりますしね。」
彰は、頷いた。
「離着陸の時は私が膝に乗せていよう。そのように指示しておくよ。」
紫貴は頷いて、食事を進める。
何もかも、一度生きた未来とは、違った方向へとどんどんと進んで行っていた。
ステファンは、身の回りの始末を最速でして共に日本へと来た。
大学はちょうど夏休みに入っていたが、それでもいきなり辞めると言い出したので向こうはかなり渋ったようだったが、そもそもステファンはそんなことは気にしない。
辞めると言ったら辞めるので、さっさとその日のうちに研究室を引き払ってしまったらしかった。
「私の荷物などそう多くはないからな。」ステファンは言った。「積み上げていた資料も、もう頭に入っているから必要ないし、全部ゴミに出して来たのでせいせいしたよ。後から荷物は来るが、衣料品ぐらいのものだ。」
流暢な日本語でそう言うステファンは、もうすっかり子達とも打ち解けていて、屋敷の居間で茶を啜りながら落ち着いていた。
飛行機の中で、散々子達にドイツ語で話し掛けられてもう、しばらくは日本語で通すつもりらしい。
紫貴が、言った。
「飛行機では子供達が申し訳ありませんでしたわ。覚えたての言語なので、使いたくて仕方がないようですの。」
ステファンは、苦笑した。
「いいのだ、紫貴。君には感謝しかないのだよ。よくこのジョン…いや彰を幸せにしてくれたものだ。本当に何もかも拒絶しているような生き方をしていたので…心配で死にきれなかった。あの時は、治療はしないと言ったが、私はもう遅いと知っていたからなのだ。だからデータを取らせて彰のそれからの目標を作ろうとああ言って私を検体にするよう言った。」
彰が、え、と目を丸くした。
「…治療などしない、データを取れと言ったのは、だからなのか?」
ステファンは、頷いた。
「そう。今思うと言葉が足りなかった。あれから治療しても、全く間に合わなかった。私にはそれが分かっていたのだ。君は少しでも延命をと願っていたが、そんなものはなんの役にも立たない。だから、どうしても死ぬのなら君に目標を残そうと思った。私のデータを始めに、研究を始めてくれたらと。君は成したのだろう?」
彰は、それを聞いて確かに、と思った。
ステファンのデータを元に、何も手を加えない場合のデータを細かに残していけた。
それを持って、あの研究所へ行ったのだ。
「…私は、人類を癌という病から、解放したかった。苦しまず、簡単に治る方法をと。そればかりでした。そのために、無理な実験もしました。そのうちの一つが、この人狼化計画で。」と、ファイルを渡した。「まずは細胞を、思うように動かす術を探していました。そして、その一部を見つけた…私は、ある条件が揃ったヒトを、細胞の配列を替えることで狼にすることに成功したのです。」
ステファンは、驚いた顔をして、そのファイルを受け取った。
紫貴は、仕事の話になる、と思ったのか、席を立った。
「私には難しいお話になりますでしょう。子達のことが気になりますので、失礼しますわ。」
紫貴は、そこを出て行った。
ステファンは、それには構わずファイルの中身を食い入るように見た。
「…なんと。こんなことをしたのか。」
彰は、頷いた。
「思えば無謀な事でしたが、あの時の私は半ば狂っていたのでしょう。検体をそうと知らせず集めては実験を繰り返しました。ですがそのお陰で、シキアオイの開発に成功しました。これは、本来ならば28の時に出来上がったものでしたが、組成を覚えていましたのでもう完成しました。計器の開発が追い付いたのもあり、シキアオイまでの第一段階としてこれをここで精製しました。」
彰は、小瓶をステファンに見せた。
ステファンは、顔を上げた。
「…現物があるのか。」
彰は、頷いた。
「はい。実は、これに以前生きていた時に協力してくれていた真司という22歳の青年には、もう投与しました。なぜなら彼も覚えていて、人狼としての優れた嗅覚、聴覚、視覚を取り戻したいとこの薬を熱望してくれていたからです。博正という男も同じく望んでいるのですが、まだ14歳で。できたらあと二年は育ってからにしたいので、彼には待ってもらっているのですが。今すぐやれと、矢のような催促を受けていまして。」
ステファンは、真剣な顔で頷いた。
「その真司に会ってみたい。その男のデータは?」
彰は、ファイルをめくって指を差した。
「ここです。」
ステファンは、また食い入るようにそれを見た。
そして、頷いた。
「…私も合致する。」彰がびっくりした顔をすると、ステファンは続けた。「私も人狼になれる。自分の細胞のデータは頭にある。私は君が書いている条件に合致する。君は無理なようだが、私を検体にしてみろ。」
彰は、慌てたように言った。
「待ってください、年齢が。耐えられるかどうか、高齢の被験者は居なかったので私には判断できません。あなたは67でしょう。」
慌てる彰に、ステファンはフフンと笑った。
「新しいデータが取れるではないか。」彰は、それに黙る。ステファンは続けた。「やるのだ。問題ない。面白いではないか。私にはできなかった事を君はあっさりやってのけたのだ。回りの何でも検体に使うように言ったのは私だ。さあ、その薬を、私に。」
彰は、渋ったがステファンは自分と同じで言い出したら聞かない。
やっと助けたステファンを、自分の薬で失くしたくはないが、もうステファンは決めてしまっているのだ。
彰は震える手で、真司にはあっさり投与した薬を、ステファンには迷いながら投与することになってしまったのだった。




