ステファンのために
結局、何を考えることもできなくて、そのまま時は過ぎて行った。
本来彰が行きたいと言っていた年も過ぎ、百乃は立派に小学校に入学した。
もちろん、普通の小学校では本人もあちらも困るので、特別な私立の小学校で、様子を見させることにしたのだ。
もし、百乃が授業が簡単過ぎて面白くないと言うのなら、小学校はやめて、自宅学習をさせて中学からまた様子を見るか、それも面倒なら、もう16歳まで待って、大検を取らせてさっさと大学へと進学させる方がいいかもしれない、と先々を考えていた。
百乃は、勉強自体は全く面白くないと言うものの、友達と遊ぶのはおもしろいらしい。
言葉が全く通じなくて驚くこともあるらしいが、そんなものだと段々理解して来られたようだった。
それでも、飽きて来たら家でお父さんかクリスに勉強を教えてもらう、と百乃は言っていた。
多分その方が良いのだろうが、百乃が良いと言う限りは、通わせることにした。
次の年、彰は26歳だ。
もうどうあっても渡独しなければ、恐らくステファンの命は無い。
百乃は8歳、宗太は7歳、穂波は6歳、新は5歳、そして、葵は4歳に成長していた。
どうしたものかと困っていると、その様子を見た紫貴が、ため息をついて、言った。
「…一度、皆で参りますか?」彰が驚いていると、紫貴は続けた。「私達は、10日ほどで帰ります。でも、彰さんが残るのかどうするのかは、あちらでステファンさんにお会いしてからにしてはどうでしょうか。皆、ドイツ語は習得できたようですし、一度実践の場を与えても良いかと思いましたの。もちろん、メイドさんを数人一緒に連れて行って、一人一人をしっかり見守れるようにしていきたいと思っていますが、どうでしょうか?」
彰は、まさか紫貴が一緒に行ってくれると言ってくれるとは思っていなかったので、明るい顔をして紫貴の手を握った。
「本当か。私は…様子だけでも見に行きたいと思っていて。だが、君達と離れ難くて困っていたのだ。」
紫貴は、苦笑して頷いた。
「はい。彰さんのお気持ちは分かりますわ。私も、31歳になりましたし、できましたら今回は、ずっと一緒に居たいと思っていましたから。でも、ドイツには私達は留まりません。あくまでも、彰さん次第ですわ。それでもよろしい?」
彰は、何度も頷いた。
「それでいい。すまないな、紫貴。君はそれでなくても飛行機が嫌いだし、また数時間苦労を掛ける。」
紫貴は、フフと笑った。
「もう慣れましたわ。大丈夫です。でも、子達がじっとして居られないかもしれないのが気になりますけど。」
彰は、頷いた。
「大丈夫だ。航空会社は選ぶし、ファーストクラスを貸し切るから。どんなに暴れても大丈夫、他に迷惑はかけないだろう。そもそも、うちの子達は暴れ回って手が付けられないような事は無いからな。」
恐らく大所帯になるので、貸し切らなくても貸し切ったようになってしまうだろう。
何しろ、彰、紫貴、クリス、子5人、メイド達二人の総勢10人になるだろうからだ。
一人に一人ずつ子達を振り分けるため、こうなるはずだった。
そうと決まれば、話は早い、と、渡独に向けて粛々と準備が進んで行ったのだった。
これまで、チャーター便にしか乗ったことが無かった子達は、大きな飛行機に喜んで目を輝かせていた。
その前の座席を知っている者達みんなで座っていたので、結局中はチャーター便とはあまり変わらない状態だったが、一人に一つ座席があって、それがとても大きいので皆、喜んでいた。
それに、キャビンアテンダントの方たちが、とても親切に対応してくれた。
葵でも4歳になっていたので、皆おとなしく行儀よくしていて、問題なく離陸することができた。
安定してシートベルトも外れた辺りで、子達は集まって床に座り込み、お絵かきをしているのかと思いきや、ドイツ語の復習を皆でやっていた。
新が一番多く単語を覚えているので、皆に淡々と説明し、それを皆でウンウンと聞いている。
見ていると、やはり新が一番彰に近い能力を継いで生まれているようだった。
何しろ、この中で広辞苑を全て丸暗記していて、その他辞書を難なく暗記しているのは、新だけだったからだ。
他は覚えているものの、あまり使わない単語は忘れていたりするのだが、新に限ってはそれがなかった。
そんな特殊な子供達を見て、キャビンアテンダント達は顔を引きつらせていたが、子達はそれが楽しくて、これから行く実践の場がテーマパークぐらいにしか思っていないので仕方がない。
頭を使うことを、それは楽しむ子達だった。
そうやって問題なく移動を済ませた一行は、一人に一人ずつ子供を抱いて、通関してホテルへと移動した。
子達はさっそく、税関の職員にドイツ語で話しかけていて、あちらは驚いた顔をするものの、笑顔で対応してくれていた。
それはもちろん、ホテルでもそうで、ホテルの従業員達に片っ端から話しかける幼い東洋人達に、皆が注目していた。
子達にしたら、これまでの練習の成果を出す場所という認識なので、話がしたくて仕方がないのだ。
だが、そんな子達も彰の号令一つでサッと集まって来て目の前に並ぶのには、本当に訓練されたおさるのようだった。
追い掛け回すのが大変なので、この習慣はこういう時には本当に助かっていた。
その後、紫貴達をホテルに置いて、先に見学させて欲しいと連絡しておいた大学へと、彰とクリスは向かった。
向こうでは、彰が特に見たいと言っておいた、細胞学の研究室へと案内してくれた。
懐かしいその佇まいに彰が見回していると、案内の人が言った。
『ああ、ステファン。』彰が慌てて振り返ると、そこには記憶にある姿が、立っていた。『あなたの研究に興味があるようで。日本から遥々やって来たんだ、今日は拒絶しないでくれよ。』
そう、ステファンは見学者など気が向かないと意に介さない。
話しもせずに追い返すなどしょっちゅうだったのだ。
彰はそれが心地良かったものだったが、今はそれがうらめしかった。
多分、嫌だと言うのだろうなとどう説得しようかと構えていると、ステファンは言った。
『…名前は?』
彰は、躊躇ったが、答えた。
『ジョン・スミス。日本ではアキラ・タセミネと呼ばれていますが、海外では皆ジョンと呼びます。』
ステファンは、頷いた。
『そっちは?』
クリスは、慎重に答えた。
『クリス。日本では、タダシ・オオキです。』
ステファンは、頷いた。
『ハリス、もう君はいい。私が面倒見る。』
ハリスと呼ばれた、案内人は驚いた顔をした。
『え、いいのか?』
ステファンは、眉を寄せた。
『案内して欲しいんだろう?』
ハリスは、慌てて頷いた。
『ああ、そうだよ、ありがとう。』と、彰とクリスを見た。『では、御用が終わりましたらまた受付にお声をお掛けください。私はこれで。』
気が変わっては大変だと思ったのか、ハリスは飛ぶような足取りで駆け出して行った。
残された彰とクリスが、どうしたものかとステファンを見ると、ステファンは、二人に背を向けた。
『こっちへ。私の執務室が隣りだ。』
執務室に入れてくれるのか。
彰は驚いた。
最初から、云わばステファンにしたら家に値する部屋に迎えてくれるなど、考えられなかったからだ。
だが、無言で歩き出すステファンの老いた背中を、彰は急いで追って行ったのだった。
そこは、記憶と何も変わらなかった。
いろいろな物が乱雑に置かれてあって、置いた本人でなければ書類を探し出すのも至難の技だろう。
彰が来てからいくらか整理して分類したものだが、今はまだその状態だった。
クリスが、小声で言った。
「…私は、遠慮しましょうか?」
彰が頷こうとしていると、ステファンが振り返った。
「…別に居たらいい。」出てきた流暢な日本語に、彰もクリスも驚いた顔をした。ステファンはクックと笑った。「なんだ、私が話せると知らなかったのか?」
知らなかった。
彰は、混乱する頭で必死に考えた。
ステファンは、確かに日本語は話せなかったはずだ。
彰と接するようになって、少しやったがそれまでは日本語の「に」の字も知らなかったはずだ。
興味がなかったからだ。
それが、今は流暢に話している。
「あなたは…日本語をいったいどこで?」
ステファンは、うっすら微笑んで、手を振った。
『ま、座れ。』と、ドイツ語で言った。二人が座ると、続けた。『ジョン、君は何も覚えていないか。私はおかしなことに君を知っているのだ。本来もっと早くここへ来たし、友達など連れて来なかったが今回は違うな。この老いぼれが、何を言っていると思うかもしれないが。』
彰は、ブンブンと首を振った。
『何を言うんです。私があなたを忘れるとでも?私は、あなたに会うためにここへ来た。あなたが私を幸せにと思ってくださっていたのは知っています。私は、幸福になった。あの後、結婚して子供もできました。あなたに報告にも行ったのですよ…知らないのでしょうが。』
ステファンは、顔をしかめた。
『知らないな。というか、君に看取られて死んだ後、それは君が気掛かりだった。そして、ハッと気付いたら、私はまたここで研究していたよ。ほんの十年前のことだ。』
ステファンは、十年前に思い出した。
つまり、今が67だと記憶しているので、57の時まで知らずに二度目を生きていたのだ。
『…私は、五歳の時に思い出しました。』ステファンが驚いた顔をする。彰は続けた。『そこから、よりよく生きるためにここまで生きて来ました。なので、妻とも子供の頃に再会し、早くに結婚して今では5人の子供が居ます。今回、連れてドイツに来ています。』
ステファンは、さすがに驚いた顔をした。
『なんだって、5人?それはまた極端だな君は。あの時は、女性などゴミを見るような目で見ていただろうが。それが、今の歳で5人だって?五つ子か?』
彰は、そうなるわなとため息をついた。
『全部年子で。というか、あなたに健康診断を受けさせようと来たのですよ。あの様子だと、ちょうど今頃発症でしょう。あなたを助けようと思って。』
ステファンは、フフンと鼻で笑った。
『私を助けようと?君が?』と、身を乗り出した。『遅い。もう見つけてさっさと取った。私が死ぬ時の君の悲壮な顔が忘れられなくてな。子供を放り出した気持ちになってしまって。今回は君にとことん付き合って、幸せになるのを見届けてから死のうと思って頻繁に検査を受けていたのだ。まだ寛解とは行かないが、私は今健康だよ。問題ない。』
もう発症していたのだ。
彰は、ホッと胸を撫で下ろした。
ステファンが覚えていて検査を受けていたのが功を奏したのだ。
『…良かった。』彰は言った。『あなたのことが心配で。手遅れにならないうちにと、そればかり。前回のことを考えて、幸せにと早くに結婚して子供もたくさん持ったので、よく考えたらあなたが私を受け入れてくれるのかと悩んで来るのが遅れたのですよ。まさか、まさかあなたが、憶えていてくれるなんて思いもせず…。』
彰は、涙を流した。
ステファンは、そんな彰の頭をポンポンと軽く撫でると、言った。
『私が私の息子のことを忘れるはずなどないだろう。まあ、十年前まではすっかり忘れていたがな。』と、笑った。そして、日本語で言った。「この魅惑的な言語も、その時に学び始めたのだ。次に会う時には、もっと理解してやろうと。だが、必要なかったか。」
彰は、首を振った。
「あなたの気持ちが嬉しいです。」
ステファンは、頷いておろおろしているクリスを見た。
「で、そっちは?友達か?」
クリスは、首を振った。
「いえ、私は部下で。」
しかし、彰は言った。
「友人です。」クリスが驚いた顔をする。彰は続けた。「かつての部下で。同じように覚えていてくれたので、今は友として一緒に行動しています。」
クリスは、それを聞いて涙ぐんだ。
ステファンは、頷いた。
「良かった。君は自分の手で幸せを掴んだのだな。私の手はもう必要なかったか。」
だが、彰は首をふった。
「いいえ。ステファン、私と一緒に日本へ行きましょう。」ステファンが、驚いた顔をする。彰は続けた。「私はもうすぐ隠れた国立の研究所からオファーを受けて、そこの責任者として入所することになるはずです。そのために、自宅に作ったラボで研究を重ねて論文を多数発表して来ました。」
ステファンは、それにはすぐに頷いた。
「知っている。君の名前はかなり有名になって来たからな。ここの見学をあっさり了承されたのも、そのせいだろう。今では君に相談したいと言う同業者が山ほど居るぞ。どこの研究所も大学も、君を獲得しようと躍起になっていると聞いている。ここもその一つだ。」
彰は、頷いた。
「ですが私は、前回と同じ道を行きます。何よりあそこは名前が表に出ないので、やりたいことをやりたいようにできるのですよ。私の存在を、上手く隠してくれる。私はそこの所長として入所します。なのであなたも、そこで共に研究してもらいたいのです。」
ステファンは、考え込む顔をした。
そもそも目立つことが嫌いで、この小さな大学に腰を落ち着けて部下達に成果を発表させ、それでいいと思って生きて来た。
だが、別にここに固執しているわけでもない。
ここで骨を埋めようと思ったのは、前回は彰が来た時だった。
だから、墓もその時買ったが、死んだ後もここに残る彰の心の支えになれればと思ってやったことで、他意はない。
彰がその研究所に行くのなら、別に自分もそれについて行ってもいいのだ。
場所にこだわりはないし、何より彰と研究するのはおもしろかった。
「…そうだな。行こう。」
クリスが驚いた顔をする。そんなに簡単に決められるものなのか。
だが、彰は顔を明るくした。
「良かった。ならば私は9日後にここを発つので、準備ができたら一緒に行こう!しばらくは私の屋敷に滞在してそこで共に研究して、オファーがあったら研究所に。」
ステファンは、苦笑した。
「また急だな。まあいい。渡航手続きに時間が掛かるかもしれないぞ?」
彰は、頷いた。
「それはいい!私が何とかする。私の会社の社員ということにして、すぐに就労ビザを手配するから。とりあえず、観光で入国したらいいのだ。」
私の会社と言っているが、社長は間下で彰は会長だ。
恐らく医療機器メーカーの方だろうが、あちらもいきなり大変だなと、クリスは思って聞いていたのだった。




