帰還
それぞれの夜は過ぎて行った。
優子は、紫貴が悩んでいるのを知っていた。
彰がどうやら紫貴に結婚したいと思っていると言ったらしいと健一郎に聞いた時から、優子は紫貴の性格を知っていたので、自分と同じように悩むだろうと思っていた。
だが、それは紫貴の中で消化して、何とか乗り越えねばならないことだ。
優子も、長い時間をかけて悩んだものだったが、それでもそれは間違いではなかった。
確かに健一郎は、自分と結婚するために自分の元夫を陥れたのかもしれない。
だが、それも自分をここまで頑なに愛してくれるからなのだと思うと、すんなり諦められなかったということなのだと理解もできたし、あっさり自分を裏切る元夫の性格を、早くに知れて良かったとすら思った。
ここで、紫貴が彰を選ばず誰かと結婚したとしても、恐らく彰は紫貴を諦めることもなく、ずっと追い続けて行くだろう。
紫貴が、その男と別れて自分を省みるその時を待ち、淡々と回りを固めて画策するはずだった。
何しろ、あの男達は半端なく頭が良いのだ。
もう、諦めて信じてしまう方が、きっと紫貴も楽になるのに、と優子は思って自嘲気味に笑った。
諦めてと言っているが、実際自分は諦めてなどいないし、とても愛していてそれは幸せだ。
健一郎を失うことなど、今の自分は考えられなかった。
68歳にもなって、まだ愛しているなんてね。
優子は、そんな相手が居ることに、それは幸福だと悩む紫貴を背後に感じながら、ベッドの中で目を閉じたのだった。
次の日、朝から九州へと上陸したのだが、紫貴はとても暗かった。
昨日、彰の事について言及し過ぎたかしらと優子が気にしていると、健一郎も彰も案じて、腫れ物に触るような対応をしている。
優子は、フッと肩で息をつくと、健一郎に言った。
「…健一郎さん。」健一郎が、こちらを向く。「私、少し疲れたので先にホテルへ行って休んでから観光地へ行きたいですわ。今日行く予定だった船に乗るのは、私達は明日でもいいでしょうか?」
紫貴が驚いた顔をしたが、健一郎は何度も頷いた。
「本当か。大丈夫か、優子。もう歳だし、お互いに無理は良くない。」と、慌てて優子の手を取って、彰を振り返った。「ホテルで待っているから、お前達は予定通り行って来るといい。優子に無理はさせられないからな。」
健一郎が、こう言い出したら梃でも動かないだろう。
彰は、暗い紫貴と二人で大丈夫だろうかと思ったが、頷いた。
「分かりました。ごゆっくりなさってください。」
健一郎は頷いたが、もうこっちを気遣う様子もない。
優子が疲れたと言っているのが、心配で仕方がないようだった。
彰はそんな様子にため息をついたが、紫貴はやっぱり健一郎は優子が言った通り、あの歳になってもぶれずに優子を愛しているんだと、思いを新たにしていた。
彰は、紫貴に言った。
「…では、二人で船に乗りに行こうか。楽しみにしていただろう?」
紫貴は、頷いた。
「はい。あの…彰さん。」
彰は、紫貴を車に先に乗せながら、紫貴を見た。
「どうした?」
彰は、紫貴の横へと乗り込みながら、言った。
「あの…私の。前回のって言っていらしたこと。詳しく聞いてよろしいですか?」
車が、静々と進み始める。
大きな車で静かなのだが、運転手が遠くて良く見えないほどだった。
だが、それだけに個人的な話をしていても聴こえなさそうだ。
彰は、紫貴を見つめて、頷いた。
「君が聞きたいと言うのなら。何を聞きたい?」
紫貴は、頷いた。
「はい。あの…私は、誰と結婚していたのでしょうか。出会っている人ですか?」
彰は、それこそ言いたくなさそうな顔をしたが、答えた。
「…会っている。前回は職場で会って子供ができたから結婚したのだと聞いたが、今回は友達繋がりで会っている。…克彦だ。」
紫貴は、目を見開いた。
私は、あの人と結婚していたのか。
「…でも、私、結婚どころかあの人と二人で…その、そんな関係になるとか、考えられなかったんですけど。なんだか、信じられないような気がして…。」
彰は、頷いた。
「だろうと思う。長年あんな目にあわされていたのだから、どこかで覚えていて、どうしても拒絶反応が出るのではないかと思うのだ。そもそも、浮気ばかりの男で、収入はあったが君には暴言も吐いて、それはつらかったらしい。だが、子供が居たので、育つまではと我慢して、育って皆が就職したのを待って、離婚したのだと聞いている。」
紫貴は、真剣な顔をした。
「子供は何人でしたか?」
彰は、それにも答えた。
「三人。離婚して私と再婚した後には私の養子にした。女、男、女の三人で、百乃、宗太、穂波という名前だった。生前贈与でビルやマンションを分けていたので、三人共経済的に潤っていて、困ってはいなかった。私との間には、新という息子が出来た。合計四人だった。」
紫貴は、途端に困ったような顔をした。
「それは…私があの人と結婚しなかったら、三人も生まれないということですの?」
彰は、慌てて言った。
「そんなことはない!私との間に四人産めばいいではないか。大丈夫、私は彼らの事をよく覚えているから。生まれて来たら分かる。」
紫貴は、考え込むような顔をした。
そういうパラドックスは、本当に分からないのだ。
そもそも、自分がそんな風に生きて来たという事実を、自分は覚えていないのだ。
「…そうですわね。覚えていないというのが…本当に申し訳ありませんわ。彰さんが嘘を言っているとは思っていないのですが、それでも信じるのに時間が掛かります。だって、私には分からないことばかりなんですもの。」
彰は、何度も頷いた。
「分かっている。君に、記憶を戻せとせめているわけではないのだ。ゆっくり考えてくれたらいいのだ。」
とはいえ、今回プロポーズするつもりなのだが。
彰は、ため息をついた。
やはり、船でのプロポーズは、祖父が言う通り止めた方がいいな。
そんな事を話している間に、車は船着き場へと到着したのだった。
結局、船で周遊している間、そんな話題は全く出なかったし、見た感じ、紫貴は心から喜んでいるようだった。
彰もそんな紫貴を見ていると、幸せになって来て、あの紫貴が婚姻届にサインしてくれた日の事を思い出して来て、胸が詰まった。
あの日、紫貴は自分に紫貴自身を許してくれた…。
あんなに、幸せを感じた事は、それまでの人生ではなかった。
彰が感慨深くそんなことを考えながら、観光から戻って来て祖父たちの待つホテルへと到着すると、祖父たちは最上階の予約していた部屋に入っているようだった。
紫貴と優子が同じ部屋で、彰と健一郎が同じ部屋となるのだが、今は健一郎と優子は同じ部屋に居るらしい。
あの二人は片時も離れたくないのだから、恐らくそうだろうとは思っていたが、紫貴は自分が居るばかりに、と、気を遣った。
優子はそうでもなくても、恐らく健一郎は優子の側が良いだろうからだ。
それでも、二人は何も言わずに、快く彰と紫貴を迎えてくれた。
そうして四人で、それは豪華な懐石料理を食べて、その日は暮れて行った。
優子と健一郎は、食後にバーへと行くと言って、出掛けて行った。
紫貴は、彰に誘われて部屋のバルコニーへと出て、夜景を眺めた。
「わあ…綺麗!お部屋からこんなに綺麗な夜景が見えるなんて。」
紫貴が歓声を上げる。
こうして見ると、やはり今の紫貴はまだ少し幼い。
彰は、微笑ましく思ってそんな紫貴を見ていた。
大人の紫貴は、あまり感情を素直に現すことができなくなっていて、晩年の方が楽しそうに笑うことが多かった。
彰は、二人で夜景を眺めながら、ドイツで見た夜景を思い出していた。
もう一度、あの夜景を二人で見て笑い合いたい。
彰は、そう思って胸から思い切って指輪の箱を出し、それをパカと開いて、言った。
「紫貴。」紫貴は振り返って、ハッとした顔をした。「…きちんとこうして申し込みたかったのだ。私と結婚して欲しい。」
紫貴は、戸惑った顔をしたが、その指輪を見て、固まった。
「…見たことが無いデザイン…。」
思わずつぶやくと、彰は頷いた。
「そうだろうな。何しろ、今から27年後に、ドイツで買ったデザインを思い出して、同じ物を作らせたので、これは本当なら今の世の中には存在しないのだ。前は焦ってしまって…結婚してから、婚約指輪を渡したほど、急いで結婚してしまって。反省したので、今回は絶対に先に渡しておかなければと。」
紫貴は、じっとそれを見つめた。
まだ、迷っているのだ。
彰は、空いた方の手で紫貴の手を握り、一生懸命訴えた。
「紫貴、私は君との約束は絶対に違えないから。私は君と結婚する時、君の最期の時まで生き抜いて、必ず君を痛みも苦しみもない状態で見送ってから、私も逝くと約束した。私は、老衰で君が死ぬ時傍に居て、見守っていたよ。そうして、その直後私も、老衰で逝った。君を腕に抱いたまま。私は君との約束を守った。今回も、絶対に守る。だから、私を信じて結婚して欲しいのだ。」
紫貴は、見る見る目を見開いた。
かと思うと、ボロボロと涙を流した。
え…?!
彰は、まさか泣くとは思っていなかったので、慌てて指輪の箱を閉じると、急いで胸に収めて言った。
「すまない、そんなに君を追い詰めるとは思わなくて。」と、今度は胸からハンカチを引っ張り出した。「泣くんじゃない。悪かった、もう言わないから。」
だが、オロオロしている彰に、紫貴はいきなり跳び付いて来たかと思うと、びっくりしている彰の唇に、自分の唇を重ねた。
…え…!!
彰は、珍しく混乱してすぐには何が起こっているのか判断できなかった。
だが、すぐに紫貴が自分に口付けているんだと気付いて、咄嗟に紫貴を抱きしめて、それに必死に応えた。
…ああ…私はこんなに幸せだったのだ。
彰は、久しぶりに紫貴と愛情を確かめ合うことができて、それがどれほどに幸せだったのか思い出していた。
しかも、今回はたった18歳で紫貴とこうして共に居る。
紫貴は、まだ誰にも傷つけられておらず、最初から守ってやることができる。
それが、何よりうれしかった。
しばらくそのまま口づけ合っていたが、やっと唇を離すと、まだ抱き合ったまま、お互いに見つめ合った。
紫貴は、まだ涙を流して彰を見ていたが、その目は愛情に満ちていた。
急にそんな風になったのに、彰が嬉しいのだが戸惑っていると、紫貴は言った。
「彰さん…!私、私、ごめんなさい。どうしてだが、全く思い出しませんでしたの。絶対に、あちらで会うんだって思って死んだのに。気が付いたら、今で…。今、あなたが私が死ぬまで生き抜いてくれるってお話を聞いた時、一気に最期の時が目の前に映像になって現れて、全て思い出しましたわ。私達、また戻って来てしまいましたのね。」
彰は、目を丸くした。
「紫貴…?思い出したのかっ?!」
紫貴は、何度も頷いた。
「はい。あなたが仰ることが、嘘ではないのは今、分かりました。でも、彰さんは五歳の時から、この記憶をお持ちだったなんて。長い間、お待たせしてしまいましたこと…。」
彰は、熱いものが胸をついて、自分も涙が浮かんで来るのを感じながら、首を振った。
「いいのだ。君が覚えていたら、私は帰国して君を見た直後にもう、第二次性徴は迎えていたから、我慢ができなかったと思う。君からしたら犯罪行為だし、問題だったと思う。今なら私は結婚できる年齢だし、問題ないじゃないか。」
紫貴は、ポッと赤くなった。
「ま、まあ彰さんったら。まだ成人なさってないのですし、私はご成人まで待ちますけれど。後二年ほどでしょう?あの時は何も知らないから、結婚を焦っていましたけど、今は分かっていますし大丈夫ですわ。」
彰は、ブンブンと首を振った。
「そんな。せっかく君が思い出したのに。どれだけ我慢していたと思うのだ。ずっと傍に君が居て、隣りの部屋に寝ているのに触れることもできなかった数年だったのだぞ?もう無理だ、我慢できない!百乃達も合わせたら、産んでやれなかった葵まで五人だぞ?今から頑張らないと、また新が拗ねて長生きさせると不老不死などという無謀な事に時間を使う事になってしまうではないか。」
五人も産むのか。
紫貴は思ったが、確かに全員産んでやりたい。
皆に会いたいし、葵には今度こそ育って幸せになってほしい。
紫貴は、頷いた。
「はい…。あの、でも来年は渡米されるのに。あちらで産むのですか?」
彰は、頷く。
「問題ない。君も英語が分かるし、そもそも私が取り上げるから。心配ないぞ。」
まだできてもいない子供の出産の話になっている。
彰は、胸からまた指輪の箱を出すと、パカと開いた。
「さあ。私と結婚してくれないか、紫貴。」
紫貴は、笑って手を差し出して、頷いた。
「はい、彰さん。」
彰は、微笑み返して指輪を抜き取ると、紫貴の左手の薬指に挿した。
紫貴は、それを前へと翳して、光る指輪を眺めた。
「綺麗…!あの時戴いた指輪とそっくりですわ。ありがとうございます。」
彰は、満足げに紫貴の肩を抱いた。
「良かった。本当に良かった…。」と、部屋の方へと足を向けた。「では、今夜は共に休もう。祖父も祖母も、本当は一緒の部屋が良かっただろうし。私達は結婚するし、今回は一緒でいいな。」
紫貴は、え、と彰を見上げた。
「え、もう?」
彰は、顔をしかめた。
「え?記憶が戻ったのだろう?いいじゃないか、もう我慢したくない。本当にもう、勘弁してくれないか。」
紫貴は、苦笑した。
「もう…。でも、私ここまで23年、男っ気が無かったから少し準備してもよろしいですか?久しぶり過ぎて、緊張しますの。」
彰は、それには神妙な顔で頷いた。
「そうか、そうだな。私も、今回はもう君が居て、記憶もあるから全く女っけなど無く生きて来たし。確かに久しぶり過ぎて、私も思い出さねばならないかも。」
紫貴は、頷いた。
「そうでしょう?別の方がいいのではありませんか?」
それでも、彰はブンブンと首を振った。
「嫌だ。もう我慢は無理だ。君だって分かっただろう、あの私が、これまで君を見守って手を出さずに生きて来たのだぞ。私の努力を慮ってくれないのか。」
懇願するような顔に、紫貴は仕方なく頷いた。
「そうですわね。分かりました。では、ちょっと大浴場へ行かせてください。ほんとにいろいろ準備したいですわ。今回初めてのことですしね。」
彰は、頷いた。
「分かった。やっと、君と結婚できるのだな。」
彰は嬉々として言っているが、紫貴は本当に久しぶりなので、緊張していた。




