迷い
それから、紫貴は何事も無かったように、普通に仕事をこなしていた。
それが職業人としては真っ当な様子だったが、それでも彰は落ち着かなかった。
もしかしたら、紫貴がアメリカへついて来てくれないかもしれないからだ。
だが、こちらの気持ちを伝えてある以上、返事はまだかとせっつくと、そのまま出て行ってしまいそうで、怖くて彰は何も言えずに居た。
彰の誕生日は、2月14日だ。
めでたく18歳になり、法律上では問題なく結婚できるのだが、紫貴の返事はまだだった。
渡米準備が進められる中、なので彰は、もう一度紫貴にプロポーズしよう、と、前回結婚前に二人で行った、九州への旅行を計画した。
二人で回った高千穂峡の船の上で、プロポーズし直そう、と考えたのだ。
だが、間下は万が一断れられてしまった場合、船からは逃れられないので気まずいままで残りの工程を終えねばならないと、反対していた。
ちなみに紫貴はと言えば、一度行きたいと思っていたけれど、どうして知っているの?と驚いていた。
ということは、紫貴は二十代初めの頃からずっと行きたかったのに、夫に連れて行ってもらっていなかったということだと、前回の人生の事を慮った。
自分は、絶対に紫貴の意向を無視したりしない、と彰は思いを新たにしながら、フェリーに乗って、前回と全く同じ行程で、旅行へと出掛けて行った。
ちなみに、紫貴に前回贈った婚約指輪は、ドイツのショップで買ったものだった。
形も何もかも覚えていたが、あの時と同じデザインは残念ながら今の時間にはない。
無理を承知でデザイナーに連絡を取り、必ず旅行までに仕上げてくれと、彰が書いた絵を元に作らせていた。
あちらも作ったことが無い形なので、時間ギリギリまで頑張ってくれて、そうしてその指輪は、彰の手元に来ていた。
ちなみに、あの時とは違って部屋は別々だ。
二人きりでは旅行については来てくれないだろうと言うので、今回は優子に頼んで、健一郎と四人で行こうと誘ってもらったのだ。
孫の一世一代の晴れ舞台なので、健一郎もその時は予定を無理やり空けて来ることにしていた。
部屋はなので、優子と紫貴が同じで、彰と健一郎が同じだった。
行きのフェリーの中で、彰と健一郎は話していた。
「彰、間下が言うように船の上はまずい。」健一郎は言う。「慌てて落ちたらどうするのだ。前回は部屋でプロポーズしたのではなかったか?」
彰は、答えた。
「いえ、確かに最後の決断は部屋でしたが、最初は別荘の庭でした。クリスマスの夜で、そこで承諾してもらい、後程きちんとやり直したのがドイツの夜景スポットで。その時指輪を渡したのですが。」
健一郎は、顔をしかめた。
「困ったな。今からドイツに変更するわけには行かないし、それなら夜景の見える場所を探すか。夜食事が終わった後にでも、散歩に連れ出してそこで話してはどうか?それとも…部屋は最上階だし、確かバルコニーから夜景が見えるはずだが。」
彰は、そうだ、と健一郎を見た。
「では、部屋にします!お祖父様はお祖母様を連れ出してくれませんか。その間に話します。」
健一郎は、渋々といったように頷く。
「見届けたかったが仕方がない。ではそれで。落ち着くのだぞ、余裕を持って話さねば、断られそうになったら返事は後にと日延にして断らせないということも可能だ。私は優子に三度プロポーズして、三度目にやっとだった。何しろ、あれは離婚したばかりで、そんな気になれないと大変だったから。」
確か、別れさせたんだったか。
彰は、健一郎を睨むように見た。
「別れさせたのでしたね。でも、どうやって?」
健一郎は、フンと鼻で笑った。
「別に。会社の飲み会に取引先として女を一人潜り込ませただけ。まんまと引っ掛かって、それに手を出したから優子に身限られたのだ。そんなものに惑わねば良かったのだから、私が悪いのではない。」
確かに、彰ならそんな罠には掛からなかった。
相手が悪いと言えばそうなのだが、きっかけを作ったわけなので優子に知られたくはないだろう。
「…まさか同じ大変さを味わっていたなんて。私も離婚したばかりの紫貴に、子供のこともあったし早く早くとせっついて、今思うとよく承諾してくれたものだと思うものです。最後には財力を盾に、とにかく結婚して欲しいと押しまくりましたので。」
健一郎は、ため息をついた。
「気持ちは分かる。私の場合、優子はまだ26だったから、そんなに焦らなかったがな。とはいえ、できた杏美はあんな風で。お前が居らねば我が家は途絶えていた。あの男も、お前を世に送り出したことだけは褒めてやりたい気持ちだよ。」
あの男とは、杏美が駆け落ちした相手、聡だ。
彰の父だった。
「…そろそろ、あちらも落ちているのでは。樹はどうですか?」
健一郎は、フフンと笑った。
「あちらに私の部下として潜り込ませていた佐々木が、無事に救出したよ。彰ばかりか樹までかと憤っていたが、今私に見放されてはあの会社は立ち行かない。なので承諾した。樹は、案外あっさり承諾して、それでも神之原姓は捨てないというので、養子にはしていない。保護者が私になっただけ。あいつも優秀で、あちらで全寮制の中学に入れたので、問題ない。」
樹は、13歳になっているはず。
今回の人生では、一度も会っていなかった。
だが、樹だけは救いたかったので、これで問題なく大学まで行けるとホッとした。
それにしても、前回は父母を捨てられないと言った樹が、今回はまた簡単に離れたものだ。
彰は思ったが、頷いた。
「一度会いたいですね。あれとは生まれたての時に顔を見たぐらいでしたから。」
健一郎は、頷いた。
「あちらもそのように。お前という兄が居るのはどこからか知ったようで会いたいと言っていた。あの男が言うはずはないので、杏美が話したのかもしれないな。とはいえ、あの会社はもう終わりだ。そろそろ二束三文で売りに出すよりなくなる頃。樹が中学になるまで待っていたからな。佐々木も引き揚げさせたし、執事も居なくなっている。もちろん、メイドもな。杏美に家事などできないし、これからどうするのか見物だよ。」
健一郎は、暗い笑みを浮かべた。
あの時見限ったとはいえ、実の娘にそんなに非情になれるものだろうか。
だが、彰は知っていた。自分もそうしただろうことを。
裏切って、一度は許そうと考えていたのに、二度も裏切られたとなると、もう猶予など与えないだろう。
それが、娘の選択なのだから。
一方、紫貴はと言えば優子と部屋で話していた。
優子のことは、実の祖母のように慕っていた。
優しくおっとりしていて落ち着いていて、品のある女性で、歳を取っても美しく見えた。
優子は、紫貴に言った。
「強引に連れて来てごめんなさいね。でも、一緒に旅行したかったの。もう歳だし、二人きりでは心もとなくて。」
紫貴は、首を振った。
「とても嬉しいですわ。優子さんと旅行できるなんて。思ってもいませんでしたから。」
優子は、苦笑した。
彰と旅行するのが嬉しいのではないのね。
「…彰のこと、本当によく助けてくれていると思うわ。あの子は難しい子で…健一郎さんにそっくり。」
紫貴は、笑った。
「確かにとてもよく似ておられると思いますわ。」
優子は、首を振った。
「見た目だけではないのよ。」紫貴が目を丸くすると、優子は続けた。「あなたは、私が健一郎さんと再婚だと御存知?」
紫貴は、頷く。
「はい。健一郎さんが話してくださいましたから。」
優子は、頷く。
「あの方は初婚で、あの当時離婚なんて難しい時代だったのだけど、夫の浮気を知って悩む私を、弁護士を入れて救ってくれたのがあの方なの。実家にも、帰らせてもらえないのよ?だから、本来泣き寝入りするしかなかったのに、あの方はメイドとして雇うと言ってくれてね。住み込みだから、私も生きて行ける。なので離婚する勇気が出たの。それで、離婚したのだけど…その後、プロポーズされて。さすがにあんなに立派な方と出戻りの私なんてと二度も断ったのに、三度もプロポーズしてくださって。なので三度目に、お受けしたのよ。」
優子は、つらい思いをしたのだ。
紫貴は、思って聞いていた。
私も車の中で、彰さんにプロポーズされたことは黙っていよう。
紫貴は、思った。
「…離婚は大きなことですわ。優子さんがためらっていたのも分かります。」
優子は、頷く。
「ええ。でもね、杏美を生んでしばらくした頃、健一郎さんが忙しくしていらっしゃって海外に出張していらしてね。お買い物に行くために、メイド達に杏美を預けて町へ出たの。その時に、前の夫が声を掛けて来て。騙された、お前も騙されているぞ、って。」
ええ?!
と紫貴は口を押さえた。
どういうこと?!
「健一郎さんが、優子さんを?あり得ないと思うんですけど…。」
優子は、頷いた。
「私もその時そう思ったわ。また嘘ばかりなのねって。私は幸せだったし、何しろ健一郎さんは浮気の心配だけはないのよ。行動の制限も、お金に困ることもない。凄くいい夫だったし、何より苦しい時に支えてくださった方だから。それでも話を聞くと、どうやら浮気相手にはフラれたみたいで。あの人、諦め切れなくて自宅にまで押し掛けたりしたそうよ。その時に聞いたのが、私は始めからあなたなんて何とも思っていない、ということだったのですって。雇われたから相手をしただけだって。長く水商売をしていて、普通の生活がしたいと思っていたところに、その話があったから、飛び付いたんですって。大金と、身の安全の保証、そして新しい仕事の斡旋までしてくれたのだって。そしてその雇い主が、健一郎さんだった。」
紫貴は、目を丸くした。
つまり…。
「…最初から健一郎さんが、優子さんとその人を別れさせるつもりで…?」
優子は、ため息をついて頷いた。
「多分。だから迅速に助けてくれたし、写真とか証拠もすぐに集めてくれたのよ。」
紫貴は、複雑な気持ちだった。
そこまでして、健一郎は優子と結婚したかったのだ。
だが、苦しい思いをしなければならなかったのも事実。
「…それでも、健一郎さんと一緒に居るわけですし、愛情が冷めたわけではありませんよね?」
紫貴が言うと、優子は笑った。
「そんなこと。そもそもそんなものに引っ掛からなければそんなことにはならなかったわ。最後には浮気相手のことばかりで、離婚離婚と大騒ぎしていたんだもの。遅かれ早かれ、あの人は浮気していただろうし、私は捨てられた。そんな男と別れさせてくれて、不思議なことに感謝してしまったの。馬鹿だなあって。私は騙されていない、浮気もしないし、お金もあるし、何でも許してくれるから、とっても幸せだって言ってやったの。そんなことより早く慰謝料払ってと言ったら、そそくさと帰って行ったわ。どうやらお金に困っているみたいだったから、そう言ったら帰ると思って。」
優子は、フフと笑った。
優子は、そう思ったのだ。
紫貴は、不思議と腑に落ちた。
言われてみたら、誘われたら浮気はする、お金は普通、威張り散らす男より、浮気はしない、お金はある、何でもさせてくれる夫の方が、絶対に優子にとって良い相手だからだ。
騙されたのかもしれないが、元夫が浮気をしたのは事実。
彰は、自分が前回そんな浮気夫に我慢する生活を送って離婚したのだと言っていた。
だからこそ、今回は幸せにと、自分が守ろうと…。
はっきり言って、それが本当だったらこれからそんな思いをするのは、無理だった。
「…優子さんは、とても良いかたに選ばれたんですね。」
優子は、困ったように笑った。
「どうしてだか未だに分からないけれどね。でも、今も言ったように、彰は健一郎さんにそっくりよ。見た目も、中身も。」
紫貴は、優子を見た。
「それは…?」
優子は、微笑んで頷いた。
「分かるでしょ?こうと思ったらそうで、揺るぎないの。一度信じたものは、最後まで守り抜く人達よ。信じるまでには時間が掛かるようですけれど、信じてしまえばとても堅い。私は、自分の何をそんなにとずっと思っていましたけれど、27の時からここまで41年間、少しも揺るぐ事無く本当に愛してくださっているんだと思うから、やっと大丈夫だと信じられたの。あんなに一途で一生懸命な男性は、私は見たことが無いわ。きっと、彰もそうだと思う。」
紫貴は、それを聞いてなぜか、それを知っているような気がしていた。
彰は、紫貴と対する時、本当に一生懸命だと感じるのだ。
あんなにもできた人で、見た目にも美しい人が、一時の情熱でと悩んでいたが、優子の話を聞いていると、優子もそうだったようだ。
そして、長い年月をかけて、間違いないと分かったのだろう。
だが、紫貴には分からない。
一度彰と結婚していたとか、他の誰かと結婚して離婚していたとか、そんな話も信じられないのだ。
だが、彰の事はそんな目で見ないようにしていたのだが、結婚したいのだと聞いた時から、意識して見てしまっていた。
彰は、とても慕わしい人だ。
どうして自分なんかと思うほど、とても素晴らしい人だと思う。
できることなら、自分だって彰と結婚したい。
信じられたら、結婚したいと思うのに。
紫貴は、とても悩んでいたのだった。




