告白
その男の素性は、すぐに分かった。
紫貴の前の夫、克彦だった。
…職場で出会ったはずだったのに。
彰は、どうあっても流れを正しい方へと向けようとするのかと、歴史の修正能力に歯ぎしりした。
面と向かって問い詰めるわけにも行かず、彰が悶々としていると、紫貴が言った。
「彰さん、今夜外出して来ようと思うのですけど、何かお仕事はありますか?」
彰は、顔を上げた。
…もしかしたら、あの男と出掛けるのか。
彰に止める方法はなかったが、仕事。
そうだ、今日は一日遊んでいたので、研究が進んでいない。
彰は、言った。
「今日でなければならないか?今日は研究が進んでいないので、夜にどうしても進めておきたいことがあって。手伝ってもらおうと思っていたところだったのだよ。」
紫貴は、そうか、とすぐに頷いた。
「そうですね。確かに。細菌のお世話はいつも通りしておきましたけれど、今日は本来3bと3eを掛け合わせると仰っていましたのに。忘れていましたわ。では、外出は控えますわ。」
何も知らない紫貴は、納得して携帯電話を手に出て行った。
恐らく、断りの電話を入れに行ったのだろう。
…だが、もうすぐ盆。連続休暇で紫貴は実家へ帰る。
彰は、どうしたら克彦と紫貴が会わずにおけるだろうかと、必死に考えていた。
結果として、彰は紫貴に頼み込み、紫貴の両親に挨拶に行くと一緒に実家に帰ることにした。
その間、細菌の世話は間下の仕事になった。
雇い主が従業員の家族に挨拶に泊まり込みでついて行くのはどう考えてもおかしいのだが、彰は一度言い出したら聞かないので、紫貴は頷くよりなかった。
紫貴の両親は、普通の団地住まいだったので彰のために部屋を一部屋空けて、大騒ぎだった。
盆の法要にも付き合い、会食の席で、彰は言った。
「…本日は無理を聞いてもらって感謝しています。こちらへわざわざ来たのには、わけがあります。」
紫貴も、両親も驚いて彰を見る。
彰は、続けた。
「実は、私はアメリカで大学を出ていますが、来年には19になる年なので、許されてまた、アメリカのメディカルスクールへ戻ります。その際、紫貴さんも連れて行きたいと思っているのです。これまでいろいろ手伝ってもらっていましたし、居ないととても不便で。」
父親が、困惑したように言った。
「…それは、何年ぐらいになりますか。」
彰は、答えた。
「四年。医師免許を取ったらこちらへ戻り、こちらの国家試験も受けて日本でも医師免許を取得する予定です。」
両親は、顔を見合せた。
「…でも、それでは紫貴は27になります。」母親の方が言った。「妹も来年結婚しますし、どうしてもこの子の将来が気になるのです。仕事ばかりで、縁が遠くなるのではと。」
紫貴は、下を向く。
彰は言った。
「確かにそうかもしれません。私は今17なので、表立って言えないのですが、紫貴の将来についてはずっと考えていることがあるのです。私に任せて、見守ってもらえないでしょうか。」
その言葉を、どう受け取ったらいいのか紫貴の両親も、紫貴も分からないようだった。
なので、その場では、両親は紫貴が決めること、と言って、ハッキリ返事をするのを避けた。
確かにその通りなので、彰もそれ以上何もいわずに、その時は話は流れて行ったのだった。
一週間の滞在で、紫貴も彰を置いて外出するわけにも行かないので、彰が危惧したことは何も起こらず過ぎて行った。
最終日、どうあってもと、飲み会が開催されることになったらしく、紫貴は仕方なく彰を連れて出席した。
まだ未成年なので酒は飲めないのだが、見た目と雰囲気は充分に成人していたので、居酒屋の店員にも止められることはなかった。
その席には、克彦も居た。
思った通り紫貴狙いのようだったが、彰が睨みをきかせているので当たり障りのないことしか話しては来なかった。
紫貴も、誘われていて行こうかと思っていたぐらいで、特に克彦を好きになったわけではないのか、彰の世話ばかり焼いていた。
何しろ彰は偏食が激しく、気に入った物しか口にしないのだ。
それを知っているので、あれこれ取り分けたりと忙しく、言い寄って来る男に構っている場合ではなかったのだ。
彰は、黙って紫貴に世話をされながら、じっと観察していた。
皆、紫貴とは同級生らしいのだが、高校の時に交流があった男子校の生徒や、その後進んだ大学での友達など、いろいろ混じっているらしい。
ちなみに克彦は、紫貴の友達の彼氏であった男子校の生徒が、進んだ先の大学の、OBということらしかった。
そんなに面倒なかかわりを使ってでも、歴史は紫貴と克彦を出会わせようとしたのかと思うと胸が騒いだが、当の紫貴がそれほど興味も無いようだったので、幸いだと胸を撫でおろしていた。
思えば、心の奥底に、克彦の事を覚えているのだとしたら、紫貴は克彦を受け入れたりはしないはずなのだ。
苦しく長い年月を過ごした記憶は、きっと奥底でも強く拒否しているだろうからだ。
だが、他の男だ。
紫貴は、今回彰の屋敷で過ごしているうちに、祖母の優子に影響されて、早くからあの、中年の紫貴のような、落ち着いた品の良い様に成長してしまっていた。
そんな若いのにおっとりと落ち着いた様は、どうやら彰ばかりか他の男にも魅力的に映るようで、紫貴にはいろいろな男が視線を送っていた。
彰が居なければ、今頃回りが大変だったのではないだろうか。
若くても彰の威圧感は祖父譲りで大変なものなので、それでもめげずに寄って来る男も居たものの、紫貴は何しろ、人見知りな彰に寄って来る女子達の対応やらの世話が大変なので、深く話すなどできようはずもない。
そんなわけで、その夜は無事に終わったのだった。
今夜は、このまま屋敷へと帰るので、間下が迎えに来ていた。
その大きな黒塗りの車に乗り込んで行く紫貴に、紫貴の友達の一人が言った。
「ここから、紫貴の働いてるお屋敷に帰るの?」
紫貴は、頷いた。
「うん。今日でお休みが終わりだから。また連絡するね、志穂。」
志穂と呼ばれた女性は、頷いた。
「分かった。でもめっちゃイケメンと働いてる紫貴が羨ましい~。そこって今募集してない?」
紫貴は、苦笑した。
「どうかな。お屋敷のメイドさん達はもしかしたら募集してるかも。でも、最近英語ができるってことが募集要項に加わってたから、もし空きがあっても英会話は必須だけど。志穂、大丈夫?」
志穂は、顔をしかめた。
「えー?マジで?じゃ、駄目だー。もう結婚するかなあ~。」
酔っているのか、志穂がそんなことを言う。
回りが、途端に騒ぎ出した。
「え、マジ?!誰と?!え?!」
志穂は、もう~と鬱陶しそうに手を振った。
「違う違う!それを目指して誰かと付き合うってこと。」
志穂は、チラと克彦を見た。
克彦は、他の男と話して聞いていないふりをしている。
…そうか、言い寄っているのは紫貴だけではないのだな。
既婚者でもあちこちフラフラしていた男なのだから、あり得ることだった。
先に乗り込んだ車の中で、彰がそんなことを思って見ていると、間下が言った。
「紫貴様。お時間が迫っておりますので。」
紫貴は、慌てて頷いた。
「ごめんなさい。」
と、車へ乗り込もうとすると、その背に克彦が言った。
「あ、また連絡するな。」
紫貴は、振り返ったが苦笑した。
「私は仕事が忙しいから。声を掛けてる他の人の方がいいと思うわ。」
そうして、扉は閉じた。
紫貴も、今のやり取りを見ていて思うところがあったのだろう。
克彦はショックを受けた顔をしたが、そのまま車は進み出したのだった。
彰は、言った。
「…あの男はあちこちに声を掛けているように私には見えたが、君が本命だったのではないか?君は、あの男の事はどう思っているのだ。」
紫貴は、ふうとため息をついた。
「最初は、明るくて親しみやすい人だなと思ったんですけれど、仕事場にまで訪ねて来たりして、ちょっと強引だなとは思っていましたわ。なので、ほら、一度夜に出掛けていいかって聞いた時がありましたでしょう?あの時、会って見極めてからお断りして来ようと思っていたんですの。でも、お仕事がありましたから。それから電話が何度か掛かって来ておりましたけど、忙しいし放置しておりました。そしたら、今回の飲み会にしつこく誘われてしまって。どうせ一度はお話しておかなければならなかったので、行くことにしましたの。彰さんまで付き合わせてしまって、申し訳なかったです。」
そうだったのか、と彰は首を振った。
「私は来てよかったと思っている。君の交友関係も見ることができたし、面倒な男の虫よけにもなったと思っているから。」
虫よけって。
紫貴は苦笑したが、頷いた。
「そうですわね。助かりましたわ。でも、彰さんにもたくさん女性が寄って来て大変だったでしょう。元々人見知りだと仰っていたし、分かっていたので気を遣いましたわ。」
彰は、それにはため息をついた。
「寄って来る女性には興味はない。私は決めている相手がいるし、私の人生にそれ以外は必要ないと思っている。」
紫貴は、それを聞いて少し、黙った。
何しろ、彰は究極の人見知りで、自分が気が向かなければ挨拶すらしない事が多い。
紫貴にはそんな事は無いが、それで気を悪くする人も多く居た。
いつも、そんな人に言い訳するのが紫貴の仕事の一つだったが、重要な事だった。
そんな彰が、誰かと出会ってその相手をそんなに想うというのが、まずあり得ない。
あったとしたら、アメリカに留学していた時に出逢っているという事になるが、五歳から十二歳まで居たその間に、子供相手にそんなことがあったのだろうか。
紫貴には分からなかったが、両親に彰が話していた事もある。
なので、思い切って聞いた。
「…彰さん。」彰は、紫貴を見た。紫貴は続けた。「私の両親に、私の将来について考えていることがあると仰っていましたわね。あれは、どういう事か聞いてもよろしいでしょうか。私も、自分の人生が掛かっている20代のことですので、聞いておかねばならないと思いますの。それでなくても両親は、私にキャリアを積んで欲しいとか思っていなくて、仕送りには助かっているようなのですけれど、妹のように家庭を持って欲しいと思っているようです。私も、そのつもりでしたし、そのうちにと考えておりました。アメリカにご同行するのは、なのでどうしようかとまだ迷っているのですわ。」
彰は、紫貴を見た。
確かに、そうなるはずだった。
本来、もう結婚して子供が居た紫貴なのだから、早く結婚して身を固めるのが普通と考えるのだろう。
今はまだ、そういう時代だった。
「…まだ早いと言って来なかったが、私は君を妻に迎えたいとずっと思っていた。」紫貴が、驚いた顔をする。彰は続けた。「だが、五年の歳の差があるので、待ってもらわねばならないだろう。だから、私が君を雇用して、成人したら君に申し出るつもりだったのだ。だから、考えていることがあると言った。なんなら、来年には18になるし、君さえいいのなら来年入籍してもいいのだ。配偶者なら、ビザも降りやすいし本当はそうしたいのだが、君の気持ちもあるかと思って…。」
紫貴は、困ったように言った。
「…あの、私は彰さんが嫌いではありませんわ。それどころか、長い付き合いですのでこの世で唯一理解している男性のような気がして、親しみを持っておりました。でも、あなたはギフテッドと言われるほど頭のよろしいかたで、そんな方が私のような平凡な、図書館で子供の頃に出逢っただけの女を、配偶者に決めて良いのですか?これから、大人になって初めて広い世界に出てまた、もっと魅力的なかたに出逢うこともあるかと思うのです。それこそ、同じ学校の中で、頭の良い方々と出会う事になると思うのに。後悔なさいますわ。」
彰は、首を振った。
「そんな事は無い。」紫貴は、断言する彰に、怪訝な顔をする。彰は、ため息をついた。「…私は、それを知っている。実は、もっと時間が経ってから打ち明けるつもりだったのだが…。」
彰は、迷った。
今、ここで言ってしまってもいいのだろうか。
紫貴に、自分で思い出して欲しかった。
だが、紫貴が案じることも分かる今、それが絶対に無いと分かってもらうためには、それしかないのだ。
「…知っているって?いったい、何を?」
彰は、またため息をついた。
まだ、屋敷に着くのは一時間ぐらいかかるはず。
彰は、後部座席で紫貴の方へと体を向けて、紫貴の手を握った。
「…聞いて欲しい。私は、気がふれたのではないのだ。間下は知っている。だからこそ、私についてアメリカにも行っていた。紫貴、実は私は、君と結婚していた。何がどうなったのか分からないが、同じ人生を、もう一度五歳から歩んでいるのだ。」
紫貴は、目を丸くした。
思ってもいなかった事だったらしい。
「え…彰さんは、一度人生を終えてると言うんですか?」
彰は、頷いた。
「信じられないのは分かる。だが、私は君と結婚し、子供も育てて君と最後まで一緒に生きた。私達は、とても愛し合っていたのだ。だから、私は戻って来たのだと知った時、真っ先に君を探して…図書館で会ったのも、偶然ではない。君も思い出してはいないかと、確認に行っていたのだ。君は、今も全く覚えていないのだが…。」
紫貴は、俄かには信じられない事に、ただただ戸惑っているようだった。
「…あの…確かに、全く何も覚えていませんわ。でも、私達は結婚していたのですわね?」
彰は、信じられないだろうなと思いながらも、頷いた。
「そう。私が40、君が45の時に、前の夫と離婚したばかりの君を説得して結婚してもらった。前の夫は、浮気と暴言、それに経済的にも君を虐待していたらしいが、子供が居たので我慢していたらしい。子供が育ったので、離婚したのだと言っていた。だから今回は、そんな思いをさせたくなくて…最初から、私と結婚していれば、君に不自由はさせないと思った。それで、君を保護して自分が育つのをただ待っていたのだ。」
紫貴は、首を傾げて困っているようだった。
「それは…でも、彰さんだけしか、それを覚えていないのですわね?」
彰は、それには首を振った。
「いいや。博正と真司が。あの二人は、私の友人にしては年下だし全く違うタイプだろう?実は、あれらも思い出して私に会いにやって来ていたのだ。他にも、仲間はたくさんいるが、それらが全て思い出すとは思っていない。だが、あの二人は私と関りが深かったので、恐らく思い出したのではないかと思っている。君が思い出してくれるのを待っていたが、そんな様子はなくて…」と、怪訝な顔をしている、紫貴に焦って続けた。「紫貴、思い出せ。君は屋敷へ来た初日に、私と祖父が写った写真を見て、懐かしい、と言ったな。私は、祖父とそっくりなのだ。あの年ごろの頃、君と結婚して過ごしていた。君は、心の奥底に私を覚えているはずだ。私は…君と、今回こそ最初から、幸せに過ごしたいと思っているのだ。」
紫貴は、困惑していた。
写真のことは、覚えていた。
何しろあれからも、健一郎の顔を見ると慕わしい気がしてならなくて、どうして初めて会ったはずの人が、こんなにも懐かしくて慕わしいのかと戸惑う事もあった。
そんな毎日を過ごしている間に、彰がどんどんと健一郎の姿に近付いて来て、そうしてそれこそが、自分が慕わしい姿に一番近いのだと悟って戸惑ってもいた。
そんな気持ちを、見透かされているように思ったのだ。
だが、紫貴は何も覚えていない。
覚えているのかもしれないが、何も具体的に出て来ないのだ。
「…ごめんなさい。」紫貴は、言った。「何も思い出せない。でも、確かに慕わしいと言われたらそうなのですわ。あなたの姿がどんどんと健一郎さんに近付いて来て、よく考えたら健一郎さんは似ているだけで、あなたこそが慕わしい姿のような気が、最近していたんですの。でも、どうしてなのか分からなくて。気持ちがついて行っていない状態です。少し、お待ちください。私…本当に、分からなくて。」
突然言われて、理解できることでも、信じられる事でもないだろう。
彰は頷いて、いつまで待てばいいのだろうと、心の中でため息をついていた。
そうしてそのまま、二人は黙って車が屋敷へと戻るのを、じっと車内で待って揺られていたのだった。




