日常
彰と紫貴は、とりあえず穏やかな日常を過ごしていた。
彰は、もう少しで引退するつもりなので、準備を着々と進めていて、週に三日しか研究所には出勤しない。
後の四日は、屋敷で紫貴と共に過ごすのだが、彰はいつも紫貴にべったりで、広い庭の牧草地で乗馬に興じている時も、馬の世話をしている時も、食事の時も昼寝の時も、それこそ風呂も夜寝るのも、トイレ以外はずっと一緒だった。
そんなに一緒に居たら私に飽きるだろうから、少し離れた方がと紫貴が言うと、彰はそんなことがあるはずがないのに、紫貴が自分を遠ざけると落ち込むので、紫貴はもう何も言えずに居た。
彰は、これまで誰かを愛したという経験がなかった。
そんな彰がこれまでの生涯で、初めて興味を持ち、初めて積極的に関わり、初めて愛した紫貴なので、とにかく傍に居て、見ていたくて仕方が無かった。
結婚して15年だったが、それでも毎日、紫貴を目で追うことをやめられない。
紫貴自身は、目が覚めるほど美しいわけでもなかったし、彰より5歳年上で、離婚歴まである自分にべったりの彰に、未だに戸惑っている。
彰の研究所の美容班が作った美容液を使って、少しでも若々しくありたいと日々頑張ってはいたが、彰にはそんなことは関係ないようだった。
とにかく毎日、寝起きであろうと何であろうと、目が合ったら愛してると言い続ける彰に、一種病的なものを感じないでもない。
だが、いったい自分の何をそんなに愛してくれているのか分からない紫貴としては、ある日突然、憑き物が落ちたようにこちらに無関心になるのではないかと、あまり傍に居て急に居なくなるのが耐えられないので、少し距離を取りたいと思っていた。
完全に離れるのではなく、それぞれに乗馬やショッピングなどで楽しんで、夜にそんな体験を話したりして過ごすだけでいいのではないかと思うのだ。
彰は、紫貴が買いものに行って来ますと言うと、自分はショッピングなど退屈でしないのにも関わらず、一緒に来て面白くないだろうに付き合ってくれる。
同じ映画を好むわけでもないだろうに、これを見に行くと言うと反対もせずについて来て一緒に見る。
そこまで一緒に居なくても、良いんじゃないかと紫貴としては、最近とても悩んでいた。
何しろ、引退したらずっと家に居る事になるし、そうなったら今は週に四日だが、七日間ぶっ続けで四六時中傍に居る事になるのだ。
贅沢な悩みかもしれないが、そこまで一緒に居たいとは、紫貴の方では思ってはいなかったのだ。
何しろそんなに一緒に居たら、今まで見えていなかった粗が見えて、彰が失望するかもしれない。
確かに彰は紫貴が少々寝相が悪くても、寝言を言ってもイビキをかいても全く動じることなく愛していると言ってくれるが、そんなことだけではない。
そもそも紫貴は関西生まれの関西育ちで、気をつけていても時々ポロッと訛りが出る。
話し方すら気を遣っている紫貴には、彰と一緒に居ると心の底から寛げないので、時々関西に残っている子供達に会いに帰って素に戻る時間も重要だったのだが、最近ではそれにさえ彰がついてくるのでその暇もなかった。
少し疲れて来たと言えばそうなのだ。
紫貴は、今日は研究所に出勤して行った彰を見送って、ホッと肩の力を抜いた。
…今日は、穂波が来るはず。
紫貴は、それを執事の細川に伝えて、メイド達が準備してくれるお茶とケーキを前に、穂波の到着を待った。
穂波は、紫貴の前の結婚の時に生んだ三番目の子供だ。
今は、彰の研究所で働く要と結婚し、穏やかに暮らしている。
要との間には颯という子供が居て、今は彰と紫貴の間の子供、新を追って留学するのだと一生懸命勉強していた。
穂波も会計士として在宅で仕事をしていたのだが、最近では彰から譲られたビルの管理で忙しいので、その仕事も辞めようと思っているらしい。
彰は、紫貴の三人の子達にも分け隔てなく接して、全員と養子縁組をして、自分の資産を分けようと言ってもくれた。
だが、さすがに皆遠慮して、ビルを一棟ずつもらうことで後は放棄すると書面を作り、しかしそれがあるので三人の生活は豊かで紫貴も何の心配もなかった。
彰は、結婚する時経済的な事が目的でも構わない、と強く紫貴との結婚を願った過去があり、その言葉を違えてはならないと思ってくれたのだろうと思われた。
そんなこともあり、彰を強く突き放すのもと、紫貴は思ってしまうのだ。
彰のことは愛しているが、自分は充分に返せていないのかもしれない。
そう思うからこそ、紫貴は我慢しようと思ってしまうのだった。
「奥様、穂波様がいらっしゃいました。」
メイドの咲希が入って来て言う。
紫貴は、頷いた。
「入ってもらって。」
すると、穂波が後ろから微笑んで入って来た。
「お母さん、遅くなってごめんなさい。要さんは彰さんと出勤して行った?」
要は毎朝、ここからヘリで出勤して行くのだ。
紫貴頷いた。
「元気に行ったわ。」と、咲希を見た。「後は私がやるから、あなたは下がっていいわ。」
咲希は頷いて、そこを出て行った。
穂波はそれを見送って、言った。
「…最近、すっかりこちらの人になったね、お母さん。言葉使いが乱れたところを見たことないもの。」
紫貴は、準備された茶器でお茶をいれながら、ため息をついた。
「そうね。屋敷の中だと細川さんやメイド達がいるから、おかしな言葉を使えないの。関西訛りが悪いのではないけれど、驚くだろうと思うと崩せないのよ。彰さんだって完璧に標準語だし…もうこれが私なんじゃないかって思い始めたところよ。」
穂波が、心配そうに言った。
「でも…昔のお母さんとは全く違うから。今のお母さんを見たら、あちらの誰も気付かないんじゃないかと思うぐらい。私も、こうして要さんに気遣ってはいるけど、たまには崩して話すの。あの人は別に気にしないから。彰さんもそうなんじゃないかな。ちょっとぐらいいいと思うよ。」と、目の前に置かれた茶を手にとって息をついた。「…ところで、来月なんだけど。お父さんから連絡があって、おばあちゃんの法事をするらしいの。いつも遠いから命日とかお盆は断ってるけど、今回は区切りの法要で。私は行くけど、お母さんはどうする?」
紫貴は、ため息をついた。
元夫の母は、とても人柄の良い人だった。
いつまで経ってもフラフラと女遊びをする息子に腹を立てて、良く紫貴の話を聞いてくれたものだ。
その介護をして見送った紫貴だったが、別れてからは墓参りもできていない。
いつもそれは気になっていた。
「…そうね…私もおばあちゃんのことはとても感謝しているから、法要ぐらいはと思うけど、彰さんが何と言うか。元夫の母の法事となれば…ついて行くとか言いそうで。あの方が来るのはさすがにおかしいでしょう?」
穂波は、苦笑した。
「確かにそうかも。彰さんって、ほんとにお母さんが好きよね。いつ見ても側に居るもの。お休みの時に離れることってあるの?」
紫貴は、首を振った。
「いいえ。お休みの時はずっと一緒よ。私がアカリの世話をしていても、側で見ているんだもの。」
アカリとは、紫貴の馬だ。
競走馬だったのだが、出走し始めて僅か二年で戦績が振るわず行き場が無いのを知ったので、無理を承知で彰に言ってみたら、あっさり買い取ってくれた馬だった。
その後、彰も馬を買うと言って、同じように引退競走馬を買い取り、今ではアカリとハオウという二頭の馬が、敷地内に作られた牧草地でのびのび暮らしている。
もちろん厩舎も立ててくれ、そこで世話をしているのだ。
「え、ハオウの世話は?」
紫貴は、言った。
「私もするけど、大体は細川さんがやってるわ。あなたもここに来たらやってくれるでしょう?彰さんも時々やるけど、忙しい人だから。そもそも細川さんが私がやると言って彰さんにさせないの。」
確かに主人なのだから、馬の世話などさせないのだろう。
だが、紫貴も穂波も、馬がかわいいので楽しく手入れしていた。
そうして接していると、馬も覚えてくれて懐いてくれるのだ。
放牧されている時も、乗りたいからと声を掛けると、分かっていて戻って来て鞍を付けさせてくれる。
ハオウの方は気まぐれなので、時々渋る時があるが、アカリはまず、絶対に来てくれた。
紫貴は本当にアカリを可愛がっていた。
あまりに可愛がり過ぎて、ずっと撫でているうちに厩舎で寝てしまっていたこともあったぐらいだった。
その時も、アカリはじっと横に体を横たえて、紫貴を潰さないように寄り添ってくれていた。
帰宅した彰が探しに来て風邪をひくと大騒ぎしたが、アカリが居たので温かくて結局紫貴は健康だった。
紫貴がそんなに可愛がっている馬なので、彰もアカリやハオウの体調管理には気を遣ってくれていて、一月に一度は必ず獣医が健診に来てくれる。
二頭は健やかに生きていたのだった。
「…乗馬しましょうか。あの子達も今の時間は放牧されてるはずよ。暇だったら乗せてくれるかも。」
いつも乗馬は馬の気分任せなので、アカリは来るが、ハオウが来なかったら穂波と二人で乗馬はできない。
だが、どうもハオウは穂波を気に入っているようで、穂波が居るのを見たら来るはずだった。
穂波は、微笑んで立ち上がった。
「大丈夫よ。きっとハオウは来てくれるわ。」
そうして二人は、着替えて外へと出ることにしたのだった。
結局、柵の外から呼ぶと、二頭は並んでやって来て鞍をつけされてくれて、二人は午前中を楽しく乗馬して過ごした。
葦毛と栗毛の二頭は並んで厩舎へと帰って来て、細川にも手伝ってもらって綺麗にブラッシングした後、黒砂糖をあげて屋敷へと帰って来た。
その後また、二頭は牧草地に出てうろうろしていたらしいが、夕方には厩舎に戻ったので閉じて来たと細川から報告を受けた。
本当にここでは、馬の気分次第だった。
そうしていると、彰と要がヘリで帰って来て、広い敷地の向こうのヘリポートから、歩いて屋敷へと戻って来た。
要はここから、穂波と車で自分達の家に帰るのだ。
「夕飯を食べて行けばいいのに。」彰が言う。「別に歩ける距離なのだから、颯には来させたらいいだろう。」
確かにそうなのだが、敷地に入ってからが遠いので、歩くのはそれなりに胆力が要る。
なので、要は言った。
「どうせ帰らないといけないですからね。おかずは戴いて帰るんで、大丈夫です。じゃあまた明日に。」
彰は、頷いた。
「ではな。」
そうして要と穂波は帰って行った。
彰は、機嫌良く紫貴を見て、その手を握った。
「今日はどうだった?親子で寛げたか。」
紫貴は頷いた。
「はい。午前中は乗馬をして、午後からは咲希が用意してくれたケーキを食べて話しておりました。そのうちに、夕食の準備をすると言うので、一緒に作りましたの。なので、今日は私の手作りですわ。」
彰は、微笑んだ。
「楽しみだ。」
新が旅立って一年、夕食は二人きりだ。
二人で食卓を囲みながら、紫貴はふと、穂波が言っていたことを思い出して、思いきって言った。
「あの、彰さん。」彰が顔を上げる。紫貴は続けた。「来月の8日なのですが、関西へ法事に出掛けてもよろしいですか?」
彰は、すぐに頷いた。
「私も行こう。君の祖父の?」
そういえば、おじいちゃんの法事もあったっけ。
よく覚えているなと思ったが、紫貴は首を振った。
「いえ、祖父はまだ連絡が来ないのですが、その、前の夫の母ですわ。とてもお世話になりましたのに、離婚してからお墓参りもできていなくて。穂波は行くらしくて、今日知らせてくれましたの。」
彰は、眉を寄せた。
前の夫の…?
「…ならば前の夫も来るのでは?」
紫貴は、やっぱりダメかな、と思いながら頷いた。
「はい、恐らく。前の夫が知らせて来たらしいので。」
彰は、箸を置いた。
「君は前の夫の顔も見たくないのではないのか。」
紫貴は、答えた。
「それはそうでしたわ、だってもう側にはいられないからこそ、離婚したのですし。ですけれど、義母だった方はとても良いかたで。最期までお世話しましたし、気遣ってくれました。それなのに放り出してしまって…一度墓前で謝りたいと思っておりましたの。今私は幸せにしておりますし…前の夫のことも、もう忘れているぐらいで。特に何の感情もないのです。あの時は恨みましたけど、そんなことも忘れるぐらい遠いのですわ。ですから行っても良いかと思って。」
彰は、首を振った。
「それでも君を虐げた男だ。私は反対だ。」
だろうな。
紫貴は、息をついた。
「分かりました。あなたがそう仰るのなら。」
紫貴はそう答えたが、複雑だった。
彰はそれから黙ってしまっていたが、紫貴も口を開くつもりにもならなくて、それから会話もなく、ただ黙って時間が過ぎたのだった。
紫貴が作ったとはいえ、給仕していたのは細川とメイド達だったので、その会話は聞いていた。
二人が気まずい感じだったので口を挟まなかった細川だったが、彰が紫貴と共に部屋へと戻ろうとするのに、呼び止めて言った。
「旦那様。お話がございます。」
彰は、振り返った。
「何だ?」
細川は、頷いた。
「あちらの舘野から報告がありまして。」
あちらの舘野とは、関西の屋敷の執事だ。
本当はあちらが彰の本宅になるのだが、一向に帰らないので、住まないと荒れて来ると、前の執事であった間下の息子、修と結婚した、紫貴の長女の百乃が住んでいる。だが、管理は彰がしていて、今の執事の舘野がよく連絡して来るのだ。
彰は、ため息をついて頷いた。
「分かった。」と、紫貴を見た。「先に戻っておいてくれ。」
紫貴は頷いて、先に出て行った。
それを確認してから、彰はどっかりと居間のソファに座った。
「それで?何があった。」
細川は、首を振った。
「いえ。奥様が居られると気を遣われると思って、ああ申しました。ただ、舘野からは確かに本日、奥様が仰っておられた法事の話は伝え聞いております。百乃様が、修と一緒に参加するということでしたので。」
彰は、眉を寄せた。
細川が何を言いたいのか分かったらしく、立ち上がって言った。
「だったら私には話はない。部屋に戻る。」
「お待ちください。」細川は、慌てて言った。「旦那様、修も参るのです。奥様を、行かせて差し上げたらどうでしょうか。」
彰は、細川を睨んだ。
「私達のことに口を挟むな。紫貴も納得していたではないか。」
細川は、首を振った。
「いいえ。」彰がますます眉を寄せるのに、細川は続けた。「旦那様、奥様のお気持ちをお考えください。それでは、前の夫が奥様にしていた事と同じです。御自覚はおありになりますか。」
彰は、驚いた顔をした。
私が、前の夫と?
「私は紫貴を下にも置かぬほど大切にしている。紫貴だって幸せだと言っていたではないか。」
細川は、首を振った。
「奥様にはご自由にお出かけになることもできません。旦那様、お考えになってください。いつも、奥様は旦那様に出掛けても良いかと聞いてからお出かけになられます。旦那様が否と仰ったら、文句も言われずおやめになるし、旦那様から了承が得られないと思ったら、先に断っておしまいになっておられます。百乃様からも、よくあちらのお孫様の事でお誘いがありますが、旦那様がお出かけになられる時と被っていたら、お断りになっているのです。旦那様が渋られるのをご存知だからです。今回、わざわざああして仰ったということは、それでも行きたいと思われたからだと思うのです。あんな風に、法事に出掛けることすら禁じておしまいなったら、奥様はとても窮屈であられるかと。そもそも、夫であっても妻の行動に制限を設けることはできません。不義理でお出かけになるのならいざ知らず、奥様にはそんなお気持ちはあられないのに。前の夫は、奥様に経済的な制限を設けて自由を奪っていたと聞いております。今旦那様が奥様になさっている事と、何か違うのでしょうか。今は、奥様も何も仰られないので良いですが…気付いた時には、もう遅いという事になってしまってはと、お怒りは覚悟で申し上げております。」
彰は、頭を殴られたような気がした。
言われてみたら、そうなのだ。
紫貴は、いつも自分に何をしてもいいか、どこへ行ってもいいかと聞く。
駄目だと言えばしないし、行かない。
だが、それをしたいと言って来た紫貴の気持ちは、どうなっているのだろう。
自分が良いと言わなければ、紫貴は何もできないという事になる。
もし破って出て行く時があれば、それは恐らく、離婚の時だろう。
紫貴にはそれができるのだ。何しろ、自分達には結婚した時に取り交わした誓約書がある。
紫貴は、いつでも彰を見限って出て行くことができるのだ。
それでなくても、紫貴は長く前の夫に我慢して、子達が成人してすぐに遂に出て行った過去がある。
今回だって、紫貴の三人の子達はもう大きいし、紫貴一人ぐらいは養うだろうし、彰との間の子の新も母親の紫貴を放って置くとは思えない。
新もそのうちに稼ぎだし、立派に紫貴一人ぐらい養うだろう。
そう思うと、彰はゾッとした…確かに、細川が言う通り、今気付いていなければ、いつかは紫貴は彰を見限って出て行ってしまい、その時はどんなに弁明しても遅いという事になる。
何しろ、紫貴には彰への愛情以外に、我慢する理由などもはや無いのだ。
「…気付かなかった。」彰は、茫然としながら言った。「私は、自分の気持ちばかりを押し付けて、紫貴の自由を奪っていたのか。欲しいと言うものは全て買い与えていたし、自由に暮らせるようにと君達に世話をさせているが、紫貴自身は不自由に感じていたと。」
細川は、頷いた。
「はい。奥様は、我慢強いかたですので、何も仰いませんが恐らくは。お一人になるお時間も、必要であられるとも思います。旦那様は、お休みの時はいつもお傍に居らっしゃいますが、一度奥様が、別々に行動しようと仰った時がありましたでしょう。旦那様は、それを強く否定されたので、それからは何も仰いませんが、今はどうお考えなのか私には分かりません。きちんと話し合われた方が良いかと思います。もし、今回の事がきっかけで、無理に関西へ出て行かれてそのままお帰りにならないという事があれば、メイド達もアカリもハオウも寂しがりますので…。」
自分は、寂しいどころの話ではない。
彰は、頷いて扉へ向き直った。
「話して来る。よく言ってくれた、細川。」
細川は、頭を下げた。
彰は、確かに頑固だが、一度納得したらきちんと考えてくれる主人だった。
それを信じていたので、今回敢えて苦言を呈したのだ。
側で見ていて、本当にハラハラする夫婦だな、と細川はその背を見て思っていた。
ちなみに細川自身はここで一緒に働いている妻が居て、ここで一緒に住んでいるのだが一人娘は独り立ちしてここには居ない。
娘が小さいうちは外に住んでいたのだが、もうここに住んでいる方が、仕事がしやすいと彰に話したら、それなら夫婦で働いたらどうだと言われて、今は安定してここで暮らしているのだ。
これだけ世話になっている以上、やはり彰には幸せで居て欲しかった。
きちんと話し合ってくれたらと、細川は願っていた。
紫貴は、部屋へと帰って風呂へ向かう準備をして待っていた。
勝手に先に入ると、彰は必ず拗ねるからだ。
ここの風呂は民宿程度には広いので、洗い場にも水道とシャワーのセットになっている場所が五つもあって、多人数でも楽々入れる。
メイド達もここに住んでいる者もいるし、細川と妻もここに住んでいるので、風呂のこの広さはそのせいだろうと思われた。
どちらにしろ、早く自分達が入ってあげないと皆が風呂に入れないので、いつも紫貴と彰は食事を終えて少し寛いだら、すぐに風呂に入ってしまうのだ。
化粧を取って、後はお風呂でと待っていると、彰が何やら思い詰めたような顔で部屋に入って来た。
紫貴が驚いて目を丸くしていると、彰はズンズンと自分に近付いて来て、がっしりと両手で手を握り締めて来て、言った。
「紫貴。」
紫貴は、あちらの屋敷で何かあったのかとその目を見つめて言った。
「はい。あちらで何かありましたか?」
彰は、首を振った。
「違うのだ。話がしたい。私は…君に、我慢させているのか?」
紫貴は、どうして急にそんなことをとまた驚いた。これまで、そんな事には思いもしないようで、とにかく紫貴紫貴と自分が紫貴の側に居ることが一番大切だという感じだった彰なのに、いきなりそんなことを言い出したからだ。
「…急にどうなさいましたの?これまでそんなことを聞いたことはありませんでしたのに。」
我慢しているのかと聞かれたら、確かに我慢している。
だが、前の夫に比べたらいくらもマシなのだ。
何しろ、生活には全く困っていないし、お金は湯水のように使ってくれるので、そういうことで苦労は一切ない。
しかも、子達まで世話してくれている。
なので、別にこれぐらいの我慢なら、してもいいかと思っていた。
それが対価だと言われたら、安いものだと思うからだ。
紫貴としては、結婚など何もかも不自由がないなど夢だと思っていた。
結局は、嫌な所に我慢できるかできないかなのだ。
彰との結婚生活は、別に我慢できた。
前の夫との事には、我慢できなかったから別れた。生きて行くという根本的な事を脅かされて暮らすのは、紫貴にはつらくてとてもじゃないが無理だったからだ。
彰は、答えた。
「細川が、そう言っていて。」彰は、必死な顔で言った。「君の行動を制限していると。不自由な思いをさせているのは、前の夫と同じだと言って。」
そう言えばそうかもしれない。
紫貴は、思った。
普通は行動の制限などされないのだが、彰には毎回どこかへ出かける時には許可をもらうようにしていた。
何しろ、ここを出るにも運転手を使わないといけないし、それは彰が雇用しているので、彰に指示してもらわねばならないからだ。
もちろん、自分のいう事も聞いてくれるのだが、人を雇用した事など無い紫貴には、気が退けた。
なので、毎回彰に指示してもらっていたのだ。
なので、彰が否といえばどこへも行けなかった。
たまに歩いて近所へ出掛けることはあったが、そんな時も細川が心配して迎えに来たりするので、結局彰に報告が行って、彰が心配して早く帰れと研究所から連絡が来たりする。
思えば本当に、そういう自由はなかったのだ。
細川は、今日の法事の話を聞いて、さすがにこれはと彰に話してくれたのだろう。
紫貴は、彰はすぐに思い詰めるので、フッと肩で息をつくと、言った。
「…とりあえず、座ってください。」と、寝室のソファに座って、言った。「確かに、私は我慢している事があります。ですが、結婚生活というのはそんなものです。彰さんだって、私に我慢してくださっていることがありますでしょう。お互い様ですし、我慢できないほどではありませんの。ですから、申し上げませんでした。でも、確かに行動制限はされているように思うことがありますわ。常に一緒に行動するのは、少しやり過ぎではとは思いますの。世の夫婦は、そんなに常に傍に居るわけではありません。お互いにやりたいことをして、同じことがやりたい時は同じ事をして、そうして無理なく一緒に暮らしていると思いますわ。私が気になるところがどこかといえば、そのことぐらいでしょうか。」
彰は、それには悲し気な顔をした。
「ならば…君がいいと言わなければ一緒には行かないようにする。行きたいと言うのならどこへ行って来てもいいし、法事の事も…百乃が行くから修も行くらしいし、君が行くと決めたならそれで。」
何やらしょんぼりと見える彰の様子に、紫貴はかわいそうになって、言った。
「彰さん、何も一緒に居たくないと言っているのではありませんの。愛しておりますし、一緒に居られるのは嬉しいですわ。それに、我慢できない事でもありませんでした。何しろ、彰さんは生活をしっかりと保障してくれておりますし、物質的に何も不自由しておりませんもの。明日の食べる物に困るような事はありませんから、安心して生活できています。前の夫は、お金をカツカツの金額しかくれなかったので、生きて行くことを脅かされて私もパートに出たりと必死にならねばなりませんでした。三人も子供が居ましたしね。それはとても我慢できるものではありませんでしたし、地獄だと思いました。なので、無事に子達が育ったらその地獄から逃げましたの。彰さんは、あの人とは比べ物にもなりませんわ。人としても尊敬しておりますし、生活も保障してくださるし、子達の事も面倒を見てくださる。ちょっとぐらい自由に外出できなくても、平気ですわ。一度地獄を見ておりますので、何もかも満たされた生活なんて無いのを知っておりますから。」
彰は、それはそれでショックだった。
自分は全てに満たされて幸せに生活していたが、紫貴はそうでは無かったと言うことだからだ。
一度地獄を見ているから、ここでの生活はそれほどの我慢ではないと。
結局は、ちょっとはマシになったから我慢できるということで、やはり彰の事も、困った夫だと少しは思っていたという事なのだ。
彰は、下を向いた。
「…私ばかりが幸せだったなんて。君も、同じ気持ちでいてくれると思っていた。私が浅はかだった…君が何をしても、私がそれを制限する権利などなかったのに。君がいくらかマシな生活だからと我慢してくれているなど、思ってもいなかったのだ。」
紫貴は、慌てて言った。
「そんなにご自分を責めないでください。私だって時々いびきもかくし、いろいろご迷惑をお掛けしてしまっても彰さんは我慢してくださっているではありませんか。あの、少し困るなあと思う程度でしたから。ほんとに嫌いだとか、離婚したいとか思ったことはありません。一緒に居たいのは確かですわ。」
彰は、目を潤ませて紫貴を見た。
「…君は私を愛してくれているのか?」
紫貴は、何度も頷いた。
「愛していますわ。だからここに居りますの。そうでなければとっくに出て行っております。結婚した時の誓約書の事は覚えておられますでしょう?好きだからこそここに居るのですわ。だから、そんなに気にしないでください。あの、十回に一回ぐらい、一人で出掛けたいなあって思う時は、行きたいと思いますけど。それぐらいですから。」
彰は、ずいと紫貴に寄って、言った。
「十回に一回でいいか?本当に?」
紫貴は、多分彰の事だから正確に十回に一回なのだろうなと思いながらも、頷いた。
「はい。とりあえず、今はお風呂に入りませんか?みんな仕事が終わっても私達が入っていないと入れませんから。もうご心配はしなくてよろしいですから。ね?」
彰は、頷いて紫貴の肩を抱いた。
「分かった。その…紫貴、法事の事なのだが。」
紫貴は、苦笑した。
「別に、彰さんがお気に病まれるのなら良いのですわ。お供えだけ送っておきますし。」
彰は、首を振った。
「いや、行っていい。」紫貴が驚いていると、彰は続けた。「だが、私も行く。」
紫貴は、慌てて言った。
「いえ、それはおかしいですし、本当にもうよろしいですから。」
彰は、言った。
「違う、関西へ行くのは一緒に行くが、法事にはついては行かないから。あちらへは、一緒に行こう。それはいいか?」
紫貴は、困惑しながらも、渋々頷いた。
「はい…それはよろしいですけど。」
「決まりだな。」と、一緒に階段を下りた。「さあ、この話は終わりだ。風呂に入って寝る準備だ。」
紫貴は、また彰が思い詰めたりしたらどうしようと思いながら、風呂へと向かったのだった。
その日、彰と紫貴、そして穂波は空港へと要に見送られて向かった。
要も行こうかと思っていたのだが、ちょうどいろいろ研究が混みあっている時で、手を放せそうにないので断念したのだ。
彰は、今は皆の結果を見る程度しかしていないので、休みも気軽に入れることができる。
なので、彰はその間一週間の休みを取って、二人を連れて関西の、自分の屋敷へと向かった。
舘野が空港まで迎えに来てくれていて、三人はその車に乗って、屋敷まで運ばれて行った。
久しぶりにその本宅へと戻ると、百乃と修が出て来て、出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、彰様。」
修が言う。彰は、言った。
「ここに住んでくれて助かっている、修。」と、百乃を見た。「紫貴を連れて戻ったぞ。長く会っていないだろう。」
百乃は、頷いた。
「はい。お母さん、おかえりなさい。子達は今、学校なの。今日は午前中で帰って来ると思うんだけど。」
紫貴は、微笑んだ。
「そう。お土産を持って来たわ。また子供達に渡してあげてね。」
百乃は、頷いた。
「ありがとう。部屋の準備ができてるわ。荷物を持とうか?」
紫貴は、微笑んで首を振った。
「大丈夫。そんなに持って来てないし。」
だが、舘野が寄って来て言った。
「奥様、お持ちしますから。旦那様も、どうぞこちらへ。」
彰は、全く戸惑う様子もなくさっさと舘野に荷物を渡して、紫貴の肩を抱いた。
「さ、行こう。二階は使わずに私達の場所としてそのままにしてもらってあるのだ。二階へ上がろう。」
いつもの事なので、舘野もメイド達も特に気にする様子はないが、紫貴は気になった。
「ごめんなさい、ありがとう舘野さん。」
紫貴が言うと、舘野は頭を下げた。
「いえ、これが仕事でございますから。」
彰は、そんなことは構わずにグイグイと紫貴を引っ張って言う。
「そうなのだ。舘野の仕事を取り上げてはならないぞ。さ、行こう。」
彰が給料を払っているので、誰も文句など言えないだろう。
紫貴は、そのまま彰に言われるままに、二階へと上がって行った。
二階は、彰が言った通り、彰の主寝室とかその他小さな居間など、重要な部屋が集中していたからか、ここに住んでいる百乃と修は使ってはいなかった。
主に三階を使っている、と百乃からは聞いた。
一階には使用人達の部屋や、食堂やキッチン、応接間、大きな居間と大浴場と、使用人達が立ち働く場所が集中している。
基本的に、二階より上には掃除の他には、使用人達は上がっては来なかった。
そこは、あちらの今住んでいる屋敷と変わりなかった。
そうしている間に、百乃の子供、紫貴の孫に当たる子達が帰って来て、久しぶりに対面し、持って来た土産を一緒に開けてしばし話した後、皆で談笑して食事を摂り、いつものように風呂へと入って休んだ。
明日は法事だったが、ここへ長男の宗太が車で迎えに来てくれることになっている。
いきなり黒いセンチュリー二台で行くとあちらも驚くだろうし、まるでお葬式の車列のようなので紫貴も嫌だったので、宗太のアルファードで行くことになったのだ。
それを聞いて彰は心配したが、あまり言い過ぎると紫貴が圧を感じて嫌かと思い、強くは反対しなかった。
そうして、穂波と百乃、修、そして紫貴は、喪服で迎えに来た宗太の車に乗り込んで、切なげに見送っている彰に後ろ髪を引かれながら、ここから車で一時間半ぐらいかかる、かつての夫の実家へと、紫貴は向かったのだった。
紫貴の喪服は、彰がいつもスーツを頼むドイツの職人の店で彰が作らせてくれた、特注品だった。
質が良いのは、他の黒より真っ黒なので見た目にもよく分かる。
黒にも種類があるのだと、紫貴はこれを着るようになって初めて知った。
元夫の実家は、かつての記憶通りにそこにあった。
紫貴がそこへ子供達と降り立つと、中から元夫が出て来て、出迎えた。
それを見た紫貴は、驚いた…確か、自分より5歳年上だったはず。こんなに老けるの…?
そこで紫貴は、自分が全くといっていいほど、見た目が変わっていない事実に今、気付いた。
そういえば、あれから16年経っている。
変わらないのは、逆におかしいのだ。
あの時から、そう、彰と結婚した後から、自分はあの研究所で開発されたという、美容液を使い続けて来た。
もしかしたら、そのせいで自分はあり得ないほど時が止まっているのでは…?
これでも老けたと思っていたものだが、元夫に比べたら大したことはなかったのだとやっと気付いた。
その、元夫の克彦も、こちらをみて驚いた顔をしていた。
会ったのは16年ぶりだが、記憶にある元妻とは、似ても似つかないほどあか抜けて、しかも若々しかったからだ。
「…久しぶりやな。」相手は、あの頃のままの関西訛りで言った。「びっくりした。よっぽど楽に生活してるんや。全然老けてないな。」
紫貴は、慎重に頷いた。
「…今は何も心配することはないから。それより、もう時間ギリギリでしょう?中でお坊さんを待たないと。」
訛りがない。
いつもなら、同じ訛りで話していたはずの妻だった。
宗太が言った。
「早く入ろう。ほんとにもうギリギリやからな。」
そうして、黙り込む克彦を家の中へと押し込んで、宗太は気を遣って場を仕切った。
家の中に入ってからも、克彦が紫貴に話し掛けられないように、一人で修や桃乃、穂波に話を振って話してくれていた。
供えた品々の熨しの名前も、既に彰の養子になっている宗太は多勢峰と書いていた。
桃乃は結婚して間下、穂波は立原だ。
もちろん紫貴は多勢峰なので、その中に夫の姓はなかった。
…この人の人生は、なんだったんだろう。
紫貴は、宗太達が話すのをみながら、ふと、そう思った。
自ら築いたものを壊すようなことをして、たった一人老いて行く。
もう充分だ、と、紫貴は思った。
かつてよく顔を見ていたお寺のご住職がやって来て、約30分の読経が終わり、会食の場所へと移ると言う。
紫貴は、それには参加しないと事前に話しておいたので、立ち上がった。
「…では、私はこれで。お義母さんにご挨拶できて良かったわ。」
宗太が言う。
「舘野さんが迎えに来るの?一人で大丈夫か?」
紫貴は、頷く。
「平気。道は知ってるし、駅に来てもらうから。もう近くで待ってくれているはずなの。」
克彦が、言った。
「送るわ。」と、皆を見た。「先に行っててくれるか。」
宗太は何か言いたそうだったが、紫貴が頷いたので、何も言わなかった。
修が言った。
「連絡を入れておきます。すぐに来るはずですから。」
紫貴はそれにも頷いて、克彦と共にそこを出て行った。
歩いて駅へと向かう道すがら、克彦は言った。
「再婚したのは聞いてたけど、金持ちらしいな。」
紫貴は、克彦を見ずに答えた。
「ええ。とても頭のよろしいかたで、子達にも実家のことも気遣ってくださるの。お陰でとても平穏に生活できているわ。」
克彦は言った。
「金のためか。虚しくないか?家族で集まる方がいいやろう。今は関東とこっちでバラバラやって聞いてるぞ。子供のためとか言ってたけど、所詮その程度やったんやな。」
紫貴は、首を振った。
「お金のためだけじゃないわ。子達は結婚したし、どうせバラバラだった。あの方は私を馬鹿にしたりしないし、何をしても些細なことでもありがとうと言ってくださるもの。悪いと思えば謝ってくださる。あなたとは全く違うわ。あなたは私に謝った事があった?ないでしょう。他に女性が居た事が分かった時でも謝らなかったわ。もう、そんなつまらない意地のせいで全てを失ったあなたにどうのないけれど、まだ私を否定するつもり?」
「…別にそんなつもりはないけど。」
あまり口答えしなかった紫貴が、品のある美しい様で怒るのにはさすがに克彦も戸惑った。
攻撃すれば思い通りになった昔とは、明らかに違った。
紫貴は、ため息をついた。
「…私はあなたの思い通りにはならないわ。今は幸せだから。今日はお義母さんに最後のご挨拶に来ただけ。夫も一緒に来てくれてるの。昔の私にさよならするためよ。」
側に、黒塗りの車がスーッと寄って来て、止まった。
と思うと、後部座席から彰が飛んで出てきて、矢のような速さで紫貴の肩を抱いた。
「え、彰さんも来ていらしたんですか?」
紫貴が仰天していると、彰は頷いた。
「終わるのを待っていたのだ。」と、そのその気になればいくらでも冷たく見せられる整った顔で克彦を睨んだ。「私の妻が世話になった。もうここまでで良い。後は私が。」
そして、ドアを開くと紫貴を押し込んだ。
「彰さん、あの、」
紫貴が言うのに構わず、バシンとドアを閉じると彰は小声で言った。
「…紫貴に何かあってはと、携帯から音声が届くようにしてあったのだ。聞いていたぞ。金のために結婚?何が悪い。それでも紫貴は私の側に居てくれるぞ。君は見限られたのだ。私は何もかもを与えて紫貴を繋ぎ止めてみせる。他の女になど興味はないしな。軽々しく近付くな。これ以上彼女を不快にするなら、後悔することになるぞ。」
克彦は、彰の迫力に圧倒されて声もない。
何より金のためだろうと思って相手はもっと冴えない男だと思っていた克彦には、彰の姿は衝撃的だった。
自分より少し背が高く、そこらでは見ないほど端正な顔立ちで、何より若い。
確かに五歳ほど年下だと聞いてはいたが、こんな男だとは思ってもいなかった。
克彦が絶句しているので、彰はフンと顎を振って踵を返すと、フフンと鼻で嘲るように笑った。
「まあ、君がそんな風であったから紫貴は君を見限ったのだろうがな。それには礼を言っておこう。ではな。」
彰は、向こう側のドアへと回り込んで、後部座席に乗り込んだ。
そうして、その車は進み出して、茫然としている克彦を置いて去って行った。
「…存じませんでした。」紫貴は、自分のスマートフォンを出して、言った。「聞いていらしたのですね。」
彰は、できるだけ小声で言ったが聴こえていたか、とバツが悪そうな顔をした。
「すまない。言ってからそうするべきだったが、しかし気になって。あの男が君をどうにかできないとは思っていたが、もしものことがあるから。」
紫貴は、ため息をついた。
「もう、そんな気概もないかと思いますわ。驚きました…年上なのは分かっておりましたけれど、思っていた以上に老けていたので。私は彰さんの側で特別な美容液を使わせてもらっておりますし、だから見た目だけは何とか保っていたのだとやっと分かりましたわ。入浴剤すら、肌のためのものですものね。」
彰は、頷いた。
「あれは、確かに一般には出回っていないものなのだ。開発にかなりの金が投入されていて、高価過ぎて普通では使い続けることができない。君には、サンプルとして入手して渡しているので、使い続けられているだけなのだ。まあ、研究所の中でも道楽と言われている部門だからな。今ではあまり予算がつかないので、そこまで良い物もできていないようだ。ただ、以前の物があるから、それを使えているだけなのだ。」
紫貴は、ため息をついた。
「…あの人の事は、哀れに思いましたわ。未だに変わらないし。ああして圧力をかけて来るところなんて、昔を思い出して思わず熱くなってしまったぐらい。私が何より子達を大切に想っているのを知っているから、ああして言えば私が罪悪感を感じて言う事を聞く、ぐらいに思っているのは、伊達に一緒に居たわけではないので分かりました。でも、私にはもう、あの人に関わることで守るものなどありません。子達は皆、所帯を持って幸せにやっておりますし、私には彰さんが居るから。何があっても彰さんが守ってくださると思って、ああして強く言えたのだと思います。私はあなたに甘えて、言いなりにならずに済むのだとやっと分かりましたわ。自分では結局、何もできないのかも。」
彰は、首を振った。
「いくらでも私に甘えたら良いのだ。私は君が言うように、必ず君を守るから。」
紫貴は、苦笑した。
「こうして携帯で会話を聞いていらしたぐらいですものね。」と、ため息をついた。「…もう、会うこともないでしょう。例えあの人が死んでも、私はこちらへは参りません。子達は別ですけれど。私とあの人は、とっくに他人ですから。もう、お世話になった元義母にも、お別れを言って来ました。私はあなたの妻ですし、あなたを愛しているのですから。あの人の末路を見ると、もう責める気にもなりませんの。本来黙って去るつもりでした。あんなことを言って来たから、つい言い返してしまっただけ。もう会う事もありませんわ。ほんとに嫌いだなって、再確認してしまいましたから。」
彰は、それを聞いてホッとしたものの、一度は結婚していたものですら、こんな風に切り捨てられてしまう未来もあるのだと、気を引き締めて頷いた。
「ならば良かった。屋敷に帰って穂波達が戻って来るのを待とうか。穂波は要と颯に土産を買うとか言っていなかったか?一緒に行ってやろうと思っていたのだが。」
彰が一緒に行くという時は、自分が払おうと思っている時だ。
紫貴は、首を振った。
「いえ、いいんですの。穂波は着替えを持って来ているので、宗太に、食事の帰りにデパートに寄ってもらうと言っておりましたわ。ですからそんなお気遣いはよろしいのです。」
彰は、眉を上げた。
「別にいいのに。では、君は?せっかく戻って来たのだから、行きたい店などもあるのではないのか。その…一人で行きたいのなら行って来てもいいし、私のカードをいくらでも使えばいいから。」
紫貴は、いつも一緒は疲れると気を遣う、彰に苦笑して言った。
「では、申し訳ありませんが前に住んでいたところの近くの、ショッピングモールにお付き合い頂けますか?何を買いたいとかないのですけれど、雰囲気を味わってから帰りたいですわ。ずっと暮らしていた場所なので、とても懐かしくて。」
彰は、一緒に行っていいのかと嬉しそうに笑った。
「そうか。ならばそこで食事もしないか。服は買えばいい。このまま行こう。」
紫貴は、え、と慌てて言った。
「ちょっと待ってください、買うなんてそんな。」
彰は、言った。
「そんな高価な服を売っている場所ではないのだろう?いいではないか、帰っていたらまた数時間かかるし。」と、運転している舘野に言った。「舘野、紫貴が言うショッピングモールへ向かってくれ。」
舘野は、驚いて脇へと車を止めて、振り返った。
「どちらでしょうか、奥様。」
紫貴は、もう行くことになっていると慌てたが、彰が決めたらこう、という性格なのはもう知っているので、仕方なく舘野にショッピングモールの名前を言った。
舘野は、それをナビに入れ、頷いた。
「はい。高速を使えばここから20分ほどですね。参ります。」
え、高速道路を使うの?!
紫貴は思ったが、時間を取るとまた彰が退屈して来るので、何も言わなかった。
それにしても自分は、どうして夫に難しいタイプを選んでしまうんだろうと、紫貴は内心自分の審美眼に自信が持てなくなっていた。